先日、当サイトの「伊勢崎のコトなら何でも」の掲示板に、たこすみさんから下記の投稿を寄せていただきました。 ”女堀のことを調べていて ”佐位の大堀” という表記がありました。検索しても2つのサイトで、これまで女堀の終末点とされていた独鈷田の東側に、早川に至る約 2.7km の「佐位の大堀」が確認との表現だけ。 私の理解では長岡つりぼりから西小保方沼公園まで続く細長い谷地が独鈷田だと思っていたのですが、その場所のことなのでしょうか?新しい発掘があったのでしょうか?」 たこすみさんは、当「Go!伊勢崎」の「富士山を探せ」や史跡「女堀」に感心を寄せていただいていて、掲示板を通じて様々な情報交換をさせていただいています。 当サイトのカテゴリーの中で、私の興味や探求心を大いに刺激してくれるのが三座同定や遺跡や古墳。読む人は少ないだろうと思いながらも個人サイトの自由さのため、コツコツと書き溜めています。そんなオタク的記事に関心を寄せていただいただけでも嬉しいことですが、今回のように更に新たな話題を提供していただけるとまたまた好奇心が刺激されます。 今回の、 独鈷田の東側に、早川に至る約 2.7km の「佐位の大堀」を検証することは難しいことですが、独鈷田から国定駅周辺、その東方の早川沿いは私の”ぶらりサイクリングコース”の範囲。現地に馴染みがあることと、今まで集めた情報を整理するだけでも、皆さんの感心を刺激するお役に立てるのではとの思いで、当ページを起こしました。手順として・・・(1)古い空中写真で確認できるか?(2)迅速地図で確認できるか?(3)国定駅前で発掘された古代の大堀との関連は?の順で関連資料をもとに説明します。結論として、今回調べた範囲では、独鈷田~早川間は、標高差が逆勾配になることから水を流すことは難しく、女堀終点は、今までの推論通り、独鈷田が終点であると考えられます。 ただし・・・ 「女堀」は未完の水路で、通水した記録はないとのことで、また、他区間においても逆勾配の場所もあるので、勾配を無視した計画はあったかも知れません。女堀の古文書は一切発見されていないとのことで、計画レベルのことはなお更不明です。 全くの推論ですが、終点とされている独鈷田(地点)から、独鈷田(帯状の水田:線)を南下し、西小保方沼の東側からカインズ佐波東店の東側を窪地(現在用水路)に沿って下り、鶴巻古墳の北側で早川に合流する流れならば勾配的には可能です。「淵名荘」全体の灌漑のためには極力早川の上流から流入させることが望ましいですが。いずれ、通水記録がない「女堀」のこと、推論を立証することは難しいです。 当区間は、女堀の他区間で掲載したような現地写真は撮影できていません。以下、話題提供としてご覧いただければ幸いです。(2021/5/5 記) |
「国土交通省・国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」で入手できる独鈷田周辺の空中写真のうち、1974年撮影の写真においては、独鈷田(南北方向の帯状の水田)を確認できますが、独鈷田から東進する堀状地形は確認できません。 |
国土地理院撮影の空中写真(1974年撮影)に見る独鈷田(上図の輝度を上げた場所) 国土地理院撮影の空中写真(1974年撮影)に見る独鈷田 上記空中写真の撮影データ |
「国土交通省・国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」で入手できる独鈷田周辺の空中写真のうち、1947年撮影の写真(これが同サービスで入手できる最も古い空中写真と思われます)においても、独鈷田を確認できますが、独鈷田から東進する堀状地形は確認できません。 |
米軍撮影の空中写真(1947年撮影)に見る独鈷田(上図の輝度を上げた場所) 米軍撮影の空中写真(1947年撮影)に見る独鈷田 上記空中写真の撮影データ |
「独立行政法人農業環境技術研究所、歴史的農業環境閲覧システム」入手できる迅速地図に示される「女堀」終点は独鈷田となっています。「史跡 女堀」(前橋市教育委員会発行、平成28年6月30日発行)においても同様です。 |
迅速地図に見る女堀・独鈷田付近 迅速地図に見る女堀・独鈷田付近(上図より少し広域) |
たこすみさんから寄せていただいた情報で、 「上野新田氏(シリーズ・中世関東武士の研究)」の「1 中世前期上野新田氏論 総論 6-48(田中大喜 著)」 に
同書は中古品(戎光祥出版)で6,300円(税別)で、購入を躊躇して内容は読んでいません。ただ、国定駅前で発掘された古代大堀の調査年が平成13年度(2001年度)で、同書の発行が2011年であることから、この「古代大堀」を「女堀」と関連付けたかも知れません。 このことに関して、皆さんからの情報提供があれば幸いです。(→掲示板はこちら) |
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「あずま道と古代の大堀」(JR国定駅前に立つ説明板を2021/3/19に撮影) 下記に、同上説明板のうち、大堀部分を切り抜き、下記に示します。
上記説明文のうち、「三和工業団地遺跡で発掘された大堀とつながっていると考えられる」が正しいとすれば、 (1)国定駅前から三和工業団地遺跡方向は下り勾配で、水は東から西へ流れていた(早川方面と逆)。国定駅から東方も伊勢崎市立あずま北小学校南東角地付近まで上り勾配になっていて、東へ向かって流れることは考え難い(*)。(下図参照) ※上図で示す標高は、国土地理院・電子国土Webを利用して取得。 (*)現在の標高で当時の標高ではありませんが、現地周辺の状況と高低差の大きさを考えると、水流方向は変わらなかったと考えられます。 (2)「古代大堀」の築造年は奈良時代(710-794年)、女堀の築造年が12世紀中頃→約400年経過。 水流が西向き、かつ400年間、堀として機能していたかと考えると、早川流域も女堀の灌漑対象となると言う推測は立証し難い。 説明板の概略図部分を抜粋 古代大堀(説明板から抜粋) あずま道(説明板から抜粋) |