徳川家康の没後、正保3年(1646)から慶応3年(1867)まで221回、日光東照宮に幣帛(へいはく。供物、御進物のこと)を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った街道の内、中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生(みぶ)通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る街道を日光例幣使道(にっこうれいへいしどう)と呼びます。 その日光例幣使道は倉賀野宿(群馬県高崎市)の次の宿(しゅく)として、玉村宿(佐波郡玉村町)と五料(ごりょう)宿・五料関(佐波郡玉村町)を経て柴宿(伊勢崎市)、境宿(伊勢崎市)を通り、太田市の木崎宿へと繋ぎます。 この伊勢崎区間内のルートはほぼ現在の国道354号ですが、街道沿いには当時の道を偲ばせるいくつかの史跡が残されています。このページでは、伊勢崎市内の2つの宿や付近に残されている史跡を少しずつ紹介して参ります。(2012/4/30 記) |
伊勢崎市指定史跡柴宿本陣跡昭和41年4月12日 指定
日光例幣使街道は、中山道倉賀野宿から分岐して壬生通りの楡木宿に至るまでの13宿で、柴宿はこの三番目の宿場であり、関根家が代々本陣経営に当っていました。 本陣は元来、高級武士や公卿の宿泊施設として設置されたものです。構造は近世の武家住宅を基本として、これに、店舗的要素を加えて発達した一種独特の機能を有する建物で、柴宿本陣も概ねこの例にならっています。 なお、関根気には本陣当時の文書類、調度品が数多く残されており、金星交通至上貴重な資料となっています。
平成9年12月15日
伊勢崎市教育委員会 |
柴宿本陣跡の説明板 |
日光例幣使街道(名和版) 京から日光へ。221年間つづいた歴史のみち 2009/10/31 日光例幣使街道は日光例幣使道と、「街」がないのが正式名称のようです。 |
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柴宿本陣跡 2009/10/31 柴宿本陣跡の西側に立つ案内板 2009/10/31 柴宿本陣跡の表札には関根左ェ門の名前。 2009/10/31 柴宿本陣跡の門の前 2009/10/31 |
柴宿本陣跡。国道354号の反対側から。 2009/10/31 柴宿本陣跡 2009/10/31 柴宿本陣跡の門 2009/10/31 柴宿本陣跡の門脇に埋まる石の標識 「北今井伊勢崎道」と刻まれています。 2009/10/31 |
日光例幣使道・柴宿本陣跡周辺は歩道と車道との間に石積みの水路が整備され、その脇には植栽が施され、ソメイヨシノの並木が植えられています。 桜並木と言えば、やっぱり満開の時に紹介しなくっちゃと、先週末、ちょっと出かけてみました。 ところでこの記事を書きながら思うのですが、伊勢崎市内で、大通り沿いにソメイヨシノの並木がある通りは他にはないのでは?ありそうで・・・、ん~~・・・ない!?市内に桜名所はたくさんありますが、公園や神社仏閣、河川の堤防沿いがほとんどです。「だから何?」って言われても、それだけのことなんですが、やっぱり大通り沿いは珍しく、車を運転しながら桜を愛でることができる風景は素晴らしいと思います。 水路と桜並木と言えば、甘楽町の小幡宿を思い出しますが、知名度の高さや観光客の多さは小幡宿に軍配が上がりそうです。柴宿本陣跡もこれだけ整備されているので、今一つ何かを加えて、多くの来訪者を迎えられる場所としたいものです。(2013/4/2 記) |
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日光例幣使道・柴宿本陣跡周辺の桜並木。左は国道354号。 2013/3/30 |
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国道354号(旧・日光例幣使道)と 石積み水路と桜並木 2013/3/30 道路沿いの住宅。以前は商店だったようです。 2009/10/31 通りには桜や松などの植木が立ちます 2009/10/31 |
歩道を照らす桜並木 2013/3/30 水路へ降りる階段の細工に味わいがあります 2013/3/30 歩道幅は広く、散策するに十分です 2009/10/31 |
