家庭から離れて、何日か他所で過ごした子供が帰宅すると熱が出ることがある。それを知恵熱と言った。家に帰って測ると少しの熱があるがそれほど心配するほどの状態でもない。 幼児の場合は、言葉がしゃべれないので、静かになり、微熱が出て、食欲が無くなり、親は心配するが、大人に「それは知恵熱だよ」と言われると、そんなものかといくらか安心する。知恵熱は、知恵を獲得するときの発熱と言うほどの意味だろう。ウイルス感染とか調べられたが、古人の造語力は的を得ている。 家庭生活での脳活動はほぼ一定している。他所へ行くと、景色がちがう。階段、通路と色々脳の動き方を変えなければならない。知らない人に用心しなければならないなど心配事項が増える状態になる。そのため、脳内の活動範囲の変更や緻密さが必要になる。初めて稼働する神経細胞もあるかもしれない。他所で生きることのできるように脳の働きが変わると、熱がいくらか出るのだろう。頭もいくらかジンジンするかもしれない。その状態が、「知恵熱」と呼ばれる症状だと思う。 家庭で安心基地が確立すると、そこ以外へ動きたくなる気持ちと、そこにとどまっていたい気持ちがあるが、小学校に上がる前に、いろいろな場所へ出かけ、子供たちの脳の使用する場所を変えると、例えば、海水浴に行く、山にハイキングに行く、時には映画も見せる、音楽を聞かせる、親戚の家に行くと、子供たちの脳内はフル稼働しているはずだ。 それらを経験ずみの大人は、夏になると子供を海水浴に連れて行かなければと思う。僕の父親も無理をしてでも、毎夏泳ぎに連れて行ってくれた。その当時の須磨の海水浴場は、海の家も、砂浜も、海の中も満員状態だった。若い人達も多かったが、だいたいが家族づれだったように思う2,30代の人たちも、親に連れて行ってもらった人は多いようだが、何故あんなに熱いところへ、砂と汗まみれになるのに行かなければならないと、考え始めるようだ。 しかし、親世代は、海水浴に連れて行った意味が解っていたと思う。自然の中で夢中で遊ぶと、脳の働きが全開して、宇宙が祝福してくれている感覚が生じることがある。海や空や水しぶきが光り輝き世界と一体になる。この感覚は、将来にわたって、自然には、通常生活から得られる以外の素晴らしい感動があると学ぶ。 僕たち人類は、そういう生活を久しく続けていた。(後に書く宇宙と準静電界の関係と想像できる) 自然では想定外の出来事が度々起こる、その度に、知恵熱を発揮しなければならない。自然の破壊が進んで、人々の心の中の自然も破壊されて、その至福の経験を得ることが出来なくなった。人が作ったものだけの環境の中にいると、想定外の出来事は乏しく、規格にはめられない出来事が起こると、怒り出すしか対処が出来ない。最悪の事態と言える。 教育は、すぐに結果が出るものではないが、知恵熱を経験して、脳の活動を高めて頭が働き始めると、脳には無限と思えるほどの許容量があるから、頭の回転が良くなると思われる。その頃にたくさんの環境の変化からくる脳の使用場所の変化を味わうことは、家で勉強の暗記をさせるより、青年になって効果があるだろう。 子供が自立するとは、両親から教えられた生き方を実践する事より、自分で生きる方法を模索する力を養うことだと思う。未来は一寸先が闇と言うほど、何が起こるかわからない。その状態でも、最良の選択が出来るように、考える癖が必要だ。 ノーベル賞にも、セレンディピティー(実験の結果は失敗だったが、その失敗を捨てずに検討すると新しい発見があること)と言い、初めての経験でも答えが出せる自在な働きが新しい発見につながる。両親はAの道がいい、おじいさんはBの道がいいと大人たちの対処の仕方が明確で無い方が子供たちにとってはよいことがある。 おじいさんに、よけいなことは言わないでと避けることはない。どっちがいいかわからない時、自分で考えなければならないと覚悟することになるからである。他者は子供を依存症にしようと、手ぐすね引いて待っている。言われた通りの道を進むように強制することがあまた見受けられる。人は、他者を自分の思う通りにしたがる生き物である。(だが、人は、他者に変われと言われても絶望的に自分に固着する生き物である) しかし、子供たちの未来において、何が起こるかわからないことに柔軟に適応するには、自分で考える方法を学ぶしかない。(自分で自分を変える事は出来る) 親が子供を育てるときに重要なことは、子供が自立できるように背中をそっと押してあげることにある。