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魂遊び

掲載日:2015/11/13
犬の背中の毛をほんの少し触るだけで、犬は振り返ります。
しっぽの先の一本の毛に触っても逃げまどいます。
そんな話をすると、ウサギを飼っている人も同じ反応があると言います。
けものは、感覚の鋭い毛と毛根が、過剰な反応をするほどに必要なのだと感じます。
障害物を避けるためや、襲われた時の皮膚まで噛まれないためにも必要なのだと思いますが、何かもっとほかに理由があるのではないかと考えます。
長大で、深遠な結果になる予定ですので、ゆっくり読み進めてください。


今オーディオの業界では、よいアンプやCDやスピーカーをそろえることだけでは、臨場感あふれ、生々しい音が得られることはないとされています。
例えば、座布団の上に置いた電話機の受信音と、同じ電話機を木の台の上に置いた受信音の違いは、誰にでも理解できるように、設置する台の性質によって機械の性質が素直に現れるか、癖がつくか別れます。
電気コードの材質や、スピーカーから出る音の振動対策や、コードと機械の接続部分に電気が素直に流れるようになっているのか、様々な意向を凝らさないと、せっかく高価なオーディオ機器を購入しても、生かされないことになります。
アンプの台に、鉄やコンクリートや、カーボンやガラスなどと、木材を置いた実験の結果、木材や水晶がアンプの性質を、癖をつけずに素直に発揮できると、考えるようになりました。
木材を選定するとき、彼らは、バイオリンなどの演奏楽器に使われている素材から音楽を聴いてみることにしました。バイオリンのネックの黒檀、胴の楓を試してみると、黒檀では、音がきつくなるが、楓は素直に癖なく聞くことができると知りました。
しばらくの間は、楓を使用しましたが、それでも、満足を得られず、バイオリンのように楓と黒檀の二種を同時に使うと、相乗効果でさらに効果が上がりました。
その後、シンバルの音が優しすぎて、もっとシンバルらしくシャカシャカ鳴るものはないかと探した木が、ドラムで使用するヒッコリーのバチです。
そのヒッコリーで試すと、よりシンバル音らしくなりました。
それからは、台だけでなく、電源コードを、床に接触しないようにコードの下に置くと効果があることもわかりました。
今ではその中に、電気石などを詰めて(のちに記述することになる一つの秘密も込められていますが)アンプの電源コードの下に置いたり、CDの電源コードの下に置くと、驚くほど音の改善が見られます。
ある日の夕方、高級機種にあふれた個人のオーディオルームにお邪魔して、ヒッコリーを置く前の音楽を聴き、素晴らしい音がしていましたが、ヒッコリーを電源コードの下に置き、聴き比べると、ジャズ歌手がオーケストラの前で歌っている曲でしたが、歌手の歌っている位置が鮮明になり、なまめかしく身をくねらして歌っているさまが見えるように変化し、オーケストラの空間が鮮やかに現れ、オーケストラの横幅も広がり、我ながら驚くほどでした。
一個の10センチに満たないヒッコリーの台だけで変化したのです。
この効果は、機器自体が最高級をそろえていることによることが大きいと思いましたが、忘れられない一日となりました。
それぞれの木もそれぞれの性質があり、一種の木もまた些少のそれぞれの性質があると考えられますが、どうして、そのようなことが起こるのか不思議がいつまでも残りました。


これから先は、研究者の引用が少しややこしいかもしれませんが、飽きずに読んでいただけると、知の世界が思わぬ方向に広がることとなるはずです。
東大の角田教授が、準静電界についての発表を今年されました。
それによりますと、
「体が動くときには、脳から筋肉に信号が送られて筋肉が動く、この時、弱小電気が発生して皮膚の表面に染み出る。これを準静電界と言い、すべての生き物は、準静電界の膜で包まれている。この変化を、離れた人が感じると気配となる。それは一人ずつ個性を帯びて存在する」と書かれています。
「人間の体の周囲には、静電気のような、ごく微弱な電界が全身を包むように存在しています。電界の大きさやプラス・マイナスが常に変化しており、これを準静電界と呼びます。
体の中では、筋肉を動かす、脳が体に指令を出す、心臓などの臓器が働く、さらには細胞と細胞が情報伝達するといった場面でも、電気的な信号が生まれる。例えば、脳波や心電図、筋電図などは、脳や心臓、筋肉に流れる電気信号を“見えるか”したもの。体内で発生する電気信号は、生命活動そのものでもある。 
このような体内にある微弱な電気が重なり合い、体の外側ににじみ出て、個性を帯びた見えない電気のベールで全身を包み込んでいる。これが準静電界である」