現存する日光例幣使道の道標がいくつあるのか、そしてその内、伊勢崎市内にはいくつ残されているのか詳しくは掴んでいませんが、様々な資料やウェブの情報、またサイト掲示板から寄せられた情報などを元に、現地で確認した道標を順次紹介して参ります。 道標と言えば重要なのは刻まれた文字の判読ですが、数百年の風雪に耐えた文字はそれほど簡単には判読できません。画像ソフトで拡大表示や輝度・明度の調整などを行い、文字部分を識別していますが、結構手間暇がかかります。刻んだ時代や石工さんに想いを馳せれば、こんな苦労も楽しい作業ですが、識別に当っては想像で手を加えることは避けました。字の総格から明らかに判読できても、風化して消えた画はそのままにしてあります。オリジナルの画像も掲載しますので、間違いに気付かれましたら「こちらの掲示板」からご指摘ください。 また、位置については、道標が元々現在の地に立っていたのか、あるいは道路改良工事などに伴い多少は移設したのか、詳しい検証はしていませんので、ご了承ください。これらについても情報をお持ちの方は、「掲示板」からお寄せくだされば光栄です。(2013/12/31 記) |
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最初に紹介するのは下道寺町に立つ道標。 大正寺町の交差点の南東方、伊勢崎市立第四中学校の北東のY字路に立っています。道標は2つあり、大きな円柱状の道標と小さい四角柱の道標です。 円柱の道標には ”萬延紀元#申歳#庚申尊”(*1) ”九月庚申日建立”、その下に ”下道寺”、以下地中 ”猿田彦大神”、その下に”###”、”左###”(*1) とあります。 下部の#部分は「右玉村 左やった」と刻まれているようです。 小さな四角柱の道標には ”東 馬見塚 下蓮沼 境町経テ太田 約五”、以下地中(*2) ”西 下道寺 八斗島舩槝 経 本庄町方”、以下地中(*3) ”約一里”、以下地中 ”大典紀念 大正四年十一月”(*4) とあります。(2013/12/31 記) (*1)萬延元年は1860年。「桜田門外の変」が起きた年です。#の文字が判読できません。 (*2)五の下に”里”があると思われます。 (*3)”舩槝”が正しい識別か自信がありません。また正しいとした場合、地名なのか何なのか不明です。 (*4)大正四年は1915年。例幣使派遣終了後、既に48年が経過しています。 この年、大正天皇の即位の例(大典)が執り行われました。 |
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下道寺町に立つ道標 2013/12/13 |
下道寺町の道標の地図 |
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円柱の道標の北西面 2013/12/13 |
同左の判読状況 2013/12/13 |
円柱の道標の南東面 2013/12/13 |
同左の判読状況 2013/12/13 |
四角柱の道標の東面 2013/12/13 |
同左の判読状況 2013/12/13 |
四角柱の道標の南面 2013/12/13 |
同左の判読状況 2013/12/13 |
四角柱の道標の西面 2013/12/13 |
同左の判読状況 2013/12/13 |
例幣使道まちづくり会議 の標識 2013/12/13 |
先日来、当サイト「掲示板」へご投稿いただく皆さんの協力を得ながら、西向き例幣使道の根拠を示す記事を掲載していますが、昨日、決定打的なサイトを紹介いただきました。そのサイトは国土交通省が公開する地理情報サイト(*)で、その中で昭和49年撮影の下蓮町付近の航空写真を閲覧できます。全体は大きな画像(4012×3086pix)なので、該当部分をクリッピングして下記に示します。 写真(1)は元画像で、この画像を見ると(クリックして大きな画像で見てください)、特別な注意を払わなくとも、旧広瀬川の河道が浮き出て来ます。推測ですが、周辺の田畑はこの旧河道を挟むようにそのままの形で利用していて、河川改修により北側へずらした後も、区画整理等により、土地形状を整形しなかったものと思われます。また、豊東橋から国道354号へ下る道も、現在のS字形でなく、直線になっています。 写真(2)は写真(1)に注記を加えた画像です。旧河道は推測線です。 また、現在の状況をgoo地図の航空写真で確認すると写真(3)のようです。写真(4)は同様に注記を加えたものです。これを見ると、S状道路に改良された区域を除けば、現在でもまだ昭和49年当時の形状を確認できます。 正保3年(1646)から慶応3年(1867)まで221回、一度も途切れることなく続いたとされる例幣使派遣。その勅使が通った例幣使道を南南西に向けさせた広瀬川の流れ。その痕跡を現地で今なお確認でき、きっと遠巻きに例幣使の行列を眺めていたであろう下蓮沼村の人々の生活や光景に想いを馳せると、まるで時代劇を見ているように楽しいひと時です。(2013/12/24 記) |
