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スタンランの世界 − 新聞・雑誌の挿絵 −

全体ご案内スタンランの生涯と時代新聞・雑誌の挿絵書籍の挿絵シャンソンなど戦争画|略年表
更新:2010/3/14 ※各画像をクリックすると大きな画像を表示します。
 以下の記述は『スタンランの世界』(須長康一さん著)からの引用です。

 スタンランは1883年9月、『シャ・ノワール』誌に最初の挿絵を描いて以来、多くの新聞・雑誌等の定期刊行物にその作品を提供し続け、おそらくその総数は2,000点を超え、挿絵画家として一時代を築いたと言っても過言ではないが、現在までスタンランのこうした仕事に対して詳細な検討がなされていないため、トゥールーズ=ロートレックを代表とするモンマルトルを舞台に活躍した同時代の画家達に比べ、その名はあまりに知られていない。

『ミルリトン』誌




























 19世紀末を中心とした時期は、ベル・エポックと呼ばれる文化的に最も華やかな時代であった。出版文化についても、検閲制度が廃止されたことにより、数多くの新聞・雑誌が出現する一方、また消えていったものも少なくはなかった。こうした状況において、スタンランが参画した定期刊行物は50誌以上に及ぶが、その中には僅か数号で廃刊になったものも少なくなかった。















 ある程度の期間、継続的に刊行が維持できた新聞・雑誌の内で、スタンランが相当数の作品を提供したものには、次のようなものがある。
 『シャ・ノワール』誌・『ミルリトン』誌・『カリカチュール』誌・『ジル・ブラス・イリュストレ』紙・『エコー・ドゥ・パリ』紙・『シャンバール・ソシアリスト』誌・『リール』誌・『ココリコ』誌・『フイユ』誌・『レ・タン・ヌーボォー』誌・『アシェット・オウ・ブール』誌・『カナール・ソバ―ジュ』誌等が、特にスタンランの活躍する舞台となったのである。
 これらの新聞・雑誌にスタンランが発表した作品の傾向を見ていくと、時代が移るにしたがって、明らかに描いている対象や表現法が異なっていて、単に美術史的な問題だけでなく、スタンランの描いた挿絵の変遷には、近代フランス社会の歴史的動向を深く読み込んでいる可能性が高く、社会史的な視点からも重要な意味を持っている。






















 このような観点から、スタンランの挿絵の変遷を3期に分け、その詳細について見てゆきたいと思う。

 スタンランの挿絵で前期と位置づけられるものは、『シャ・ノワール』誌・『ミルリトン』誌を中心に発表された作品で、時期的には1882年から1890年頃までのものが該当する。この時期の作品の特徴は、基調としてユーモアに富み、滑稽で笑いを誘うものや人生の悲哀をシニカルに見つめるものが多い。『シャ・ノワール』誌では、黒猫・犬・烏などの動物たちをモチーフに使ったシリーズが認められている。また『ミルリトン』誌では、同名のカフェ・コンセールの店主であるシャンソン歌手のアリスティド・ブリュアン(トゥールーズ=ロートレックのポスターでよく知られている。)が乱暴で辛辣な言葉や隠語で歌い上げる人々とその生活を、スタンランの挿絵は忠実に描きだしている。このほか『クロッキー』誌・『クーリエ・フランセ・イリュストレ』誌・『レビュー・イリュストレ』誌・『イラストラション』誌など発表数は少ないが、前期のスタンランの活動を彩る作品が提供されている。
















 1890年頃からドレーフュス事件をはさんで、1900年頃まで時代がスタンランの挿絵では、中期として位置づけることができる。『カリカチュール』誌・『ジル・ブラス・イリュストレ』紙・『エコー・ドゥ・パリ』紙・『シャンバール・ソシアリスト』誌・『ココリコ』誌・『リール』誌・『フイユ』誌・『レ・タン・ヌーボー』誌等を中心に多面的な活動が展開され、スタンランの全生涯において、最も円熟した時期として捉えられる。その中でも『ジル・ブラス・イリュストレ』紙には800点以上の作品を提供している。その小説の挿絵にはモンマルトルに暮らす貧しい人々の日常生活を描きこみ、シャンソンの挿絵は明らかに『ミルリトン』誌の系譜を引き継いでいる。『ココリコ』誌・『リール』誌はユーモアに富み、滑稽で笑いを誘うものが多く、『シャ・ノワール』誌の系譜にある。








 スタンランはこれら前期の作品の延長上にあるものを描く一方、社会主義の雑誌『シャンバール・ソシアリスト』誌には政治家の不正・腐敗や労働者問題を厳しい筆致で描き、ドレーフュス擁護派の『フイユ』誌ではドレーフュス事件と反擁護派の実像を鋭く描きだし、政治や社会的な問題を対象として挿絵の活動領域を広げている。またアナーキズムの機関誌である『レ・タン・ヌーボー』誌にも、女解放者シリーズを提供している。またこの時期には、ドイツ・ミュンヘンで1896年に創刊された『ジンプリチシムス』誌にもスタンランの作品が提供されている。このほか『マガジン・フランセ・イリュストレ』誌・『グラン・ジョーナル』紙・『レスタイプ・エ・ラフィッシュ』誌のほか多数の雑誌に作品を供給している。

































 1900年以降、1923年に亡くなるまでの時代をその後期として位置づけることができる。『アシェット・オウ・ブール』誌・『カナール・ソバ―ジュ』誌等を中心に活動が展開され、この時期の作品は政治的や社会的なものを題材としたものが多くなる特徴がある。スタンラン自身は『ユーモリスト』誌の創刊にも加わり、『シャ・ノワール』誌からの系譜にあるユーモアに富み、滑稽で笑いを誘う作品の提供も継続されている。またイタリアの美術雑誌である『アーラベルソ・ジリ・アビ・エ・ル・カーテール』誌にも1904年と1908年にその作品を送っている。このほか『ルーウブル・エ・リマージュ』誌・『ル・モンド・イリュストレ』紙・『ペーブ・ドゥ・パリ』誌・『レゾム・ドゥ・ジュール』誌などに作品を提供しているが、前の時代に比べ発表する新聞・雑誌の数やその提供量も減少していて、創作意欲の衰えを明らかに感じさせる。






























 1914年、第一次世界大戦の勃発にともない、軍の許可を得て従軍し、戦争の真実の姿を描く一連の作品を制作して、1918年、それらを『ラ―ル・エ・レ・ザルティスト』誌(特別号)に提供している。戦場における兵士たちの姿や避難民そして戦争に翻弄される人々の悲哀をあくまで冷静な視点で正確に描きだし、スタンランの挿絵としては終末段階の作品として考えられるものだが、スタンランの創作姿勢が終始一貫していたことを示す資料として注目される。
















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