伊勢崎市波志江町に隣接する前橋市二之宮町。その南端部にある円墳の文殊山古墳。規模は大きさ132尺(約39.9m)、高さ20尺(約6.1m)(上毛古墳綜覧)とのこと。 この小さな丘の頂きに文珠菩薩が祀ってあります。文珠様は仏教の守護神で学問を司るとのことで、社殿の扉には学問成就や合格祈願の願いを書いた紙が結わえられていました。 参道は石の階段になっていて、最下段脇には「智技授山文殊尊」の標識と並んで「新土塚城跡」と記された木の標識柱が建てられています。 新土肥前守が城主のとき二之宮城主と争って敗れ、城主以下家臣を 葬ったことから新土塚と言うようになったとのことです。 古墳時代、またその後のお城の時代がいつ頃のことなのか詳しくは分かりませんが、荒砥川や神沢川に囲まれ、今は周囲から隔離されたように数戸の集落が残るこの地に、かつては城を構える歴史があったこと、その時代に思いを馳せると、人々の幾多の営みも長い歴史の中ではそれぞれ一瞬であることを知り、感慨深い想いに浸ります。 (2011/2/27 記) 「二之宮カルタ解説抄」によれば、「勢多郡北橘村箱田から利根川沿いに、佐波郡境町武士地区の辺までを(別には、前橋市田口町から伊勢崎市茂呂町)『7里が土堤』と言い、そこに13の仏様を祀った、これを『7里が土堤の13仏』と言う。新土塚には文珠菩薩を祀ったのである。」とあります。 |
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参道の階段 2011/1/16 |
新土塚城跡・文殊山古墳・ 上野国霊場智技授山文殊尊の地図 |
冬の間、焦げ茶色にくすんで殺風景だった「智技授山文殊尊」の文殊山古墳が、サクラと萌黄色で覆われて軽やかな風景に変わりました。この日、特に目指した訳でもなく、たまたま付近をブラリとサイクリングしていると、遠目にも鮮やかな風景が目に飛び込んできて、素通りもできずにレンズに収めました。西側を流れる荒砥川と古くて頼りない文殊橋、サクラと新緑に覆われる小山・・・、まるで昭和初期にタイムスリップしたかのような風景です。(2011/4/22 記) | |
文殊橋とサクラと萌黄色に覆われる文殊山古墳 2011/4/17 荒砥川と赤城山 河床を浚ったのか、水位が河川敷全体に上がっていました 2011/4/17 |
文殊橋と文殊山古墳 2011/4/17 人里離れた小さな古墳が淡い桜色で覆われました。 2011/4/17 |
夏、文殊山古墳や荒砥川周辺は濃い緑に覆われ、普段でも少ない人工物を更に隠します。 | |
荒砥川の流れ(文殊橋から上流) 後方には北関東自動車道の高盛土 2012/8/11 |
昔懐かしい文殊橋と文殊山古墳 2012/8/11 |
荒砥川に架かる文殊橋下流の右岸堤防で咲くキクイモ 2012/9/16 文殊橋付近の堤防で咲くキクイモ 2012/9/16 荒砥川のキクイモは→こちらにたくさん掲載してあります。 |
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文殊橋の右岸上流側の親柱には「伊勢崎市へ三.五粁(キロメートル)」と刻まれています。 現在の伊勢崎市は南東方向に直線で300メートルほどの距離(伊勢崎市安堀町)ですが、この橋の竣功が、佐波郡三郷村が伊勢崎市に合併した1955年(昭和30年)以前であることが分かります。 次回は別の親柱を確認し、竣功年月を確認してみましょう。 (2013/9/12 記) |
文殊橋の右岸上流側の親柱 2013/9/12 |
古墳の黄葉と河川敷の草紅葉が夕陽に照らされて輝いています。 はるか後方には赤城山(鍋割山)が姿を覗かせています。 2011/12/11 古墳の黄葉が夕陽に反射し、文殊橋の素朴さと相まって正に昭和の風景 2011/12/11 |
荒砥川に架かる文殊橋から見る古墳の全景 2011/1/16 |
荒砥川に架かる文殊橋から見る古墳の全景 2011/1/16 |
山門と文殊菩薩が祀られている社殿 2011/1/16 古利文殊尊利益 2011/1/16 古墳の頂きは狭いながら境内があります 2011/1/16 2011/1/16 参道入口 2011/1/16 |
文殊菩薩が祀られている社殿 2011/1/16 厄除開運文殊菩薩 2011/1/16 社殿脇から北方を眺めれば赤城山が見えます 2011/1/16 参道の中腹にある社 2011/1/16 参道の階段下に建つ 「智技授山文殊尊」の標識と「新土塚城跡」の標識 2011/1/16 |