「ところが、サメやエイ、ナマズなどの魚類、オーストラリアに生息する哺乳類のカモノハシなどは、準静電界をキャッチする“電界検出センター”が備わっており、このセンサーを使ってエサを捕まえる。視界や臭覚が利かない環境でも、これなら高精度でエサを認識し捕まえることができる。このセンサーは視覚や聴覚などより古い、非常に原始的な感覚器だと考えられる」

「人体の中で一番電圧の高い組織は、内耳にある。内耳には、有毛細胞があり、脳や心臓よりはるかに高い電圧が常時生じている。この内耳こそが、人間が準静電界を感知する機関と考えている」

「世の中には、流星の音が聞こえたり、星が流れる気配が分ったりする人がいて、音が聞こえることと電界の変化を検知して気配を感じることは、同様の現象だと言える」

「また、体毛も準静電界を感じやすい。特に、産毛は電気信号に対して敏感だ。“総毛立つ”“鳥肌が立つ”などと言葉があるが、気配を察知する力は一種、皮膚感覚に近いかもしれない」

「犬や猫も、飼い主の準静電界を感じ取れる。何メートルも離れたところにいる飼い主の気配を察知して、尻尾を振って待っていることがある。電界の変化を感じると、皮膚体毛が動いて、毛根の下の細胞が、皮膚感覚として感知する。ゆえに、人間でも毛深い人の方が感じやすいだろう」

「また、その人が立ち去っても残留電気としてしばらく残る」
以上が、東京大学生産技術研究所機械・生体系部門特任准教授の滝田清昭先生の発表です。

この発表を読んで、いろいろな問題の種明かしがされる思いです。
犬の体毛の敏感さは、準静電界をキャッチする機能として解りますが、滝田先生は、星の流れる気配を感じる人がいると言われていますが、生き物と限定されています。
生き物は、植物も含むのか定かではありません。動くことによって準静電界が発生すると記載があるので、動物に限定しているのかもしれません。
電気自体のことを考えていくと、物体、空気も水も含めてすべてに関わることのように思えてきます。
以下は、その件について書いてみます。


だいぶ前になりますが、コロンビア大学の研究報告にサボテンの実験がのっていました。
サボテンに電極を通して、その前を7人の学生に通行させました。そのうちの一人が、サボテンを蹴るのです。そののち、同じ7人の学生を通行させると、蹴った学生が通るときだけ、サボテンの電極に反応があった、と言う実験です。
その当時は、魂は万物に宿ると、あやふやな考えで締めくくりましたが、サボテンに準静電界を検知できる能力があれば識別できるだろうと考えることができます。
しかし、サボテン自身は、可動することはできません。
滝口先生の、生き物に入るのか入らないのか判然としません。
そこで、生命の源である電気のことを考えてみます。
今では、素粒子と呼ばれることになったが、物質の最小単位は原子と呼ばれたことから考えてみると、原子は膜につつまれた内側にマイナスの電荷をもった電子が飛び交い、中にある原子核は、中性子とプラスの電荷をもった陽子に識別できるそうです。
もともとの物質は、電気的に生成されているということです。
物質すべてが、マイナスの電子とプラスの陽子で出来ているのです。
それは、空気中の酸素や窒素にもあり、水にも含まれ、当然、石にも含まれています。
動くと準静電界が発生すると言いますが、動かないもの、植物など、また、石などの無機物の電界は、表に現れないのでしょうか?しかし、内部には必ず電界を秘めているはずです。


