無題 投稿者:トクチャン 投稿日:2014/02/10(Mon) 20:14 No.1203 ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
またまた現地取材されたんですね。 先ず広瀬川の土手、水除堤は食糧難の時代に土手をならして、ムラ(大字・下蓮沼)が非農家に畑として使わしてくれたそうで、今も借りて畑に使ってます。昔は土手の内側は川原だったそうですよ。土手跡の畑と国道の間が川原だったということですね。それから、豊東橋架設記念碑の元々の位置は橋のところに建ってたそうです。河川改修工事で今の位置に移されたそうです。昭和30年以前、私の祖父は紺屋を営んでいました。その頃は染めた糸を広瀬川で洗っていたそうです。写真の中で車が停まってるところも、公園も私が子供の頃は川跡の畑でした。その当時は車の停まってる奥に円を描いて畑の中を通る小道がありました。川っぷちの跡でしょうね。昔は公園南側の道はなくて、私のブログでご紹介しましたが、もう川だったそうです。うちのオジイサンは橋の右側で糸を洗ってたそうです。そこがうちの洗い場で、橋の左側がムラの共同の洗い場だったと聞いています。昔は川で何でも洗いましたからね。橋の右側の川の中には杭が打ってあったと話してましたね。それと、キンザンジィ・キンザジィの住んでた小さな家は、車の向こう側、ちょうど国道に面した自転車屋んちのところに建ってたそうです。そこは川っぷちだったと聞いてます。自転車屋んちは十字路の近くから移っていったので、その前は畑でした。 それから国領の沼ですが、たしか・・・韮川とつながってたかなぁ??どうだったかなぁ??こんだ国領の同級生に会えたら聞いときますね。
かつては伊勢崎の水郷地帯? - 丸男 2014/02/11(Tue) 10:35 No.1206 トクチャン、こんにちは。 私は波志江町の住人で、旧伊勢崎市の北の外れ。 そんなこともあって、下蓮町辺りは当サイト開設後、サイクリングで走り回るまでは、ほとんど知らない場所でした。 今では、例幣使道や御嶽山自然の森公園、まゆドーム、忠治茶屋、養蚕農家、 利根川や広瀬川、粕川サイクリングロードなどのお陰で、一年に何度もぶらりサイクリング&取材を行って、大分明るくなりましたが、 それまでは広瀬川や粕川、韮川、利根川の位置関係も自信ありませんでした。 ここのところ、特に右赤城の関係で下蓮や上蓮辺りを調べ直すと、 これら4つの河川および幻の七分川、それと点在していた沼なども介して、広大な水郷地形を形成していたのか などと、当時の姿に思いを馳せています。
今、地元出身のトクちゃん始め、皆さんの情報や記憶、知識が集まって、 当時の姿をイメージできること、とても楽しいことですね(^o^)。
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