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(壱)未来が不安な要素で充満すると感じる今日この頃、思い出すと、私たちの昭和は、一升瓶の中くらい入ったお酒を「これだけしかあらへんけど?」と、隣家から急な訪れ人の為に借りることができました。醤油も時にはお米も、目分量で借ります。そして、少し余分目に返しました。みんなが同じほど貧しく、それを分け合って共同的に生きていた。根拠はないが希望があったと思いだします。家長は、現在では母親だが、当時まで延々と父親が権威を誇っていた。父親主体の家族団らんが普通の家族スタイルでした。父親の食べ始めるのを待って皆でいただきますと言い、仕事から疲れて帰ってきた父親のお皿には、子どもたちとは違うおかずが並んでいました。ちょうど映画「3丁目の夕日」が、昭和30年から40年頃だから、映画の子供たちが僕たちの世代とかさなっています。貧乏だが貧困とは感じなかった時代です。 小学生になってテレビを買ってもらい、手動で絞る洗濯機が現れ、家族で神戸六甲山系の俢法ヶ原に飯ごうすいさんに出かけ、新開地で聚楽館の映画を見、湊川温泉で泳ぎ、大通りにあった中華料理屋春陽軒で豚まんとラーメンを食べて帰った。父が嬉しそうに食べている姿を思い出します。年に数回だけの楽しみでした。 池田隼人内閣が、所得倍増計画を実行し、庶民にはその通りに推進されていた時代です。現在から思い起こせば、いくらか暖かい生活があったと思う。 正月には、家族揃って母親が作ったおせち料理を食べ、丸餅の入った白味噌のお雑煮、子供たちもおチョコでお屠蘇を口に含んだ。お年玉はその後父親から厳粛な顔をして渡され、お年玉を目当てに親戚回りをした。身近に両親がいて、兄弟がいて、あいにく僕は気分を露にする父に反抗してばかりいたが、母親はなにかれと見守ってくれていた。東京オリンピックが始まるころになると、協和的貧しさが隠蔽されはじめた。 腹巻とステテコ、シミーズ姿、ほとんど裸のような姿で、うちわで扇ぎながら戸外の縁台で将棋を指し、夏の蒸し暑さを凌いでいたが、行政当局に見栄えが悪いと禁止された。30代40代のお母さんが、シミーズ姿で胸をはだけて赤ちゃんにおっぱいをあげている。それもこの時代までです。(中学生の僕には刺激が強かった) 日本には、「世間」というものがあります。世間に申し訳ない。世間に示しがつかない。世間体が悪い。若いころは、当然のように世間なんて意味がないと、強がっていたが、空気を読む、一億総何々と、世間とは言わなくても、場の雰囲気に同調しなければ仲間になれないことは、いまだに続いています。和を尊ぶのも世間があるからだろうと思います。皆がやらなくなれば、一人だけ胸をはだけておっぱいをあげるような目立つことはできません。それが世間の目です。 3・11の後、現地では略奪も起こらず、整然と列をなして給水車に並んでいる人たちを見た諸外国の人たちは、日本人の気質に驚いていました。個人主義に生きている彼らは、生存は自己責任と捉えているので、暴力ざたにならない日本人を不思議に感じるのでしょう。日本の習慣である世間には、困った人を助けるとか、よそ様に親切にすることが含まれています。誰かが、理由なく助けてくれることがあるのです。 認知科学の所見では、人から親切にされた人は、その人だけでなく、赤の他人にも親切にする。人から不親切にされた人は、逆恨みするだけでなく、赤の他人にも不親切にすると言うことが明らかにされました。この、親切にされてうれしいという感情とムカつくという感情に、その後の行動のパターンが決められています。日本人は、親切にされるという経験が蓄積されている。だから、他人に対して、略奪はできない。(全てとは言えないけれど) アラブの残虐な革命児たちは、イラク戦争で雨あられのように降ってきた爆弾に子供や両親を殺され、保証のあった部族もいたようですが、欧米の誰にも親切にされた経験がない部族の人たちだそうです。