島村・養蚕農家の紹介にあたり皆さんにとって、島村を知ったきっかけは何だったでしょうか。そしてそれはいつ頃でしたか。蚕種の歴史から?あるいは島村渡船フェスタや世界遺産登録運動から?それとも伊勢崎市の広報からでしたか? 私はと言えば・・・? 実はハッキリと覚えていません。これらの理由が少しずつ、ジワジワと私の脳味噌のどこかに火を灯し、いつしか淡い気持ちで島村に関心を寄せることになっていました。具体的な関心事に加えて、何か説明不可能な感性的な感覚がその想いを倍加した気もしています。 こののんびりとしたテンポを画期的に変えたのは、島小の新井校長先生との出会いですが、以来、島村の蚕種の歴史や暴れる大河・利根川との闘い、県内屈指の教育水準を保ってきた島小の教育の歴史、教育者斉藤喜博先生のこと、島村で日々地道な活動を行う人々のこと、養蚕農家群のこと、金井烏洲のこと、キリスト教会のこと・・・、次々に新しい関心事が増え、調べる程に島村マイスターへの道のりが遠のき、それがまた楽しみにもなっています。 中でも養蚕農家群のことは、写真は撮るものの紹介の方法が分からず、いつになっても掲載する自信が湧かず、撮影した画像がパソコンの中で冬眠を続けていました。今回紹介することにしたのは、取りあえず画像のみを掲載し、私のコメントで皆さんの視点や感想を邪魔しないことも意味があるのかと思ったからです。 ・・・と言うことで、この2ヶ月間に撮影した島村・養蚕農家群の写真のみを紹介します。コメントはありません。 (2010/6/29 記) ※島村養蚕農家群には、蚕を風通しの良いところで加温せずに育てる飼育法「清涼育」を実践するために考案した、換気を良くする櫓(やぐら)が屋根の最上部に設けられています。この櫓も屋根の全幅に亘るものと、2〜3個に分離したものとがあります。ちなみに清温育法の高山社は3個の分離した櫓(高山社ではこれを「気抜き」と呼んでいます。)が付いています。 島村・養蚕農家(1)2年2ヶ月前にこのページで何軒か紹介した島村の養蚕農家群。以来、「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、富岡製糸場を核に、島村の田島弥平旧家を含む他の3資産が世界遺産登録へ向けての動きが活発になり、群馬県内各地の大型養蚕農家が人々の関心を寄せるようになりました。伊勢崎市内をブラリサイクリングしていても、境平塚や豊受地区、茂呂地区、宮郷地区などには未だに大きな養蚕農家が残されていて、これらを見かける度に、現存している間に全ての建物を写真に収めることができたらなどと、大きな欲求が湧いています。 遠大な希望はさておいて、ここ島村地区には他地区を圧倒する数の大型養蚕農家が残されていて、田島弥平旧宅だけではなく、地区全体が養蚕の産業遺産の宝庫になっています。最近、「島村蚕種(さんしゅ)の会」が各養蚕農家の入口に標識を立て、2年前に私が勝手に見学した時に比べて、非常に分かり易くなっています。標識を見ると、どのお宅も江戸末期から明治初期にかけて造られたもので、建築的にも養蚕産業の歴史的にも非常に貴重な建造物であることが分かります。 現在、住居として住まわれているので、家人の許可なしには敷地内に入ることはできませんが、外回りを見学させていただくだけでも、十分に意義あることと思います。今回の分を含めても、まだ島村地区内の全養蚕農家を紹介していませんが、楽しみながらの紹介なので、全戸の紹介は気長にお待ちください。(2012/8/30 記) 島村・養蚕農家(2)前回の8月19日、島村養蚕農家群を見学した折、島村を去ってしばらくした頃に田島武平宅を撮っていない事に気付き、引き返すには躊躇する距離を離れてしまったのでそのまま断念したものの、やっぱり気になって、先日の9月2日、改めて出かけてみました。この日は、いつスコールが降って来るか分からない不安定な天気で、あいにくと島村渡船が水位不足で運休になり、利根川左岸の高崎伊勢崎自転車道から坂東大橋を渡り、利根川右岸のサイクリングロードを走って(南)島村へ向かい、「島村蚕のふるさと公園」に到着した時には、結構ヘトヘト。 余談ですが、坂東大橋から島村までの利根川右岸堤防上のサイクリングロードは、途中、休憩所や木陰が1ヶ所もなく、脇道に逸れる事もできず、ただただ真っ直ぐな道を走るだけの単調なコースで、道路の幅員や舗装の程度は立派なのですが、線形の変化や風景に素朴さやゆとりを感じられないので、私はあまり利用しません。ロードレーサなどで、自己の最高スピードに挑戦したりする人には向いているかも知れませんが、マウンテンバイクでぶらりサイクリング気分の私は敬遠しています。 「島村蚕のふる里公園」で自転車を下り、喉を潤していると、どこからか聞こえる合唱の声。耳を澄ませば、島小の体育館から聞こえて来ます。島小児童かな?と思いましたが、それにしては大人数のボリュームで声も大人の声です。体育館南口へ向かい、そ〜っと覗いてみると、若い学生さんらしき大勢の男女が体育館の床に思い思いに立ち、真ん中に置いたグランドピアノの伴奏で合唱の練習をしています。その声のボリュームたるや大迫力で、リズム良く、ハーモニー良く、切れが良く、強弱感良く、突然に予期せぬコンサートを聴く事ができた幸せに、しばし大感激でした。ますます不思議な魅力の島村です。 さてさて、前置きが長くなりましたが、今回は、田島武平宅と他のいくつかの養蚕農家を撮って参りました。2010年5月の写真と同じ家もありますが、また、違った雰囲気になっていました。写真下の日付けに「2012/9/2」と記されたのが今回分です。また、田島武平の功績等ついて、いくつかの資料を調べた結果を簡単に記載しました。(2012/9/6 記) |
(Y1)表門から見る主屋 2012/8/19 |
田島弥平家はこちらの別ページにも掲載してあります。 |
(Y2)文久3(1863)年建築、間口13.5間、奥行き5間、総櫓(北側から) 2010/5/9 (Y3)上の写真と同じ位置から 2012/8/19 →田島弥平家はこちらの別ページにも掲載してあります。 |
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(Y4)南東側から 2010/5/9 (Y6)表門(中央)と別荘(右後方) 2010/5/9 |