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写真(1)昭和49年撮影の右赤城付近の航空写真 |
写真(2)写真(1)に例幣使道や旧河道推定位置を付記 |
写真(3)現在のgoo地図による航空写真 |
写真(4)写真(3)に例幣使道や旧河道推定位置を付記 |
(*)国土情報ウェブマッピングシステム このシステムは、国土交通省国土政策局国土情報課が、国土数値情報や国土画像情報(カラー空中写真)をWebブラウザ上で公開するシステムです。→詳しくはこちら。 |
本日、ありがたいことに、またまた当サイト「掲示板」にご投稿いただき、貴重なウェブサイト(*)を紹介していただきました。今回紹介してくれたのは「和@」さん。 そのサイトでは、明治13年から明治19年にかけて作成された地図を閲覧でき、それによれば、右図に示すように、広瀬川が現在の位置から大きく南方に離れて流れ、例幣使道はこれを避けるように南南西に折れ曲っていて、現在伝わる右赤城の例幣使道のルートと重なります。 右赤城紹介に当って、主人公の例幣使道や赤城山を脇役に追いやって西向き道路の疑問にフォーカスし、サイト閲覧者の皆さんを巻き込んでの展開、いかがでしたか。ご協力いただいた皆さんには、大変ありがとうございました。 (2013/12/21 記) |
明治13年から明治19年にかけて作成された地図 出典は下記(*)印をご覧ください。 青い線:現在の広瀬川、赤い線:現在の道路 |
(*)独立行政法人農業環境技術研究所、歴史的農業環境閲覧システム 歴史的農業景観閲覧システムとは、明治時代初期に作成された迅速測図と関連するデータを公開しているサイトです。迅速測図とは、明治初期から中期にかけて行われた簡便な測量法とその成果の地図のことです。関東地方では明治13(1880)年から明治19(1886)年にかけて平野部から房総半島を対象に作成されました。 |
先日12月18日に「右赤城」を紹介した際、なぜこの地で日光例幣使道が西(正しくは南南西)に向かったのか、それは広瀬川の蛇行が原因なのかと疑問を残したまま掲載したところ、早速に当サイト「掲示板」に「鳩ぽっぽさん」からその謎を解く記事を投稿していただきました。 その記事で紹介されていたサイトは国土地理院のサイトで、その中の地図公開サイト「地理院地図」(電子国土Web)を辿ると、現況地図に「明治前期の低湿地」や「治水地形分類図」を重ねて表示することができます。 手順を追って説明します。 まず右の図(1)が現況図です。日光例幣使道の位置や河川名等を付記しました。次に下の図(2)が明治前期の低湿地を重ねたもの。この時点で既に広瀬川が現在よりも南側を流れていたことが分かります。 図(2)に更に治水地形分類図を重ねたのが図(3)ですが、この図で「右赤城」付近が「氾濫平野」であることが分かります。氾濫平野とは、地理院の地形分類によれば、「山地・丘陵あるいは台地・段丘を刻む河川の堆積作用が及ぶ平坦地、及び河川の堆積作用により形成された、広く開けた平坦地」とあり、例幣使道は氾濫平野が狭い場所を通過しています。 |
図(1)現況地図 (*)図(1)~(3)の元地図は 「国土地理院」の「地理院地図」を引用しました。 |
これらのことから、西向き例幣使道の根拠を推測すると、「当時の広瀬川は今より南側を流れ、その護岸や堤防の位置は不明ながら、流れが直角に折れて大きく淵を形成していたと予想でき、恐らく現在の国道354号より南側に堤防があって、また、この一帯が氾濫平野であるため、極力河川の氾濫の影響を避け、かつ氾濫平野の狭い位置を繋ぐと当時の例幣使道の位置になった」と言えそうです。現在の国道354号が真っ直ぐに南東方向に伸びているので想像しにくいですが、当時の状況を考慮すると自然なルート選定だったのかも知れません。あくまで推測ですので、正確さの保証はできませんので悪しからず。例幣使道の話題のネタにでもしていただければ幸いです。(2013/12/21 記) | |
