先日、当サイト掲示板で伊勢崎城(伊勢崎陣屋)のことが話題に上りました。その後、「伊勢崎城の堀の水はどこが水源か?」との謎解きが提示され、赤坂川や八坂用水、また現在地に移転前の波志江の愛宕神社などに話が展開しました。 そのどれもが痕跡が乏しく謎が謎を呼ぶ始末ですが、調査や推測を加えながら、一つずつ検証して謎を解く過程は楽しい作業で、同時にその作業によって当時の人々の生活にも触れたような気持にもなります。 このページは今回提示されたいくつかのテーマの内、神沢川をオーバーパスした八坂大樋について、渡河位置やその上流に現在も残る堀跡との連続性などについて、現地踏査を踏まえて検証するものです。(2015/1/29 記) |
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まず始めに紹介したいのが小畠武堯のこと。下記記事は、アイオー信金の「いせさきフロンティア ~あなたの知らない28人の伊勢崎の偉人たち~」(*1)の紹介記事(著者:板橋春夫さん)を引用(*2)したものです。 大樋で川を越すアイディアの八坂用水を完成小畠 武堯(おばたけ たけたか)?~享保18年(1733)伊勢崎藩の広瀬川東側は、粕川が流れる程度で田植え時には水不足に悩む地域であった。湧水や大小の沼では耕地の拡大は望めず、新田開発には用水の確保が必要であった。そこで伊勢崎藩は、安定した用水を得るために用水を引く計画をたてた。その担当者が小畠武堯であった。
彼の名を後世に残すことになったのは、神沢川を越す大樋(おおどい)の設置である。通水すべき下増田村と八坂村の間に神沢川が流れており、前橋方面からの水をいかにして伊勢崎方面へ流すかが最大の課題となった。この神沢川に70メートルを超す木製の大樋を架けて通水するアイディアを考えた。武堯は、八坂村在住の阿久津氏ら地方役人の協力を得る一方、水の取り入れ口に近い前橋藩領の増田村の田植えが済んでから用水に水を引くなど配慮をしながら工事を進めた。 神沢川以西が前橋藩領であったため工事の測量を許されず、暗夜に乗じて線香の明かりを目標に人知れず行ったという伝承もあるが、これは小畠の苦心を誇張したもので必ずしも真相を伝えていない。通水の朝、小畠は善應寺本堂で白装束で報告を待ち、無事通水と聞くと舞いを舞ったと伝える。 八坂用水は明治以降、八坂用水組合が経営した。現在の佐波新田用水路はこの水路が根幹となっており、佐波新田用水の完成に伴い、八坂樋は大正13年(1924)に取り壊された。武堯は享保18年(1733)に没し、墓は善應寺(*3)にある。 (*1)→「いせさきフロンティア ~あなたの知らない28人の伊勢崎の偉人たち~」 (*2)引用に際しては、2015年1月28日、板橋春夫さんおよびアイオー信金さんの引用許可をいただいております。 本冊子発行経緯と板橋春夫さんにつきましては、(*1)の「はじめに」で紹介されています。 (*3) →墓所は善應寺(伊勢崎市曲輪町 10-11)にあり、伊勢崎市指定史跡となっています。 |
八坂大樋の位置を検証する時、最も有力な史料は、現地に立つ標識の位置です。標識と道を隔てた反対側には説明板も立っていて、神沢川を跨ぐ屋根付き木製水路の絵が描かれています。 いくつかの史料によれば、樋の長さは70m。標識が立つ位置を伊勢崎側の支点と仮定し、樋長70mを前橋側に残る水路跡へ向かってプロットすると、概略下図の位置になります。前橋側の現況は次回紹介しますが、まずは、伊勢崎側の現況をご覧ください。(2015/1/29 記) |
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標識「八坂樋の跡」 2015/1/25 八坂樋周辺 2015/1/25 八坂樋標識位置 2015/1/25 八坂樋標識位置の下流側 2015/1/25 上流側から見る八坂樋標識位置 2015/1/25 現地上流では太陽光発電所工事 2015/1/25 |
八坂大樋の位置(推定) 八坂樋の図 八坂樋標識位置 2015/1/25 八坂樋標識位置の上流側 2015/1/25 八坂樋標識位置の対岸(前橋)側 2015/1/25 太陽光発電所工事 |
神沢川と荒砥川の合流部から推定する八坂大樋位置 2015/1/25 |
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現地に立つ説明板 |
航空写真と迅速測図で確認する八坂大樋の位置 |
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八坂樋付近の航空写真 |
八坂樋と前橋側の堀跡周辺の航空写真 |
八坂樋と前橋側の堀跡周辺、現在の八坂用水付近の航空写真(google地図、2012年) 迅速測図に記載される八坂樋の位置 |
八坂大樋・前橋側の痕跡 |
