去る2月23日に赤堀公民館で開催された国指定史跡・女堀シンポジウム。 翌日、当日の簡単なレポートを掲載しましたが、講演者の皆さんが話した内容については一切触れませんでした。今回、女堀に関する様々な情報や史実、見解を記録として残す意味で、ここに改めて掲載します。 講演時に取ったメモを元に書き起こしましたが、私・丸男が正しく理解していなかった部分もあると思われますので、敢えて講演者との対比は記載せずに掲載します。 これだけの事業を行ったのは流末地域で恩恵を受ける淵名氏?女堀の築造年代は?浅間の大噴火の降灰が決めてとされているが、本当にそれが根拠?途中の河川の横断方法は?未完成だったのは施工レベルが低かった理由だけ?波志江沼では分水があったの? 知れば知るほど増える謎?!それらの謎解きに少し役立つかもしれません。ご覧ください。(2014/3/7 記) |
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女堀事業の時代背景、政治的背景●鎌倉時代、佐位郡は荘園に(淵名荘)。(cf.新田郡は新田荘)。淵名荘は1,130年に藤原璋子(たまこ)が寄附。●鎌倉中期(13世紀)は大雨が多く湿潤時期で、水の心配はなかった。 ●12世紀は雨が少ない渇水時期で淵名荘に水を引く必要が発生。これを満たすには粕川や早川は水量が少なく、水量が多く安定している利根川から引く必要があった。 ●史料によれば、大和国に献納できるよう、上毛国(淵名荘)を疲弊(亡弊)させることはできない。 ●赤城南麓を横に繋げる一大事業なので大きな権力が動いたはず。 ●赤城南麓を面的に灌漑。 女堀事業の年代●堀の掘削時の排土は、堀の両脇に置いたが、それが浅間大噴火(1108年)時の砂(浅間Bテフラー)の上に盛られていたので、築造はこの後の12世紀後半。●遺構から浅間粕川テフラー(この年代は不明)8cmの上に他の年代の地層があり、その上に女堀の排土あり。 ●13世紀前半の築造(推論)。 ●「立荘論」から推定できる。 ●浅間大噴火は1,108年と1,129年に起きている。 女堀の利根川の取水口●前橋市上泉町石関●古利根(今の桃の木川など)は時代によって流れが変わる。 ●取水口位置は明確ではない。 途中の河川の渡河方法(途中河川:荒砥川、神沢川、粕川、早川など)●女堀は途中で分水せずに終末まで通水する構造(推論)。 ●横断する河川に石堰などを造り、横断させた。 ●谷戸田(やとだ)からの流入は堤防で遮断。 ●波志江沼(上沼)の北側では谷地の筋方向と女堀が鋭角で交差しているので、この位置では波志江沼へも分水していたのではないか?今後の発掘調査に期待。 終点は?●現在の伊勢崎市西国定。●東小保方、西小保方、上淵名の流末地域490町歩の水田。 女堀の寸法諸元●全幅:20、25~30m、通水路:幅5m、深さ:1m施工に関して●全体を工区に分割し一斉に工事着工。●工区ごとに寸法諸元が異なり、工区境ではズレが発生。 ●未完成の工区もある。 ●掘削深さ不足あり。 ●勾配不備あり。波志江沼の東西など。 ●工区間の調整不備あり。 ●人的管理レベルが低い。 ●労働力や道具の不足。食料供給量も不足。 ●技術的には失敗。 |
昨日の2月23日、赤堀公民館において、国指定史跡・女堀シンポジウムが開催されました。伊勢崎市教育委員会主催です。 徳江伊勢崎市教育長のあいさつの後、赤堀町出身で東京都立大学名誉教授・史跡女堀調査整備委員長の峰岸純夫氏の特別講演が行われ、その後、能登 健氏、小島敦子氏、川道 享氏、飯塚 聡氏、簗瀬大輔氏、野口華世氏の6人の基礎報告が発表され、最後に峰岸氏と報告者6人を交えて討論会が行われました。 各氏が考古学や歴史学、また独自の立場見解で、女堀が築造された政治的背景、年代、施工手法などを、発掘資料や史料を元に発表し、話題を展開しました。 赤堀公民会会場に準備された約200席の椅子はほぼ満席になり、女堀の関心の高さが伺えました。 偶然にも昨年末、当サイトでも古地図や航空写真アーカイブなどで確認する女堀史跡の痕跡を特集し、保全されている伊勢崎市と前橋市の7ヶ所の現況を紹介しましたが、タイミング良く行われた今回のシンポジウム、最初から最後までしっかりと拝聴し、楽しく有意義な一日を過ごして参りました。(2014/2/24 記) |
開会のあいさつ徳江 基行 氏( 伊勢崎市教育長) |
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特別講演「私の生涯と女堀-過去・現在・未来-」峰岸 純夫 氏(東京都立大学名誉教授・史跡女堀調査整備委員長) |
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基礎報告1「前橋市東大室地区・飯土井地区の発掘調査」能登 健 氏(群馬大学講師) |
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基礎報告2「女堀の年代を考える-浅間粕川テフラとの関係から-」小島 敦子 氏(公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団普及課長) |
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基礎報告3「史跡女堀(赤堀地区)の発掘調査」川道 享 氏(伊勢崎市教育委員会) |
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基礎報告4「古代国家の勧農・用水管理と平安後末期上野国の諸情勢」飯塚 聡 氏(群馬県立高崎高等学校教頭) |
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基礎報告5「女堀の開削年代の再検討-赤城山南麓水系との関わりから-」簗瀬 大輔 氏(群馬県立歴史博物館専門員・史跡女堀調査整備委員) |
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基礎報告6「中世天皇家からみた女堀」野口 華世 氏(共愛学園前橋国際大学専任講師) |
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討論「中世の巨大用水路『女堀』の謎に迫る-考古学と歴史学の対話-司会:飯塚 聰 氏パネラー:峰岸 純夫 氏、能登 健 氏、小島 敦子 氏、川道 享 氏、簗瀬 大輔 氏、野口 華世 氏 |
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現在も保全されている国指定史跡「女堀」の地図 |
迅速地図(明治時代初期に作成された地図)(オリジナル地図)。→大きいサイズ(2309×777pix)はこちら 迅速地図(明治時代初期に作成された地図)(注記追加版)。→大きいサイズ(2208×777pix)はこちら 女堀周辺の昭和49年撮影の航空写真(オリジナル地図)。→大きいサイズ(3980×1616pix)はこちら 女堀周辺の昭和49年撮影の航空写真(注記追加版)。→大きいサイズ(3980×1160pix)はこちら |