(Y5)弥平宅北側の道路脇に建つ 養蚕新論版木記念碑 2010/4/11 (Y7)2010/4/11 |
(B1)南西側から 2012/9/2 |
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(B2)文久3(1863)年建築、間口11.5間、奥行き5間(南側から) 2012/9/2 |
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【田島武平】(1833〜1910、没年78歳) 天保4年(1833年)9月19日、武兵衛保信の長男として、佐位郡島村(現:伊勢崎市境島村)に生まれる。家業は蚕種製造業。 明治4年(1871)、昭憲皇后が初めて宮中で養蚕を始めた時に世話役として指導に当たる。 田島弥平、栗原勘三らと、渋沢栄一の指導をうけて、明治5(1872)年に群馬県で初めて法人組織の島村勧業会社を設立し社長となる。 明治13(1880)年、田島弥三郎とともに蚕種5、6万枚を持ってイタリアに渡り、島村勧業会社として2回目の蚕種の直接販売を行う。その後、県議会議員や村長に選ばれ活躍。境島村の菅原神社西隣りの墓地には、義理の兄弟にあたる渋沢栄一が碑文を書いた遺徳碑がある。(2012/9/6 記) |
(O1)2010/5/9 |
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(O2)江戸時代末期建築、間口13間、奥行き5間、総櫓(南東側から) 2012/8/19 (南西側から) 2014/5/4 |
(S1)2010/5/9 |
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(S2)文久元(1861)年建築、間口9間、奥行き5間、三つ櫓(南東側から) 2012/8/19 (S2a)植木が刈り込まれ、家屋の姿がより良く見えるようになりました。(東側の小路から) 2014/5/4 |
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カシグネの脇を通る小路 |
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(S3)カシグネの小路。左:平内旧宅、右:定吉旧宅 (北側から南方) 2012/8/19
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カシグネの小路。舗装工事が行われました。2014/5/4 南側から北方を見れば乙三郎旧宅が見えます 2014/5/4 |
(H1)2010/5/9 |
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(H2)2010/5/9 (H3)明治元(1868)年建築、間口12間、奥行き5間、三つ櫓 2012/8/19 (H4)母屋(左)は三つ櫓、蚕室(右)は二つ櫓(南側から) 2012/8/19 (H5)北側の石垣 2010/5/9 |
(R1)2012/8/19 |
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(R2)慶応2(1866)年建築、間口9間、奥行き5間、総櫓(南東側から) 2012/8/19 (R3)2012/9/2(南西側から) |
大型養蚕農家は一棟だけでも重厚な存在感が溢れていますが、これらが数棟居並ぶ姿は更に圧巻で、まるで縦列する巨艦船のようです。このような風景は建物近くでは眺めることができず、遠く離れる必要があります。ところが遠く離れると、間に建つ建物や工作物が遮り、なかなか満足するビューポイントを見つけることができません。そんな課題をすべてクリアしてくれるのが、島村新地地区に建つ養蚕農家を南方から眺める遠景です。 ただ、この風景もいつまで残されるか分かりません。間にハウスや住宅が建ったり、養蚕農家自体が建て替えられるかも知れません。島村散策の折り、南方に200mほど足を伸ばせば眺められる大型養蚕農家群。次回の訪問時には是非体験してみてください。(2014/5/11 記) |
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左から田島定吉旧宅(三つ櫓の家)、田島乙三郎旧宅(中央後方、総櫓の家)、田島平内旧宅(中央右、三つ櫓の家) 南西方220mの位置から 2014/4/5 |
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左:田島定吉旧宅、右:田島平内旧宅(南方80mの位置から)。左後方に赤城山の裾野が見えます。 2014/4/5 |
島村には新地地区に田島弥平旧宅や田島武平旧宅、田島乙三郎旧宅など大きな養蚕農家が残っていますが、その周辺や新地地区の東側・立作(りゅうさく)地区にかけて、また隣接する本庄市や深谷市にかけてもまだたくさんの養蚕農家が残されています。何棟かは廃墟状態になっていますが、その多くは補修して現在も立派に住まわれています。以下の建物は、このような養蚕農家です。 |
広い屋敷内に建つ総櫓の養蚕農家 2014/5/4 |
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2014/4/5 2014/4/5 |
2014/4/5 2014/4/5 |
(E2)総櫓 2010/5/9 (E4)2010/5/9 |
(E1)二つ櫓 2010/5/9 (E3)2010/5/9 (E5)三つ櫓 2010/5/9 |
(E7)三つ櫓(南側から) 2012/9/2 |
(E6)東側から 2012/9/2 (E8)東側から 2012/9/2 |
(E9)2010/5/9 (E12)2010/5/9 (E14)2010/5/9 (E16)2012/9/2 (E18)2010/6/6 (E20)2010/6/6 (E22)2010/6/6 |
(E10)2010/5/9 (E11)2010/5/9 (E13)2010/5/9 (E15)2010/5/9 (E17)2012/9/2 (E19)2010/6/6 (E21)2010/6/6 (E23)2010/6/6 |