話は変わりますが、電子も陽子も単独で成り立っているようですが、中性子は中性と言われるようにプラス・マイナスの電荷を持っていないようです。中性子は不安定で、平均寿命は約15分、15分で崩壊すると陽子と電子、反電子ニュートリノに分離すると書かれています。プラスとマイナスで安定して、中性では不安定なようです。
ちなみに、陽子は崩壊するのに10の30乗以上の時間がかかり、電子は6.4x10の24乗以上の時間がかかるそうです。なんだかよくわかりませんが、宇宙の誕生から138億年と言われるその何倍?もの時間生存するそうですが、宇宙がなくてどこを飛んでいるのでしょうね。
しかし、この準静電界から考えていくと、カミオカンデの秘密が少しわかってきたように思います。カミオカンデは、陽子の崩壊時間から崩壊現象をとらえる装置だそうですが、文化学的には、人類のかつての営みを調べることで、我々の秘密を探し当てる人類学、民族学がありますが、カミオカンデが物理的に我々の起源を調べる実験だと知って、科学者の執念は、文化的であろうと、物理的であろうと同じものだと実感します。
人が何によってできているのか、人がどういうものなのか知りたい一心なのですね。
カミオカンデは、電子崩壊でなくニュートリノでノーベル賞になりましたが、このニュートリノは、地球をも難なく通過するそうですが、我々の体を一秒間に一兆個も通り抜けているそうです。それほど密に存在するのです。

話がそれてしまいましたが、
すべての物質に電界が含まれている。
サボテンや木は動けないが、体の中を養分や水分が流れています。
それらにも、電界があるはずです。
サボテンの可能性として、もっと弱い準静電界が、他者を感知しているかもしれません。
ヒッコリーは、切断され、削られ、塗装されていても、木として水分を蓄え、時に水分を吐き出し、時に水分を吸い込んでいます。
特にヒッコリーは、板にすると反りや狂いが出やすい材種です。
もともと、板は、木が反ると書くように変形しやすいのですが、それは、吸収発散しているからですが、他種より吸収発散の能力が高いから、微弱な準静電界の影響でオーディオ機器に影響力があるのかもしれません。
あの一日の音の経験は幻影でも、妄想でもありません。
電源コードの下に置くことによって、コードの中に流れる電気信号が変化したのです。
音場の広がりや、音の密度感などが改善されているのだから、コードの中の電気信号が、素直に流れるようになったととらえても誤りでないと思います。

上に書きましたように、ヒッコリーの中にはトルマリンの粒を入れています。
トルマリンは、電気石と言われるように、キューリ博士が発見したそうですが、結晶状態で、上部がマイナスを帯び、地中側の下がプラスの電気を帯びているようです。
その電気作用で音が有機的になる傾向がみられます。また、マイナスイオンが発生する物質と、圧力を加えると電気を帯びる水晶なども入っています。それらの相互作用で、コードの中の電気信号が迷走することがなくなるために、より素直にオーディオ機器の性質が表されるのだと考えられます。
その上に、ヒッコリーの中に一つの秘密と言ったことなのですが、音の感度がずば抜けているスーパーアドバイザーが、自分のイニシャルを書き込んでいます。
このイニシャルを書き込むにあたって、彼らの経験を書いてみます。
雑誌によく登場する音楽評論家が、オーディオ自慢のお宅訪問記を書いています。
彼は、最初に聞いた音と、自分が機器を操作した時の音では、良いほうに変化していることを、数々の訪問で感じたと言います。オーディオ的手当てをしたということです。
また、これは僕も経験したことなのですが、ある日スーパーアドバイザーを訪れると、紙に名前を書いてほしいと言われました。名前を書いた紙をアンプの下に差し込んで音楽を聴くと、あなたは正常な音感があるとのことです。人によって、音場が上がったり、下がったりするというのです。ひどいときには、左右の位置が変わった人もいたそうです。
そんなことがあって、イニシャルを書き込むことで、手当と同じ効果があると考えたのです。
不思議な話です。

