供養を待つ石臼 2018/10/17 |
寶珠寺副住職と施主、参列者の皆さん 2018/10/17 |
お清めお清めを執り行う寶珠寺副住職 2018/10/17 お清めを執り行う寶珠寺副住職 2018/10/17 抜魂抜魂のお経を唱える寶珠寺副住職 2018/10/17 |
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参列者お焼香 |
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施主お焼香 2018/10/17 参列者お焼香 2018/10/17 |
施主お焼香 2018/10/17 お経 2018/10/17 |
供養を終えた石臼 2018/10/17 |
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軽トラに乗せられた石臼 2018/10/17 |
運搬を待つ石臼 2018/10/17 |
稲垣家で保管されていた当時の石臼 |
毒島城が果たしていつごろ築かれたか、明らかにする文献がないが、天正年間に牧禅正という武将が在城したことがわかっている。しかし禅正が、どこから来て、いつごろまでいたか、やはりはっきりしない。 ちょうどこの時期に、毒島城に相対した赤堀城には、相州からきた小菅摂津守が在城して、付近数村を領有していた。大阪冬の陣に敗死した人である。 毒島城と赤堀城(上図右下)。直線距離で1.3km 四方を山にかこまれた盆地の底にある毒島城は、なにか実戦にそぐわないような感じをうける。もとより、城は敵を防ぐためにあるから、ろう城する場合四方の山上に敵をうけ、敵の眼下にされてはとうてい士気を振るい立たせることは出来ない。かかる立地の上に城を構えたのは、いかにも伝説的古城の感が深い。 はじめて毒島城をきずいたのは青木入道だという。鎌倉時代のはじめ、青木入道は赤堀村付近を領有して勢威を振るったのであったが、赤石郷には三浦賢庭公がいて常に国境の争いの絶え間がなかったという。 その末に賢庭公は、青木入道を討つべく、三千騎の兵を率いて赤石を発し、毒島城を攻めたのであった。 三浦の大群ははじめ、東方の轟山に陣を張り、毒島城を眼下にして、一もみにしてくれん勢いである。一握りにも足らない城中には将兵がしんと静まり返って備えていた。城のまわりには満々と水をたたえた湖水があって、その湖の幅は、三浦の陣を張った東方が一ばん狭い。賢庭公は全軍に号令して、毒島城攻撃の火ぶたを切った。三浦の将兵は一せいに轟山をかけ下って攻めたが、湖水にいたると毒島城は湖水のはるか向こうに去って、とうてい攻めかけることが出来ない。 そこで賢庭公は将兵をとどめると、全軍を西方の多田山に回したのである。なるほど敵城は眼科の湖水のそばにあった。また号令を発して一せいに多田山をかけ下り少しの湖水をふみ渡って、毒島城を一もみにしようとしたが、水べにいたると、やはり城は湖水のはるか遠方にあって、どうしても攻撃の手段がない。三千の大軍は西に東に走り回って日が暮れてしまった。 毒島城が沼の中にあったことをイメージできる航空写真(1948年撮影) その翌日、賢庭公は夜明けから毒島城に総攻撃をかけた。無二無三に湖水を渡らせて決戦した。 城中では必死にこの大軍を防いだが、何分にも多勢に無勢ですでに毒島城も危なく見えた。青木入道は部下に命じて、ブスという植物を石うすでつかせて毒物をつくらせ、その毒を湖水に流し込んで敵兵を防ごうとした。 すると、いままで静かだった湖水が急に波を打ちはじめ、不思議に思ううちに一天かき曇ると、湖水はついに怒涛のように荒れ出したのである。三浦の兵が怒涛にもまれていると、湖水の中から突然大蛇(じゃ)が現れ、三メートルに余るかま首をあげて火炎を吐き出したのである。怒り狂った大蛇の吐く火炎によって、三浦の三千の兵はたちまち全滅してしまった。 赤石の賢庭公は、さらに三千の新手の兵をひきいて、ふたたび毒島城を攻撃した。そして今度は、南の土手を切りくずして湖水の水を払ってしまった。