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Go!伊勢崎 井戸端会議掲示板
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1947年の豊東橋付近の広瀬川上淵名のふたご山古墳天神山古墳のページ制作境風土記や天神山古墳消滅古墳めぐり武士の天神山古墳で渕名の前方後円墳掲示板・ジャンプ機能設定無題無題

1947年の豊東橋付近の広瀬川 投稿者:丸男 投稿日:2014/02/14(Fri) 13:41 No.1216    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
以前、にわかTTさんがアップしてくれた1947年の航空写真、
私も今朝、地理院のサイトから表示・DLしてみました。何と、これは米軍の撮影なんですね(@_@)。
この画像に現在の広瀬川を重ねてみました。
拡大縮小・回転の合わせ点は、下蓮交差点、武士橋たもと、勝山神社などです。

広瀬川が島村付近の利根川に負けず劣らずの暴れん坊だったんですね。
随分大幅な河川改修だったようで。
河川や地形がスマートになりますが、ちょっと情緒や味わいが欠けるような(ー_ー)。
以前、右赤城のページを編集した時点では作成しなかった、こんな画像を作成してみました。


Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - トクチャン 2014/02/14(Fri) 14:48 No.1218
曖昧な記憶で、ご迷惑をかけてすみません。たったいまもう一つのところへコメントを書きました。
親や祖父母がこの世にいないため、記憶で書いてます。すみません。


Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - トクチャン 2014/02/15(Sat) 10:41 No.1226
先ず、皆さんに、大雪のお見舞いを申し上げます。怪我の無いようにどうかご注意ください。
改めまして、丸男さん、にわかTTさん、鳩ぽっぽさん、丸男さんの新たな地図を見ていただきたいのですが、写真の中に広瀬川に沿った場所ですが剛志小学校がお分かりになりますか?その西隣に雑木林がありますが、林の東側の山、後円部を北側にして前方部が広瀬川の崖まで達しているように見えますが、前方後円墳に見えませんかね?この山は西中学校を建設する時に削られたと聞いています。削られた山の西側は僕が子供の頃まで一部が残っていました。昔はこの山の下は広瀬川に削られた崖になっていました。この山の上から昔の子どもたちは、崖下の広瀬川に釣糸を垂れて釣りをしてました。地元の方に聞くことができればいのですが、それか、どなたか上毛古墳綜覧で確認できるといいのですが。あくまで見えるだけで、古墳の確証はありません。すみません。


Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - 丸男 2014/02/15(Sat) 18:04 No.1234
トクちゃん、こんばんは。
今日は午前10時から午後4時まで、カーポートの雪おろしと通路の雪かきをしていました。
庭の積雪量を測ったら、深いところでは90cmありました(@_@)。
生まれて初めて体験する大雪です。
近所では、2台用のカーポートが壊れて、車も破損したお宅もあります。
屋根の雪が落ち切るまでは、不安です(ー_ー;)。

ところで、剛志小学校付近の様子、No.1216でアップした航空写真のオリジナルサイズをアップしてみます、
No.1216より多少大きく見ることができます。



天神山古墳跡地の標識 - 丸男 2014/02/15(Sat) 18:18 No.1235
この標識柱が天神山古墳跡地に立っています。
「境地域いきいきアイ」が平成23年度地域活性化事業で建てたものです。
境の総合グランド西に立っています。
「境地域いきいきアイ」の知り合いが、この標識が古墳のどの位置なのか、
知っているかも知れませんので、いつかの機会にきいてみます。



天神山古墳跡地標識の位置図 - 丸男 2014/02/15(Sat) 18:32 No.1236
この地図は、同じく「境地域いきいきアイ」が作成した標識柱写真集に載っている地図ですが、
ラフスケッチなので、詳細な位置の特定は難しい感じです(ー_ー;)。



天神山古墳跡地・グーグルストリ... - 丸男 2014/02/15(Sat) 18:53 No.1237
グーグルストリートビューに写っている天神山古墳跡地の標識です。
標識の脇に、元の前方後円墳の形状や寸法、現況との位置関係が描かれた説明板が欲しい所です。



天神山古墳跡地標識の位置図 - 丸男 2014/02/15(Sat) 19:02 No.1238
現在の地図に天神山古墳跡地標識の位置を記してみました。
この後、この位置を1947年の航空写真とマッピングさせてみます。
でも、この標識の位置が前方後円墳のどの位置になるんだか知りたい・・・(ノ_<;)




天神山古墳跡地の標識+航空写真 - 丸男 2014/02/15(Sat) 20:05 No.1239
天神山古墳跡地の標識を1947年の航空写真に重ねてみました。
赤い●印です。
ただ、長さ127m相当の前方後円墳らしき地形を特定できません。
どうにか東西に丸い形状をした地形があります。
消えた古墳の位置の特定・・・、なかなか手ごわい(ー_ー;)



天神山古墳跡地の標識 - 鳩ぽっぽ 2014/02/15(Sat) 21:08 No.1243
丸男さん、天神山古墳の標識が、遂に登場しましたね!
「おのおの方、この標識が目に入らぬか!」と水戸黄門様の印籠が出たのを見るような思いで驚いてます!!
そうすると、トクチャンは助さん、にわかTTさんは格さんだったのでしょうか!
またまた、丸男さんが解っていて、これをすぐに登場させない所がよかったです。
まるで、幻の古墳をめぐるミステリー小説のような展開となって、雪降る晩をいろいろと思いめぐらし楽しかったですね。
更なる詳細な位置の特定等々、丸男さんはじめGo!伊勢崎の皆さんがどこまで古代の謎に迫れるか?これからも楽しみにしてます!


Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - にわかTT 2014/02/15(Sat) 21:51 No.1244
おっと、こんなしっかりした標識があったのですか。
現地の情報がしっかり有るのですね。さすがGo伊勢崎さん。
埴輪の写真などを見ていると、境上武士という地名は良く目にする名前でした。
今回トクチャンや丸男さん、鳩ぽっぽさん、皆さんのおかげで色々知ることができて、この話題に首を突っ込んでよかったと思っています。


天神山古墳跡地の標識 - 丸男 20... - トクチャン 2014/02/16(Sun) 00:44 No.1247
丸男さんへ
ありがとうございます。

「境地域いきいきアイ」の知り合いが、この標識が古墳のどの位置なのか、
知っているかも知れませんので、いつかの機会にきいてみます。

お手数を掛けますが、よろしくお願いいたします


天神山古墳跡地 - 丸男 2014/02/16(Sun) 09:13 No.1250
鳩ぽっぽさん、トクちゃん、にわかTTさん、おはようございます。
こちら、波志江町台所山では、まだ窓外の風景は銀世界です(^^;)。

天神山古墳跡地の標識ですが
設置位置は境町サイクリング&取材時に確認したり、
「境いきいきアイ」の冊子も所有していたり、あれこれと資料は持っていたのですが、
なにせ、現状では、その痕跡を少しも確認できず、
「境いきいきアイ」の冊子に掲載されている手描き地図も相当にラフで(編集の皆さん、スミマセン)
にわかTTさんが紹介してくれた1947年の航空写真にもそれらしい姿を明確に発見できず、
紹介を躊躇していました。
それならば、1947年の航空写真やトクちゃんの子どもの頃の想い出を参考にしながら
掲示板による「古墳探しの旅」に出てみたいと思った次第です。
遺跡や古墳、郷土史は大好きなので、あれこれと資料も持ってたりしますので、
これからも皆さんと一緒に古の時代へのタイムスリップを楽しみたいと思っていますので
どうぞよろしくお願いします。

それと、この掲示板の例幣使や古墳話題、私ら同様に楽しんでみている友人・知人が数人いまして、
彼らからもオフで情報を得たりしています。
右赤城から徒歩数分の友人もいます(^^;)。


天神山古墳推定地 - トクチャン 2014/02/22(Sat) 13:10 No.1264
丸男さん、すみません。パソコンに詳しくないので画像の貼り方が分かりません。にわかTTさんの航空地図から古墳ではないかと思うところに線を引いてみたので画像を貼りたいのですが・・
お忙しいところ、すみません。一応、僕のやり方で貼ってみますね。画像が出るといいのですが・・
丸男さんの写真からコピーしたのですが、データが大きすぎるとエラーが出てしまいました。後で僕のブログに貼ってみますね。


Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - 丸男 2014/02/22(Sat) 13:43 No.1265
トクチャン、こんにちは。
画像のサイズが大き過ぎたのでしょうか。
現在は最大360KBの制限を設けています。
古墳らしき場所の画像、是非見てみたいです。└(^o^)┐
取り敢えず、写真を貼る手順を貼り付けます。



天神山古墳らしき墳形 - トクチャン 2014/02/22(Sat) 16:59 No.1267
丸男さん、ありがとうございます。こちらのサイトから画像をコピーして私のパソコンに取り込み、線を引いて保存すると、なぜか画像の容量が大きくなってしまいエラーが出てしまいます。もし可能でしたら、私のブログであればこの容量でも貼ることができます。サイト外になりますが・・・こちらの画像に線を引いたものをアップしてもよいでしょうか?すみません。パソコンに暗いので上手く出来ずにご迷惑をおかけします。

Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - 丸男 2014/02/22(Sat) 18:50 No.1268
トクチャン、こんばんは。
ひょっとして、保存時の解像度の設定が高いですかね?
いずれにせよ、私が加工してアップした画像ならば、どんどん自由に使ってください(^o^)。
にわかTTさんや鳩ぽっぽさんがアップした画像も、きっと大丈夫と思います。
お二人さん、大丈夫ですよね。└(^o^)/


Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - にわかTT 2014/02/22(Sat) 20:19 No.1269
丸男さん、トクチャン、こんばんは。
特集記事にしていただいて、またまた情報が集まるとイイですね。
画像使用は問題無いですよ。(自分も無断参照している訳で・・・)

雪の後遺症ですが、足・腰・肩に出て治りが悪いです。物損も僅かですがでています。
被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。