彼らにはISの指導者が与えた生活費が唯一の拠り所となり、ムカつく米英仏に対して、亡くした子供たちや母親の復讐しか考えることができないのだろうと思います。認知科学が明らかにしたように、彼らに対して誰彼と親切にすることがあれば、彼らのやり方も変わっていたと思う。と、鹿島茂が指摘しています。 日本の中で今政治的に変化させられている気がかりなことは、「自己責任を考えろ」ということです。それは、欧米のように、個人がよければ良いということに向けているように思います。このままでは、世界に不思議がられた、他人を気遣う世間という伝統も消滅するのではないかと危惧します。親切にされる経験が、乏しくなるのは目に見えているのですから。 私たちの生まれた昭和25,6年から30年、40年と思い出すことが出来れば、何が変化して、何が物足りないのか解るような気がします。 オリンピックまでが、懐かしい一時代でした。 (弐)家族の形態は、おおよそ4つに分けられるといいます。■親に権威があり子は親に従順。兄弟間にも長子相続と格差がある権威と不平等な家族。ドイツや日本など。 ■同じく親に権威はあるが、子供たちには平等な家族。平等を重んじた社会主義の国に多く中国やベトナムや旧ソビエトなど。 ■親にも、兄弟にも権威や格差のない、平等主義核家族。だから「自由、平等、博愛」を唱えることが出来た北フランスやエチオピアなど。(日本では平等は難しい概念だ) ■子には自由を与え自立させるが、平等にはさせない。絶対核家族。自由を尊ぶイングランドやアメリカの家族。 エマニュエル・トッドのこの研究は、家族の形態によって、社会のシステムまで影響するというものだが、この人口学によって、乳幼児の死亡率からソビエトの崩壊を予言し、アメリカの凋落も予言している。 日本やドイツは、権威を認める独裁体制の生まれやすい家庭環境になっている。親にも長男にも従うことが日常的であれば、権威のある指導者に従うことに、懐疑的ではなくなるのだろう。そのために相手が何か特定できない世間という概念にも従うことが出来るのだろう。 日本の親に孝とは、親が間違ったことを言ったら、一度は静かに指摘して、それでも聞き届けられない時には、素直に親に従うということだ。それは間違っていると思っていても親の言うとおりにする。個という概念もないし、平等など考えられない世界であった。 長く続いたこの方法が、家族の安定のためには大きな貢献をした。 戦後生まれの団塊の世代は、伝統的な封建的権威を尊重し不平等な家族主義を普通のことだと継承しつつ、戦後アメリカからやってきた個人主義や平等主義の影響を免れなくなってくる。憲法による平等や、あまねく人権尊重するということに徐々に馴染んできたのだ。そして、親には従順でも、私はこう感じる、こうしたいと思うようになってきた。そのうち、親の権威は意味のないものだと反抗し始め、長年続いた父親の権威が揺らぎ始め、自分たちが親になった時には、権威も欲しいが、平等にも憧れるものだから、男は権威を振りかざして偉そうにすることが恥ずかしくてできない。 こうして男の権威主義は崩壊した。 家庭に権威主義が伝統的な日本では、権威を表すことのない父親の代わりに母親が権威を主張することになる。思えば、数万円かけて釣れもしない魚釣りに行くのなら、5千円のお寿司を食べさせてと、男の釣りを理解できないリアリティーな女性の天下となったのだ。 先日90歳の母親が亡くなった文章を読んだ。母親と同居していた長男夫婦は、老人施設から出ることとなった母親に辟易して、兄弟に母親を託した。母親は、面倒見が良く、家族だけが生きる支えで、その他のことには興味もなかった。 子供達・孫たち・嫁のおこないを注意し、事細かく指示を出し続け、はた目にはよくできた母親に見えたかもしれないが、母親は、可愛がること、思いやることは苦手だったのではないかと思う。しかし、母親は子供を愛していると確信している。 子どもの大学進学も、家業のため否定し、遊び事も家業の邪魔になることは禁止した。