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神沢川(かんざわっかわ)を渡河した八坂大樋。当時の伊勢崎側は八坂村、前橋側は下増田村。神沢川と荒砥川の合流部の少し上流です。 迅速測図によれば八坂用水は文殊山古墳の東方を流れていたようです。現在、その周辺に八坂用水跡地を示す標識等は見つかりませんが、大きな堀跡が残っています。 当ページ開設時には、この堀跡が史跡「女堀」同様、八坂用水の堀跡と推定しましたが、その後、当サイト掲示板に鳩ぽっぽさんから寄せられた投稿によれば、この堀は新土塚城(しんどづかじょう)の堀跡のようです(*)。 八坂用水は城の堀より更に東方のようですが、現在その痕跡は確認できず、場所を特定できません。縄張り図、迅速測図、共に精度的に十分ではありませんが、現況地図と重ね合わせた地図を参考に掲載します。あくまで推定ですので参考にご覧ください。(2015/2/5 記) (*)「前橋市史」の新土塚城(しんどづかじょう)の縄張り図。 |
「前橋市史」の新土塚城(しんどづかじょう)の縄張り図 |
迅速測図に示される八坂用水 迅速測図と新土塚城・縄張り図の重ね図 |
現況地図と新土塚城・縄張り図の重ね図 ①~⑤:下の写真の撮影位置(google地図、2012年) |
現在の堀跡(新土塚城の堀)八坂用水がこの堀跡の一部を利用したか、あるいは更に東方を流れていたか不明です。 |
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②から北方 ②から南方 ①から南方 |
⑤から南方 ④から北方 ④から南方 |
モノクロ写真から八坂大樋を再現先日、当サイト掲示板に、掲示板常連さんの鳩ぽっぽさんから投稿いただいた、伊勢崎市史掲載の八坂大樋の写真。モノクロ写真であることと鮮明度が低かったため、他の写真などを参考に部材を書き加えて彩色し、八坂大樋を再現してみました。ご笑覧ください。(2015/2/5 記) |
伊勢崎市史掲載の画像をベースに、他の資料を参考に部材形状を加筆し、彩色。 伊勢崎市史掲載の画像 |
八坂大樋で話題が盛り上がった八坂用水。残念ながら大樋は大正13年(1924)に取り壊され、現地には標識が立っているだけですが、八坂用水はその後も活躍し続け、現在は位置を上流へずらして、コンクリート製の水路橋で渡っています。水路橋の端部には誰のためか通路があって、水路橋を流れる水面を眺めることができます。川の上を川が流れる川の立体交差点、珍しい風景です。かつてはこの場所はサイフォン式水路だったようです。(2015/2/14 記) | |
八坂用水、神沢川を渡る水路橋 2015/1/25 八坂用水水路橋の地図 |
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水路橋を下流側から 2015/1/25 水路橋端部に架かる通路 2015/1/25 水路橋下流右岸の道路傍に残る石碑 2015/1/25 |
水路橋端部 2015/1/25 水路橋の上 2015/1/25 水路橋の下流側。 渇水期ですが、結構な水量が流れています。 2015/1/25 |
小畠武堯の墓は伊勢崎市曲輪町の善應寺(ぜんのうじ)にあります。寺の門を入ると左側に墓地が広がり、武堯の墓はその奥まった所にあります。その後ろには小川「おなべっ川」が流れ、更にその南側には同聚院(どうじゅいん)の墓地が広がっています。 話が逸れますが、この一帯は同聚院や延命寺、少し離れた伊勢崎駅南東の中台寺を含めて、半径220mの範囲に4つのお寺さんが集まっているちょっとした寺町です。 武堯の墓所は石の柵で囲まれ、中には武堯の墓石の他に6つの墓石が建っていますが、武堯の墓は左奥にあります。武堯の墓は昭和42年2月15日に、伊勢崎市の史跡に指定されています。(2015/2/25 記) |
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小畠武堯の墓 2015/2/20 2015/2/20 墓地の前に立つ説明板。下に記載内容を転記。 2015/2/20 |
墓所入り口左側の石柱に小畠氏墓地と刻まれています。 2015/2/20 「贈従五位小畠伴左衛門武堯氏之墓」 と刻まれた墓石 2015/2/20 |
伊勢崎市指定史跡小畠武堯の墓昭和42年2月15日 指定
当時400町歩余の用地に灌漑した功績は大きく、大正7年に従五位を贈位されました。 平成2年3月15日 伊勢崎市教育委員会
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施無畏山 鏡泉院 善應寺(天台宗)(伊勢崎市曲輪町10-11) |
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善應寺(東側の門から) 2015/2/20 門脇に立つ説明板 2015/2/20 |
善應寺(境内南東側から) 2015/2/20 説明板 2015/2/20 |