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掲載日:2015/6/19
「しばらくおおてないなー、あいたいなー・・・・」と電話口でつぶやく母親に、来月のゴールデンウイークは、用事があって行けないと伝える。
今年の正月におおたと思うでと言うと、「そうやったかなー」と、双方確信が持てない。
何度も行っているので解らなくなってしまう。
連休は魚釣りに行くか、仕事が入る可能性もある、そこで、加古川へ行くのは無理と考えていたが、母の言葉で気持ちがゆれるが、行かないと決めていた。
加古川へは、年に二回、正月とお盆に、家族して車で出かけていた。もう40年になる。
群馬の伊勢崎から、中央高速その時々の車で、神戸の加古川に出かけた。
家族旅行は、犬連れだったが近藤家ではそれだけだった。

大正11年生まれ92歳になる母親は、ペースメーカーを入れてからは、おさんどんはしなかった。時々散歩をし、手と脳の運動のため食卓にすわって、擦り切れたトランプを一人で動かしていた。母の代わりに姉が作る料理は、母の味と少し違っていて食べるとさみしい思いだった。
ほとんどは、その位置でテレビを見、ご飯を食べ、昼寝をした。長姉と長男3人で暮らしているが、すぐ近所には、次女と、三女が住んでいる。
そば屋の次女の旦那には週末になると好きなドライブやら、楽しみな旅行に連れ出されていた。母は出かけるのが大好きで、亡くなった父親の遺族年金をもらって生活していたようだ。
魚・肉が好物で、水分補給の点滴の為救急車に乗って病院に行くとき、「入院するんやったら、お肉食べとけばよかった」と、付き添った姉が聞いている。その治療中に脳梗塞になって人事不詳におちいった。
兄が毎週釣ってくる小魚も、貝や、太刀魚も何でも隅々まで喜んで食べた。
魚さえあればよかったが、時には、肉が食べたくなるようだった。



父は、戦後近衛兵から帰ってきて、母の実家の徳島吉野川沿いの来喜町で義父の番傘の商売を手伝った。山から移築した大きなしゃちほこの付いた家で、旅館の名前などの文字を脂ぎった番傘の紙に筆で書き、スクーターに数本乗っけて配達と営業をしていた。
その頃の母は心臓の病気で入院したり、臥せっていたりした。
40代ぐらいまでは体の弱い母だった。(父は、最後まで入院はしなかったが77歳だった)。
幼稚園の時、池田の町に入院していた母の見舞いに連れて行かれた。その病院の一列に並んだ黄色い尿で変色した小便場所から滑り落ちて、体中おしっこだらけになったことがある。母と一緒に生活できない哀しさが僕を便器に貶めさせたのだと何故か思いつづけていた。

家族の中で僕一人、小学に通う道端で急に倒れ込んだり、朝礼でへたり込んだり、熱さで意識を失たりした。
小学二年の時、コーモリガサの普及とともに番傘が売れなくなって、家族がばらばらに住むようになった。僕は大阪の父の異父兄弟に預けられたが、半年で体が弱すぎて面倒を見ることができないと返された。下痢はする、学校では卒倒がつづき、顔は青白く、覇気のない子だったそうだ。絵だけはおばさんもおじさんも描いていたので、僕も画用紙に書き散らしていたようだ。神戸が恋しくてもおかあちゃんと泣くことはなかった。母の元に帰る事は出来ないと思っていたから、表面的には辛抱できたが、身体が我慢できず苦しみが表に出てきたのだと思う。

その後、心臓弁膜症と病名を附けられ、小学の間、週一回、須磨の心臓専門病院に母親に連れられて市電に乗って注射を打ちに行った。体育の時間は、参加せず見学ばかりが続いたが、高学年になると、走ったり飛んだりはしていた。
木枯らしが吹く須磨へ行く市電の停留所で、母のコートの中にすっぽりくるまれて、寒さをしのいだ。「寒ないか?」と度々聞かれたその思い出が、母親の暖かさにつながり、女の人への思いの規範になったのかもしれない。そして、注射がこわくない子供になった。
神戸で家族そろって生活ができるようになった頃が、母の一番苦しい時でなかっただろうか。7人家族はそろったものの、父の稼ぎがままならず、半畳ほどの玄関で、お風呂の替りに温水を浴びたりした。生活費に困窮していたとき、父がいたたまれずだろうが、パチンコに通うようになったことは、母にはきつかっただろう。
その後、子供たち5人がそろって学校に通い初め父も安定してきて、家族そろって俢法ヶ原に飯ごうすいさんに通うことが出来るようになった。日曜日の楽しみだった。

