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伊勢崎市の歴史

遺跡と古墳建造物遺産
 このページは伊勢崎市の歴史に関する記事を適宜掲載して参ります。それらの部分的な記事がいつしか繋がって伊勢崎の過去から現在、そして未来が見えてくれば幸いです。 (2008/6/26 記)

「伊勢崎の川柳遺産ここにあり」

(秋山春海さん出版 ) 紹介:2008/12/27 ▲ページTopへ

伊勢崎市は明治・大正・昭和にかけて川柳がとても盛んでした。

 秋山春海さんが川柳に出会ったのは平成の初め。
 以来、川柳を学び、川柳のことを調べ進む内に、川柳が盛んだった頃に活躍されていた故人やご健在の方々が秋山さんのご近所だったこと、また当時の中心的な川柳会「川柳みやま吟社」の川柳会場が、秋山さんが経営するお茶の老舗「茂木園」のすぐ南の伊勢崎神社であったことなどを知り、益々伊勢崎の川柳の歴史に興味と関心を深められ、その熱意がこの度の本書の発刊に至りました。

 本の中には、伊勢崎の川柳の歴史を紹介するほか、当時の手書きの句集や会誌など貴重な資料がいくつも収められ、当時の様子が髣髴としてよみがえります。


本の表紙カバーは伊勢崎の古図面が飾ります

本の表紙(表)


本の表紙(裏)


本の扉

当時の手書きの会誌が復刻されています

当時の句集。ガリ版刷りだったようです。

 秋山春海さんの本名は茂木克美さんです。

 伊勢崎に以前「モーリン英会話学院」と言うアイルランド出身のモーリンさんとそのご主人のあきらさんが運営していた英語学校がありまして、茂木さんと私は同窓生でした。茂木さんは教室へ入って来るなり「グッドモーリン♪」などと駄洒落を飛ばす言葉遊びが好きな方で、また、最近は日本語を正しく外国人に教えるための講師を養成する学校に通われたりと、言葉に対してとても思い入れや造詣の深い方です。
 今回のこの本の発刊を聞いたとき、「お〜、茂木さんなら一番の適任者」と納得し、このサイトで紹介させていただいた次第です。
 茂木さんは本業はお茶の老舗「茂木園」の社長さんですが、「本業をちゃんとやってますか?」と尋ねると、「その辺は、ホラ、上州は『○○○天下と空っ風』ですから」と。どうやらお店の方は奥様が主導権のようで・・・

 ここで珍しい写真を1枚紹介します。
 これは茂木さんが早稲田大学の学生だった頃の記念写真ですが、右から2番目が茂木さん。そして、その左隣は誰だと思いますか?そう、第91代・内閣総理大臣・福田康夫氏です。
この本の問い合わせ
■編集・出版 紙鳶社(しえんしゃ)。代表 小山和郎さん
■〒372-0802 伊勢崎市田中島町360-6
■TEL 0270-25-5864 FAX 0270-25-5910

取扱店
■鹿沼書店(0270-25-3681)
■いいだや書店(0270-23-5565)
■戸田書店(0270-25-3313)

1601年 伊勢崎藩初代藩主・稲垣長茂による街の骨格作り

(この記事は知人の川端さんが取りまとめました)
紹介:2008/6/26 ▲ページTopへ
 現在の伊勢崎の街の基本的な骨格は、1601年、稲垣長茂(いながきながしげ)が上野(こうづけ)伊勢崎藩初代藩主として入城し、城下町の割り振りを行ったことによります。
 中核となる陣屋は広瀬川を西の要害として、北小学校を中心とした一帯に置かれ、町屋として新町・本町・紺屋町・西町・川岸町が置かれました。これらの各通りの形状・幅員は現在もほとんど変わっていないことがわかります。また細い街路や街区の形状も変わらぬ形で受け継がれています。

 その後、第二次伊勢崎藩として、酒井忠能が稲垣氏の城下町づくりを完成させています。
1681年から酒井忠寛による第三次伊勢崎藩が成立し、明治維新まで続きました。

 このようにして、今の街は400年もの長い歴史の上に築かれていることがわかります。

[中くらいに拡大] [大きく拡大]
 この地図は、JR伊勢崎駅南側市街化地域(曲輪町、大手町、本町、三光町)の伊勢崎市現況図と約200年前(寛政10年、1798年)の伊勢崎町古図を対比したものです。なお、現況と古図とを可能な限り重ね合わせましたが、かすかな不具合は生じていると思われます。

稲垣長茂(いながき ながしげ)

天文8年(1539年)〜慶長17年(1612年):没年74歳
 上野(こうづけ)伊勢崎藩の初代藩主。鳥羽藩稲垣家初代。戦国時代の武将。各地を転戦して武功を挙げ、上野国(こうづけのくに)大胡城を守備する。上野国山田郡、勢多郡など3郡において3,000石を与えられた。慶長6年(1601年)に上野国佐位郡(さいぐん)で加増されて1万石の大名として諸侯に列し、伊勢崎藩主となった。墓所は伊勢崎市昭和町の天増寺
 詳しくはウィキペディア等を参照してください。


本丸辺りが現在の北小

 [北小アーカイブス・130年の歴史] 

 古図の紺屋町と新町(現在の大手町辺り)のクランク状の道路形状は「雁木折り(がんぎおり)」と言い、当時、敵の攻略を防ぐための戦略上の理由でこのような形に造られたとのことです。現在はS字カーブになっていますが、面影を残しています。




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