亡くなる数日まで、意識はしっかりしていたから、子供たちには、厳しくしていたのだろう。子供たち孫たちにとって、指示通りに行動しないと小言が増えるので、こどもたちに行動の自由は与えられなかった。母親と同じ行動、同じ感覚、同じ考えを子供たちに求めているのだ。母親にとっての愛と共感の家族である。 そのため、いさかいが絶えなかった。(個人主義の時代が来なければ、いささか状況は変わっていただろう) 子供たちが行動することに自由はなく、何かするにも、母親の指示通りにしなければならなかった。自分の意志で行動するのでなく、言われたことを嫌々することになるので、不機嫌を育てているようなものである。 早くに亡くなった父親は、優しい人だったから、口うるさい家では晩酌せず、お客のうちで御呼ばれした。お返ししなければならないのにと母親は、帰ってきた父親に小言を言う。母親は家業の存続を一人で心配したのだろう。 個人主義と平等の恩恵を受けた子供たちにはその心配は理解できなかった。老人施設に入れられると、施設にない食べ物をすぐに持ってくるように催促した。体も意識もしっかりしていたので、無理に入れられた腹いせに命令したのだ。 期間が決まった施設から出るときには、常日頃から急に切れて怒りをあらわにする母親に、ほとほと困り果てた長男夫婦は、兄弟に母親の世話を頼んだのだった。子供も母親を尊重していればこういうことにはならなかっただろうが、事態は簡単にはいかなかった。 長男夫婦は結婚して親と同居して、すぐさま嫁、姑のいさかいが始まり、長男夫婦プラス孫たち対、母親の戦いは、入院するまで続いていた。母親と子供たちには親密さはなく、敬意を払わないお互いを恨んでいた。 母親が病院で息を引き取ると、担当医が解剖お願いできませんかと、その場で言った。世間の為になったことがないから、お願いするかと一同ですぐさま意見がまとまった。彼らは、母親はどう思うだろうか?とは考えなかった。母親が同意するはずはないとみんなは知っていただろう。我々は、生涯この母親に、自由を奪われてきた。このままで、成仏されても悔いが残る。ここで、切り刻まれることで我々の、積年の鬱憤が晴れるというものだ。そうすることによって初めて仏様として敬い、成仏して欲しいという気持ちも生まれる。無意識のうちにそう決断したのだろうと思われる。 火葬の後、ホッチキスのたまが遺骨の中多数現れ、内蔵の代わりに詰められた新聞紙は、跡形もなく燃え尽きていた。新聞にエセーを連載している柴田秀人さんという方が、私は医者の父親を憎んでいた、で始まる文章に、親が亡くなった時、彼が解剖献体を決めた。人々の為になるならと書かれているが、何か文章が所在無さそうで、善行をしたので、嬉しそうにも読めるが、復讐した快楽と読めることができる文章と僕は読んだ。人はそうして、平衡点を探すのだ。 考え方も違う、共感もできない、それでも敬意さえ持ち合わせていれば、自分の思うとおりにしようとはしなかっただろう。思いやりに満ちた母親を持った子供は、その母親の解剖などかわいそうで考えることはできない現実もまたあるのだから。 この母親は、多分可愛がられずに幼少期を過ごしたのだ。可愛がられない子は、可愛がり方を知る由がない。全ては、可愛がらなかったその祖母のせいである。そのまた母親も可愛がらなかったとすると、誰のせいになるのだろう。ただ、自分で可愛がられなかったことや、思いやりの少なさを、自己意識するしかないのだろう。 吉本隆明が、「いい生き方をするには、その人と母親との関係で形成されてきたものに忠実に生きていく以外にない」と言う。 「性格形成は、赤ん坊から14,5歳ぐらいまでの母親の影響が一番大きい。運命を形成する性格的な部分は、前思春期までに決まってしまい、それを他人は動かしようがないし、本人もなかなか動かすことができない。どう生きるのが自然であるかも、本人にしかわからない。」と書いている。