Go!伊勢崎
近 藤 藏 人 美術館

美術館(人物1)美術館(人物2)美術館(動物)美術館(風景)伊勢崎市街中遺産建築音楽と本プロフィールHome




美しいサッカー

掲載日:2014/6/25
 ある社会がパフォーマンスよく動くには、最少人数で考えて5人の仲間の内、2人は出来る人、2人は普通、1人は出来ない人で良いと言う。5人とも優秀でもよいと思われるが、優勝な人材とは、その時代にうまく当てはまった人のことで、彼らが、江戸末期に生まれついて時代の激動期に同じく優秀であるとは、言われないだろう。そのため、同一価値の者で固めることは、不利だと解る。
 人が生きている社会は、できるだけ長く存続させたい。時代の変わり目には、優秀さも変化する。刻々と、趨勢が変化する時代に、現代と同じことを続けていれば、生きていることさえ不可能かもしれない。そこで、社会には3種類以上の価値観を持った人材が必要だと言うことなのだろう。
 時代に沿った人が2人、得体が知れないがそこそここなす人が2人、何にも使い物にならない1人と、5人の社会では、こういう構成になる。

 では、出来ない人をどうするのか?会社に出てきても、釣りの話しかしなくて、営業成績はめっぽう悪い。徹マンでもして、遅刻はする、仕事中はうつらうつらしている。営業成績を上げている出来る人は、俺があいつらを食わせていると、自負している。それでも、その一人の必要性はある。
 どう必要になるかは、将来にならないと解らないが、解らない限り、解る人たちの中に必要なのだ。多分、自然社会の構成も、弱者から強者、強者から弱者と変化しながらも多様な価値を持った人たちでなっている。その多様な人達全員が、多様な社会の変化の為に必要な存在である。


 ブラジルワールドカップでは、スペインが力を発揮することなく負けてしまった。余りに大きなショックで、後の試合も、見る気持ちにならない。10年続いただろうか、それまでに、万年2位と言われ、体格差は歴然とし、それでも、コミュニケーションサッカーを貫き通した。
 サッカーは、社会の最も良いパフォーマンスをシュミレーションしている。思いもかけない惨事が起こった村で、村人が力を合わせて、危機から切り抜ける方法を全世界に見せている。その最良の方法を、スペインは実施した。
 見ていて解らないやからに、話しても解るものかという諺がある。サッカーでは、言葉など不要だ。どんな大きな強靭な相手でも、無言のコミュニケーションさえ出来れば、危機から脱出できる。言葉など返って邪魔なだけかもしれない。空いたスペースに走り込めば、そこにパスが来る、それを見越して次のスペースに走り込む。そこへ、敵が攻めてくるなら、3人目、4人目と言葉無く、パスができる。
 ひと所にとどまるのは一瞬で、次々とパスは動き回る。そこで、出来ないと思われていた一人の出番がある。パスも、動きも相手にも読まれている。だが、攻撃は先手になり、防御は後手になる。攻撃の先を読んで、防御に出る者もいる。先の読めないパス、今まで見たこともないプレーは、出来る者には出来ない。出来る者のプレーは、だいたい読まれている。読みようもない、出来ないプレーヤーこそ、この場面に必要だ。
 そして、その人のことを、ファンタジスタと呼ぶ。

 サッカーは、勝利を賭けたゲームではあるが、誰だか、美しい勝利にしか勝利の意味はないと言ったように、勝ちたい欲望しか現さないオランダのようなチームは、称賛されることはない。
 嘗て、オランダチームは、イタリアと決勝を争って、自分たちの美しいゲームに固執して、恥ずべきセンターリングを上げなかった。まことに美しいゲームであった。つないでも、つないでも、イタリアのカテナチオを破れなかった。誰もが、暗いハートという長身の選手にセンターリングを上げろと、考えたはずだ。しかし、センターリングは、脳なしのやることだと、見切りをつけていた。
 イタリアが、垂涎のチームと言われないのも、ドイツが、何回優勝しても、ファンが少ないのも、美しくないからだ。オランダは、その試合で見切りをつけた。
 南アの大会では、無様な、欲望丸出しのゲームを行った。今回も、暗いハートが、ベンチに座っていても、同じことを続けている。美しさより、勝利、それぞれの国柄のローカルプレースタイルより、勝利の為だけのグローバルな欲望スタイル、巨大産業となったワールドカップの行く末なのかもしれない。

2014/6/24 近藤蔵人







▲ページTopへ