八坂大樋と小畠武堯 [ 公園遺産遺跡と古墳 ] [ Home ]



神沢川を渡り八坂村、波志江村、今泉村、茂呂村など

約300ヘクタールを潤した農業用水

八坂大樋(やさかおおどい)小畠武堯(おばたけたけたか)

小畠 武堯現況踏査、位置を検証航空写真と迅速測図で確認する八坂大樋の位置前橋側の痕跡
モノクロ写真から八坂大樋を再現小畠武堯の顕彰碑小畠武堯の頌徳碑小畠武堯の墓現在の神沢川水路橋(八坂用水)
更新日:2015/4/14
 先日、当サイト掲示板伊勢崎城(伊勢崎陣屋)のことが話題に上りました。その後、「伊勢崎城の堀の水はどこが水源か?」との謎解きが提示され、赤坂川や八坂用水、また現在地に移転前の波志江の愛宕神社などに話が展開しました。
 そのどれもが痕跡が乏しく謎が謎を呼ぶ始末ですが、調査や推測を加えながら、一つずつ検証して謎を解く過程は楽しい作業で、同時にその作業によって当時の人々の生活にも触れたような気持にもなります。
 このページは今回提示されたいくつかのテーマの内、神沢川をオーバーパスした八坂大樋について、渡河位置やその上流に現在も残る堀跡との連続性などについて、現地踏査を踏まえて検証するものです。(2015/1/29 記)

 まず始めに紹介したいのが小畠武堯のこと。下記記事は、アイオー信金の「いせさきフロンティア ~あなたの知らない28人の伊勢崎の偉人たち~」(*1)の紹介記事(著者:板橋春夫さん)を引用(*2)したものです。

大樋で川を越すアイディアの八坂用水を完成

小畠 武堯(おばたけ たけたか)

?~享保18年(1733)
 小畠武堯(おばたけ・たけたか)は、伊勢崎藩の役人として八坂(やっさか)用水完成の功績者である。八坂用水は、宝永3年(1706)に完成した全長約15キロの用水で、前橋藩領の笂井村(うつぼい)地内の桃木川で取水し、笂井、増田、二之宮各村の水田を灌漑しながら、伊勢崎藩領の八坂村、波志江村、今泉村、茂呂村など約 300ヘクタールを潤す。
 伊勢崎藩の広瀬川東側は、粕川が流れる程度で田植え時には水不足に悩む地域であった。湧水や大小の沼では耕地の拡大は望めず、新田開発には用水の確保が必要であった。そこで伊勢崎藩は、安定した用水を得るために用水を引く計画をたてた。その担当者が小畠武堯であった。

八坂樋の外観(高橋寿郎氏所蔵)

 彼の名を後世に残すことになったのは、神沢川を越す大樋(おおどい)の設置である。通水すべき下増田村と八坂村の間に神沢川が流れており、前橋方面からの水をいかにして伊勢崎方面へ流すかが最大の課題となった。この神沢川に70メートルを超す木製の大樋を架けて通水するアイディアを考えた。武堯は、八坂村在住の阿久津氏ら地方役人の協力を得る一方、水の取り入れ口に近い前橋藩領の増田村の田植えが済んでから用水に水を引くなど配慮をしながら工事を進めた。
 神沢川以西が前橋藩領であったため工事の測量を許されず、暗夜に乗じて線香の明かりを目標に人知れず行ったという伝承もあるが、これは小畠の苦心を誇張したもので必ずしも真相を伝えていない。通水の朝、小畠は善應寺本堂で白装束で報告を待ち、無事通水と聞くと舞いを舞ったと伝える。
 八坂用水は明治以降、八坂用水組合が経営した。現在の佐波新田用水路はこの水路が根幹となっており、佐波新田用水の完成に伴い、八坂樋は大正13年(1924)に取り壊された。武堯は享保18年(1733)に没し、墓は善應寺(*3)にある。

(*1)→「いせさきフロンティア ~あなたの知らない28人の伊勢崎の偉人たち~
(*2)引用に際しては、2015年1月28日、板橋春夫さんおよびアイオー信金さんの引用許可をいただいております。
    本冊子発行経緯と板橋春夫さんにつきましては、(*1)の「はじめに」で紹介されています。
(*3) →墓所は善應寺(伊勢崎市曲輪町 10-11)にあり、伊勢崎市指定史跡となっています。