中学時代の僕の写真がある。それを大きく絵にしたが、表情が乏しく内向的で、元気がない顔をしている。
大きくなって友達になったやんちゃな「かとチャン」は、この顔の子供は、行って脅して泣かしてやった、そういう顔をしていると彼が言う。
母から自立もせず、後ろに母の守りを持っていながら、がり勉然とした表情の子供に、「かとチャン」は腹立たしい思いをしたのだろう。

母と過ごすことになった僕たちは、豪せいな食事が出てこなくとも父ちゃん、かあちゃんと身近にいることに安心した。
そして、離れ離れになったときの苦しみが時には無意識となって出てきた。
夕飯時家に帰っておいでと、姉に呼ばれて大急ぎで帰った。その日は、食事の後母が親戚に行くので今日は会えなくなると聞いていた。坂道を全速で走るも下駄が外れ、前のめりに両手をついて倒れてしまった。
夕闇の中「おかあちゃん」たおれたまま「おかあちゃーん」と何度も叫ぶも、家までは遠くて誰にも聞こえなかっただろう。(中島みゆきの歌に、転んで誰かの名前を叫んだことがありませんかと歌っているところで、必ずこのシーンが思い出される)
膝に血痕を附けて泣きながら家に着くとまだ母は出発しないで待っていてくれた。
母に飛びついてウヲイウヲイと叫んだ覚えがある。

小学3年の時だった、学校から帰ったら、母が大阪の異父兄弟の家に出かけたと聞き、母に会いたくて、神戸駅まで歩き、知らんぷりして大人の後から改札に入り、国鉄で大阪まで行き、環状線に乗りかえ京橋駅で降りて、くねくねした商店街を通って、祖母の再婚した相手が経営するアパートまでたどり着いた。母はびっくりして僕を抱きかかえ、一度しか一緒に来たことがないのによく来たなーと感心されたが母に会いたい一心だった。
その頃は母の不在が一番こたえたのだとおもう。
半年会えないで苦しんだ経験が、そうして出てきたのだと思う。
包容力が欠如していると感じるのは、抱擁されたい思いの方が強いからなのか?



母は、大声を上げて怒ることはなく、何かで切れるなど考えられない人だった。
繊細というほどではないが、やさしい温和な性格だった。
子供のやることには、ほとんど口出しせず、にこにこ見守っていた。
母が小言や、躾らしきことをしないので、父が代わりに細かいしぐさや、動きや、行儀にうるさかった。怒られたあと母は「お父ちゃんにちゃんと言っとくから」と何度もかまってもらった。
すき焼きなどが食べられるようになっても、ほとんどが鶏肉のすき焼きだったが、時々出る牛のすき焼きでは、後年、家族にクーちゃんが一番肉を食べたと、非難された。
母は一口も食べず子供が食べている嬉しそうな顔を見られるだけで幸せだったのだと思う。
子供に、命令もせず、自分のしたいことを口には出さず(見ているだけでよかったのだろう)がみがみと怒ることがない。

孫におばあちゃんはやさしかったよと伝えると、だからおじいちゃんは馬鹿になったの?と驚くことを言った。「だって、子供は親に怒られ大人になっていくんだよ、誰にも怒られないと子供のままだよ」と正論らしきことを言う。
だけど、やさしいおかあさんに育てられると、やさしい子供になるよ。
怒ってばかりいるお母さんに育てられると、子供も起こってばかりになるんじゃない?
と言うと、「それでおじいちゃんはやさしいの」と分かったような口を聞く。
若いころは知らないが、父とケンカをしているところは記憶にない。
自分の意見を言うことがない母親だった。
それでも、にこにことして僕たちに接していてくれた。