Re: 天神山古墳推定地 - 鳩ぽっぽ 2014/02/23(Sun) 01:05 No.1270
丸男さん、トクチャン、にわかTTさん、かなりアバウトですが剛志古墳群のレイアウトをイメージしてみました。あくまでイメージということで、これをたたき台として皆さんが正確な位置を割り出せたら嬉しいです。
できればトクチャンの天神山古墳推定地を見てから作図したかったのですが、すみません待ち切れずに投稿してしまいました。^ ^; 拝見できるのを楽しみにしてます。

今回は前方後円墳の、前方部から後円部にかけての中心線(主軸)の向きについて少し調べてみました。
前方後円墳を築造する際に主軸の方向性についてはおおかた決まった法則はなく、ある地域の中でもあっち向いたりこっち向いたりのバラバラなケースが多いようです。
しかし、例えば周濠に水を引く場合などに、築造する場所の地形に左右されて方向性が決まってくることはあるようですね。
また、ある古墳群では同族の墳墓であった場合は、同じような方向性で並んで築かれることもあるでしょう。
前方後円墳では石室等、埋葬者の葬られる古墳の主体部は後円部にあることが多く、一方、前方部(前庭部)は祭祀(さいし)の場と考えられているようです。
その場合、儀式は前方部の前で古墳主軸の後円部の方向に向かって行われ、更に投稿画像のピンク色のラインの示すように、その主軸延長線上には豪族の居館(オレンジ色の部分)があったといった説も立てられてます。代表的な例としては大室古墳群があげられます。
お墓が居住地の方を向いているので、首長亡き後も主(あるじ)が一族を見守っているような死者との一体観を持ちたかったのかもしれませんね。
作図は現在のグランドの辺りに三つの前方後円墳を配置し、剛志小学校の北東辺りに居館があったと仮定してイメージしてみました。
下武士の剛志小学校から東方面〜武士橋辺りにかけての一帯も、三社神社古墳、法光寺古墳はじめ古来から由緒ある地域で、剛志小学校付近では集落跡も発見されたようです。
またまた、黄色で塗りつぶした田畑は川の流れた跡のようなアールを描いており、天神山古墳と距離は離れてますが、見方によっては周濠の外濠のようにも見えたのがおもしろいところです。



Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - トクチャン 2014/02/23(Sun) 09:23 No.1271
皆さん、ありがとうございます。さっそく私のブログで画像を使わせていただきました。
私のあったと思われる場所は、地図から分かった墳丘の一部の地形(・・・畑の区画からで、後から山を開墾して作られた畑は丘陵上に作られるため周りの畑とは区画が違うことが多いからですが・・・)と、幼い頃の記憶から山があった場所を主に検証してみました。ここには前方後円墳以外にも大小の円墳がたくさんありました。子供の頃、わずかに残っていた山の上に立つと広瀬川を眼下にして、利根川からはるか遠く武蔵野國方面が一望できましたし、周囲の山も見渡すことができました。ここに本拠を持った豪族が上野毛君一族であれば、赤城山を拝したでしょうしそうでなくても、秩父の山々から、奥多摩や、甲州方面も拝すことができたことでしょうね。今でもオンタテヤマ(下蓮ではタテノヤマ)に立つと、360度が見渡せ古代のロマンをかきたててくれます。私からも皆さんからのご意見をお待ちいたしております。ありがとうございました。


Re:天神山古墳推定地 - 鳩ぽっぽ 2014/02/23(Sun) 21:25 No.1272
こんばんは。さっそくトクチャンのブログを拝見しました。私の想像図は大幅に外れてましたが、想像ではなく、上武士天神山古墳と周辺古墳群のレイアウトが具体的に解ってきて感謝です!
ここで恐れ入りますが、トクチャンのブログの画像をもとにして昨日の想像図を作り直してみました。
ブログの記事によると、
(3)トクチャンが、古墳があったと聞いている場所に残る畑の区画をもとに推定した上武士天神山古墳の位置。
(2)と(5)の辺りが、トクチャンが小学生の時、粕川で水浴びをしながら土砂の採取を見た山がこの辺りだということでした。天神山古墳はじめ三つの古墳の土が八斗島に運ばれたのが昭和41年ですから、ちょうどその頃でしょうか・・・
(4)のところに方形の墳丘らしき場所が確認できるそうです。
(1)は前方後円墳の形に見え、丸男さんが見つけた古墳かもしれない場所です。
(6)は「オンタテヤマ」の館(砦)があったであろう場所に私が書き加えたものです。
トクチャンがよくブログで「オンタテヤマ」と呼ばれる山は、一般的には「御嶽山」ですが、下蓮では「タテノヤマ」と呼ばれておりそれが本当の呼び名のようです。「タテノヤマ」は「館・舘」の山ということで昔ここに砦があったようです。それを聞いて納得!御嶽山の山頂付近からなら遥か遠くのかなたまで見晴らしは最高だし、砦には絶好の地形でなるほど〜と思いました。



天神山の場所について - トクチャン 2014/02/24(Mon) 15:09 No.1273
鳩ぽっぽさん、画像の掲載をありがとうございます。
何点か補足いたしますね。私が引いた線は上空から畑の区画や小道を元に引いております。さらに確認できた後円部の曲線から後円部は点線でこうではないかと表しております。あくまで上空からの確認ですので、鳩ぽっぽさんが着色された墳形が必ずしもそうだとは限りませんので、ご了承ください。またタテノヤマの北東や東側に引いた線は墳形の形を表すものではありませんので、こちらもご注意ください。言葉が足りず申し訳ありません。万が一間違いがあってはいけませんので、よろしくお願いいたします。それからタテノヤマの東側に前方部を確認できた箇所がありますので、後ほど、私のブログでご紹介いたします。お願いばかりで、すみません。


Re: 天神山の場所について - 鳩ぽっぽ 2014/02/25(Tue) 00:36 No.1274
トクチャン、補足をありがとうございます。このテーマにトクチャンが慎重に取り組んで下さっていることに何より感謝致します!
「遺跡ウォーカー」というサイトで上武士天神山のデータを見直してみたら、主軸の方位らしきが出てました。
しかし・・・「方位N155度E」といった専門的な表記で、私のような古墳オタクのレベルではいささか難解です。
単純に解釈すると、「前方後円墳の主軸が北(N)から東(E)にかけて155度の角度で築造されている。」ということでしょうかね〜?
土木建築、或いは橋梁設計の分野でも、建造物のこういった表示をすることがあるでしょうか?
トクチャン、丸男さん、にわかTTさんはじめ専門家の方々のお知恵もお借りしたい所ですので、どうぞよろしくお願い致します。

前方後円墳の方位については、先日、少し紹介させて頂いた説の他にもネットでは様々な説が飛び交っているようです。
おもしろいと思ったのは、前方後円墳が被葬者の生れ故郷を向いて築かれているケースです。これは恐らく前方後円墳の主軸が、誕生→現生→来世へと続くラインとなっているのでしょう。
またまた、富士山はじめ信仰の対象になる山に向いているというのもありで・・・
N155度Eの方位で築造された上武士天神山古墳は、はたして何処を向いているのでしょうか?
被葬者が穂積親王であれば奈良の方を向いているのでしょうか?それとも、上毛野国の心のふるさと、赤城山を向いているのでしょうか?まさに古代のロマンですね。


Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - 丸男 2014/02/25(Tue) 13:45 No.1275
鳩ぽっぽさん、天神山古墳始め、剛志付近の古墳群が徐々に解明されつつありますね。(^o^)
ところで、
「方位N155度E」
は、鳩ぽっぽさんの「主軸が北(N)から東(E)にかけて155度の角度」で正解と思います。
測量的に言えば、「方位が北(N)から東(E)に向かって時計回りに155度」となるでしょうか。


Re: 天神山の場所について - 鳩ぽっぽ 2014/02/25(Tue) 22:53 No.1276
丸男さん、お知恵をお貸しくださってありがとうございます。
「時計回りに155度」だったですか〜、さすがプロフェッショナルですね!(^o^)
今日はついに境町の図書館に行って「境町史歴史編」や教育委員会の出した「武士遺跡発掘調査報告書」等の資料をいくつか借りてきました。
上武士天神山古墳についてトクチャンが 02/11(Tue) に最初の投稿をされてから今日でちょうど2週間ですが、これで消滅した天神山古墳の位置や主軸の角度が特定できそうです。
投稿させて頂いた画像は資料の中にあった「武士古墳群と調査区」という地図で、昭和10年(1935年)の「上毛古墳綜覧」の地図がベースになっているようです。
ドット柄になっている「調査区」(昭和55年度の調査)が、現在の総合グランドから南のプールにかけての場所で、「上武士天神山古墳」の位置は以外にも「調査区」の西隣の畑の中、前方後円墳の形にNo.30とふってある所でした!!
No.30という番号は『上毛古墳綜覧』で掲げた名称が「剛志村30号墳」だからでしょう。
前方後円墳の印を囲っている不当辺三角形状(実際は四角形)の道路は現在も残っており、グーグルマップや現地でおよその位置が特定できそうです。
また、丸男さんが教えてくださったグランド入口に立つ古墳跡地の標識柱から、そのまま西に40〜50メートル移動した辺りじゃないかと思います。
地図中にある前方後円墳の主軸の角度は、(この地図は多少傾いてますが)前方部を北北西に後円部を南南東に向けて、まさに「方位が北(N)から東(E)に向かって時計回りに155度」になっているようですね!
1947年の航空写真もよ〜く見ると、同じ位置に後円部の丸がわかります。
ここまで解明できて、トクチャン、丸男さん、にわかTTさんに心から感謝してます。ありがとうございました。
詳しくはまた投稿させて頂きます。



Re: 天神山の場所について - 鳩ぽっぽ 2014/02/26(Wed) 21:38 No.1277
スレッドを振り返ると、丸男さんが15日のコメントで「天神山古墳跡地の標識を1947年の航空写真に重ねてみました。赤い●印です。ただ、長さ127m相当の前方後円墳らしき地形を特定できません。どうにか東西に丸い形状をした地形があります。」と書かれていたのを見つけました。
この標識の「西」の丸い形状をした地形・・・これが上武士天神山の後円部の痕跡なのでしょう。
直系28メートル、米軍撮影の航空写真では小さな「丸」なので、誰もが見落としていたのでしょう。