図(2)現況地図+明治前期の低湿地 |
図(3)現況地図+明治前期の低湿地+治水地形分類図 |
2013年12月13日、御嶽山・自然の森公園に出かけ、冬支度が始まった園内で密やかに咲く藪椿や蝋梅を眺め、その帰り、完成した粕川サイクリングロードを走って豊東橋へ向かい、橋を渡り切る頃に、 「そうだ、ここまで来たらついでに右赤城に寄ってみよう!」 と豊東橋の右岸袂の国道354号(旧日光例幣使道)へ下り、右赤城を見学することに。 ・・・なんて、向学心を刺激された風なことを言ってしまいましたが、本当は、小腹が空いたので、忠治茶屋で焼き饅頭を食べたくなったのが理由。忠治茶屋は右赤城入口から徒歩1分。まずはお腹を満たしてから右赤城見学へ。 右赤城の呼称の由来は現地に立つ説明板(下記)に譲るとして、なぜにこの地で例幣使道が西に向かったか。ネットなどで調べると、当時は広瀬川の流れが現在よりも更に南に蛇行していたため、それを避けるために西側に向かって大回りしたと言うような記事が見つかります。蛇行する広瀬川の形状を全く自分勝手な想像で書き加えてみました(右下の画像)。こんな感じだったのでしょうか。 当時の地図や、広瀬川河川改修、国道354号の工事資料などが見つかれば、裏付け資料になるのですが。現地の地形を踏査しても何か名残が残されているかも知れません。解明は課題に回して、今回は取り敢えず現地の様子と現地から眺める赤城山などをご覧ください。 (2013/12/18 記) |
右赤城(現地説明板を転記)柴宿から馬見塚の村外れにくると、道は西に向きが変わります。すると、行列の右手に赤城山を望むようになりました。 ここが日光例幣使でただ一か所、右に赤城山が見える所で、例幣使や上方にも知れ渡った「右赤城」なのです。 この道の先には道標があり、「東 日光道 右 五りやう 左 ほん志やう」と刻まれています。 平成17年3月
例幣使道まちづくり会議 |
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国道354号の右赤城入口。後方に忠治茶屋。 右の堤防は広瀬川右岸。 2013/12/13 |
現地に立つ説明板 2013/12/13 |
現地の航空写真 |
国道354号からの入口。二股に分かれています。 左側が旧日光例幣使道。 2013/12/13 更に進みます。 2013/12/13 「右赤城」の説明板から広瀬川方向を振り返ります。 2013/12/13 |
二股の辻を入ってすぐの位置 2013/12/13 ハイ、この先に「右赤城」の説明板が立っています。 この道が旧日光例幣使道。 2013/12/13 「右赤城」の説明板から眺める赤城山。 2013/12/13 |
「右赤城」の説明板から望む赤城山は真ん中に住宅が位置するので、 ちょっと南西にずれた位置で撮ってみました。 2013/12/13 旧日光例幣使道は「右赤城」の説明板を少し南下した辺りで、東に折れます(上図の矢印)。 2013/12/13 |
日光例幣使道の名所”右赤城”の南へ、道なり距離で250m程の位置、また現国道354号・下蓮町交差点の西130mの位置に円柱の道標が立っています。建立年は分かりません。 道標の北面、南面、東面の3面に刻まれた文字はやや判読できます。残る西面にも何らかの文字が刻まれていた痕跡を確認できますが判読は困難です。 各面に刻まれた判読状況を掲載します。数百年前に立てられたであろう道標に、今も残る地名”ほん志やう(本庄)”や”五りやう(五料)”を確認でき、このような形で人々が刻んだ歴史が伝えられることに感慨深い思いがあります。 判読困難な西面も掲載しますので、皆さんも挑戦してみてください。(2014/1/3 記) ”左 ほん#や#”(*1)(南面) ”東 #光#”(*2)(東面) ”右 五りや#”(*3)(北面) 資料等によれば、それぞれ下記のように刻まれているようです。 (*1)”左 ほん志やう”(本庄) (*2)”東 日光道” (*3)”右 五りやう”(五料) |
古地図による道標の位置 現在の地図による道標の位置 |
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下蓮町に立つ道標(南側から) 2013/12/22 |