男は、中年になっても、老年になっても少年らしさが残り、あげく女性には、男ってバカよねと言われる。
成熟して世間を切り盛りする大人は、全員が成熟する必要はない。
子供心が残った大人は、女性たちが言うように大多数は何者にもなれないかもしれないが、負の経験をし、悲痛な出来事があっても、その子供心が残っているかぎり、そのなかから、立派な思想やら、素晴らしい芸術が生まれる。
これは、歴史が証明している人類の必然とでもいうものである。
数万円かけて釣れもしない魚釣りに行くのなら、5000円のお寿司を食べさせてよと言う発言は男の内面に到着不可能だと思う。自然の中で、心身ともに解放される感覚が生に必要なエネルギーに返還される。

女性のことを考えれば、男と違って、娘さんらしき心根を残したまま年を召されるかたは少ないと思う。慎みも、恥じらいも、かわいらしさも娘さんらしさは演技するのが苦難なのかもしれないが、素直に意地悪ばあさんになる方が自然なのだろう。そして、彼女たちがエマニュエル・ドットの言うように権威をかさに自己主張して個人主義を謳歌すれば、女性は天下無敵である。
僕は、母は一般的で普通の母親だと思っていたが、馬齢を重ねた今考えてみると、「切れない、怒らない、命令しない」という生き方をみて、この人は権威には無縁で、娘さんの心を残して今に至っているのではないかと思った。母は特に意識することなく娘さんでいられたのだと思う。
母の幸せは「子供たちの喜びを見ていること」と思える時代の名残を生きていたのだろう。

死の知らせを聞いて、「あかんかったか。やっぱりあかんかったんかー」」と声がでた。
その日の朝いつ急変してもおかしくないと神戸から連絡を受けていた。
翌日やるべき用事を済ませ、家内と孫の文弥一人を連れて、車で加古川にむかった。
車中、亡き母のことを考えると車速が80キロぐらいになる、と、隣の家内が心配して眠たいの?また、100キロに戻し、120キロぐらいで走ると家内は安心しているが、母のことを考えると自然に80まで落ちてくる、すると運転変わろうか?と声が出る。
制限速度を守ることより、僕の体調に良い速度で走ろうとも、指示に従うことが我が家の家訓である。眠たいわけでないと言っても、100キロ以上で走らないと注意される。家訓だから僕に手の施しようがない。過去に手を出し続けたが連敗続きなのでやめてしまった。
伊勢崎では、母を思い出して感慨にふけることもなく、いろいろな記憶を思い出すこともなかったが、車中8時間の間母を考えることが出来て、なんとか弔文として話すことが出来た。

母には自分自身の幸せを感じる隙間がない。
自分の幸せは、子たちの幸せを感じることであったから、家族が離れ離れになった時、悲しい思いをしていたのだろうと今はそう思う。
みんなが、集まって生活するようになって、子供たちの言うことは何でも聞いてやろうと、思いついたのかもしれない。
母は例えば僕がホモセクシャルをカミングアウトしても、パニックになることなく、大変だけれど気を付けてと心配してくれるだろうと思う。(仮定の話です)
だが、好き嫌いははっきりしていた。
「いやや」と言い出したら変える事は出来なかったようだ。
人は、自分の生きる力をそぐような人とは付き合うべきではないと思う。
生きる力が相互に元気になる友人が良い。好き嫌いは、その判断材料なのだと思う。
自分のことを表現しなくても、好き嫌いが強くっても、母は他の母親と比べてことのほか幸せだったのではないだろうかと車中考えた。
母の人生をうらやむ顔つきは見ることがない。
常に、存在感少なく黙っており、にこにことまわりの人々の言動を聴いている。
その母の姿が、娘さんの理想として僕に宿っていても運命と言うものだからしようがない。

一つ違いの父が77歳で亡くなった後、毎日お仏壇に燈明を備え、線香を焚き、般若心経をとなえていたが、そのころから、いよいよ見る人、好奇心の人、他力の人になったように思う。
何が食べたいと問うても、何でもいいよと答え。
どこへ行きたいと聞いてもどこでもいいよと答えた。
それでも、食べればうれしそうにし、ドライブに出れば楽しそうにした。
終生痴呆症にはならず、にこにことさわやかな表情で生き続けた。