水を払ったが湖の底が泥深く、兵馬が進むことが出来ないので、民家の雨戸を集めさせ、雨戸を敷きならべて兵を渡らせた。 場内はしんとして物音もなく三浦の兵が一せい場内に攻め込むと、すでに青木入道以下ことごとく死んでいた。 この物語は「蛇体合戦記」として残されている。合戦記は文政年間、桐生良輔という村の学者が書きとめたものだが、いまその原本が失われ、写本もまたなくなってしまって、正確な合戦記を伝えることが出来ないが毒島城にまつわる物語は、あるいは史実か伝説か、大体かようなものであった。 青木入道の若君は、落城の前の夜、仁田山の糸間屋平助という男に助けられて城を落ちのび桐生広沢にかくれた。同地の毒島姓の祖先といわれる。 毒島城北方の吉沢峰には、合戦のとき毒をついたという大石臼がいまも残される。また多田山に首塚があって、明治九年の地租改正調査のとき多数の頭骨が発見された。それは戦国期の遺骨だったそうである。 (「上州の史話と伝説」昭和49年・上毛新聞社刊より。太字と挿入地図はサイト管理人・丸男。) |
2018年10月17日、毒島城跡において毒臼供養を執り行った後、石臼は赤堀歴史民俗資料館(伊勢崎市西久保町)へ運ばれ、当館の玄関脇に置かれました。 盗難等を心配しましたが、毒島城跡からの運搬時にも成人男性3人がかりで持ち上げた重さなので、その心配は無用と納得。それに、毒臼伝説がある石臼を盗難する人もいないことでしょう。「欅祭あかぼり2018」が行われた11月4日、石臼の寸法を測定して来ましたので、紹介します。(2018/11/7 記) |
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赤堀歴史民俗資料館に置かれた石臼 2018/11/4 赤堀歴史民俗資料館に置かれた石臼 2018/11/4 |
現地に立つ説明板(城跡南側の辺の中央付近) 赤堀町時代に文化財として指定 2012/3/25 |
案内板の隣に立つ標識柱 2012/3/25 |
毒島城跡毒島城跡は多田山丘陵東側に位置し、周辺は水田に囲まれ、平面形は東西150mの楕円形を呈している。古くは湿地に囲まれた島であったとされている。毒島城跡の構造に関しては、中心の本郭とそれを囲む腰曲輪からなっており、戸口は西南面中央一箇所のみであり、攻撃性は低く、出城としての機能を有していると推測される。また、毒島城には次のような伝説がある。 三浦河内守謙庭が毒島城を攻めた時、この沼には大蛇が住んでおり、なかなか攻められずにいた。そこで三浦河内守謙信跡庭は7つの石臼で毒を作り沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれずに西に脱出し、城はたちまち落ちたという。 毒島城は、赤城南麓の戦国時代を解明する重要な文化財であることから、町指定の文化財とした。 伊勢崎市教育委員会 |
2018年7月某日の午後、毒島城に関心を寄せる下記10名が毒島城に集まりました。 ・毒島城の歴史に縁のある人2名・・・Bさん、Bさん(60歳代男性) ・毒島城の現在に縁のある人3名・・・Iさん、Iさん(60歳代男性)、Iさん(60歳代女性) ・赤堀地区の歴史の伝承に関心を寄せる人2名・・・Iさん(60歳代女性)、Sさん(50歳代男性) ・行政に携わる人1名・・・Kさん(50歳代男性) ・報道関係者1名・・・Hさん(女性) ・当サイト管理人・・・丸男(筆者) 集まった主目的は某テレビ番組の下見のための現地踏査でしたが、参加者からは様々な昔話を伺うことができました。参加者の中心は60歳代後半の男性の皆さん。子供の頃に毒島城で遊んだ経験のある方たちです。時の経過によって薄らいで行く伝承。当サイトで紹介することで、何人かの記憶に留まれば幸いです。 地形に関して
1948年(昭和23年)4月6日撮影の航空写真(国土地理院の閲覧サービス)
大蛇と毒臼伝説
毒島城
毒島姓
その他
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