僕は、アドバイザーに、この研究報告を書くことを進めましたが、僕が書くことになるとは思いもよりませんでした。
考えると、古来より日本では、言霊と言い、言葉に魂が宿ると考えられてきました。
気をつけないといけないことは、準静電界の感知機関は、滝口教授が、原始的な機関ではないだろうかと言うことです。人の過去にあって消えた能力はたくさんあると思われますが、いにしえを訪ねることで、理解できることがあるのです。
例えば、アメリカのジュリアン・ジョーンズは、彼の著書「神々の沈黙」で、ギリシャ人は左脳と右脳が別れていて、右脳が神の声(多神教の神です)を聞くことができたと言います。言語が発達してその能力が衰退したと書いています。
6000年前の人類が知性のピークで、それからは知性の減少が続いているという報告もあります。
そこで、言霊ですが、そのことで思い出すのが、古代では自分の名前を他人に知らせることはなかったそうです。名前を言って怨念を掛けられると、自分に災いが起こると信じられていたからです。
怨念でなく、それなら気として文字を封じ込めることもできると思われます。
良い音になれ!と、イニシャルを書けばと言うことです。
分裂病(今では総合失調症と言います)のお医者さんである中井久夫先生が、「祈りのない治療は、治療ではない」と言います。治ってほしい、治りますようにと観念して治療しなければならないと考えているのです。
その上、滝口教授によると、準静電界は、物に残留するとも書いています。
手当てと言霊を込めて、スーパーアドバイザーはイニシャルを書くことをしているのだと思います。
鎌倉時代、踊念仏と時宗の教祖一遍上人は、算と言うお札を配り歩いていました。
札には、南無阿弥陀仏と書かれています。衆従を浄土に迎えたい一心で書かれたと思います。それを彼らは肌身離さず生活したことでしょう。
また、熊野には、様々な牛王符に、神武天皇の東征軍を吉野に先導した予知能力があると思われるヤタガラスを何匹も並べた護符を配っています。
ヤタガラスは日本代表のサッカーのユニホームにデザインされていますから(神武天皇のように勝利の願いが込められています)ご存じの方もいると思います。
紙の上に書いたものではありますが、霊験新たかだったのではないでしょうか。


いよいよ本題に入りたいと思います。
準静電界の研究で、一番腑に落ちたことを書きたいと思います。
先日イギリス人が、森の中にある我が家を訪ねてくれたときのことです。
絵が好きらしく、スケッチ帳を携え、京都やいろいろなところを回ってスケッチしています。見せていただくと、京都の東寺は描いていますが、次のページには、林が描かれていました。日本全国至る所にある、名所旧跡でなくただの木が数本並んだ絵です。それを見て、木が好きなんだと思い、イギリスには、落ち込んだとき木に触れる伝統があるのでは?と,問うと「その行為を、タッチ・ツリー」と呼びますと、言われました。
木が人を癒すと信じられているのです。
日本では、総面積の60~70%が森林です。その上、神社は鬱蒼とした森の中にたたずみます。森のない神社を想像してみてください。霊験は感じないのではないでしょうか。
僕たちには、様々な意味で木に守られている実感があると思います。
日本の最も古い宗教は、沖縄に見られるウタキと呼ばれるお祭りです。
ウタキは、神の憑代とみられる木に囲まれた空き地に聖域を示す小石が並べられているだけの粗末なものです。ウタキは、本来モリと呼ばれたものが本土の言葉、御嶽と呼ばれるようになり、モリが神降臨の場所であったのです。
死者を弔い地中に埋めたあと木を植える。埋め土を盛ることから“もり”と呼び、木の方が重要視されて森と変化したそうです。モイドン(森殿)は、墓地であったものが神聖な神の訪れる場所となり、古代では、祭も斎も同じ場所で行われていました。
それから、一本の木でも森と言い、その前にほこらを作って訪れる神を待つそうです。
祭りの日が来ると粗末な建物を作り、終わると壊したものを社と呼び始め、そののち神社と名付けたようです。だから、社をもりとも読みます。
始まりは、一本の神聖な木です。
木の中にも、霊威を持つ木があるのです。