その後、例えて、「貧しい生活を送った人が、将来お金持ちになりたいと思うことは、運命に逆らっていない、上手く成功して、お金持ちになったら、それは非常に立派なことである」と説明している。また、大学教授が階段の下から女性のスカートの中を撮影した事件があったが、教授になるほど知識も努力もある人でも、この問題は本人の意思の問題ではなく、育てられ方の問題だと思うと言う。 可愛がられた子供は、常識を携えて成長する。甘えたい子供を無視して育てると、長じて異性への執着が強い。子供の考えを無視して育てると、依存性になるしかない。 子供の面倒を見ない母親が時にはいるが、殺人者か芸術家にしかなれないと言われる。安全基地として母親が存在しないと、様々な性格の癖がついて大きくなる。芸術にはそれらが役に立つと言われるが、生活するには、障害や苦痛が多すぎる。可愛がられた子供は、常識を備えて成長するが、長じて、母親幻想に取り付かれる。母親には女性が成るが、すべての女性は母親ではない。 妻たちが、男は子供だよと言うことがあるが、男は妻に母親を捜す悪癖を持つ。 佐野洋子は、子供の頃、母親の手をつかもうとして、母親にチェッとつぶやかれて手を振りほどかれた。それ以来、母親が認知症になるまで、親密な会話をしなかったと書いている。 母親は、家族を一番大切に思っている。そのため、すべての時間を割いて、家族のことに注意が向いており、気がついてしまう。しかし、注意の一言は、家族の不満を助長することにしかならない。家族への愛情と思っているものは、本人だけの思い込みでしかない。愛と共感を理想とする家族形態は、共感を求める権威者の思惑が強力なら、子供たちは従うしかなく、あげく、お互いを傷つけあうことになる。 「子供たちには、ただ敬意を表すこと」、と、内田樹が、子育てを相談した母親に伝えていた。家族は、肯定してくれない母親には、親密に話しかけることはできない。親密や和合しようと思えば、自分がないことにして相手の気持ちになって考え行動することだと仏教では教える。気づいた本人が他に命令することなく自分で行動すればいいと言う。 自分を変えると、自分がなくなると思うのだろうが、小言を続けて他者を変えようとするより、それは些細なことだと自分が変わる方が楽かも知れない、が、ことは簡単ではない。思いやりのある母親であれば、自分の意見に従わせることより、相手の気持ちになって、したいことを助けてやるだろう。その上、事細かに指示を出して、諍いを起こすことはない。 使うティッシュの紙の枚数で小言を言って、相手が虫の居所が悪く怒り散らして、その日口も聞かないことが、建設的であるはずはない。ほとんどのことは、どうでもいいことばかりである。諍いのない家族形態の方が、いかほどか大切だろう。人は、今ある自分を肯定してもらいたいのだ。肯定するのは、かつての母親の務めであった。 「かあちゃん! かあちゃん! なんてええ名前やろう」と、子供が詩にしている。 子供たちは、感じたいのだ。母親が自分を包んでくれていると。 だが、権威が自分に集中していることを無意識に知っている現代の母親は、ヤクザの親分子分のような関係から逃れられない。母親に個人主義と権威が同居すると、家庭内では天下無敵になってしまう。自分の不安も、怒りも、嫌悪も包み隠さず、周りに表現する。自分が感じたことは、全て真実なので、表現し発散しなければ、生きている意味がないと考えている。子供を肯定するより先に母親である自分を肯定し、言うとおりに行動しろと、権威を振りかざす快楽に浸っている自分には注意は向かない。 これほどのことをしなければならないほど、母親が最も人生の生きづらさを感じているのかもしれない。 フランス映画の「マイ・マザー」は、19歳の監督が母親と自分の葛藤を描き続けるが、親子のいさかいのシーンに、親の言うことが聞けないのかというような、権威を象徴する発言は聞かれない。大喧嘩はするが、それは個人と個人の喧嘩だ。フランス映画では、親が権威を傘にかけるシーンを見ることがないと思う。家庭内ではみんな平等なのだ。 