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毒島(ぶすじま)城跡

(伊勢崎市赤堀今井町二丁目)
緑の季節田植えの頃調査結果の展示現地に立つ説明板毒島城にまつわる伝承全体の姿
更新:2018/8/24 画像の日付は撮影日
 毒島(ぶすじま)城跡は赤堀今井町二丁目にあり、伊勢崎市の指定史跡です。現在は周囲は田畑に囲まれていますが、古くは沼の中に孤立した島であったようです。今は沼の面影はありません。
 毒島城跡を少し北に行った道路脇に赤堀村時代に立てられた周辺の遺跡の案内板があります。毒島城跡はそのすぐ西側から発掘された茶臼山古墳と並び、重要な史跡です。
 平成18年に新潟大学考古学研究室が現地を調査し、その成果報告が2007/4/28〜5/12日に赤堀歴史民族資料館で展示され、私も見学して来ました。幸運にも調査責任者で報告者である新潟大学人文学部教授の橋本博文氏が研究室の学生達と一緒に訪れていて、色々と話を伺うことができました。お忙しい中、素人の私相手に丁寧な説明をいただき、考古学に対する関心を新たにした次第です。

 2008/4/5、サクラがちょうど満開でした。南東から北側にかけて咲いたサクラが、軍艦のような城跡の比重を軽くしたようです。(2007/5/18 記、2008/4/18 追記)

毒島城跡と周辺の山や古墳

毒島城跡周辺の航空写真(Google earthに加筆)

1948年(昭和23年)4月6日撮影の航空写真(国土地理院の閲覧サービス)


サクラ咲く毒島城跡

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東側の斜面 2008/4/5

北側の麦畑から。麦畑が緑の絨毯のよう 2008/4/5


北側の水田脇の道路から 2008/4/5

南側の道路から 2008/4/5




南東の入り口。緑化フェアの旗が立てられています。
2008/4/5



南東部の土地改良竣工記念碑 2007/4/1

丘陵東斜面で咲くコブシ 2007/4/1
 南東側の入り口周辺の斜面には花ダイコン草やレンギョウも咲いています。
 田園風景の中にお椀を伏せたような毒島城跡。サクラや春の花が満開で、1年に1回のドレスアップでしたが、愛でてくれる観客の数が少し足らなかったようです。せめて、この画面からだけでも賞賛あれ。2008/4/5

ハナダイコンソウ 2008/4/5


南東部の丘陵斜面に咲く花
(ハナモモでしょうか?)
2007/4/1

レンギョウ 2008/4/5

北東部の中段の平坦地に咲く
真っ赤なツバキ 2007/4/1

南東部入口。ここから緩やかな坂道を登ると城跡の北東部のちょっとした平坦地に出ます。2007/4/1


緑の季節

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丘陵の頂部。現在は麦畑になっています。2007/5/4

西側には路があって丘陵の上に出ることができます
2007/5/4

南西側から見た全貌 2007/5/4



赤堀村時代に立てられた案内板 2007/5/4




田植えの頃の毒島城跡周辺

掲載日:2012/7/19 ▲ページTopへ
 先日の7月16日、サイクリングで赤堀蓮園に蓮園見物にでかけ、その帰り、少しでも涼しそうなルートを通ろうと思案の結果、西野神社からここ毒島城跡経由で帰ることにしました。なんせ、この日、伊勢崎市が全国10位の36・3度を記録し、戸外は焼けつくような暑さ。でも、サイクリングで走っている分には風を切るので意外と涼しく、水分補給と休憩に注意さえすれば、やっぱり戸外の空気を胸一杯に吸い込みながらのサイクリングは快適です。
 ましてや、毒島城跡付近のこんな涼しそうな風景を目にすれば、暑さも吹っ飛び、気分は高原の避暑地のように爽やかです。あ、スミマセン、ちょっと見栄を張りました。流石に高原の避暑地には敵いませんが、これだけの緑と、まだ水を湛えた水田に囲まれた毒島城跡は、サクラの木陰に隠れて佇めば、確実に周囲よりも数度は低く、お手軽に避暑気分になれます。
 ハンモックと蚊帳を吊るして、午睡を楽しみたい気分です。話がズレますが、翌17日の伊勢崎市は全国2位の39・1度を記録したとか・・・。ま、何でも話題に乗ることはいいことです。(2012/7/19 記)