夜の闇に包まれたざわざわと揺れる森は、住む前には最も恐ろしいところの一つでした。山には、死者が訪れるといいますが、森や山の夜には、昼にはない霊威が、訪れる人を寄せ付けない何かを感じます。一本一本の木々が、一つとなって押し寄せて来ます。
今年のことですが、朝昼散歩をする鬱蒼とした山小屋の近くの道に、ここは夜は通りたくないと常日頃感じていたのですが、9月の一週目の昼間、スキップをした8歳の孫と、同じくそのまねをしていた家内が、下り坂で足を絡ませ額からコンクリートの道に墜落して、お岩さんのように腫れたことがあります。その一週間後の夜、近くに住んでいる青木さんの奥さんが、同じ場所の側溝に足をつまずかせ、左腕の付け根のところを骨折しました。
一緒にいた孫の花菜は、青木さんの奥さんより、おばあちゃんの方がひどかったと青木さんの奥さんに言っていましたが、通るときには気を付けなければと思っていた所です。
おばあちゃんの顔は、左の額が山のように腫れあがり、目の上まで膨れ、目の周りは青あざがしばらく残り、目は上部のふくらみでふさがって見えなくなっていました。青木さんの奥さんは、3か月目に入りましたが、まだ、左腕のリハビリをしています。
木にはベールのような微弱電界があって、その作用で人はお祈りしたくなったり、恐ろしい目にあったりするのだと思いませんか?
これは、準静電界の働きと捉えられると仮定できます
北米のネイティブインディアンは「白人は、木の言葉が解らない。あれだけ饒舌な木の言葉を聞くことができない」と書いています。また、イギリスのタッチ・ツリーもあります。
人類は、無意識ではあっても木によって安らかにされていると思います。
木が電気のベールに包まれて、気配を出しているのでしょう。
「そのままでいいよ。そんなに考え込まないでも、そのままでいいんだよ」と、木が話しているのかもしれません。

トルマリン、電気石が電界にあふれていることは書きました。
そのことで、群馬大学の横に岩神神社があります。2万年前富士山のような恰好をしていた赤城山が、巨大噴火を起こして飛んできた巨石と札に書かれています。
赤城の麓には、しめ縄を張った巨石が至る所に見られます。
全国津々浦々にも磐座と呼ばれて祭られています。
古代人は、石を神と拝むことができたのです。
石こそ、動くことができないと思われますが、噴火のときの力、転げまわって麓までたどり着いたときの運動というものもあります。
また、電気石と同じように特別な電界がついた石かもしれません。
神明神社には、石神さんと呼ばれ親しまれる小さな社があり、女神と呼ばれて女性の願い事を叶えてくれると言われています。
有名な東京の石神井神社は、井戸から出てきた石棒が、奇瑞(めでたいことの前兆)があるとして、霊石として石神様になっています。
畏敬の念を与えるものは、意思もなく、人格もない「かしこきもの」で、格別の善意や悪意のためでなく、人に付着して幸いをもたらすものや、害を及ぼすものがあると、昨年お亡くなりになられた民族学者の谷川健一は書きます。