親の思う通りにならなくても、背中を押してあげなければならない。それには、言うことを聞く子を育てるのでなく、自分で考える癖を持つ子供を育てることだと思う。 ユダヤの民は、世界の人口のほんの0.18%だが、ノーベル賞は22%を占める。芸術、金融関係、映画界などではユダヤ人が独占しているようだ。エジプトの奴隷時代から、カナンの地に移動し、その地を追われて、全世界に広がって移住生活している彼らは、定住して田畑を耕作することは認められなかったゆえに、金融や商業に特化したと言われる。移動してその地に住むには、その地の風習や、言語や、歴史や、政治や、その上、食習慣までも、その地の方法を身に着けなければならない。定住しているその地の人々には、当たり前でも、定住者を観察して、咀嚼して理解するように努め、その上自分たちのユダヤの伝統は守らなければならない。 いわゆる、知恵熱が出る状態であると思われる。その知恵が、多様な世界で、特出した頭脳として働かせることが出来るようだ。バイオリンを弾き、困難な数学に立ち向かい、仲間と密な意思の疎通ができ、そして、それを表現する技術を磨き上げる。ユダヤの民の優秀さは、常時知恵熱を必要としたことにありそうだ。 僕たちの脳は、脳の一部が傷を負って使えなくなったら、その部分の替りを脳の他の部位が作り出す。脳は全体の一部しか働いていないそうだが、容量に見合う働きを脳は求めていると思われる。本来脳は、融通が利き、柔軟で寛容に世界との関わりを持つが、意識は固まりやすく、不寛容になりやすい。 ジュリアン・ジョーンズの「神々の沈黙」では、かつて2,3千年前には、右脳が神の声を聴き、左脳がそれを実行したと言われる。 右脳と左脳が分離してそれぞれに活動していた。 右脳が寛容で柔軟。左脳が固着しやすく不寛容。 右脳に頼る生活は、親鸞の述べる他力と同じだと思われる。 左脳の不寛容さは、自力で成し遂げようとすることに間違いがある。人はそれほど機能的にできていないから、自分を作っている細胞一つも理解が出来ないし、一度思い込むと離れられない。言葉が発達して右脳と左脳とに分化されていた脳が一体の働きをすることとなって、神の声が聴きにくくなったと、神々の沈黙にある。 人類の知性が、数千年前にピークを迎えたと、研究報告をよんだが、分離した脳の働きに長所があったということだろう。左脳の自力より、右脳の他力が優先していたから、脳の活動が、意識中心でなく、無意識・脳全体の活動を図ることが出来たのだろう。 鈴木健の言う「世界は、不合理でなく、不条理でもない。すべて、自然に則ってなされている。不合理なのは、不合理と考える個人の意識にある」は、あるがまま、とか、仏教に言う無心とか、自分の意識を世界の否定に向けてはならないということだと思う。自分の考えに執着しない。世界を肯定する。そして、それについて考えることだろう。子供が反抗して困るということは、親が壁になっているだけで、子供に敬意を払うと、反抗は治まる場合がある。子供に任せてやればいいのだ。失敗は彼にはいい経験になるのだから。常に不合理は自分の意識にあると考えることは大切になる。 安部首相は、落ちぶれつつあるアメリカの後釜を狙って、しばらくは、アメリカの言われるがままに動き、いつか没落したとき、アメリカがやっている役目を日本が肩代わりするつもりで国軍を作ろうとしている、と僕は考える。属国としてさげすんでしか見られない日本の、起死回生の考え方を取っている。それとも、国軍さえ持てば、他国に馬鹿にされないので満足するのかもしれない。彼のこの考えは、在る面合理的だと思えるから、全閣僚が安保法案に賛成するが、日本の取るべき合理的方向は、この方法しかないわけではない。死者も出さず、それでも世界に誇れる国作りを、あらゆる角度から検討することが不可欠だ。 人類は奴隷制も廃止し、植民地支配も取りやめた、苦難の末ではあるが、交戦しない国を理想とすることに間違いはないと思う。世界中の人類の願いだ。安部説はそれもひとつの方法だが、違う最良の方法を考慮する必要がある。 我々日本人は、ユダヤの民ほどにではないにしろ、中国から漢字文化を取り入れ、咀嚼し、思索し、漢字をひらがなに作りなおし、話し言葉にはカタカナを作り、漢字に訓と言う日本の読み方を作った。仏教文化も、儒教、道教、朱子学、陽明学、本草学、ほとんど学問は、中国、韓国から取り入れた。その時日本人は大量な知恵熱をつかったはずである。 