イランの監督が作ったパリでの映画に、フランス人の奥方と、元の夫のイラン人と現在付き合っているイラン人との心理描写のシーンがあるが、パリジェンヌの奥方は、すべて自分の感情を表現するが、イラン人の彼らは、女性が自己表現することに怒りを表さずに聞き入れ、女性の特質と観念しているようである。イランの男性の寛容さには感服するが、個人主義に慣れ親しんだパリジェンヌの気質は、今世界中に広まっているように見受けられる。 地域によって、家族形態は一様ではない。日本の近代は、父親の権威が家族の象徴だった。それが、戦後徐々に崩壊していった。大量の商品の販売のために、核家族に分裂させ、個人主義に貶めた資本主義の影響だという。 フランスのように、長年個人主義で社会が成り立っていたわけでなく、急な、個人主義への変遷は、我々の、生活の方法論にまで成熟させるには長い時間が必要だ。会話を重ね、口論を積み重ね、罵倒してでも本音を伝え会いたい個人主義社会は、そのような言語表現の語彙がある。会話が成り立ち、私はこう思う、お前はどう思うと発話できる。(西洋の映画では、主人公たちは必ず怒りをぶつけるシーンがある、それが子供でも) この国は、「みなまで言うな」という国である。「いらぬ口は聞くな!」「口は災いのもと」と、会話しないで、相手を思い図ることを大切にしている。「減らぬ口」「口汚い」「口から生まれた」と、表現を避ける言葉が多い。自我に執着する不幸を諌めているのだろう。 一人で生活して、一人で自我に耽っていたいが、災難などがあって大勢のなかで住むことになった時、自我がない私を想像すると楽になる。わたしは世界を感じ、空気を感じ、雑音を感じるは、共同生活では生き難くする原因でしかない。集団で居住する体育館の中を想像すれば、人いきれが臭いし、うるさくて眠れないし、と、感じれば感じるほど生き難くなる。社会の中のこの感覚は邪魔者である。 そんな自我を持たない私になると仏教では教えるがどうすればいいのだろうか。 (参)山本夏彦翁言うところによると、妻が最低だから交換しようと思っても、次も最低が来るに決まっているという。それは、自分も最低だから解る、と手荒なことを言っている。人が作り出すものには最高のものがあるが、人そのものは、間違ったり、偉そうにしたり、欲どうしかったり、品が無かったり、食い意地が張ったり、自分の思うようでないと我慢がならなかったり、怒りっぽかったり、悪態をついたり、せせこましかったり、意地が悪かったり、小言を言い続けたり、無視したり、嘘をついたり、羅列していくときりがない。その上、意味もないダジャレを言ったり、面白くもないギャグをする。 そういうままならない人類に、規則や規律を増やし続けて、自力で最高になれとは無理だと思う。日本では、法律は出来事の後に作る。西洋と違って、理念から作るのでなく、一つ一つ事件の度に作り続ける。飲酒事故の後、10も20も気をつけなければならない事項が増える。 日本では限りないほどの抑圧事項をつくり、そのため生命感を損ない、生きにくさが増える。現代の閉塞感の大きな原因の一つだと思う。 時計にウオータープルーフが付いていても、原子力電源を、耐水性にできなかったおかげの事故だった。信号だと思っていつまで待っても変わらないなと思っていると、一時停止の交差点だってこともある。我々は、落語の、はっつぁんやくまさんのようなものなのだ。 年上の友人が、60になったら遊びの為にと退職した。僕の仕事中温泉行くぞーと訪ねてきても断るしかない、そういう状態が続いて、彼は軽い鬱になってしまった。彼の仕事中は、苦虫を噛み潰したような顔だが、一緒に魚釣りに行くと、うすのろのばかのような幸せそうな顔になる。そんな彼が死んだら僕は泣くと思うと彼に伝えたことがある。釣りの旅では、お前はマイペースだと彼に言われ、親分はわがままだと僕が事あるごとに言い、くまさんはっつぁんに成就しに行く。 その彼が、わがままを通せるクルーザーを買い、釣りに使うようになって、僕は、船になんかに乗らないと、一緒に行動することが少なくなった。 