会いたいと言う電話連絡の数日後の4月の末に脳梗塞を患い半身不随になった。
当初は、点滴の針やらシートを口でちぎり、口中血だらけになったようだ。
おかあちゃんもこんな強いところがあったんやな―と姉が口にだしたが、目覚めたら、意識はもうりょうだし、手には点滴の注射針があり、何をされているのか解らなくなって暴れたようだ。犬たちが病院で注射されても、治してもらっていることは理解できず痛いことを意地悪でもされているとしか思えないのと同じ感情だったのかもしれない。
連休にお見舞いに加古川に帰り、母の病室に行くとすぐに僕と分かったようで、微笑んでくれた。(電話連絡の後、連休に行くよと言っていれば、状況は変わっていただろうか?)
関西人特有の姉の冗談に誘われて笑い、自分の名前が言える?と聞くと、「あ、や、こ」と何とか言えていた。時々の神戸帰りでも、手は握ることがなかったが、母は手を出して僕の手をつつみ込んだ。横で、姉が「母ちゃんの好きなクーちゃんが帰ってきたで」と話しかけると、にこにこ笑っている。
しばらくしたら、リハビリが出来る施設に転院しますと聞かされて、加古川を後にして伊勢崎に帰ってきた。みんなには、そんなにひどくないよ、歩くリハビリしているからと、伝え、安心していた。
だが、90も過ぎればどんな急な変転があるかもわからないと心の隅にあった。

母は、香川県香西(こうさい)村の出自で、地方豪族香西族の末裔の家に生まれた。母の父親は、まん丸い顔に目鼻立ちがはっきりしており、男でも160センチに届かない小ぶりな人だった。香西一族は、すべての人が、背が低く、丸い顔、縄文系の顔立ちである。他家との婚姻でも、香西族は優性遺伝して、形質が残されるのではないかと疑う。
僕の兄も小柄で、人生のすべてを釣りに捧げ、織田作之助の夫婦ぜんざいに出ている森重久弥が演じる関西の典型を表している。彼女をおばはんと呼び、些細なことをすべて説明したがり、あほの坂田さんと同じ人種である。独り身になった後、後家さんのどんな細かな要求でも嫌がらずに親切にすることで心を捕まえ、それが兄の方法なのだが、綺麗な方でも、気を許すようだ。
葬式に来ていただいた、母の弟の虎雄さんも、小ぶりで丸顔、80まで磯釣りに通った豪傑で男前である。僕の兄弟、虎雄さんの子供たち、母の姉と子供たち見回す限り香西族っぽい姿である。この時代まで続く強烈な遺伝子があると思う。
古代天皇家に属さない、地方の豪族の一部を土蜘蛛と名付け、天皇に従わない故に成敗されることが多かったという。
香西一族も、「其の人となり、身短くして手足長し。侏儒と相類へり。皇軍、葛の網を結ひて掩襲ひ殺す。因りて号を改め其の邑を葛城(かづらき)と曰ふ。」とある土蜘蛛と考えられる。土蜘蛛は、縄文からその地に居ついた地方の豪族の事である。
その後、武士となり歴史に登場する武勲もあるようだ。
父の方は、新劇の座長であった近藤六兵衛に養子にでているので、其の前の苗字は、磯山と言った。父は魚釣りに興味がなく、定年後水彩画を描いていた。
磯山は、古代海洋民族の磯族の末裔である、多分漁師や海運業だったのだろう。
ぼくが、海に憧れる理由がなるほどと、解き明かされる。
関東から、京都に降りて、大阪神戸と電車に乗りかう人々を眺めていると、親戚の人に囲まれた感覚がする。
関東は関東で婚姻し、関西は関西で婚姻する率がきわめて高いので地方色が現れるのだろう。




もう一人話しておきたい人物がいる。妹の亭主である。
孫を連れて駆け付けた家内と僕が孫の世話が出来ない時、孫と遊んでくれていた。彼の使う語彙は、懐かしき関西語で、僕は使うことはなかったが、まわりでは冗談や本気で使われていた。
「あたまわったろか!」「あほんだら、」「おかん、おとん、」「しまいに血みるど、」
孫は面白そうに反芻しているが、帰った時には、ほとんど忘れているのか、おかん言うんやでと諭されていても、ママと口から出ていた。
関西には、関東人に憧れる僕のようなものと、関東を毛嫌いする妹の亭主の考えもある。
東京に来て、関西弁を使い続ける者とすぐに関東弁を使う者がいる。



