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あかぼり・ほたるの里

(伊勢崎市赤堀今井町2丁目)
赤堀城跡新緑の頃道元三屋敷由来の碑
磯沼公園小菊の里天幕城跡あかぼり蓮園峰岸山西野神社峰岸山へのサイクリング
更新日:2021/5/17 掲載日:2008/1/23

「あかぼり・ほたるの里」東側の斜面を彩る花壇 2021/4/27

 この公園は伊勢崎市役所赤堀支所の北西300mほどの所にあります。

 車で来るならば、赤堀支所のすぐ西側を走る「主要地方道伊勢崎大間々線」から入って来るのが便利かも知れませんが、私はいつも西側を流れる粕川方面からサイクリングの途中に訪れます。

 公園はその名の通りホタルを成育しているようで、その案内板が北側入り口に立っています。園内には中央奥(南側)に池があり、そこから溢れる水が園内全体の小川に流れ出て、和風庭園の趣があります。

 園の北側の市道は「主要地方道伊勢崎大間々線」から粕川に架かる「久保橋」までの区間の改良工事を終了しています。久保橋は平成18年度に完成したばかりで、橋はまだ真新しい感じです。道路も南側に2mの歩道が付いた全幅員9mの立派な道路です。ただ、粕川から以西は幅員も線形も旧道のままです。

 この道路の改良を期待してか、ほたるの里の東側の鏑木川沿いには、2008年1月現在、十数棟の宅地造成が完成し、その南側には高齢者施設建設の看板も立っていました。(2008/1/23 記)



北側の門 2008/1/20



門の右側に木の標識が立っています。
 大分色が薄くなっていますが、何とか 「赤堀町ほたるの里」と読むことができます。

 門を入ると小川に架かった小さな木の橋があり、四阿(あずまや)の後ろには池もあります。この池の真ん中から水がちょろちょろと流れていて、その水が園内の小川に流れ出しています。




案内板 2008/1/20



 門の左側に案内板が立っていて、ホタルの幼虫がすんでいることやホタルの成育のために守るべき注意が書いてあります。

 伊勢崎市と合併する前に作られたので「赤堀町」と記されています。


トイレ 2008/1/20


 門を入ってすぐ左手にあるトイレ。
 その右側は小川。


園を北西の角から 2008/1/20




 敷地全体は山茶花の生垣で囲われています。
 また、すぐ北側の市道との間に広いスペースがあって、車が2,3台は駐車できます。

 この公園の北側1.5km辺りには「磯沼公園」、「小菊の里」、「天幕城跡」、「あかぼり蓮園」、「峰岸山」、「西野神社」などがあり、サイクリング途中の休憩所としてたまに利用しています。(2008/1/20 記)

新緑の頃

掲載日:2021/5/17 ▲ページTopへ

2021/4/27

2021/4/27

2021/4/27

「道元三屋敷由来」の碑

掲載日:2021/5/17 ▲ページTopへ
 「あかぼり・ほたるの里」の北東角地に「道元三屋敷由来」の碑が建っています。 説明文によれば、赤堀氏がこの地に移り住んだのは天慶三年(940年)。以後歴史の変遷を経て、元和年間(1615年-1624年)には、赤堀上野介赤堀入道綱歳がこの地に館を定め、後に「道元屋敷」と呼ばれたよう。その後、「道元三屋敷」と呼ばれる3軒の店が並び、 昭和初期まで繁栄したとのこと。
 当公園から南西方向100mには赤堀城跡があり、この周辺が赤堀の歴史を担い、かつ中心的場所であったことが想像でき、当時の賑わいを空想すると歴史秘話を見ているような思いが沸きます。
 下記は、赤堀城跡取材時に友人らに聞いたこの周辺に関する話ですが、こちらにも転記しておきます。 (2021/5/17 記)
 現在の赤堀の中心地は伊勢崎市役所・赤堀支所周辺ですが、昭和の中頃までを知る人に話を聞くと、その頃はこの周辺が中心だったよう。赤堀城跡北東側の「あかぼり・ほたるの里」(現在、ほたるの保護活動はしていません)は当時は病院があり、「ほたるの里」北側の東西通り沿いにはたくさんの商店も並んでいたよう。明治前期に作られた迅速測図を見ても、赤堀城跡周辺には家屋がたくさん並んでいます。
赤堀道元姫(伊勢崎市図書館制作の動画)

「道元三屋敷由来」の碑 2021/4/27

「道元三屋敷由来」の碑 全文(下記に転記) 2021/4/27

道元三屋敷由来

  道元の名のおこりは、赤堀家の伝承では「道元といふあり、道完を誤りたるなるべし」とあります。
 赤堀氏は、天慶三年(940年)(*1)平 将門を討った功績により、 武蔵守鎮守府将軍になった田原藤太藤原秀郷の末裔、田原藤原泰綱が、この地に移り住みました。
 戦国の頃、赤堀上野介赤堀景秀は北条氏に従って沼田城攻めの最中、天正十八年(1590年)小菅摂津守信久に赤堀城を奪われたと伝えられています。
 元和年間(*2)、赤堀上野介赤堀入道綱歳が、この地に館を定め、後道元屋敷といわれるようになりました。
 赤堀家二十八代源八は、中島家に生まれましたが赤堀家の跡目を継ぎ酒造業を始め、その後二百年程続き道元の繁栄の元となりまし た。
 中島氏は戦国時代、武田氏に従臣していましたが、江戸時代の初め、信晴伴七がこの地に移り住み、五代文左衛門の時、資産家となりましたが、事業に失敗しました。
 弘化四年(1847年)祐八が南隣に分家して「関根屋」の屋号で雑貨店を開業し繁盛しました。この三軒の店を「道元三軒」と呼び、人々の往来が多く、昭和初期まで田宿は繁栄しました。
(*1)天慶(てんぎょう、てんきょう、てんけい):938年-947年
(*2)元和(げんわ、げんな):1615年-1624年



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