人は、内耳にある蝸牛に有毛細胞があり、体の中で一番電圧が高く、聴覚として働いているが、そこから、微弱電流を感知して、他者の気配を知ることが出来ると研究結果がある。体の産毛も、微弱ながら気配を感知することが出来るようだ。神を感じる器官と言われた神の気とよばれる髪の毛も一役買っているかもしれない。 総毛立つ、逆髪、怒髪天を衝く。 神経の働きも、神経細胞の働きも、筋肉間の交流も電気信号に寄っている。心電図はそれを図る装置である。その電気が、薄い膜となって人の周りに固有に存在するという発見である。それを、準静電界と呼び、すべての生命に個性を帯びてあるそうだ。 犬が、主人の帰りを玄関で待つのは、数十メートル先から帰ってくる主人の準静電界を感じることが出来るからだと言われる。合気道では、その「気配や気」をことのほか大切にする。 人は、脳以外にも感覚があり、気を配る、気になる、気を付けるは、脳と連動して、体毛や、内耳の感覚を働かせていることなのだろう。また、宇宙には電界があり、人の準静電界と通じていると想像できる。その電気は単独であるわけでなく、すべての電気と何らかのつながりがあるはずだ。 それを合気道では 「絶対の天地は一つ、これを称して気と言う。我が生命も肉体も、天地の気より生じたのである。」 「無限に小なるものの、無限の集合体を総称して気と言う。天地の気を集約したものが我であり、さらに無限に集約して止まることなきところ、初めて、天地と一体になり、気の本質を体得し得るのである」とある。電(いなびかり)の気とはよく名付けたものだ。 準静電界のこれからの研究は、人の成り立ちから知らしめると思える。雷の電気的衝撃で、生命の始まりがあったとする研究は、それを示している。雷の電気的衝撃で有機物質が生まれ、最初の生命体と言われる細胞が電気を帯びて発生する。(深海の高熱が噴出している場所が最初の生命の誕生の地とも言われている。宇宙から飛んできたと言う科学者もいる) 最初の細胞が分裂増殖して、数十億年後に人類の細胞と進化した。人の細胞は、読める程度の大きさで記述をすると、東京都の立方体ほど大きくなるそうだ。万という桁の種類のタンパク質を含んだ、脂質の膜で囲まれた、水と無機塩類を多く含んだ細胞構造、それが時間とともに変化している。この複雑な自分の細胞を理解することは人類には不可能だが、元をただせば、細胞は万世一系となっている。 単細胞から、分裂増殖して多機能細胞となっても、原初の単細胞の記憶が細胞の中に宿っている。意識として脳に記憶されているわけでなく、細胞の中に記憶が蓄積されている。電気的刺激で生成された細胞は、人類の細胞として進化しても電気的信号によって機能している。臓器が人を生かしているが、それを稼働させているのは電気信号である。 上に書いた、自然経験によって世界と一体になる至福の経験は、僕たちが電気的に生成されており、細胞が記憶する故郷としての宇宙電界を細胞が記憶の中から感じることによって、人の至福となると想像する。はるかノスタルジー。ここには意識と言うものはなく、兆に達する細胞が記憶を喚起している。その細胞自体が宇宙を故郷として懐かしむ、それを「気」と言うのだろう。電の気とはよく名付けたものだ。 「先生は偉い」という、内田樹の本に、「師匠につくと、弟子は、師匠の行動の一部始終に意味を探さなければならない。それをやることによって何を教えてくれようとしているのか?と自問自答しなければならない。」と言う。まさに、知恵熱を作り出す状態である。 先生は偉いと認識すると、弟子は大いなる学びの位置に付くことになる。その先生には誰でもよいと言う。弟子が先生と認めればそれだけで良いと言う。 個人的なことを言えば、僕は、師に直接巡り合ったことはない。どの時代でも、選ぼうと思えば居たのではないかと思うが、左脳の自意識が邪魔をしたのだと思う。読書を40歳前から初めて、必ず購買する書き手がいた。乱読し、意味不明なところは飛ばしても、指針を感じ続けていた。僕の、文章に度々名前が出てくるから、察しが付くと思うが、現実の肌合いとか、雰囲気を知らないままに、文章だけの師であるから、自分のわがままさ、マイペースぶりは変化しなかった。生ものの師に勝るものはないと今になっては思うが、いまさら無理なことなので、さらに乱読し、師の思索をなぞることで満足する方法が、僕のささやかな知恵熱なのだと思う。 近藤蔵人 平成27年8月7日
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