その他、上武士天神山古墳について「境町史」に記されていた内容をまとめてみました。皆さんとシェアできたらと思います。( )内は私のコメントです。
天神山古墳は武士(たけし)の四つの丘陵の中の最も高い丘の頂上部に造られた。(その丘陵も今では跡方もなく平らな畑になってしまいました。)
まわりの古墳を一望できるこの古墳は、武士古墳群の中の最有力者であったことは確実である。
墳丘の現在残っている部分は後円部で東西28メートル、高さ2.5メートル。(画像の「天神山古墳外形実測図」にもありますように、こちらの調査当時(昭和40年代?)は墳丘が僅かに残っていた。)
墳丘の裾部分の調査では円筒埴輪が20cm間隔で並べられていた。また、人物・動物埴輪の破片があり、円筒埴輪列の内側に置かれていた可能性が高い。
石室は破壊され消滅しており、形、造りなどは不明。ただ、使われていた石材は榛名山の角閃石安山岩(軽石)で造られていたことははっきりしている。石室の遺物は玉類があったことは確実である。
昭和10年調査の報告書「上毛古墳綜覧」では、この付近(上武士宮前、西久保)に三つの前方後円墳があった。
1、剛志三〇号(天神山古墳)、所在:上武士宮前、全長:四二○尺(126メートル)、高さ:十八尺(5.4メートル)、備考:馬犬猪埴輪玉類、伝穂積親王墓
2、剛志五〇号、所在:西久保、全長:八四尺、高さ:九尺、備考:御嶽山続にあり、円筒埴輪
3、剛志五三号(御岳山古墳)、所在:西久保、全長:百五十尺、高さ:五尺、備考:御嶽社 石郭ありし
(三つの古墳ともに先日投稿させて頂いた地図で、古墳の番号により位置は確認できます。50号、53号もよく見ると小さな前方後円墳の形で表示されてます。)
武士古墳群は昭和10年の古墳分布調査では、前方後円墳5基を含む100基の古墳が存在したが、昭和40年には7基が残っただけという状況であった。これを群馬大学尾崎喜左雄の指導で松村一昭が発掘調査した。そのきっかけは伊勢崎市八斗島工業団地の造成の土採りのための事前調査として実施されたものである。
上武士天神山古墳は「上毛古墳綜覧」では全長:四二○尺、高さ:十八尺と記録されているが、実際はそれよりも小規模であった。開墾によって破壊が進んでおり調査の結果でも確認できなかった。しかし、立派な埴輪が出土したことが知られており、丘陵頂部に前方後円墳の形式で造られたこの古墳が、武士古墳群の中核の位置を占めていたものであることは疑いない。
横穴式石室の石材の中に榛名山から6世紀中ごろ噴出された軽石(角閃石安山岩)を使用していたのも特筆される。
旧利根川が最も東を流れた跡とされる広瀬川と近い位置にある条件から、石材が得やすかったこと、加工が容易であったことが原因で、利根川の流域に近い地域では競ってこの石材を使用した時期があった。このことからも上武士天神山古墳は、榛名山二ツ岳の爆発した6世紀中ころ以降の構築であることは間違いない。
また、埴輪の造り、技法、組み合わせなどで後期古墳に共通な葬送儀礼を表現したものと見られる。形象埴輪とすれば終末に近い時期のものと考えられ、それらを勘案して、この古墳は6世紀末から7世紀初めのものと見てよさそうだ。



天神山の場所について - トクチャン 2014/02/26(Wed) 22:04 No.1278
ようやくコメントの時間ができました。鳩ぽっぽさん、ありがとうございます。私が場所の確定に慎重だったのは、高齢の親戚の者が「今のグランドのあたりよか、ちぃ〜っと西のほうだんじゃねぇかなぁ」という記憶と、僕自身の記憶では、西中の西に山があって、山の南側は広瀬川の崖になっていました。道は西中の西側から北へ曲がり、鍵型に西へ向かい、たぶん、グランドの西側の道だと思いますが北へ曲がると西側に盛り上がったような場所があったとような気がします。タテノヤマの直ぐ東側にもこんもりした雑木林のある山がありました。このタテノヤマ東側の山がNO.50の前方後円墳で、僕が3と表した前方後円墳らしき場所がNO.78の前方後円墳になるんですかね??・・・
天神山古墳は鳩ぽっぽさんがお示しくださった場所で確定ではないでしょうか。篠木さんが書かれた消えた3古墳とは前方後円墳なんですかね?余談ですが子供の頃、天神山は「宝の山」と呼んでたと聞きました。掘れば宝が出てくるからそう呼んだのでしょうね。篠木さんが書かれてた通り、宝を掘り出すため徹底的に破壊されたようです。天神山周辺の古墳から掘り出された埴輪は良い物はそのままの状態で、割れた物は、頭や胴体を後家合わせされ、東京などに集められ、海外へ売られたものもあるようです。きっと瑪瑙、翡翠、水晶といった装身具、金を使った馬具、金具の付いた直刀、銅鏡、武具、といった一級品の副葬品が出たのでしょうね・・
記憶だけで地元の資料がなかなか見られず、色々と振り回す結果となりすみませんでした。



トクチャン、はじめまして! - あおぞら 2014/02/26(Wed) 23:33 No.1279
トクチャン、突然の割り込み、失礼します。
上州弁のいせやさんの友達の、あおぞらと申します。よろしくお願いします!

皆さんの熱心で迫力一杯のコメント、すごいな〜と思いながら、いつも拝見してました。
今は消滅した太古の古墳をいろんな角度から皆さんで探し当てるなんて、なかなか聞いたこと無かったし面白いなーと思います。

ところで、トクチャンのブログも拝見したんさねぇ。まぁず、可愛らしいワンちゃん埴輪に、見ていて癒されちゃったいねー。
貴重な古墳がほとんど壊されてしまったことは、今となっては、どーしょもねえ事なんだけんど、ホントに残念だいねぇ。

>記憶だけで地元の資料がなかなか見られず、色々と振り回す結果となりすみませんでした
って、トクチャンは言ってるけんど、あたしは、とっても楽しかったし、勉強になりました!
これからも、よろしくお願いします!(いっさき弁のご指導も期待してらいねー!) 


トクチャンへ 追伸です。 - あおぞら 2014/02/27(Thu) 00:07 No.1280
トクチャン、そう言えば上州弁のいせやさんが、『自分はコメントしても、どうしてもキツイ言葉のいっさき弁になってしまって・・・』と悩んでたけど、
トクチャンのブログと出会ってからは、『スムースで流れの良い、“ソフトいっさき弁”をマスター出来た!』と喜んでいました。

そんな私も実は東京育ちなんよ〜。(多摩地区だから郊外さね)群馬・伊勢崎に住んで今年で10年目なんさ。
ってことは、トクチャンと逆なんよ〜。最近いっさき弁が面白くって、早くマスターしたいと思ってるんさねぇ。
ところでトクチャンは《群馬方言かるた》ってご存知ですか?このかるた、なっから面白くって勉強になるんさねぇ。
どうも、ながながと失礼しました。脱線してしまって、わりぃんねぇ。


天神山の位置を地図に重ねて見ま... - 丸男 2014/02/27(Thu) 18:47 No.1281
トクチャン、鳩ぽっぽさん、こんにちは(^o^)。
トクチャン
>記憶だけで地元の資料がなかなか見られず、色々と振り回す結果となりすみませんでした。
とんでもありません。あおぞらさんと同じく、十分に楽しんでいますから、全くノープロブレムです。
トクチャンの投げかけがなければ、これだけの規模の古墳があったこと、知らずに過ぎていました。
きっかけを作っていただいて、感謝しています。

ところで、鳩ぽっぽさんが投稿してくれました、「境町史歴史編」に示される天神山古墳の位置ですが、
これを現在の地図に重ねてみました。
・・・そうすると、トクチャンの記憶の通り、また
親戚の方の
「今のグランドのあたりよか、ちぃ〜っと西のほうだんじゃねぇかなぁ」
の通り、グランドの西、今の標識の位置よりもちょっと西の方になりました。
「境町史歴史編」の地図が全くピッタリと今の地図に重なりませんが、
その辺の誤差を推測しても、今のグランドよりも西の方みたいですね。



Re: 天神山の位置を地図に重ねて... - 鳩ぽっぽ 2014/02/27(Thu) 20:32 No.1282
丸男さん、トクチャン、こんばんは。さすが、素晴らしい古墳マップができましたね!
今日は現地に行って天神山古墳跡の確認をしてきました。
古墳跡地のある畑は、今でも周囲よりわずかに高くなっており多少の高低差がありました。
また総合グランド入口にある標柱をよく見ると、白地に《 西 重文埴輪「犬・猪」出土地》と、「西」という字があったので驚きました。「この標柱よりも西だよ。」という意味だったのでしょう。
この標柱は丸男さんの写真でも拝見できたわけですが、すっかり「西」の字を見逃してました。
今を思えば、ここにも古墳の位置を知る手がかりが記されていたわけですね。
こうしたさりげない伏線が敷かれていたのも見逃してしまい、掲示板はミステリー映画のようなスリリングな展開となってとても楽しかったです!