現況踏査、位置を検証

掲載日:2015/1/29 ▲ページTopへ
 八坂大樋の位置を検証する時、最も有力な史料は、現地に立つ標識の位置です。標識と道を隔てた反対側には説明板も立っていて、神沢川を跨ぐ屋根付き木製水路の絵が描かれています。
 いくつかの史料によれば、樋の長さは70m。標識が立つ位置を伊勢崎側の支点と仮定し、樋長70mを前橋側に残る水路跡へ向かってプロットすると、概略下図の位置になります。前橋側の現況は次回紹介しますが、まずは、伊勢崎側の現況をご覧ください。(2015/1/29 記)

現地に立つ説明板

標識「八坂樋の跡」 2015/1/25

八坂樋周辺 2015/1/25

八坂樋標識位置 2015/1/25

八坂樋標識位置の下流側 2015/1/25

八坂大樋の位置(推定)

八坂樋の図

八坂樋標識位置の上流側 2015/1/25

八坂樋標識位置の対岸(前橋)側 2015/1/25

神沢川と荒砥川の合流部から推定する八坂大樋位置  2015/1/25

掲載日:2015/1/29 ▲ページTopへ

航空写真と迅速測図で確認する八坂大樋の位置


八坂樋付近の航空写真

八坂樋と前橋側の堀跡周辺の航空写真

八坂樋と前橋側の堀跡周辺、現在の八坂用水付近の航空写真
(google地図、2012年)

迅速測図に記載される八坂樋の位置

更新日:2015/2/8 ▲ページTopへ

八坂大樋・前橋側の痕跡

 神沢川(かんざわっかわ)を渡河した八坂大樋。当時の伊勢崎側は八坂村、前橋側は下増田村。神沢川と荒砥川の合流部の少し上流です。
 迅速測図によれば八坂用水は文殊山古墳の東方を流れていたようです。現在、その周辺に八坂用水跡地を示す標識等は見つかりませんが、大きな堀跡が残っています。
 当ページ開設時には、この堀跡が史跡「女堀」同様、八坂用水の堀跡と推定しましたが、その後、当サイト掲示板に鳩ぽっぽさんから寄せられた投稿によれば、この堀は新土塚城(しんどづかじょう)の堀跡のようです(*)。
 八坂用水は城の堀より更に東方のようですが、現在その痕跡は確認できず、場所を特定できません。縄張り図、迅速測図、共に精度的に十分ではありませんが、現況地図と重ね合わせた地図を参考に掲載します。あくまで推定ですので参考にご覧ください。(2015/2/5 記)

(*)「前橋市史」の新土塚城(しんどづかじょう)の縄張り図。

「前橋市史」の新土塚城(しんどづかじょう)の縄張り図

迅速測図に示される八坂用水

迅速測図と新土塚城・縄張り図の重ね図

現況地図と新土塚城・縄張り図の重ね図

①~⑤:下の写真の撮影位置(google地図、2012年)

現在の堀跡(新土塚城の堀)

八坂用水がこの堀跡の一部を利用したか、あるいは更に東方を流れていたか不明です。

②から北方

②から南方


①から南方

⑤から南方

④から北方

④から南方

掲載日:2015/2/5 ▲ページTopへ

モノクロ写真から八坂大樋を再現

 先日、当サイト掲示板に、掲示板常連さんの鳩ぽっぽさんから投稿いただいた、伊勢崎市史掲載の八坂大樋の写真。モノクロ写真であることと鮮明度が低かったため、他の写真などを参考に部材を書き加えて彩色し、八坂大樋を再現してみました。ご笑覧ください。(2015/2/5 記)

伊勢崎市史掲載の画像をベースに、他の資料を参考に部材形状を加筆し、彩色。

小畠武堯の顕彰碑

伊勢崎市総合運動場南入口(伊勢崎市堤西町)
掲載日:2015/3/2 ▲ページTopへ
 小畠武堯の功績を称えるための顕彰碑が伊勢崎市華蔵寺公園総合運動場の南ゲート脇に建っています。「なぜこの場所に?」と思う方もいると思いますが、この場所に八坂用水が流れているからです。現在はこの付近は鉄筋コンクリート製の用水に改修され暗渠になり、頂版の上は駐車場になっていますが、かつてはオープンチャンネルでした。
 改修工事中の記憶はうろ覚えですが、我が家から徒歩10分もかからないこの場所は、半世紀以上前の子供の頃にたまに遊びに来ました。当時の記憶では、土手に茂った草木が用水の流れを覆い、遊び心を誘うよりは「落ちたらどうしよう」と怖さが先でした。華蔵寺公園整備や陸上競技場の建設ですっかり開けた場所になりましたが、当時は移転前の伊勢崎商業高校とその周辺に僅かな住宅があるだけで、八坂用水から現在の市民プール間の区域は桑畑だけが広がる場所でした。亡き父が耕す桑畑もその中にあり、リヤカーに乗せられて手伝いに連れて行かれる時は、子供の背丈よりも高い桑畑が広がるこの周辺は嫌な気分でした。
 余談が過ぎましたが、今までに石碑の前を通過したのは数知れず。伊勢崎市の南方面へサイクリングに出かける時にはほぼ毎回通過するので、石碑の存在には気付いていましたが、恥ずかしながら、今まで小畠武堯の顕彰碑であると認識していませんでした。伊勢崎市の歴史オーソリティーへの道のりはまだまだ遠いです。ちなみに華蔵寺公園遊園地の南側には小畠武堯頌徳碑(しょうとくひ)が建っています。(2015/3/2 記)

