八千代橋の名前の由来 投稿者:金田一モニカ 投稿日:2015/03/01(Sun) 19:44 No.2154 ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん、こんばんわです〜。 東上之宮町の名もなき小さな橋「八千代橋」命名の由来、、あたいもちょっと考えてみたわ。 でも、「共同橋」と言うのもあったけど、今回の謎解きほど普遍的、抽象的な概念?を扱う作業は困難を極めたわ。 またまた、あたいが無い知恵絞って考えてみたら、「8」という数字が沢山、あたいの脳味噌の中を駈け巡っていたの・・・ 「八千代」とは、八千年。極めて長い年月。或いは永遠・・。 「千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて・・」と「君が代」でも歌われるように、この橋は何らか天皇家と関係があるのかしら?? ちょっと飛躍しすぎ?問題発言?。(汗) 下を流れる韮川放水路の左岸は、宮古町。そうそう、この橋の周りは東・西上之宮、宮川や「宮」という字が付く所が多いわね。 橋の東方約300メートルの所には「八幡宮」があって、八幡宮は武運の神として八幡太郎義家(はちまんたろう よしいえ)で名高い清和源氏(せいわげんじ、清和天皇をルーツとする)はじめお武家の崇敬を集め、祀られている「八幡神(やはたのかみ)」は誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされるそうよ。 「八」とは数が多いことの例えでもあり、「やはた」とは数多く散らばった「秦(はた)氏」を意味しているといった説もあったわ。いにしえの伊勢崎、佐位郡(さいぐん)に養蚕、機織りを伝えたといわれる秦氏と恐らく関係があったと思われる神社が、近くにある上之宮・倭文神社(かみのみや・しどりじんじゃ)というのも面白いわ。 Go!伊勢崎さんでも以前に紹介されたように、韮川放水路は下流で宮川となって倭文神社の横を流れているわね。そこには「明神橋」というのもあったわね。 そして現在は、伊勢崎の上之宮と玉村町の下之宮・火雷神社(しものみや・ほのいかづちじんじゃ)の間には利根川が流れていて伊勢玉大橋で結ばれているけど、中世の時代は上之宮と下之宮は地続きになっていた。詳しく言えばその間をもっと小さい川、榛名山水系の「八幡川(はちまんがわ)」が流れていた事が解ったわ。
それから、中世に著わされた「神道集 (しんとうしゅう)」第八巻にこの上之宮と下之宮にゆかりのある「那波八郎(なわ はちろう)」という武者が出てくるわ。「上野国那波八郎大明神事(こうずけのくに なわはちろう だいみょうじんじ)」からちょっと長いけど引用させて頂くわ・・・
人皇四十九代光仁天皇の御代、上野国群馬郡の地頭は群馬大夫満行といった。息子が八人いたが、八郎満胤は容貌美麗で才智に優れ、弓馬の術にも長じていたので、父の代理で都に出仕していた。父満行は八郎を総領に立て、兄七人を脇地頭とした。 父満行が亡くなり三回忌の後、八郎満胤は上京して三年間宮仕えに精勤し、帝から目代(国司代理)の職を授かった。七人の兄は弟を妬み、八郎に夜討ちをかけて殺害し、屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある蛇食池の中島の蛇塚の岩屋に投げ込んだ。 それから三年後、満胤は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。神通自在の身となった八郎は七人の兄を殺し、その一族妻子眷属まで生贄に取って殺した。 帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を一年に一回だけにさせた。大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、九月九日に高井の岩屋に生贄を捧げる事になった。
・・・このお話はまだ続きがあるんだけど、この辺にしておこうかしら。 というわけで、、七人の兄たちに殺害された那波八郎は、その恨みから大蛇になって現れて兄たち一族に復讐を果たした。時の帝(天皇)はその大蛇を恐れて、大蛇の住む岩屋に生贄を捧げる事になったという物語のようね。 こんなことを探っているうちに出会ったサイト「やぐひろネット」さんの「歴史解明のための考古学」では、なんと!大蛇と化した那波八郎、その正体は、、古墳時代に激しい火山活動をしていた榛名山二ッ岳の噴火だったわ。特に6世紀前半の伊香保噴火に伴う洪水堆積物によって、現在の伊勢崎市南西部の田畑も壊滅的な災害を被ったそうよ。 現代だって震災の津波のように自然災害を相手に人はなす術はないわね。昔の人々に取ってはそれは尚更のこと。この辺りでは榛名山の火山災害が恐れられ、那波八郎のようにそれを祭神として祀って畏怖、畏敬?の念を抱いたのだと思うわ。 詳しくはこちらの「やぐひろネット」さんの「歴史解明のための考古学」をご覧になって。 http://www.yaguhiro.net/GandA/110806/08064.html
やぐひろネットさんでも言われているように、「科学が進歩しなかった古代において身近な災害は、総て神のなせる技でしょう。その自然営力や規模が大きいほど、その地域の社会に与えた精神的な影響は大であると思われます。こうした観点では神話に登場する八岐大蛇は3世紀頃の気象災害、八郎太郎は10世紀に北東北を襲った大規模な火山災害が起源だと思います。なぜ、このようなものに共通して「八」を使うのか何か意味があるのに違いありません。」
いにしえの上野国の那波八郎、八郎の祀られた上野国八宮の下之宮、八幡川、宮古の八幡宮・・・「八」といえば「八百万の神」とも言ったわね。 丸男さんが去年の夏に「ゴジラ」を見にいってご感想を書かれてましたが、、>・・・そして、肝心のゴジラの立場は? 今回は、何と、ゴジラが・・・・。おっと、答えを言ってしまうと、営業妨害になりますので、この辺で。 とありました。あたいはまだ新しい「ゴジラ」を見にてないんだけど、もしかして近いものがあるような予感もするわ。 かなり長くなってしまったけど、、八千代橋、その命名の由来は、この辺りに伝わるこうした背景、自然や、悠久の歴史の流れをこめて、「八千代橋」と名付けたんじゃないかしら? ところで、こういった小さな橋の名前はどちらで付けられるんですか? ぜひぜひ命名した人がいらっしゃったら聴いてみたいわ!
Re: 八千代橋の名前の由来 - 丸男 2015/03/02(Mon) 22:33 No.2156 金田一モニカさん、八千代橋の名前の由来の謎解き、面白い展開でした。 未来永遠に続け・・・との願いを込めての八千代橋。 周辺に「八千代」を冠とする何かが見つかればいいのですが、 そうでなければ、そんな意味かも知れませんね。
橋の名前は大きな橋は公募などもするようですが、中小橋梁はそこまでしないようです。 解析や設計には三桁以上の橋梁に携わりましたが、命名に関与したことは一度もなくて (いつも役所側から指示されていたので)、何とも分かりません。 役所で決めるのかも知れませんね。地元の区長や議員にでも相談するのかな?
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