上淵名のふたご山古墳 投稿者:丸男 投稿日:2014/02/22(Sat) 13:48 No.1266    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
トクちゃん、にわかTTさん、鳩ぽっぽさん、皆さん、こんにちは。
大雪の後遺症は消えましたか。我が家はまだ庭にたくさん残っています(><)。

皆さんには事後承諾になってしまいましたが、
ご投稿いただいた記事を元に、上淵名のふたご山古墳の記事をまとめてみました。

http://www.go-isesaki.com/kohun_futago.htm

天神山古墳のページ制作 投稿者:丸男 投稿日:2014/02/20(Thu) 01:34 No.1261    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
トクちゃん、にわかTTさん、鳩ぽっぽさん、皆さん、夜分失礼します。
ソチオリンピックの女子フィギュアスケートをリアルタイムで見てるため、
テレビを見ながらホムペの編集をしてまして、先ほど「天神山古墳」のページをまとめました。
まだ満足いく編集ではありませんが、取り敢えず、掲示板のように下に流れてしまうことは避けることができます。

皆さんには事後承諾になってしまいましたが、天神山古墳に関する皆さんのご投稿を、
そのまま転記させていただきましたので、ご了承ください。

http://www.go-isesaki.com/kohun_tenjin.htm

境風土記や天神山古墳 投稿者:丸男 投稿日:2014/02/16(Sun) 09:32 No.1251    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
いくつかのスレッドに共通でしたので、新しいスレッドで紹介します。

トクちゃんの掲示板の記事に何回か登場した「境風土記」ですが、
5年前に、私が信頼し期待している境町のある市議さんからお借りしまして
(市議さんも境図書館から借りておいてくれたようです)
手元に置きたかったので、コピーさせていただきました。
(Amazonやヤフオクでも、本の入手は難しいです(><)。)

この境風土記では各地区別に歴史が書かれていまして、
64ページ以降に上淵名(今回話題の淵名神社近くの太田県道で二分されてしまった前方後円墳など)
89ページ以降に上武士(同じく天神山古墳など)
を始め、多数の古墳があったことや、発掘の経緯などが記されています。
詳述ではないのですが、他の文献や組織を調べるには十分なヒントが書かれています。

それと手持ちの本「図説・はにわの本」には、天神山古墳(この本では「剛志天神山古墳」と紹介)
で出土した犬、猪、鶏の写真なども載っています。

追って、それらについても紹介したいと思います。

・・・それと、
ここまで皆さんにたくさんの関心や情報をお寄せいただくと、
天神山古墳のページを制作してとりまとめなくっちゃ駄目かな・・・なんて思っています。

境風土記の天神山古墳の記述 - 丸男 2014/02/18(Tue) 21:38 No.1255
天神山古墳の個別ページ作成はまだ未着手ですが、
取り敢えず、境風土記の天神山古墳の記述部分です。
場所を特定できる記述はありませんが、概要や遺跡調査の経緯などが分かります。



境風土記に記述された淵名神社の... - 丸男 2014/02/18(Tue) 21:41 No.1256
それと、同じく境風土記の淵名神社の古墳(雙児山古墳跡)の記述です。
こちらも場所を特定できる記述はありませんが、
遺跡調査時代のざっとの経緯が分かります。



Re: 境風土記や天神山古墳 - トクチャン 2014/02/19(Wed) 14:50 No.1257
境風土記の上武士天神山古墳の記述部分の掲載、ありがとうございます。この本は出版された時、著者の篠木さんからいただきましたが、引っ越しの時に失い、いまだに残念でなりません。さて、記述の中で思い出したことがあります。天神山を含む三古墳とありますよね、子供の頃、オンタテヤマに行くと、オンタテヤマの東、北東あたりにかけて、山がありました。全て畑になってた山と、オンタテヤマのすぐ東側の山には木が生えてたと記憶してます。またオンタテヤマの北側は現在芝生になっていますが、子供の頃は畑で、畑の中には土器や埴輪の欠片がゴロゴロしてました。
子供の頃、夏場はいつも粕川で水浴びをしていました。広瀬との合流点から二番目の瀬のあたりで遊んでました。この山々が切り崩されるとき、粕川の二番目の瀬のあたりからオンタテヤマの北、東、のあたりの山を重機で切り崩す様子が見えました。毎日、ここから八斗島までダンプカーがひっきりなしに土を運ぶため、切り崩す現場には近づくことができませんでした。オンタテヤマから今の運動場のあたりにかけてずっと山がありましたね。オンタテヤマの北側から東側にかけては今よりも盛り上がったところばかりでした。なので当初、オンタテヤマのすぐ東側の山が天神山かと思っていました。天神山以外にも名前が付けられていたと思いますが、いまでも残ってるオンタテヤマ東側の民家に住んでる、私の年代(57才)から80才前後の方たちならご存知ではと思います。篠木さんの書かれた境風土記の記述を読んで、記憶が少しだけよみがえってきました。


Re: 境風土記や天神山古墳 - トクチャン 2014/02/19(Wed) 23:20 No.1259
実は、地元の品川区立図書館で読んだ本を思い出しました。その本は「はにわ屋高田儀三郎聴聞帳」というタイトルで、ちょっと考古学の裏を垣間見ることができます。この中に天神山古墳周辺で発掘された埴輪の写真が載っています。先日図書館へ行くと・・見つからず、きょうアマゾンで見つけ、注文しました。それから天神山の場所ですが、天神山は個人の所有でしたから伊勢崎市など、官庁が持っている公図などに記載されていないでしょうか?先日来、地元へ連絡を取っておりますが、私が航空写真地図でここではないかと目星をつけているところに、やはり地元の高齢者からもそのあたりではなかったかと情報が寄せられました。私の眼には、昔の航空地図の中に畑にはなっていますが、前方部が確認できる箇所があります。それと、子供の頃に見た、粕川で水浴びをしていた場所から見上げた場所とその古墳前方部が重なるような気がしてます。私も伊勢崎市など公官庁が持っている、土地台帳などの公図を探してみますね。今まで書いてきた場所については、私の記憶で推測の域を出ません。ですから、そうしたものがあれば解明できると思います。


Re: 境風土記や天神山古墳 - 鳩ぽっぽ 2014/02/20(Thu) 01:06 No.1260
丸男さん、トクチャン、「境風土記」の記述 を拝見しました。
この記述や皆さんのコメントから、昭和41年、宮前(現在のグランド付近)で三つの古墳が発掘調査され、その直後に古墳の土は八斗島に運ばれてしまったようですね。
私がこの篠木先生の記述でおもしろいなと思ったのは、「天神山古墳は穂積親王陵ではないかと目された有力大規模なもの」といったくだりです。
まあ、こういった説はほとんど伝承伝説の域から言われていることが多かったり、また天神山古墳が造られたとされる6世紀後半と穂積親王の年代が合わなかったりすることもあるでしょうが、たとえわずかな可能性があっただけでも古代のロマンですね〜!
穂積親王(ほづみしんのう)はウィキなんかで見ると、「生年不詳 - 和銅8年7月27日(715年8月30日))は、奈良時代の皇族。天武天皇の第五皇子。官位は一品・知太政官事。」だというからスゴイです。
また、なんと!昔を語る・・・「群馬県にある多胡碑には和銅4年3月9日(711年)の日付とともに、「太政官二品穂積親王」と彼の名が刻まれている。また彼を高松塚古墳の被葬者とする説もある。」ということで、確かに上毛野国にもゆかりのある人物でした。
またまた、剛志天神山古墳のあった上武士の粕川を渡った隣の集落は「保泉」(ほづみ)。
この「保泉」という地名も、穂積親王(ほづみしんのう)に由来していることが解っています。
以前、Go!伊勢崎さんでも保泉にある勝山神社の記事で、由緒に記された穂積親王が紹介されましたね。
引用させて頂きますが、「勝山神社の起源は和銅年間(708〜715)、穂積親王の東征に遡るとのことで、その昔、この地を穂積と言い、天正18年(1590)に保泉村と改め、勝山神社が村社に列せられた」ということでした。
にわかTTさんが見つけた昔の航空写真では、蛇行した広瀬川が保泉にまで迫っているのがわかり、トクチャンのブログでも昔、勝山神社の南側には崖があったと書かれていたように思います。
広瀬川と言い、保泉という地名と言い、きっとここは「水」に縁の深い所だったのでしょう。
アマゾンにご注文された本も楽しみですね!


消滅古墳めぐり 投稿者:にわかTT 投稿日:2014/02/14(Fri) 21:31 No.1221    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
外は雪ですが、ネット上で遺跡散歩をしています。
連投ご容赦ください。
貼り付けたのは、以前石山観音以外の石山を見つけた三郷2号公園周辺の1946年の航空写真です。
なんと前方後円墳に見える物が写っています。(円墳かもしれませんが)
この古墳の石室の石を石山と言ったのか、備足山の石を石山と言ったのかはナゾのまま。
古墳だとしても番号や記録は残っていないのでしょうね。
古い航空写真で消滅してしまった古墳を見つけるのも案外面白いものです。
遺跡&航空写真ネタばかりにお付き合い頂きありがとうございました。


Re: 消滅古墳めぐり - 鳩ぽっぽ 2014/02/15(Sat) 00:08 No.1222
にわかTT さんの「消滅古墳めぐり」、素晴らしい発想ですね!
今回、私がぜひ紹介させて頂きたい「消滅古墳」は、華蔵寺公園の北東、やはり三郷地区の(波志江町)間の山(あいのやま)、或いは台所山(だいどころやま)と呼ばれていた所にあった古墳です。
古墳名がはっきりしないのですが、台所山古墳と言っていいかもしれません。
写真は大正時代に開墾中の台所山から出土した舟形石棺で、終戦後までは間の山のKさん宅の門の脇に保管されてました。
「間の山のKさん」ということで、特に丸男さんが思い当たることはないでしょうか? もしかしたら、5〜6世紀からこの棺に眠っていたお方は丸男さんのルーツ、ご先祖様かもしれません?
またまた、「もう一つの石山」がひさびさの登場で懐かしいです。
間の山の東を流れる粕川の対岸は現在の鹿島町となっており、この辺りにかつて江戸城の石垣に使われた石を産出した石山があったはずで、想像の粋ですが、間の山の石棺とも何らか関係があるのではないかと考えてます。