小畠武堯の顕彰碑(南西側から) 2015/2/20


小畠武堯の顕彰碑(表面) 2015/2/20

碑文の全文は下記に転記。

小畠武堯の顕彰碑(東側から) 2015/2/20



小畠武堯の顕彰碑(裏面) 2015/2/20
転記に当たっては横書きに変更、漢数字は算用数字に変更、句読点を追記、段落字下げ追加。
(誤転記についてお気づきの場合、こちらの「掲示板」からご連絡いただければ幸いです。)

顕彰碑

伊勢崎市長 下城雄索書

八坂用水開鑿功労者 従五位小畠市之丞武堯(オパタケイチノジョウタケタカ)顕彰碑

 小畠市之丞武堯氏は郡奉行として伊勢崎藩主酒井忠告侯に仕え、伊勢崎地方の水田数百町歩(数 百ヘクタール)は水利に乏しく農民その業に苦しむ。武堯大いに憂い、宝永元年(1703年)溝渠を現在勢多郡北橘村大字真壁以東及び前橋市笂井、増田、二之宮町の地に開鑿して利根の支流を引き、灌漑の用に充てんことを企図せしが、その地、他藩の領に属し軽く測量すること能わず。よって当藩の地方役鈴得六右衛門、阿久津藤右衛門外藩士数人と謀り暗夜に乗じひそかに線香を点じて目標とし、苦心惨憺三年にして測量設計完了するや、自ら関係村落と折衝を重ね議を整え、愈々その 工起こすや精励数十か月にして竣工せり。
 然れども領界神沢川の渡水は特に困難を極め、渡水橋に八坂樋(延長28米、高さ1米、幅2米)を架け通水せんとす。この通水技術優れた工法技術にし て藩内外で有名になり、視察団の訪れ連日なり。初の通水に際して、この樋での通水が不成功に終わらば、直ちに切腹し不明を上下に謝す覚悟で白無垢の死装束と麻の袴を着し、菩提所善應寺に於て通水状況を聴く。情報刻々聴取切々然として、領界神沢川に架せる八坂樋を無事通水せりとの報に、思わず起立欣然古謡一曲舞いせしと云う。武堯一世一代身命賭けた大工事完遂の一瞬なり。
 時に宝永三年(1705年)、この功績の偉大にしてその意気の壮烈世の亀鑑なり、後の藩主忠温侯が追慕し、碑を建て後世に伝えんと国家老にその文を撰ばせしが、故ありて果さず。星霜空しく過 ぎ、明治43年10月、八坂用水組合を解散し、八坂堰普通水利組合の成立を機とし、管理者伊勢崎町長従六位勲六等大野和信氏が筆頭者となり、三郷村長横堀八十吉氏、茂呂村長大沢啓太郎氏等と協力、建碑推進委員会を結成。子爵酒井忠一氏に篆額を請い「頌真碑」を華蔵寺公園に建立し、二百余年の 冀望を達するに至れり。
 この選文は先人大野和信氏の謹記なりしが、補文転載小畠氏の眠る善應寺の北方公園南口に碑を建立。以って偉業の功績を称え茲に伊勢崎市長下城雄索氏に揮毫を請い、この徳を広く後世に伝えんとするものなり。
偉人の徳が恵水を生み 天宙地の如く永遠に大郷めぐむ
昭和60年(1985年)11月 八坂堰土地改良区 理事長 須田鶴次撰文
事務局長 岩崎浩書
井田碧雲刻(石材)

小畠武堯の頌徳碑

華蔵寺公園遊園地の南側(伊勢崎市華蔵寺町)
掲載日:2015/4/14 ▲ページTopへ

小畠武堯の頌徳碑 2015/3/5

(クリックで拡大表示)
 華蔵寺公園には華蔵寺山斜面を中心に様々な石碑が建っています。華蔵寺公園から徒歩数分の場所に50年間住みながら、何の石碑なのか改めて確認することもなく通り過ぎています。今年の3月に当サイトで紹介した新船直孝さん編集の「伊勢崎市の文化財と石碑」の中にも含まれていますが(→こちらのページ)、いつの日か自分の足でも一つずつ調べたいと思っています。そのような背景で、最初に紹介するのがここ小畠武堯頌徳碑(しょうとくひ)。