下蓮町に立つ道標(西側から) 2013/12/22 |
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東面 2013/12/22 |
同左判読状況 2013/12/22 |
北面 2013/12/22 |
同左判読状況 2013/12/22 |
下蓮町の道標(南側から) 2013/12/22 |
南面 2013/12/22 |
同左判読状況 2013/12/22 |
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判読困難な西面 2013/12/22 |
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右赤城の南側のカーブ 2013/12/22 |
道標の北西。後方には赤城山に変わって榛名山。 2013/12/22 |
竹石(たけし)の渡しに立つ案内板 2012/4/28 |
史跡はちょっとしたミニパークになっています。 ただし、ベンチはありません。 2012/4/28 判読が困難ですが、武士橋を造った時の技能者の 名前が書かれているようです。 2012/4/28 |
日光例幣使道・境区域の案内板 2012/4/28 武士橋(たけしばし) 2012/4/28 |
菜の花色に染まる広瀬川(武士橋上流)広瀬川は3月から5月にかけて、菜の花で覆われます。特に「御嶽山自然の森公園」から武士橋にかけての河川敷は、河川敷一面が菜の花に覆われて、その光景は圧巻です。 |
武士橋の上流。後方で新緑に覆われた杜は「御嶽山自然の森公園」 2012/4/28 「御嶽山自然の森公園」の南側から 2012/4/28 |
豊受橋の下流。左側の緑は「林公園」。右後方は「御嶽山自然の森公園」 2012/4/28 |
萩原諏訪神社の道標は伊勢崎市境萩原の諏訪神社境内に建っています。現地に立つ説明板によれば、元は現在の国道354号の分岐点に建っていたものが、明治はじめにこちらに移設されたとのことです。日光例幣使道はほぼ現在の国道354号と一致していながらも、ところどころで現道とはずれていたようで、その内の一ヶ所がここ境萩原と境との境界です。現在その分岐点には、新旧二つの道路に挟まれて「境町山の会」の事務所が建っています。(2014/2/11 記) | |
萩原諏訪神社の道標 この道標は刻まれている文面から、文久元年(1861)に建て直されたものです。 平成19年3月 下道寺町に立つ道標 2010/12/18 |
萩原諏訪神社の道標の地図 萩原諏訪神社の道標 2010/12/18 「境町山の会」の事務所。左:例幣使道、右:国道354号。 2010/12/18 |
織 間 本 陣 跡旧例弊使街道、境宿織間本陣は寛文二年(1662年)に伊勢崎藩士鶴田弥太郎氏の家を当地に移築したもので、わら葺平屋建ての主家と片袖付門構えは古い建築様式をそのまま残し旧本陣として境町の町指定史跡であった。本陣跡の建物は門をくぐり大玄関を上ると九個の室を配し、広い土間(ダイドコ)や貴賓の上座の間を有した。上座の間から見る中庭には見事な松樹があり来遊した江戸の学者、古賀侗庵は織間本陣を蒼松幹と命名し、また文学の名をもって有名な安中城主板倉甘雨亭候はここに御小休されたときこれをほめ讃えて蒼松幹の軒記を書き与えたのである。 本陣は例弊使街道を上下する諸大名をはじめ、とくに毎年四月京都より下向する例弊使や公卿門跡衆の休泊を主とした。そのとき門前に掲げた関札と呼ばれた泊り札が現在も五十余礼保存されており、当時の面影を残している。 寛政三年(1791年)四月十二日、小林一茶は江戸から信州へ行く途中、織間本陣の家主である俳人専車を訪ねたが不在で会うことができなかったので - 時鳥我が身ばかりに降雨か - の一句を残して立ち去ったことが一茶の帰郷日記に書きとめられている。 境町教育委員会 |
織間本陣跡の石碑 一茶の句が刻まれています 2009/7/25 織間本陣跡の説明板(内容は左に転記) 2009/7/25 |
飯島本陣跡の標識柱(現在は東群馬信用組合) 2014/2/6 右端:飯島本陣跡の標識柱。 看板の後ろに僅かに見える屋根瓦が気になります。 きっと、町屋建築が姿を現しそう。2014/2/6 |
飯島本陣跡の地図 飯島本陣跡の西隣のお宅の門 こちらも歴史を感じる風格があります。 2014/2/6 |