Re: 消滅古墳めぐり - 鳩ぽっぽ 2014/02/15(Sat) 00:57 No.1224
たびたびすみません。「台所山古墳」といった名称を持つ古墳はまた別の古墳に該当するようです。
「台所山古墳」は昭和46年に波志江町の(伊勢崎市教育委員会の案内板にある番地によると)現在の伊勢崎聖苑より西の桑畑の中から箱式石棺が発見され、その石棺は北小学校〜赤堀民俗資料館へと移設され展示されているようです。
古墳の名前は、石棺が発見された土地の名をとって台所山古墳ということですが、「間の山」とは少し離れた位置関係ですね。
「台所山」と「間の山」の関係を丸男さんに教えて頂けると助かります。
一方、「間の山古墳」といった名称の古墳もあるようで、こちらは写真と同じような舟形石棺がでています。


Re: 消滅古墳めぐり - にわかTT 2014/02/15(Sat) 11:49 No.1227
鳩ぽっぽさん、レスありがとうございます。
舟形石棺凄い!こんなものが出ていとは。
旧佐位郡内の古墳は1万基とも2万基とも言われているようなので、おそらく記録に無い古墳だけでも数千基位消滅していると思われます。記録といっても専門の報告書を見ないと分からないので、よほど目だった出土品が残っていないと素人の目に触れる機会は無いですね。
話は飛びますが太田天神山の長持形石棺は破壊されているのですよね。お宝欲しさで盗掘した人たちが必死に壊して穴を開けた様子が想像できます。そう言う意味で、お写真のような石棺はよくも破壊されずに残ったものだと感心します。
はなさか爺さんの話で良いおじいさんは副葬品のメノウやヒスイの勾玉を掘り当て、意地悪じいさんは割れたハニワしか見つけられなかった・・・これが昔話になって残っている盗掘の状況だと想像できます。
盗掘と開発と長い時間の風水害をくぐりぬけて私たちが目にすることが出来る実物があると思うと感慨もひとしおです。


Re: 消滅古墳めぐり - 丸男 2014/02/15(Sat) 20:37 No.1242
ハイハイ、 鳩ぽっぽさん、「間の山」は私の住む集落の昔の地名、
台所山は同じく字名です。
確か我が家の戸籍も「台所山」って表記されているような。
遺跡の場所は、華蔵寺公園の北、西桂川の西側と思います。
実は、我が家も古墳を切り崩した場所に建っています。
私が幼稚園の頃、切り崩しましたが、毎日毎日ダンプカーが土を運び出す光景を今でも覚えています。
(歳がバレますが、もう60年近く前のことです(^^;))
きちんとした埴輪は東京のとこかの博物館に所蔵されていると母から聞いたことがあります。
円筒埴輪の欠片は私もたくさん持っています。今でもたまに出ます。

それと以前、父が耕していた畑(今の赤城見台公園付近)も古墳がたくさんあって
野良作業時にたくさん欠片が出て来ました。
当時は、畑を耕すのに邪魔なだけで、大方を農道に放り投げていましたね。
今だったら考えられないことですが、この辺は古墳だらけだったので、仕方がなかったんでしょうね。


Re: 消滅古墳めぐり - 鳩ぽっぽ 2014/02/16(Sun) 22:02 No.1252
にわかTTさん、丸男さん、貴重な情報をありがとうございます。
そうですか〜太田天神山の長持形石棺は破壊されていたのですね。そのせいか?千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館では、伊勢崎のお富士山古墳のもののレプリカが展示されてますね。
長持形石棺は畿内5世紀の大型前方後円墳に見られる石棺で、関東では伊勢崎のお富士山と太田天神山だけしか発見されておらず、「畿内の大王(おおきみ)の石棺を造っていた工人が東国へ派遣されて製作した。としか考えざるおえない」と研究者に言わしめた価値あるものですね。
それだけこの辺りの豪族は、大和朝廷と特別な関係を持っていたのでしょう。
またまた、丸男さんのお住まいは古墳の跡地に建っているというのも驚きました!!
丸男さんと言えば、オヤジギャグではありませんが伊勢崎には丸塚山古墳というのもありましたね!

今日、私がぜひ紹介させて頂きたい消滅古墳は、かつての西町、広瀬川崖上から崩壊して崩れ落ちたという「金蔵院古墳」です。
伊勢崎市三光町の相川考古館横の細い道を西に向かうと、突き当たりは観世堂というお寺があります。子供の頃よくそこで遊びました。
今でも変わってないでしょうが、そのお寺の裏は小さな塚になっており赤石稲荷といったお堂があって、その背後はすぐ広瀬川の崖でした。
赤石山古墳(上毛古墳綜覧では伊勢崎町第1号古墳)とも呼ばれるようで、 径25m、高さ2.7mの円墳 だったようです。 すみません、検索してたらGo!伊勢崎さんの紹介記事がありましたので貼らせて頂きます。
http://www.go-isesaki.com/shr_akaishi.htm
写真は家にあった伊勢崎町の古い写真集の中で見つけた、かつてのこの辺りの風景写真です。
明治〜大正初めに広瀬川左岸から撮影されたもので、川の上流側と向こう岸の崖がよくわかると思います。
この写真の崖から金蔵院古墳が崩落したと言われてます。
鬱蒼と繁った木々と川面に浮かんだ小舟。現在よりも川幅の狭い風情あるかつての広瀬川の風景写真として、私もとても気に入ってます。


Re: 消滅古墳めぐり - 鳩ぽっぽ 2014/02/16(Sun) 23:38 No.1253
たびたびすみません。古い広瀬川の写真は「明治〜大正初めに広瀬川左岸から撮影された」という所、「広瀬川右岸」の間違いでした。現在の若葉町側からですね。当時は今のような堤防もなかったことでしょう。
この写真の下流はすぐに永久橋で、江戸時代には永久橋東岸橋詰のあたりが舟着場になっており、伊勢崎河岸の石燈籠がそこに建ってました。


Re: 消滅古墳めぐり - 丸男 2014/02/17(Mon) 10:52 No.1254
鳩ぽっぽさん、広瀬川のこの写真、良く持ってましたね〜(@_@;)
当時の広瀬川を知る貴重な写真と思います。

丸塚古墳では3基の箱型石棺が発掘されたんですよね。
この古墳は今でもそのまま形が残されていて、見学するのにいいですね。
梅の花の時期がオススメです。

それと、赤石稲荷・・・子どもの頃の遊び場でしたか(^o^)。
私は赤石稲荷には堤防上の道や武孫平さん宅の東の道から入ったり
稲荷神社始め、何やら謎めいた昔ながらの路地裏や木造家屋の廃墟などを
こわごわと、かつ不思議な感覚で楽しんで来ます。
あの辺に古の伊勢崎市の中心があったんですよね。

伊勢崎市で船着き場を語れること、とても懐かしく、貴重で、楽しいことです。


Re: 消滅古墳めぐり - 鳩ぽっぽ 2014/02/19(Wed) 22:07 No.1258
こんばんは。このスレッドの親記事になっている、ニワカTTさんの発見した三郷2号公園辺りの古墳も気になってます。
航空写真を見ると、イギリスの小麦畑に現われるミステリーサークルを思い出させるような妙に丸い田んぼ?ですね。
わざわざ丸い田んぼを造るということはないと考えると、やはり円墳か前方後円墳、或いは丸塚山のような帆立貝式の跡かもしれませんね。
一方、にわかTTさんが公園の記念碑から見いだした第三の石山、備足山(びったりやま)の位置もよくわかりましたね!
現在の地図で、1946年の写真にもある用水路や、旧伊商の敷地に残る第二市民体育館から位置関係を照らし合わせてみましたが、備足山のあった場所は北部環状線の北で、もとのシミズスーパー(現カワチ薬品?)の東隣のブロック、住宅街になるんでしょうかね?
諏訪安山岩が採石されたということで、こちらも下触町の石山のように赤城山噴火時の「流れ山」の一種かもしれませんね。
余談ですが、今たまたま、ウェブ紙芝居【赤城山の成り立ち】なるものを見つけました。とてもおもしろいです。だまされたと思ってぜひ御覧ください。
http://www.hayakawayukio.jp/school/flash/akagi.html


武士の天神山古墳で 投稿者:トクチャン 投稿日:2014/02/15(Sat) 16:06 No.1233    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
みなさん、雪害の影響はありませんでしたか、大変だと思います。怪我の無いように祈っております。
さて私が書いた上武士の天神山古墳について、丸男さんはじめ、鳩ぽっぽさん、にわかTTさんにこれだけ多くの調査と、検索をしていただき、感謝いたしております。私の話は古い記憶ばかりですみません。ずっと住んでいたなら記憶と現状がある程度繋がるのでしょうが、子供時代から途切れた状態での昔話ばかりです。これからもお騒がせいたしますが、よろしくお願いいたします。天神山古墳のことがこれだけ分かり、嬉しいです。子供の頃聞かされていた、あの山は「宝の山」だと、言われた天神山だけに、昔の人はずっと貴重なヤマだと知っていたんでしょうね。オンタテヤマに立つと、利根川、烏川が乱流した関東平野が一望できます。武蔵との国境も近く、武士を含む剛志村、伊与久や渕名を含む釆女村の地域は大昔からの古文書に登場するところですから、ある意味そういう伝統も残されてきたのでしょうか?きっと天神山に葬られた被葬者は、上野、武蔵が一望できる、この台地の上に埋葬されるくらいの権力があったのかな、といつも思っています。ありがとうございました。