彼には、かつて釣りに行った新潟の山奥で、愛犬を失踪させた事件がある。彼を探し続けて餓死しただろう愛犬の怨霊が、その後、船にいたずらしたり、家に住みついて、人に危害を加えたが、家人は座敷わらしだと言っていくらか嬉しそうだ。僕はこの亡くなった犬に接触したことがある。椅子に座って談笑していた僕のふくろはぎに体を擦り付けてきたのだ。帰り間際あれ犬はどこに行ったと問うと、犬などいないとそんなことがあった。証明不可能なわざわいが頻繁に起こっている彼の事態をどうすべきか迷っているが、僕の思い込みだけということもある。 親鸞の自力とは、絵をこういう風に描こうと意識することで、そのうち自分で描いている感覚が無くなって、自然に手が動き、何かに導かれて描いている感覚を、他力といい、最低のままでいいから、他力だけで生きよと言っている。 小説家も、プロットだけで仕上げた小説には傑作は少なく、筆の進むままに書いた物に良いものがあるという。賞をもらった「穴」という小説も、はじめ一言だけ決めて、あとはなるに任せる他力だと言っていた。親鸞の考えは今でも通用する。 意識で最低の自分を訂正することが不可能なら、可能性のある他力に頼れと言うことだ。確かに、無意識から現れる行動には、はっとさせられること多いが、生活をするには自力の意識が必要だ。しかし、はっつぁんくまさんペースぐらいが人にはちょうどいいのにと思う。世間は緊張しすぎなので、あわせて自分も緊張すると他力にはなれない。 英語でお気楽と言う意味のハッピーゴーラッキーは、ハッピーはラッキーを呼ぶという。日本でも、笑う門には福来たるという。はっつぁんやくまさんのようにお気楽に機嫌よくしていると、良いことが続くとどこの国でも教えているのだ。 自分は最低なんだから無理だよと言える年代に差し掛かって来たのだから、偉そうにする必要なんかない。悪人も愚者も、幸せになれると思索家親鸞が保証している。ただ、くまさんはっつぁんは、長屋があるから生存できる、これは忘れてはいけない。 親鸞は、比叡山で子供のころから修行を続けたが、煩悩も愛欲も修行によっては消えず、修行によって悟りを得ることは不可能だと、山を下り、修行をしなくても悟りを得る方法があると、法然の教えに学ぶ。仏教では、愛欲の戒律は釈迦によって細かく決められている。寝ているとき上から女人が襲ってきても,射精すると追放、挿入だけでは謹慎と現実に沿ってきめられている。汝姦淫するなかれと、概念的に言うことはない。 女犯は、このように禁じられているが、彼は各地で、妻帯した形跡がある。むらむらしたり、抑えられなくなる性欲は、悪徳と決められているが、それでも、救いの道があると考えを突き詰めた。自分で何とかしようと思うところに、偽善が隠されていたり、他者との衝突が起きたり、不可能にさいなまされたりする。そのままでいい、そのままで幸せになることがあると、彼は考える。 もし親を殺した人でも救われるのかと問うも、悔悛して師に付き従えば許されると、並外れた寛容を示す。彼は、僕たちが不完全であっても、すべての人が救われなければならないと祈願している。ただ他力だよと諭す。親鸞の教えが、イエスの教えと邂逅するところが、この考えにはある。 野生で単独で生活する生命の殺される確率が100パーセントに近いことを考えれば群れを成す100の生命は100分の一に殺される確率が減ぜられる。それゆえ住宅も集合する。人も集まる。それが群れや社会を作るひとつの理由だろうが、そのために、社会に必要なものがある。 群れをまとめるための決まり事と、群れの中の弱者を助ける相互扶助、群れの子供を成熟させる教育と、鎮魂と祈り、内田樹は、これが人間が社会を存続させるために必要なことだという。長屋の中のはっつぁんくまさんは、このシステムがうまくいっているから生活が続けられるのだ。長屋の住人は、時にはそのシステムの守衛となり、時には受益者になる。 世界は、過酷で、頼るところのない孤独にさいなまれている。