毒島城跡東側で、田植えを終えてまだ水を湛える水田。後方には赤城山。入道雲が夏らしい。
2012/7/16

水が満々と流れる毒島城跡東側の用水。
触ると、冷たい。 2012/7/16

毒島城跡東側の道路。
ずっと未舗装のまま残っていて欲しい。 2012/7/16

毒島城跡周辺で田植えを終えた水田

左側:諏訪山。中央:茶臼山古墳。右:毒島城跡。
2012/7/16

毒島城跡南側の水田の取水口で泳ぐオタマジャクシ
小さな脚が出かかっているオタマジャクシもいました。
2012/7/16

毒島城跡東側周辺で、田植えを終えてまだ水を湛える水田。
後方にも水田が続き、更に後方は小さな丘陵へと続きます。
伊勢崎では数少ないアップダウンのある風景です。 2012/7/16


調査成果の展示

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毒島城遺跡の規模と特徴(下の画像の文章を転記)

 毒島城遺跡の丘陵は東西に長く横たわっており、東西約174m、南北150mの規模があります。丘陵の北側には、突出部が横に並んでいます。西側突出部は長さ約16m、幅約20mあり、東側のものは長さ約20m、幅約20mあります。高さ約3mの上段のまわりには、幅約6m、高さ約7mの下段がめぐっています。上段は東西約60m、南北約32mあります。
 丘陵は周囲の低地から見て、約10mの高さがあります。平坦部での土地利用は畑で、斜面部は藪となっています。丘陵はおよそ2段からなっていますが、南側は人工的改変によって4段に分かれています。
 丘陵の頂部はほぼ平らですが、緩やかに南に傾斜しています。造成地のような平坦部が中段部を取り囲んでいます。現状では、南・東・西に3つの登り口があります。急斜面あるいは防御のために直進することはできません。以前、中段部の南の中央に井戸の跡が一つありましたが、最近破壊されたとのことです。
 北側にフタコブラクダの瘤のような二つの突出部が認められます。上段・下段ともに急斜面をもっていますが、斜面に葺き石は確認できません。土石流堆積物である安山岩の岩が下段の斜面に露出しています。斜面の岩をよく観察すると、それらのうちの一つの表面には、割るためにあけられた小さな穴が見られます。今日、丘陵の縁には土塁は存在しません。周囲の低地は徐々に南に向かって傾斜しています。
 伝承によると、毒島城遺跡の周りに沼があったということですが、濠の有無は発掘あるいはボーリングによらなければならないでしょう。

成果展示室 2007/5/4



成果の展示から 2007/5/4
 上段へ転記



展示から 2007/5/4


展示から 2007/5/4


現地に立つ説明板

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現地に立つ説明板(城跡南側の辺の中央付近)
赤堀町時代に文化財として指定 2012/3/25

案内板の隣に立つ標識柱 2012/3/25

毒島城跡

 毒島城跡は多田山丘陵東側に位置し、周辺は水田に囲まれ、平面形は東西150mの楕円形を呈している。古くは湿地に囲まれた島であったとされている。毒島城跡の構造に関しては、中心の本郭とそれを囲む腰曲輪からなっており、戸口は西南面中央一箇所のみであり、攻撃性は低く、出城としての機能を有していると推測される。
 また、毒島城には次のような伝説がある。
 三浦河内守謙庭が毒島城を攻めた時、この沼には大蛇が住んでおり、なかなか攻められずにいた。そこで三浦河内守謙信跡庭は7つの石臼で毒を作り沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれずに西に脱出し、城はたちまち落ちたという。
 毒島城は、赤城南麓の戦国時代を解明する重要な文化財であることから、町指定の文化財とした。

伊勢崎市教育委員会



毒島城にまつわる伝承

掲載日:2018/8/24 ▲ページTopへ
 2018年7月某日の午後、毒島城に関心を寄せる下記10名が毒島城に集まりました。

・毒島城の歴史に縁のある人2名・・・Bさん、Bさん(60歳代男性)
・毒島城の現在に縁のある人3名・・・Iさん、Iさん(60歳代男性)、Iさん(60歳代女性)
・赤堀地区の歴史の伝承に関心を寄せる人2名・・・Iさん(60歳代女性)、Sさん(50歳代男性)
・行政に携わる人1名・・・Kさん(50歳代男性)
・報道関係者1名・・・Hさん(女性)
・当サイト管理人・・・丸男(筆者)

 集まった主目的は某テレビ番組の下見のための現地踏査でしたが、参加者からは様々な昔話を伺うことができました。参加者の中心は60歳代後半の男性の皆さん。子供の頃に毒島城で遊んだ経験のある方たちです。時の経過によって薄らいで行く伝承。当サイトで紹介することで、何人かの記憶に留まれば幸いです。