古代には、カゼは、妖怪の一種と思われていたと彼は書いています。
山野を歩いていて、急に寒気がしたり、頭痛をおぼえたりして、病気に罹ると、それはカゼにあったからだと思われていました。
さまよえる精霊として山野に行き合う人にタタリをします。
鹿児島県の隼人町には隼風神社や、早風宮がありますが、不遇な死、非業の死を遂げた人物の霊が悪い風となって、死霊の風、タタリの風となり、それを鎮める神様のようです。
日本海の飛島あたりでは北西の風をタバカゼまたはタマカゼと呼び、船頭がひどく恐れる悪風とされています。タマカゼのタマは死霊のことで、亡魂の吹かせる風といいます。
カゼは恐ろしい死霊だけでなく、祖霊の出現を表す働きとみなすこともありました。
したがて、死霊や怨霊と結び付けられる風も、もとは祖霊=神の示現とみなされていたと、谷川健一が記述しています。
そして風によっておこる「海荒れ」が神の到来を示すもっとも顕著な兆候と受け取られていたそうです。
僕たちの周りには、気体としての窒素と酸素がほぼ100%充満しており、窒素も酸素も電気的にできています。そして、死体から体重の減った分の水分が、その中に含まれてきます。
その水分も同じように電気的にできています。
仮説ではあるにしても、タマカゼと古代人がとらえた風の性質に、それらが関係していたと想像することができます。
人間の体には、自身を消化する酵素があり、生命活動しているときには隔離されているが、死によってときはなたれ、自らを分解するようになります。
また、多細胞生物は、遺伝子の末端にあるテロメアと言う細胞の分裂回数によって寿命が決められています。人では、50回ほどで、120歳が最長だと研究されています。
意味深いことに、意識の終わりは、脳内の「電気的活性の停止」によって起きると考えられています。
仏教や神道によって、死は隔離されるようになりますが、死にタタリがあると考え、祭りの時以外は近寄らず、枯れ葉が落ちても、薪を拾う人はいない。木の葉一枚でも持ち帰ったり、燃やしたりするとすぐにタタリがあると、死霊に対する恐怖心がありました。
人の死は、最初自己分解が体内の消化酵素によって始まります。その後、嫌気性細菌によって細胞の消化が進み腐敗していきます。次にバクテリアと菌による細胞の消化が進み、骨と歯が最後に分解されます。その間、地中から腐敗臭が匂い物質となって空気に漂っていることでしょう。
気体は、一定の形と体積を持たず、自由に流動し圧力の増減で体積が容易に変化します。
と言うことは、攪拌され、吹き飛ばされ、空中を漂い、匂いは人の息の中にも紛れ込みます。

「森羅万象が霊魂を持っていた時代、植物も岩石もよく言葉を話し、夜は炎のようにざわめき立ち、昼はサバエ(うんかのこと)が沸くように沸騰する世界があった。存在するのは善意に満ちたものばかりとは限らなかった。夜は蛍火のように輝く、あやしい神がいるのかと思えば、昼はサバエのように悪い神がうろついていた。もっともつつましい存在とみられる青水沫(あおみなわ)さえ、自分を主張して意義を申し立てた。日本列島の至る所に、動植物は言うまでもなく、岩石や火や水までも人間とおなじように喜怒哀楽の感情をあらわにし、生き生きと動いていた光景を“日本書記”には次のように書かれている。
葦原中国(あしはらなかつくに)は、磐根(いわね)、木株(このもと)、草葉(くさのかきは)も、猶能く言語(なおよくものい)ふ。夜はほほの若(もころ)におとなひ、昼は5月蠅(サバエ)なす沸き騰がる。」
ほほは火の穂=炎であると、谷川健一の日本の神々にある。


