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瑳珂比(さかい)神社

鎮座地:伊勢崎市境493番地
 瑳珂比(さかい)神社由緒瑳珂比神社の公式ホームページ
更新日:2009/4/7 写真下の日付は撮影日 [ goo地図 ]
 瑳珂比(さかい)神社は東武伊勢崎線・境町駅の南方600mほどの場所にあります。境町駅から訪れるならば、南口を降りて駅前通りを真っ直ぐに南へ下り、国道354の「駅入口」の交差点を横断すれば残り200m程の距離です。境内の北西側には境小学校があります。
 近くには長光寺や愛染院などもあり、神社仏閣が集まっています。この辺を和服のご婦人達がそそと歩いていたり、ちょっとした茶店や甘処などがあればいい感じだろうなぁと、訪れる度に思っています。
 境町は例幣使街道の宿場町として、古くから栄えていたことが有名ですが、当時はこの辺は門前街として賑わっていたのでしょうか。
(2009/4/7 記)

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2009/4/5


大鳥居とサクラ 2009/4/5


大鳥居とサクラ 2009/4/5

拝殿前から境内入り口方向 2009/4/5


2009/4/5

入り口脇の石碑 2009/4/5

拝殿を北東側から 2009/4/5

拝殿 2009/4/5

本殿(鉄骨建物で保護されています)
2009/4/5

社務所と手水舎 2009/4/5

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社殿の南側にある鳥居 2009/4/5

拝殿を北西側から 2009/4/5

瑳珂比神社由緒

(この案内板は境内入り口脇に建てられています)

 当社の創建は、戦国時代に能登半島出身の小此木左衛門尉長光が境ほか6ヶ村を領有し、守護神として生国能登国の石動(いするぎ)明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(1521〜1527)とされています。
 長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀3年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣(いするぎ)権現と称しました。 御陽成天皇の天正8年(1590)小此木氏が当地を退去すると、郷民は当社を鎮守社と定め石剣稲荷大明神と改めました。
 後に那波、新田両郡の境に当るため境村となり、後光明天皇の正保4年(1647)に例幣使街道が開設され宿場町となると町並みも形成され、慶安年間(1648〜1651)には境町となりました。
 桃園天皇の宝暦11年(1761)拝殿が造営され、後桜町天皇の明和3年(1766)には石鳥居が建立されました。後桃園天皇の安永2年(1773)、社前に押花絵馬(境町最古の絵馬)が奉納され、光格天皇の享和元年(1801)には氏子の発起により現在の社殿が建設されています。
 その後も神域は整備され明治7年(1874)には村社に列せられました。明治40年(1908)9月に境内末社の菅原神社(菅原道真命)、八幡宮(応神天皇)、疱瘡神社(鎮西八郎為朝命)、また町中にお祀りされていた諏訪神社(建御名方神)、八幡宮(応神天皇)、八坂神社(泰盞鳴命)、稲荷神社(倉稲魂命)、神明宮(天照大御神)、菅原神社(菅原道真命)、琴平宮(大物主命)、秋葉社(火産霊命)を合祀、社名を瑳珂比神社と改め現在に至ります。




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