Re: 武士の天神山古墳で - いせや 2014/02/15(Sat) 20:36 No.1241
トクチャン、丸男さん、なからご無沙汰しちゃったいね。いせやっつうもんだけんど覚えててもらったんべかな〜?
トクチャンのブログっつんも見してもらったけんど、まっさかイッサキ弁が達者でたまげたいねぇ。イッサキで育ったっつんじゃ、同し仲間だいねぇ!!
それにしても今日は雪がまぁず、すげんねぇ〜〜。おれんちも雪かきがなっから大変だったい。
イッサキでこんなすげえ雪は生まれて初めて見たいねぇ。おーか積もったんで電車も動かしねえし、勤めも休みになって助かったんよぉ。
おれんちじゃ庭木が折れたぐれえだけんど、思ったよか雪の被害がなから出てる見てえで、被害にあったお宅はお気の毒でしょうがねえやぃ・・・。
近所のお宅じゃ何軒か、カーポートの屋根が雪の重みでぶっ壊れて、車の屋根までへっこんだりしたみてぇでうんまかねんさねぇ。
http://ameblo.jp/wind8818
こらあ近所の友達んちのブログなんだけんど、この有様をぜひ見てやってくんねえかい。こーゆー気の毒なお宅は祈って見守ることぐれえしかできねんだけんど、義援金も千円くれえ出すかどうか検討中なんさ。
大雪ん時はカーポートっつんは、まっさかおっかねんね!これからは気をつけんべぇ。

古墳とか、オンタテヤマの話っつんも、まぁずためんなったい。
境町民プールの南っかわで川ずたいの道はよく通るんだけんど、そこからオンタテヤマ、広瀬と粕川の合流地点の方なんか見ると、ぐ〜と眺めがいんさねぇ〜。
電気の送電線と鉄塔がいっぺえあるんだけんど、おーか気にしねえで見ると川向こうに下蓮の家並がよくめえら。下蓮の向こうには利根川が流れてて、そのまた向こうはっつうと晴れてる日な、秩父の山々、武甲山、日本百名山の甲武信岳と両神山、東京都の最高峰の雲取山なんかもよくめえらいねぇ〜。
今日辺りは山なんか見えっこねえし、どこ見ても真っ白な雪景色だったんべねぇ〜。


Re: 武士の天神山古墳で - ふるさとの歌 2014/02/15(Sat) 22:32 No.1246
みなさん、こんばんは。
カーポートが倒壊したこと、内緒にしてようと思ったらバレちゃいました。(笑)
それにしても今回の記録的な大雪、なから降ったもんですねぇ。
耐積雪20cm程度のカーポートは、ほとんど倒壊してしまったようです。
今後カーポートの購入を検討中の方は、価格は多少高価になりますが耐積雪50cm、100cmがよいと思います。


Re: 武士の天神山古墳で - いせ... - トクチャン 2014/02/16(Sun) 01:13 No.1248
いせやさん、はじめまして。トクチャンです。さっそくブログを見してもらったんよ。まっさかひでんね。あんなんなっちまんだねぇ。雪も恐ろしいやねぇ。ブログでしか応援できなくってわりんねぇ。これ以上被害が出ねぇように祈ってらいね。僕の話はうるおぼいな記憶べぇで申し訳ねんだけんど、これからぁ、いろいろ教えてくんない。何にも知らねぇで今まで来ちまったんで、これからぁ、豊受以外にも島村だの剛志だの釆女あたりのことぉ、知りてぇと思ってるんで、よろしくお願いしますね。


Re: 武士の天神山古墳で - 丸男 2014/02/16(Sun) 08:56 No.1249
ふるさとさん、カーポートの倒壊、大変でしたね(@_@;)。
車の損傷はどうでしたか。
私も昨日の朝起きたら、裏の兄の家の2台用カーポートが中央でポキッと折れて、2台の車の屋根に落ちてしまいました。
慌てて我が家の二つのカーポートを確認したところ、二つとも大丈夫だったものの
屋根にはタップリ雪が載っていたので、朝から雪おろしに励みました。
車を外に出せるまで、通路も雪よけしたりして、
朝10時から始めて、終わったのが午後4時(><)。

片流れや2台用のカーポート、今回は被害が多かったみたいですね。


渕名の前方後円墳 投稿者:にわかTT 投稿日:2014/02/14(Fri) 20:45 No.1220    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
トクチャンのコメントに「渕名に大きな前方後円墳があったが、消滅した」との情報がありました。
この話が気になったので1948年の航空写真で渕名の前橋古河線を見ていたら早速前方後円墳らしいものが写っています。貼り付けた画像をご確認ください。トクチャン、これでしょうか?話題に出たのは。
りっぱな周溝墓らしくお富士山クラスの大きさです。現在でも周囲の堀の輪郭が残っているようです。
この古墳は名前や番号が付いているのでしょうか?
近くに鶴巻古墳があるのにこちらは壊されてしまって勿体無かったですね。


Re: 渕名の前方後円墳 - トクチャン 2014/02/15(Sat) 01:40 No.1225
わざわざお調べいただきありがとうございます。
渕名神社の西側、太田県道に寸断されてしまい、ならされてしまったこの古墳がそうです。
群馬県内でも、上武士天神山や五目牛にあった大きな前方後円墳とともに、姿を消してしまった貴重な古墳だそうです。名前は・・・確か・・・ふたごやま、といったと思うのですが・・
すみません。上渕名出身の祖母から時々この塚(古墳)の話を聞いていましたが、名前がはっきり思い出せません。昔の人は古墳のことを「塚」と呼んでいました。茂呂・武士・伊与久・渕名にかけて多くの古墳があったそうですが、今ではそのほとんどが消えてしまいました。僕が子供の頃は上武士には畑になった古墳がまだいくらか残っていましたが、もうありませんね・・
剛志小学校東側の法光寺の裏山や、法光寺の北東にある上武士の三柱神社も古墳だと聞いています。
完全な墳丘ではありませんが、何基か残っています。


Re: 渕名の前方後円墳 - 鳩ぽっぽ 2014/02/15(Sat) 16:01 No.1232
なんと!みんなが通る太田県道に立派なお濠を持ち、こんなに優美な形のいい前方後円墳があったとは驚き桃の木です!!
3段階に渡る古墳壊滅の写真を拝見すると、この古墳の数奇な運命を感じないではいられませんね。
現在の平井産業運輸さんの赤い屋根の建物が、お濠の外周に沿うように建てられているのもおもしろいです。
ネットで調べられる範囲ですが、上渕名には確かに「双子山古墳」(「雙児山」とも書かれる場合あり)といった古墳があったことが確認できます。
上渕名双子山古墳は「上毛古墳綜覧」では「釆女村10号墳」と掲げられており、1962年、群馬大教授で昭和の代表的な考古学者、尾崎喜左雄氏により発掘調査され、
周濠も入れた総長約130m、墳長約90m、後円径60m、前方幅82mの規模で、横穴式石室を設けた貴重な古墳だったんですね。
ここだけは太田県道を、緩やかにカーブさせて古墳を迂回して造ってほしかったです!
詳しくはぜひ、こちらの古墳好きな方のブログをご覧ください。「佐波郡采女村第11号雙児山古墳跡」として上から5番目位に出てきます。上記の古墳番号とは一致してませんがご了承ください。
http://de101705.btblog.jp/cl/0/1/2010/12/
このブログの方が撮った写真の場所と、にわかTTさんの航空写真の場所も一致しており、トクチャンの言われている古墳は「ふたごやま古墳」にほぼ間違いないでしょう。


Re: 渕名の前方後円墳 - にわかTT 2014/02/15(Sat) 21:59 No.1245
トクチャンのお陰でこの立派な古墳を探すことが出来ました。こんなことでもなければ一生知らずに終わってしまうでしょう。ありがとうございます。
鳩ぽっぽさん、ネットで知れべられたのですか!凄い。私のネット検索力はまだまだです。
古墳名と番号まで調べて頂きありがとうございました。それと面白げなブログのご紹介もナイスです。


掲示板・ジャンプ機能設定 投稿者:丸男 投稿日:2014/02/15(Sat) 20:11 No.1240    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
皆さん、こんばんは。
雪おろしは終わりましたか。
さて、当「井戸端会議」掲示板に天神山古墳始め、右赤城や他の消えた古墳など、
たくさんの楽しい話題を提供し、またコメントいただきありがとうございます。
無事に雪かきと雪おろし作業も終えましたので、
さきほど、No.1216の記事に、天神山古墳の標識位置に関して、ドドドド〜っとアップしました。

ところで、投稿が数日にたくさんあると、記事を探しにくくなるので、
先ほど、ジャンプ機能(ページTopや次の記事へ)を設定しました。

多少は探しやすくなったでしょうか。

無題 投稿者:トクチャン 投稿日:2014/02/11(Tue) 02:16 No.1205    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
すみません。投稿ばかりで。確かにわかTTさんでしたか、国土変遷アーカイブからの航空写真地図を投稿されていましたね。あの地図をよぉ〜く眺めていたら、なんと!上武士天神山古墳の墳形が分かるではありませんか!すごい!私が小学生の頃、上武士天神山古墳は八斗島工業団地造成のため、土砂を採取され消えてしまいました。本当に、残念の一言です。かつての天神山古墳は古墳の長さ127mの前方後円墳で、動物埴輪(犬形埴輪、馬形埴輪、鶏形埴輪、猪形埴輪)や人物埴輪、玉類などを出土しました。これらは東京国立博物館に所蔵され、展示されています。私は天神山古墳から出た犬や猪の埴輪を見に時々国立博物館へ行きます。これらは国の文化財に指定されているんですよ。聞くところによると、八斗島工業団地の造成地から埴輪の欠片がたくさん出たと聞いています。ジイチャンやバアチャンから、あの辺りには大小さまざまな古墳がたくさんあったと聞いています。子供の頃、オンタテヤマへ遊びに行くと、山の周辺でたくさんの埴輪の欠片を目にしました。畑の中にも転がっていました。いま古墳の復元などできませんが、何らかの資料館などがあるといいですねぇ。
すみません。場違いなコメントで。

残念、消えた上武士天神山古墳 - 丸男 2014/02/11(Tue) 10:46 No.1207
トクチャン、上武士天神山古墳が切り崩される前の姿をご存知なんですね(@_@)。
旧伊勢崎市で最大規模の前方後円墳は、安堀町のお富士山古墳、墳長=125mですが、
上武士天神山古墳はそれを上回る127m。もし残されていたら、伊勢崎市の貴重な歴史財産でしたね。
お富士山古墳も、JR両毛線で南西角の円墳部分が少し削られてしまいましたが、
それでも大部分が残されていて、古墳に登るとまだ前方後円墳の形が良く分かり、
桜や新緑の季節にはたまに寄ってみます。