通夜では、母の死の悲しみより、ここまでよく頑張ったね、それに幸せな人生だったねと、ねぎらう気持ちが多かった。孫があばれても、大声で笑っても、母の葬式らしく和やかな時間が過ぎた。
最後の別れの時、お棺の中で、やせ細った静かな冷たい顔に触れ、ありがとうと小声で言うと、不意に嗚咽が漏れた。64年の僕の人生を、ずっと見守ってくれた母親だった。
花びらをお棺に入れると顔しか見えなくなる。このまま焼却場に入っていく。
電話をかけると、最後には「ありがとう」と言う母だった。
母親に何かしてあげた事があったかと思うが、僕と言う形態と性格のほとんどは香西家の優性遺伝のせいで母親から来ていると思う。父からは、絵の力を授かったようだが。
ありがとうと手を合わせた。


群馬県伊勢崎に居を定めて、40数年になるが、親の死に目には会えないと覚悟とは少しオーバーだけれど、そんな気持ちでいた。それなので、長期の休みの時には神戸に出かけたのだ。
父親の時も、母親の時も死に目に会わずにお別れした。
家内の母親のときは、ベットの横の警報の音が高まっている中、息を引き取る姿を見た。
最後の息をスッと吸って、はくことなく、すべてが停止する。
たまらず「おかあさん!」と声が出た。
父親は、神戸の家族に見守られて逝ったが、母親の時は、8時まで家族がついていたが、施設の方が、後はみますからと言う言葉に一度別れて帰宅して、2,3時間後、お亡くなりになられましたと電話があったそうだ。
その後、僕に電話があった。
夜の11時頃、寝ていたら母親が夢に出てきて、顔を見せてくれていたが、何を言っているかわからない。電話の音で現れたのか、それまでに見ていたのか定かでない。
小林秀雄が母親の死は、蛍が飛んで知らせてくれたと書いていた。
最後の母親と夢で逢えただけでもありがたかった。



小津安二郎の東京物語を思い出す。
尾道の母親のお葬式に東京や大阪から駆けつけてきた子供たちは、葬式が済むと、帰る準備をすぐに始め、形見が欲しいと言いだす。
距離が離れ、その為生活空間が離れ、そうして心が離れた子供たちと老両親との相互の視線を映画は表す。
両親と気持ちが離れた兄弟を、両親と同居する末娘が憤るシーンがある。東京に住む戦死した末弟の嫁である原節子が、しょうがないのよ、私も離れていくのよ。と末娘に話しかける。同居している娘はそんなのいやよと言い切る。
親は子供を一人立ちさせることが子育ての務めである。だから、気持ちが離れてもいいのだと言う。
そう考えると、最後に笠智衆が、隣の奥さんに、「さびしくなりますねー」と言われて「そうですなー」と言う父親は、妻を亡くした喪失感は感じても、自信を持って子育てが終わり、子供は巣立ったと諦念がある姿と捉えられる。
原節子に、あんたはええ人だよ。どうか誰かいい人と結婚して落ち着いて欲しいと父親が言うと、いいえ、私は決して、彼だけのことを考えているんじゃあないんですと泣き崩れる。そうだよ、そういうもんだよ。あんたは正直な人じゃと父は言う。父は、原節子をいとおしく思っていても、自立してほしいと要求する。
父には、傷もなく、子に頼ることもない、独立した人格がある。
一時代の確かな父親像である。
両親は、誰かに頼ろうとして東京に出てきたのではない。
東京に出てきたのは子供たちの独立した姿を見に来たのである。
医院たって場末でたいしたことないなーと父は思うが、子供と、かつてあった親密さが欲しくて出てきたのではない。
忙しくしてあんまりかまってくれなかったが、それでも、自立し親離れした子供たちには、安心したはずである。
世界中で子供たちは両親の元から離れて都会に住むようになった。
都会では、母のことも思い出さず、一心に生きている。
その姿が「東京物語」では如実に表れている。
世界の監督に最良の映画を問うと「小津の東京物語」と答えた監督が一番多いそうだ。
母や父の立場、長男や長女、両親と住む末っ子、それぞれの立場が、映画を見た観客に伝わるのだろう。