その為に、嘗ては、家族愛・同士愛・コミュニティーという郷土愛と言うものがあったが、今では、自己愛、自分に向けた愛とは語義矛盾だが、自己の感覚だけが信じられるもので、その感覚に忠実でないと生きている意味まで奪われると感じる。他者も同じ自己執着にあるので衝突し、いさかいが絶えなく、孤独感はいや増すだけだ。 7歳の孫が「愛とは、自分のことを大切にするのでなく、相手の事を自分より大切に考えることだ」と何かで聞いてきて言う。西郷隆盛は、己を愛するはよからぬことの第一と自分に訓示している。自己執着は、自分はこう考える、こう感じる、こうしたい、こうなればよいと自力でなそうとすることだ。親鸞は、それをやめないと幸せになれないと、自己愛をいさめる。 個人主義による、自己執着は、自分の思う通りになると、幸せがやってきそうだが、自分の思う通りになることなどたかだか知れている。自分の思う通りにならないことに対面すると、不幸に反転する。実際この経験の方がめっぽう多い。 仕事を決めるとき、ドアの手前のノブはなく反対側にノブがあると言う。自分でやりたい仕事のためにドアは開けられない、誰かあなたの事を知っている人が、これをしてくださいとドアを開けてくれる。 ほとんどの人は、相手が選んでくれて他力で仕事を選び、それに順応していると思う。家を建てる頃になると、奥さんはインテリアコーディネイターになりたがり、一生の仕事と思うが、家をコーディネイトして数年、だいたいの人が興味を無くす。自分で選んだ職業より、他人に頼まれてする職業の方が長続きする。自力の選択は、他力に及ばないと言うことだ。 赤城山の野原を散歩して清々する。夏の海水浴、青い空が気持がいい。川遊びの水しぶき、まわりの森林などから受ける多幸感はすべて向こうからやってくる。虫がいる、海は熱い、水にぬれるなど先に不安を感じて自分で気持ちよさを遠ざけることはない。雪が降り木々も畑も白化粧。だが、心配が先に立って、美しいと感心する人は少ない。 芸術を感じるとき、美学者のリードは、自分をむなしくして絵に眺めいると良いという。そうすると、絵から与えられるものがある。先入観を持つと、見る範囲が狭められるが、開けたところへは、充分な表現者の思いが入ってくる。 音楽は、作曲家の普段の気持ちや感情や姿が現れる。心配事があって嘆いていたり、悲しくて泣き出さんばかりとなったり、怒りとなって叩きつけたり、優しい気持ちが充満していたり、渓谷を浮遊して逍遥していたり、そういう作曲家の魂が聴衆の脳裏に現れる。その上、美しい旋律とリズムに囲まれる。 この、人の思いを感じ、音楽の美しさに包まれる快楽が音楽を聴く魅力なのだ。芸術には、表現するひとの姿が見え隠れする。音楽にも、文章にも、絵画にも、表現者の人いきれが感じられる。人いきれを感じることが芸術を味わうことだろう。 クラシック音楽は、写実画家が風景の細部まで見尽くして表すように、演奏者は作曲者の表現したい細部まで、感じ尽くして演奏する。画家と演奏者は同じ位置にいる。作曲家を崇拝するか、自然そのものを美しいと感じるかの違いだけである。僕は得てして悲痛な曲に憧れるところがある。さめざめと泣きたい衝動があるのだろう。モーツアルトが、うきうきしている。小さな紫の花が咲いた野原で青空を眺めて散歩しているようだ。そこへ、生来の孤独癖が顔をだし、通奏低音となってさみしさが現れる。悲しい思いが続いているところに、かつて経験した悲痛な出来事を思い出して、全くの孤独のなかに落ち込んでくる。 見守もってくれる母親のいない、いたいけな子供のように心が彷徨する。寂しく美しい旋律が天使の涙のように奏でられる。モーツアルトが、ひとしきり落涙したあと、そこへ、野原から清らかな風が吹いてくる。心は元のように安らぎ、うきうきした感情に立ち返る。 モーツアルトの音楽はそのように現され、他力で音楽を創りつづけた。推敲したり、書き直した形跡がない。頭の中で奏でられるメロディーを出来上がった音楽として、楽譜に書き取られた。 (四)私たちは、生れてはみたけれど、モーツアルトにはなるすべもなく、他力も出来るかおぼつかない。出来うれば、過酷な人生の中にも、貧困の時にも、戦火の時にも、テロに攻撃されても、社会が不穏な方向に流されても、そして、砂漠にいようとも、海上で生活していようとも、大都会にいようとも、森の中で住もうとも、生まれたからには、母親と父親、時には兄弟姉妹が周りに入るはずである、 社会の情勢にはかかわらず、穏やかな家庭,その穏やかさを手に入れるべく家族に敬意を表し、寛容になるべく努力しなければならない。認知科学が発見したように。親切にすれば、親切が帰ってくる。西南の役を書いた石牟礼道子は、「お天道様と西郷どんがいくさをしておるようじゃ・・・」と、他人事として政治について語っている。庶民は、そんなことに関わりなく、生きていける。そして、家族の中では多様性は必然なことである。 花畑が一種類の花なら一種類の細菌で滅びるが、多種類の花なら絶滅にはならない。多種類とは全てOKと考えるのだ。 吉本隆明言うところの、母親との間に育まれた自分の気質に正直に、また、大きな傷を負っているなら、出来うるなら克服の道を探して、良く生きていかなければならない。 映画を見ると、世界中で家族の悲しみや苦しみを訴える映像がある。ほとんどの社会事象の発端は、家族間のいさかいから発していると思われる。家族には、苦痛の元も、幸福の元もあるが、自分たちが、傷つけられた歴史に固執しているばかりだと,生涯にわたって悔恨が続くだろう。それは、自分に与えられた宿命であり運命であるのだから、変えることはできない。ただ、与えられた宿命の受け止め方は変えられるだろうし、相手の境遇を考えることで許すこともできるかも知れない。未来では、そのことから離れることも、明確にすることも、諦めることも可能である。苦しんだことを、ゴミ箱の中身をぶちまけるような怒りに任せるしか方法がないわけではない。 昨年京都大学の総長に就任したゴリラ学の山極寿一は、人はゴリラの家族生活とサルの共同生活とが合体した唯一の種だという。山極先生は、昨年の総長選挙の時、学生に「先生! 僕たちは先生に反旗を翻します」と詰め寄られました。選挙の時に、いたるところの掲示板に文面が貼られ「山極先生は、ゴリラ学の泰斗である。総長などという忙しい職に就いて、研究ができないことは嘆かわしい。また、同様に、僕たちが先生に教えを請うことがなくなることが、学生生活の痛手であることを考慮して、どうか、山極先生に投票しないでください」というものです。東大では考えられない、世間を騒がせたなかなかすがすがしい事件でした。 山極先生は、人類はゴリラの家族生活で必要な共感能力と、サル社会の絶対的序列の中で個体の欲求の優先という、相容れないものを調整しながら、コミュニティーを形成したといいます。 サル社会のように個人主義が共感能力を凌駕すれば、人の社会に帰属意識がなくなり、個人の利益さえ獲得すればよくなり、人を負かして自分が勝てばよく、また、個人の生活を優先すれば人は上下関係のシステムに組み込まれやすくなります。この状態は、自己責任を唱える、現在の社会と同じように思われます。また、現政権が、推進する方向と同じ現象です。相互扶助や、共感や、同情心などは必要ないという考えです。 渡る世間に鬼はなしなんだよと、子供に諭すことはできません。 人類が家族を作り、それを社会の基本単位としたのは、人間にもゴリラと同じ平和主義的、平等主義的な側面があるからといいます。日本人は、今でもその常識が崩壊ギリギリに残っている為、苦難の時略奪もおこらず、整然と列をなすことができたのです。 小津安二郎は「生まれては見たけれど」という題名の映画を作っています。 人の世は、耐えるに苦しい過酷の連続です。 それでも、清々とした朝を迎えられることを希望して、夜寝床についてもらいたい。 2015/1/24 近藤蔵人
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