旧市の南の方は、暴れ利根川や広瀬川の関係で、古墳は少なかったと勝手に思っていましたが、
武士天神山古墳が残っていれば・・・本当に惜しかったです(ノ_<;)。

赤堀地区や旧新里村、旧粕川村辺りに、赤城山麓の普通の小山がたくさんあるし、
あの辺を切り崩せば両者に都合が良かったのでしょうが、
八斗島工業団地から距離的に近いので狙われてしまったんでしょうね。つくづく残念です。


幻の上武士天神山古墳 - 鳩ぽっぽ 2014/02/12(Wed) 22:39 No.1210
丸男さん、トクチャン、上武士天神山古墳は本当に惜しいことをしましたね。
なるほど!古代人が通常、古墳を造らないはずの利根川低地帯エリアの八斗島から何故か埴輪の欠片がたくさん出てきたというのは、悲劇的にも工場団地の造成に天神山古墳を切り崩した土砂を使っていたからなんですね。
経済の高度成長時代の価値観は、現代とは大きく異なってましたね。
国土変遷アーカイブからの航空写真を改めて拝見しました。にわかTTさんすみません、お写真を拝借致します。
一昨年9月のトクチャンのブログで、上武士天神山古墳は「たてのやま(御嶽山)の北側にあった」といった記述がありましたので、古墳の大体の位置はわかりました。
左側の写真(1947年の方)の右上辺り、粕川の東に横向きになっている前方後円墳らしきを確認できますが、上武士天神山古墳はそれでしょうか?
航空写真では広瀬川と粕川の合流地点の上部が白くなっている(にわかTTさんがカスリン台風の影響か?と言われていた所)が最初に目に付きますが、そこにこんもりした木の茂みがあるのが御嶽山ですね。
前方後円墳があった場所は、現在の御嶽山・自然の森公園入口の駐車場から北に200〜300メートル位の距離で、老人ホーム・いこいの里よりはちょっと北の住宅地の辺りでしょうかね〜?
上武士天神山古墳(6世紀)がもし現存していれば、トクチャンと丸男さんが言われるように伊勢崎市最大規模の古墳で、出土した埴輪類も全国的なレベルで見ても非常に価値のある日本の代表的な埴輪になってますね。鶏の埴輪なら、群馬県立歴史博物館にも所蔵されているようです。
なんと言っても東京国立博物館所蔵の猪の埴輪は「簡略な表現で的確に猪の特徴を捉えた秀逸な造形である」と国立博物館での評価も高いですね。この猪は何体かの所蔵がある様子ですが、7〜8年前ちょっとしたハプニングがあったようで、それはよかったらこちらからご覧ください。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200611100336.html



古墳は何処に? - にわかTT 2014/02/13(Thu) 22:26 No.1211
トクちゃん、鳩ぽっぽさん、丸男さん、上武士天神山古墳は興味あります。
お富士山クラスの古墳がどこにあったのでしょうね。よろしければ教えてください。
犬や猪の埴輪が出ているということは古墳時代の中では比較的新しい古墳だったのでしょうか。
どうしても伊勢崎で古墳というと北側メイン(三郷、殖蓮地区)のような思い込みがありました。
昭和まで古墳が残っていたことを考えると利根川の暴れ方も思うほどではなかったのかもしれません。鳩ぽっぽさんが話題に出された「蛍行橋」では東山道を思い起こさせます。そのような街道があったとすれば脆弱な土地ではなかったのでしょうね。
1946年の上武士近辺の航空写真を貼っておきます。カスリン台風以前です。ここに天神山古墳は写っているのでしょうか?



Re: 無題 - トクチャン 2014/02/13(Thu) 22:36 No.1212
鳩ぽっぽさんへ

トクチャンです。赤い丸を付け所は能満寺だと思います。先ずオンタテヤマはお分かりですので、オンタテヤマの右上を見ていただくと、ヤシキ林のある民家がL字型に並んでいるのが分かりますか?民家はおそらく後円部に沿って並んでいると思われます。後円部から北に撥(バチ)がたに前方部が広がっているのが分かるかと思います。墳丘は畑になっていますが、周囲の畑の区画と明らかに違うのでお分かりいただけるかと思います。今年のお正月、数十年ぶりにオンタテヤマまで車で行きました。老人ホームへ行く道の手前に古墳があったことを示す、説明版が建てられていました。
どうですか?たぶんこれが天神山古墳だと思うのですが・・・


Re: 無題 - トクチャン 2014/02/13(Thu) 22:55 No.1213
付け加えます。上武士は利根川乱流地帯より土地が高く台地状になっています。
上武士を中心にかなりの古墳があったそうですよ。剛志小学校には学区内の古墳からの出土品が展示してありました。そして上武士から北東に行くと上渕名があり、ここも相当な数の古墳があったそうですよ。私の祖母は上渕名の出で子供の頃、ヤシキの中にあった「塚」(古墳)の話をよくしてくれました。上渕名には、確か太田県道を作る時だったでしょうか、大きな前方後円墳を壊してると思います。名前は・・双子山?二子山?雙子山?だったかなぁ??、すみません。調べれば出てくると思います。


古墳は何処に? - 鳩ぽっぽ 2014/02/14(Fri) 01:23 No.1214
トクチャン、にわかTTさん、お返事ありがとうございます。
1946年の上武士近辺の航空写真、壮大な眺めですね! 広瀬川のかつての蛇行した流れもはっきりわかる貴重な写真ですね。特に現在の繭ドーム付近で、流れが北に向けて蛇行する様は写真で初めて見ました!
伊勢崎市の地形は大きく分けて、広瀬川の左岸が伊勢崎台地で遺跡や古墳はその台地上に多く見られ、広瀬川の右岸から利根川にかけては広瀬川低地帯と呼ばれ、暴れ川利根川が文字通り暴れまくった地帯ですね。他に赤城山斜面台地、大間々扇状地もかかってます。

一方、古墳は何処に?幻の上武士天神山古墳の位置ですが、トクチャン、航空写真で今度は右側の1960年版の方に青い印を付けてみたのですが上武士天神山古墳はこれでしょうか?
なんと!古墳跡の説明版が建てられていたということで、説明版を先程グーグルマップでこの付近を探し周ってみたのですが、なかなか見つかりませんでした。それだけに当古墳はベールに包まれていておもしろいです。
上武士天神山古墳(剛志村30号墳)は現在の御嶽山に連なる台地上に築造された、墳長127.3m、後円径61m・高さ5.5m、前方幅約80mの前方後円墳で6世紀のものとされているようです。
保存状況はトクチャンが言われたように、1966年の調査以前に墳丘大半は消滅していたということでした。
ちなみに現在の御嶽山・自然の森公園内にも墳長32.5mの「剛志50号噴」、墳長45.5mの「御嶽山古墳」いずれも前方後円墳があったようなので、上武士天神山古墳と同グループでこの辺りもちょっとした古墳群になっていたのでしょう。
古墳のお話を少しさせて頂きます。群馬県内で最も古い前方後円墳が4世紀の前橋天神山古墳。
5世紀になると全長210mの東日本最大と言われる太田天神山古墳が登場しますね。また同時期に我らがお富士山古墳、赤堀茶臼山古墳が築造され、5世紀は太田エリアの有力豪族のイニシアチブのもと地域連合体が成立していた模様で、その上毛野国(かみつけのくに)の大グループは畿内の大和政権とも深いパートナーシップが取られていたとかよく言われますね。
その証拠となるのが、棺である「長持型石棺(ながもちがたせっかん)」で、この長持型石棺は畿内の大型古墳を中心に採用されており、関東では太田天神山古墳と伊勢崎のお富士古墳だけから出土したというからスゴイです!!
上武士天神山古墳が築造された6世紀になると古墳時代も末期で、墳丘上の人物、動物埴輪はバラエティー豊かになり、副葬品の内容も極めてゴージャスになったようですね。
上武士天神山古墳では猪、鶏、犬の埴輪も出土しており、犬が猪を追いかけるといったユニークな狩猟風景が古墳上で再現されていたと考えられているそうです。
6世紀後半は上毛野国では榛名山の大爆発があり大量の軽石を降らせたそうです。その軽石(安山岩)を石室に用いた古墳が榛名山の麓に多く見られ伊勢崎にまで及んでいたそうです。
県内で6世紀の代表的な古墳は群馬の森の北にある観音山古墳で、歴史博物館に石室内部が復元されていたように思います。
きっと上武士天神山古墳にも、それと似たような石室があったのではないかと想像してます。



上武士天神山古墳位置特定 - 丸男 2014/02/14(Fri) 13:28 No.1215
トクちゃん、鳩ぽっぽさん、にわかTTさん、みなさん、こんにちは(^o^)
上武士天神山古墳のことがどうも気になって、昨日はオリンピックの夜更かしだけじゃなく、寝付きが悪かったです(^^;)

トクちゃんのコメントを参考にし、茂呂に住む義兄にも聞いたり、
今朝はKさんからも電話をいただき、是非場所を特定してくださいと期待されたり
「境イキイキあい」の皆さんが標識を設置して(多分、トクちゃんが言う標識)、
私も標識は何度か見ているのですが、現状は畑ばかりで特定できず、
とにかく、位置不明でした。

そこで・・・
にわかTTさんが以前アップした1947年10月の航空写真を今朝ほど私も地理院サイトから表示し
高解像度画像をDLし、距離スケールを作成したり、現況図と位置合わせしたりするなど、
睨めっこすること3時間(仕事をほっぽって(^^;))。

そして到達したのがこの場所です。
前方後円墳の形がほぼ残っています(そう言う先入観で見たせいかな?)。
トクちゃん、多分これではないでしょうか?