 場所は華蔵寺公園遊園地・南ゲートの南側40mほどの位置。西側の遊歩道脇には説明板が立ち、また足元には自然石のステップが敷かれています。4月中旬には周辺に数種類の八重桜が咲き、5月のゴールデンウィーク頃にはツツジが彩ります。

 頌徳碑の記載内容は右の写真をクリックして拡大表示してご覧ください。後日改めてテキストに書き起こして掲載します。

 頌徳碑の北東方向10mほどの位置にはほぼ同じ大きさの「伊勢崎耕地整理事業完成記念碑」が、遊園地南ゲート脇には更に大きなサイズの「天真細野次郎君碑」が建っています。(→詳しくはこちら)。伊勢崎市の偉人や文人、歴史を伝える様々な華蔵寺公園の石碑群。いつの日か石碑巡りツアーなどを催せれば楽しいことと思っています。(2015/4/14 記)

位置(Google 航空写真に加筆) 2015/3/5

小畠武堯の頌徳碑 2015/3/5

小畠武堯の墓

善應寺(伊勢崎市曲輪町10-11)

掲載日:2015/2/25 ▲ページTopへ
 小畠武堯の墓は伊勢崎市曲輪町の善應寺(ぜんのうじ)にあります。寺の門を入ると左側に墓地が広がり、武堯の墓はその奥まった所にあります。その後ろには小川「おなべっ川」が流れ、更にその南側には同聚院(どうじゅいん)の墓地が広がっています。
 話が逸れますが、この一帯は同聚院や延命寺、少し離れた伊勢崎駅南東の中台寺を含めて、半径220mの範囲に4つのお寺さんが集まっているちょっとした寺町です。
 武堯の墓所は石の柵で囲まれ、中には武堯の墓石の他に6つの墓石が建っていますが、武堯の墓は左奥にあります。武堯の墓は昭和42年2月15日に、伊勢崎市の史跡に指定されています。(2015/2/25 記)

2015/2/20

墓地の前に立つ説明板。下に記載内容を転記。
2015/2/20

「贈従五位小畠伴左衛門武堯氏之墓」
と刻まれた墓石 2015/2/20
伊勢崎市指定史跡

小畠武堯の墓

昭和42年2月15日 指定
 小畠武堯(生年不詳~1733)は伊勢崎藩主酒井忠告時代の宝永2年(1705)春に奉行交代によって江戸表から国詰となり、郡奉行を勤めた人です。当時領内の佐位郡内では農業用水が不足し、藩に対し用水の開削を嘆願していました。そこで武堯は宝永2年に桃木川から取水する八坂堰の開削を計画し、伊勢崎藩士鈴得六右衛門や八坂村名主阿久津藤右衛門らの協力により翌年三月に完成しました。その後、この八坂堰は八坂用水尾および佐波新田用水に改修されて地域の農業用灌漑として現在でも大きな役割を果たしています。
 当時400町歩余の用地に灌漑した功績は大きく、大正7年に従五位を贈位されました。
平成2年3月15日
伊勢崎市教育委員会

施無畏山 鏡泉院 善應寺(天台宗)

(伊勢崎市曲輪町10-11)

善應寺(東側の門から) 2015/2/20


門脇に立つ説明板 2015/2/20

善應寺(境内南東側から) 2015/2/20


説明板 2015/2/20

現在の神沢川水路橋(八坂用水)

更新日:2015/2/14 ▲ページTopへ
 八坂大樋で話題が盛り上がった八坂用水。残念ながら大樋は大正13年(1924)に取り壊され、現地には標識が立っているだけですが、八坂用水はその後も活躍し続け、現在は位置を上流へずらして、コンクリート製の水路橋で渡っています。水路橋の端部には誰のためか通路があって、水路橋を流れる水面を眺めることができます。川の上を川が流れる川の立体交差点、珍しい風景です。かつてはこの場所はサイフォン式水路だったようです。(2015/2/14 記)

※位置は→こちらを参照

八坂用水、神沢川を渡る水路橋 2015/1/25

水路橋を下流側から 2015/1/25

水路橋下流右岸の道路傍に残る石碑
2015/1/25

水路橋端部 2015/1/25



水路橋の上 2015/1/25




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