今度は、芸術について考えてみましょう。
絵画、彫刻、文学、映画、演劇、音楽が、準静電界の影響を受けないわけがないように思われます。
この中、聴衆の前で行う演劇と音楽は、大きな影響を受けていることだと思います。
演劇のセリフ、動きは、電界が発散していると考えられます。
聴衆の前で、歌ったり、演奏したりすることは、とりもなおさず、感受性の増長を促すでしょう。でもそれには、演劇が芸術的であることと、両方が備わらなければなりません。
音楽でも、美しい旋律、音、声、感情のこもった演奏が必要です。
絵画や小説では、他者の目の前を必要としていません。それでも、多大な感激を生むことがたびたびあります。残留準静電界があるでしょうか?印刷され多量に販売されたものにも?
音楽もCDに録音されたり、映画や演劇がDVDに残されたものを聴いたり見たりしても感動は呼び起されます。
それでは、CDやDVDに芸術家の準静電界が込められているのでしょうか?
やはり、それにはあまりにも飛躍があり無理があると思います。
芸術家が、芸術家らしい最高の仕事をなしたことに感動するのだと思います。
内耳の準静電界をキャッチする力や体毛や毛根が、芸術を感じることはできないように思われます。
芸術は、脳が感じることの方が重要だと思われます。
古代の民衆が、木や石や山に魂の存在を感じやすくても、祈ったり、踊ったりして芸術の始まりを創造していても、近代の民衆には芸術を感じるには遠いものがあったでしょう。
自然に根差して、自然の声を緊張して感じることのできる人々には、皮膚感覚で魂を感じていたのです。木や石や水や山や、野の草にも気配を感じることができたでしょう。
太陽に、月に、星々や宇宙に、もっと大きな気配を感じたかもしれません。
日本の八百万(やおよろず)の神は、そうして感じられたのだと思います。
万物に魂が宿る。山も木も川も草も皆仏性があると仏教は教えました。
修行僧や、山伏や、勧進聖などが、山中や森、野原を遊行しながら、気配を醸す聖地を見つけ出し、お寺や、神社が建てられたこともあったでしょう。
民衆に、その気配の存在を、神だとか、魂として説教することもあったでしょう。
左脳の働きを優先する近代人は、皮膚感覚である気配を物理的でないと信じことができなくなり、脳が感じ、考えることを最優先にしたのです。
生命科学では、最初期の細胞が、万世一系に続き今に至ると言います。
リチャード・ドーキンスの遺伝子の継続は、細胞があってこその遺伝子だからです。
意識は、脳で作られると考えられますが、その生命誕生の記憶を持つ細胞が意識を作っているのではないだろうか?と言う考えもあります。
驚いたのは、宇宙科学者が、人類は宇宙の美しさを感知するために作られ、存在すると言っていることです。リルケが、花や月や海の美しさを知ってもらいたくて人類が誕生したと書いていることと同じ考えです。世界の美しさを感知するため人類の存在があると科学者が言うことになるとは思いませんでした。

気配、魂の空気伝播する怪しいと思われた現象が、物理的に説明できる説である準静電界の研究は、楽しいものでした。
唯物論者の友人が、神がいるなら電話をかけてきてくれ、とか、ダービーの勝者を教えてほしいとか、茶化しますが、一神教の神の存在までは、追及できませんでしたが、八百万の神様の存在が、いくらか明確になりました。
八百万の神は、賭けの勝者に興味はないと思いますが、電話ではなく、気配として人類に話しかけてきてくれています。ただ僕たちのたましいが、退化して聞き取れなくなっているのだとおもいます。
殺気を感じるとか、人の気配がするとかは、時には感じることがあるかもしれませんが、石の気配や、木の気配は感じにくいと思います。

石牟礼道子の著書「椿の海の木」は4歳前後の記憶による著述ですが、魂の遊びに満ちた、とっても懐かしい気分になります。彼女ほど自然の中に入り、自由奔放に想像し、聞き分け遊びまわっている人は少ないでしょうが、懐かしい自然遊びが語られ、自然に満ち溢れている世界のその自然の声が体験できます。
その著者が、「水はみどろの宮」1997年に出版されています。数年かかって書いたものだと思われます。同じように古代の生活と気配が書かれた小説です。
その中に「耳の中の毛がふるふるして、なにかを受信する様子」と、感じる場所まで正確に書かれていることに驚きます。
角田先生の言う「内耳の有毛細胞が、準静電界を感知する機関」と言うことですが、角田先生の発表は今年ですが、数年かかって、または10年近く研究されていても、石牟礼道子の感性は、物理学によらずとも準静電界の感知場所が解っていたのです。
石牟礼道子は、池澤夏樹が編纂した世界文学全集の日本でただ一人選ばれた、その一人です。
戦後文学の中の傑作「苦界浄土」の作者、反近代の古代人的感性の持ち主と評されている人です。


長い文章をお読みいただいて、ありがとうございます。
取りとめもなく、いろいろな方向に話が散らかってしまいましたが、一か所でもそうだなーと感じていただければ、幸いです。

近藤蔵人  平成27年11月10日



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