天神山 - トクチャン 2014/02/14(Fri) 14:45 No.1217
すみません。かれこれ50年以上前の小学生の時の記憶で、あいまいなところがありました。
きょう丸男さんが投稿してくださった地図で分かりましたが、最初に僕が能満寺だといったところですね。実際の能満寺はもっと北でした。すみません。この丸男さんの川を青く塗った地図で分かったことは、僕が小学生の夏休み、ブルトーザーで切り崩していた山がご指摘の山ですね。もう他界した親や祖父母の話しの記憶では、オンタテヤマから境西中学校まではずっと山が続いていて、西中は山を削て作ったと聞いたことがあります。オンタテヤマの隣にも山があったので、僕はずっとこの山が埴輪の出た山だと思っていました。僕が聞いた天神山の住所は上武士の小字で「宮前」だということです。この住所が重なれば適合かと思います。僕が見た標識はオンタテヤマの東側にあるグラウンドのところですが、このグラウンドのあたりにも当時はならされて畑になっていましたが、山がありました。ちょうど太田の鶴山古墳の状態ですね。古墳が全て畑になった状態です。ここが上武士、の小字で「宮前」かどうか、いま下蓮の80才になる叔父に確認の電話をしましたが、記憶があいまいでした。僕が最初の航空地図でここかなと思ったところです。畑の区割りから三味線のバチ状に開いた前方部かと思った場所です。もし、確定できるとすれば、「上毛古墳綜覧」か、境の篠木さんの書いた「境風土記」のどこかに書いてないでしょうかねぇ・・
僕が子供の頃、祖父母から天神山は「宝の山」だと言われてたが、やっぱりお宝が出てきたんだ。と言ってました。僕も調べたいのですが、現在東京在住ですから、記憶でしか書けません。すみません。上武士・小字「宮前」さえはっきりすれば、その山こそが天神山に間違いありません。


Re: 無題 - にわかTT 2014/02/14(Fri) 20:34 No.1219
トクチャン、早速お返事いただきありがとうございます。
ご回答の文面を自分なりの解釈で復元して見ました。読解力が「?」なので間違っていたらご指摘をお願いします。丸男さんの解釈と私の解釈も異なっていて面白いと思います。(自信無いです・・・)
配置した古墳はほぼ同一スケールのお富士山です。共に1947年の航空写真からです。丸男さん同様に時間をかけちゃいました。テヘペロ



天神山 No.1219 のコメントにに... - トクチャン 2014/02/15(Sat) 00:47 No.1223
にわかTTさん、そうです。そうです。そのあたりですよ。お富士山よりも新しい6世紀の古墳だそうですから、丸男さんがご指摘された古墳のように、前方部がお富士山よりも発達した形だと思います。叔父も総合グランドのあたりの山じゃないかと言っていましたし、僕が子供の頃、オンタテヤマから東に山が見えたんですよ。山と言っても墳丘は開墾されて畑でした。ただ、後円部には木の生えたところもあったように思います。丸男さんご指摘の箇所も前方部が発達した後期の古墳に見えますよね。昔はこの辺りから剛志駅辺りまで、さらに下武士方面にかけて、大小さまざまな古墳があったと聞いています。墳丘が完全ではありませんが、何基か残ってると思います。ご協力いただき、ありがとうございます。この場所が上武士の「宮前」と呼ばれる場所ならば、にわかTTさんがお示しくださった地点に間違いないと思います。40数年前、境町のお菓子屋さん「しのぎ」のご主人が書いた境風土記に何らかの記述があるんじゃないかと思っています。僕は親が篠木さんからいただいた境風土記を引っ越す時に失ってしまいました。残念でなりません。



Re: 無題 - にわかTT 2014/02/15(Sat) 12:02 No.1228
トクチャン、返信ありがとうございます。
雪かきでヘロヘロです。まだクルマが家から出られません。今日は会社をあきらめましたが明日も外出できるかどうか分かりません。午後もカーポートの雪下ろしをします。未曾有の大雪です。
さて、ネットでチョロットしらべた程度では武士の天神山古墳は分かりませんね。
国学院大学の古墳時代の文献で「小字宮前」がヒットしたのでそこだけ貼り付けて置きます。これだと下武士になっています。かえってナゾが深まってしまった様です。



宮前について - トクチャン 2014/02/15(Sat) 12:53 No.1229
にわかTTさんNo.1228 の投稿について。
雪かきごくろうさまでした。知り合いの家のカーポートが潰れてしまったそうです。怪我にご注意ください。さて宮前ですが、いま注目している所が天神山古墳であるとすれば、天神山古墳は上武士と、下武士のムラ境にかかっていると思います。たぶん総合運動場はムラ境ではないですかね。
おそらく運動場あたりにあったと思いますから。すみません、すべておぼろげな記憶で間違いがあったらすみません。


天神山のあった宮前について - 鳩ぽっぽ 2014/02/15(Sat) 14:27 No.1230
今日は東武伊勢崎線も大雪による架線支障の影響で運転見合わせとなり、めずらしく私も休日となりました。
上武士天神山古墳は群馬県埋蔵文化財調査事業団や歴史博物館では「剛志天神山古墳」と呼ばれてました。周りの多くの小古墳も合わせ、総称して「剛志古墳群」と言うのでしょう。
遺跡ウォーカーといったサイトに、「伊勢崎市境上武士宮前 」に「武士1号墳(剛志村79号墳)」といった古墳がありましたが、発掘概要は「 集成、1980年、町教委が発掘。グランド造成により湮滅。」と出てました。
・・・ということは、現在の境総合運動場(グランド)のある場所は「宮前」ということなのでしょう。
丸男さんが合成した航空写真を見ると、御嶽山と剛志小学校の間にこんなに広い雑木林があったんですね〜。
更に現在の地図とも比較してみましたが、雑木林の辺りは現在、境町民プールとすぐ北のグランドの一部になっているようです。仕事の関係で、こちらのグランドの駐車場はよく利用させて頂いてます。
雑木林と剛志小学校の間の畑が、現在の境西中学校になるのだと思います。
一方、雑木林と御嶽山の間にある集落(にわかTTさんが前方後円墳を合成した辺り)もきっと「宮前」と言ったのではないでしょうか?
「宮前、天神山、御嶽山」とくると、ここに古来から信仰の対象になる何かがあったことに違いないでしょう。
また、グランドとプールのある側が現在は上武士、東隣の境西中学校のある側から下武士になってますね。


Re: 無題 - トクチャン 2014/02/15(Sat) 15:47 No.1231
鳩ぽっぽさん No.1230へ
ありがとうございます。親や祖父母の話ではオンタテヤマから剛志小学校あたりまで、あの辺り一面がヤマ(雑木林)だったと聞いてます。ヤマと塚(古墳)だらけだったようです。戦前・戦中・戦後の食糧難の時代に次々と開墾され畑となっていったようです。僕が子供の頃、まだ数か所ですが切り崩されたヤマ=塚=古墳の一部が残っていました。オンタテヤマから東、グランドの方角のすぐ隣にヤマがあって、そのヤマの下に集落がありました。そのヤマから埴輪が出てきたと聞いていました。僕らは子供の頃、粕川の浅瀬を渡ってオンタテヤマへ遊びに行ってたので、あまり上武士集落までは行きませんでした。ただ、冒険した時だけ、西中隣のヤマへ行くことはありましたが、半分以上は削られて畑になっていましたね。叔父が子供の頃は西中ができる前のこのヤマから、崖下の広瀬川へ釣糸を垂れて釣りをしてたそうですが、周りはほとんどがヤマ(雑木林)だったと言ってます。そこに大小さまざまな古墳が群をなしていたようですね。
僕もまた都立図書館と国会図書館で調べてきますね。


無題 投稿者:トクチャン 投稿日:2014/02/10(Mon) 20:41 No.1204    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
ちょっと付け加えますね。昔の裏宿の道は、豊東橋架設記念碑のあるお宅の南側の細い道を入っていきます。一軒過ぎると右側に土蔵があって、その左側は畑だと思いますが、畑の奥から子供の頃は昼間も薄暗い竹藪でした。裏宿の道は東へ行くと国道から曲がってきた例幣使街道へつながります。子供時分、裏宿の道沿いの家のヤシキの裏は、道に沿って竹藪になってて、そん中にでっけぇ木がうんとありました。裏宿の道が例幣使街道と合わさるとこあたりから、広瀬川は粕川と合わさるほうに流れを変えてました。昔、そのあたりに川の中まで枝をはりだした でっけぇ木があったそうです。広瀬が粕川へ円を描いて流れを変えてたとこいら辺を、昔は「タカノス」と言ってたそうです。
あっ!あと一つ、昔の豊東橋の手前から橋までは道が高くなってたそうです。昔は広瀬川を船が通ったんでしょうかね、橋は一段高くなっていたようです。あまりお役に立たない話ばかりですみません。


船便行き交う広瀬川 - 丸男 2014/02/11(Tue) 11:40 No.1208
トクチャン
豊東橋の架設記念碑、写真を撮った以降、判読作業がまだ進んでいなくて気になっているところですが、
>昔は広瀬川を船が通ったんでしょうかね
のコメントにちょっと参考になれば。
伊勢崎の名前の由来ともなった広瀬川の河岸が、今の三光町の新開橋下流の人道橋辺りにあったようで
武孫平さんの家の南東角に建つ石燈籠も、当時は河岸付近にあったようです。
この人道橋付近の左岸河岸から、広瀬川で運搬された荷物の荷役作業をしていたようです。
この先、広瀬川の上流のどの辺まで上ったかは分かりませんが、
少なくとも、上武士辺りはまだ途中だったんでしょうね。

今ではあちこちに堰が築造されているので無理でしょうが、
船便が行き交う光景、イメージだけでも見てみたいですね。


武孫平家角地に建つ石燈籠 - 丸男 2014/02/11(Tue) 11:49 No.1209
これは、武孫平家角地に建つ石燈籠の説明板です。
写真や記事は
http://www.go-isesaki.com/isesaki_city_view.html#japanese
に掲載してあります。
広瀬川の昔の風景を河岸や渡しを中心に再現できれば楽しいですね。



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