昭和47年、僕たちが結婚式を神戸で上げて、伊勢崎の親戚たちを先に返し、数日後、新幹線の新神戸駅に父と母が僕たちを見送りに来てくれた。
満席の椅子に家内と二人で座り、ホームにいる母と父に手を振って、ガラス越しに口で小さくサヨナラをした。僕たちは21歳と20歳だった。母は49歳で、父は50歳だった。
母も父もゆっくり新幹線の発車と同じ速度で歩いて車席の中の僕たちを見ている。
つかの間だったが母は僕を注視している。そして視線が見えなくなった。
見えなくなると、自分でも訳が分からなく、嗚咽が出てきた。
だんだん声が大きくなり、
隣の席の方の気遣いすることもできず、泣きじゃくった。
家内はどうしたの?と心配そうだが、泣きやめることができず、
僕自身もいたたまれなかった。
その時は何故泣いたか、明確な答えを得る事はなかった。
その後、何度も父と母に会っているが、最後のお別れ、死に目を覚悟したのでないかと思うようになった。

遠くに離れて住むことは死に目に会えないかもしれない。
今見ておけば、その時点で見られなくてもしようがない。
あの時が、お別れの時なんだと、そんな、未来を脳ではなく身体が表現したのだろうと思っている。
だから、死に目に会えなくても大丈夫。
あの時お別れしたのだからと僕は思っていた。

近藤蔵人  平成27年6月1日 母の命日

追記

何か気持ちが片付かない物がある。
母が亡くなったのだから、それは当り前と言えばそうなのだが、何か忘れている思いがある。
歌手の中島みゆきがどんな人か知らないが、泣き歌が多い歌手だと思っている。
いくら泣いても、気持ちが晴れない人なのだと思う。
子供の頃、母親か誰か大切な人が、彼女を冷たくあしらった記憶が無意識の内にあって、恋人にも慰められないし、友達にもそれは無理なことなのだと思う。
泣き歌を作っては歌い、また、違う泣き歌を作る。
彼女は、その頃に帰って、その大切な人に抱擁されて、なおかつ許す気持ちがおきないと一生晴れないのだと思う。それが、僕にもある。
何か対処することはあるかもしれないが、まず文章に書けて発見できたことは、一つの進歩だろう。
自分は、さびしい思いをした。苦しかった。
それでも、それは母や父のせいではない。
時代のせいと言えば、そういうものだと思う。

泣き歌を探し回って音楽を聴いている。
キーシンの月光が、悲痛そのものの演奏だと人に紹介するが、僕だけがそう感じているようだ。バレー、ピナ・バウシェのカフェミュラーは、絶望を表しているが、使用されている音楽が、イギリスのパーセルのオペラ「ジドとエナシス」と知り、探し回って聴いている。
短調の悲しい表現が音楽の良さだと思っていた。
でも、そうでもない、長調の歌にも、たとえば、リリークラウスのモーツアルトは、愉悦に満ち、すばらしい。人が良く表れていれば、良いものはたくさんある。
それは、自分が泣き歌が好きだと認識して最近分かったことだ。
子供の頃の記憶はあなどれない。
無意識の中に入って、ほとんどの人は現在に影響する記憶があるのだと思う。
自分の理解できない癖となっていつまでも現れる。
なにか障壁があるとその場所に帰って不可解な行動をしてしまう。
尾道の立派な父親にはなるすべもない。

おとなびて、別れは済ませたと書いたが、本当は、母のお棺に抱きついて、お母ちゃんどうして死んだん。
お母ちゃん、あの時どうして僕を大阪にやったん。と叫べばよかったかもしれない。
韓国で泣き女を連れてきてお葬式をするように、みんなで、泣き叫べば良かったかもしれない。
そうすれば、気持ちが浄化されて、楽になるかもしれない。
日本人は、喜怒哀楽を人一倍感じるのではないだろうかと思うけれど、それを表現することはなく、その処理の仕方を、内面に任せすぎなのかもしれない。
欧米の映画も、中国、韓国映画も、怒り狂う姿を、当然として現す。
見ている我々は、気持ちのいいものでない。やめてほしいと思う。
子供たちや家内にさえ、大声は出したくない。だから、内に溜まることが多いのだ。

僕の場合、父や母のせいではない。
だから、僕の胸の内で、解決しなければならないことがらである。
吉本隆明が述べるように、良く生きようとするなら運命として享受して、それから、一歩を踏み出さなければならない。





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