地形に関して

  • 現在の毒島城周辺は土地改良事業によって整形された水田になっているが、それ以前は沼地、あるいは湿地帯だった。
  • その沼地ではウナギが捕れた。
  • 現在の桐生競艇の沼をこの地に建設する話があったが、当時、周辺一帯は水田として重要だったので、地元が反対して建設を阻止した。
  • 毒島城周辺では地下水が湧出していた。
  • 土地改良以前は、北から南に向かって棚田が連なっていた。一枚の田んぼの広さは大小様々だった。(現在も、緩やかな勾配を確認できます。当時の棚田の様子は下図の航空写真で確認できます。)
  • 土地改良以前は、毒島城の南の入り口へ続く道は曲がりくねっていて、幅員も狭く、リヤカー一台がギリギリ通れる幅だった。
  • 毒島城の西入口脇の巨石の上面には”鬼の足跡”がある。入口脇には北側に一つ、南側に一つあって、南側の巨石は現在シノ竹で覆われて姿を隠している。
  • 当時(昭和30年代)、この巨石の上から沼地へ向かって飛び降りて遊んだ。
  • 土地改良以前は、諏訪山の東から東方へ土塁が続いていた。 (下図の航空写真で確認できます)

1948年(昭和23年)4月6日撮影の航空写真(国土地理院の閲覧サービス)

上記航空写真の撮影条件

毒島城跡南方の土塁(現地説明板の図)。ただし、上図航空写真と照らし合わせると、毒島城跡の軸線に疑問が残ります。
   

大蛇と毒臼伝説

  • 毒島城は沼に浮く島で、島は亀の背中に乗り、戦いの度に移動したと言われていた。
  • 毒島城には大蛇が棲み付いていた。
  • この大蛇を退治するために毒を盛った。毒はトリカブトだったと言われている。
  • 毒を作るために石臼が使用された。
  • 3つ(4つと言う人もいる)の石臼が毒島城北方の高台にあったことを記憶している地元の人がいる。
  • 上記の場所は石臼が残っていた当時は雑木が茂っていた。
  • この場所で毒を作り、毒島城の井戸に投げ込んだ。井戸の痕跡は発見されていない。 (現地説明板では毒は沼に投げ入れたとあります)

7つの石臼の一つとされる石臼。毒島城跡関係者のお宅で保存されていたもの。
※下記は、毒島城跡現地に立つ説明板を一部引用したもの。
 また、毒島城には次のような伝説がある。
 三浦河内守謙庭が毒島城を攻めた時、この沼には大蛇が住んでおり、なかなか攻められずにいた。そこで三浦河内守謙信跡庭は7つの石臼で毒を作り沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれずに西に脱出し、城はたちまち落ちたという。 

毒島城

  • 毒島城の落城は1600年代。
  • 毒島城の構造を示す資料は見つかっていないが、天守閣や石垣がある城ではなく、平屋のちょっとした建物だったよう。

毒島姓

  • 現在、赤堀地区某所に11軒の毒島姓の家がある。
  • 初代毒島家の直系子孫が上記集落に住んでいる。
  • 毒島の家系は初代から現在に至るまで位牌や墓標でたどれる。
  • 桐生市に住む毒島姓は、落城後に逃れた人の子孫と言われている。
  • 毒島姓を名乗る前に、毒島城の地名は決まっていたとされる。
  • 伝説の蛇退治の毒(どく)と、毒島城の毒(ぶす)とを関連付けると考え易いが、裏付けはない。
  • 毒島家の庭の一画には、トリカブトが栽培されていた。一昔前には、トリカブトはこの辺でも普通に見られた。

その他

  • 毒島城南西の諏訪山の山頂には、かつて社殿があった。
  • 諏訪山の石塔は、現在、赤堀今井神社に移設してある。


水田の中にぽっかり浮かんだような全体の姿

掲載日:2013/8/29 ▲ページTopへ
 毒島城跡は南西方向に諏訪山と多田山、また西方には茶臼山古墳、他にも北西方向と北東方向に小高い山があります。この内、北西方向の山にはかつて一度も登ったことがなかったのですが、先日、茶臼山古墳に桑の木探しに出かけた帰り道、高砂百合の姿につられて、たまたま登った山がこの山でした。高砂百合の写真を撮り、周囲を見渡すと、南東方向に下る急坂の延長線上に、水田の中にぽっかり浮かんだような毒島城跡があり、期せずしてこの周辺の伸びやかな風景を眺めることができました。(2013/8/29 記)

水田の中にぽっかり浮かんだような毒島城跡(北西方向の山から) 2013/8/25




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