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家に遊びに来た慶応義塾大学と一ツ橋大学の学生たちの雰囲気は、ちょっとした学者風だった。 4年間の学生生活を勉学にいそしんだのだろう。 彼女たちは、今年卒業し、それぞれの就職生活が始まった5月、一人が我が家を再訪した。 彼女は、自分の勉強したことが生かせる仕事でやりがいがあると言う。 それを聴いた僕は、「就職して、100%世俗的になる人と、生活の為と仕事はしても、思考を続けたいと思う人と、学問にしか生きがいを見だせない人がいる」と話した。 いいお話ですねと返事をかえした。 この子は、学者風が抜けて、企業人となるのだろうか?という思いで聞いてみたのだった。 オックスフォード大学に留学した人の話では、哲学や文学を博士号まで取得したあと、小学校の先生で生涯暮らすことを理想とする人がいると言う。 そういえば、漢字学者の白川静も、中学の先生で生涯を終えるだろうと何かに書いていた。 そういう世の中に潜んでいる哲人に向かってか、 思想家の内田樹が、憤懣やるかたなく、一気呵成に書いた刺激的な文章を、相当長いが引用したい。 (内田樹は、合気道と、レグイナスというユダヤ思想家を、「身体と思想」として関連させ、今では、日本の古代の身体運用が残っている能や謡まで実践研究している。食うために思想家をしている武道家と自分を位置付けている。本のタイトルに街場のと名付けるほどに、リーダーフレンドリーな文章家である。) ■ 前段略 かつて白川静は孔子を評してこう書いたことがある。 「孔子の世系についての『史記』などにしるす物語はすべて虚構である。孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早くに孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。 そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない」。(白川静、『孔子伝』、中公文庫、2003年、26頁) 思想は富貴の身分から生まれるものではないというのは白川静が実存を賭けて書いた一行である。 「富貴の身分」というのはこの世の中の仕組みにスマート適応して、しかるべき権力や財貨や威信や人望を得て、今あるままの世界の中で愉快に暮らしていける「才能」のことである。 「富貴の人」はこの世界の仕組みについて根源的な考察をする必要を感じない(健康な人間が自分の循環器系や内分泌系の仕組みに興味を持たないのと同じである)。 「人間いかに生きるべきか」というような問いを自分に向けることもない(彼ら自身がすでに成功者であるのに、どこに自己陶冶のロールモデルを探す必要があるだろう)。 富貴の人は根源的になることがない。 そのやり方を知らないし、その必要もない。 そういう人間から思想が生まれることはないと白川静は言ったのである。 同じようなことを鈴木大拙も書いていた。 『日本的霊性』において、平安時代に宗教はなく、それは鎌倉時代に人が「大地の霊」に触れたときに始まったという理説を基礎づける中で大拙はこう書いている。 「享楽主義が現実に肯定される世界には、宗教はない。 万葉時代は、まだ幼稚な原始性のままだから、宗教は育たぬ。 平安時代に入りては、日本人もいくらか考えてよさそうなものであったが、都の文化教育者はあまりに現世的であった。 外からの刺激がないから、反省の機会はない。(・・・) 宗教は現世利益の祈りからは生まれぬ。」(鈴木大拙、『日本的霊性』、岩波文庫、1972年、41−42頁) 白川静が「思想」と呼んでいるものと、鈴木大拙が「宗教」と呼んでいるものは、呼び方は違うが中身は変わらない。 世界のありようを根源的にとらえ、人間たちに生き方を指南し、さらにひとりひとりの生きる力を賦活する、そのような言葉を語りうることである。 思想であれ宗教であれ、あるいは学術であれ芸術であれ、語るに足るものは「富貴の身分」や「享楽主義」や「現世利益」からは生まれない。 二人の老賢人はそう教えている。 これが話の前提である。 私が問題にしているのは「真の才能」である。 なぜ、私が「自己評価の下方修正」についての原稿をまず「真の才能とは何か?」という問いから始めたかというと、「真の才能」を一方の極に措定しておかないと、「才能」についての話は始まらないからである。 というのは、私たちがふだん日常生活の中でうるさく論じ、その成功や失敗について気に病んでいるのは、はっきり言って「どうでもいい才能」のことだからである。 「富貴」をもたらし、「享楽主義」や「現世利益」とも相性がよいのは「どうでもいい才能」である。それは思想とも宗教とも関係がない。そんなものは「あっても、なくても、どうでもいい」と私は思う。 ところが現代人は、まさにその「あっても、なくても、どうでもいい才能」の多寡をあげつらい、格付けに勤しみ、優劣勝敗巧拙をうるさく言挙げする。 今の世の中で「才能」と呼ばれているものは、一言で言ってしまえば「この世界のシステムを熟知し、それを巧みに活用することで自己利益を増大させる能力」のことである。 「才能ある人」たちはこの世の中の仕組みを理解し、その知識を利用して、「いい思い」をしている。 彼らは、なぜこの世の中はこのような構造になっているのか、どのような与件によってこの構造はかたちづくられ、どのような条件が失われたときに瓦解するのかといったことには知的資源を用いない。 この世の中の今の仕組みが崩れるというのは、「富貴の人」にとっては「最も考えたくないこと」だからである。考えたくないことは、考えない。 フランス革命の前の王侯たちはそうだったし、ソ連崩壊前の「ノーメンクラトゥーラ」もそうだった。そして、「考えたくないことは考えない」でいるうちに、しばしば「最も考えたくないこと」が起き、それについて何の備えもしていなかった人たちは大伽藍の瓦礫とともに、大地の裂け目に呑み込まれて行った。 この世のシステムはいずれ崩壊する。 これは約束してもいい。いつ、どういうかたちで崩壊するのかはわからない。 でも、必ず崩壊する。歴史を振り返る限り、これに例外はない。 250年間続いた徳川幕府も崩壊したし、世界の五大国に列した大日本帝国も崩壊した。戦後日本の政体もいずれ崩壊する。それがいつ、どういうかたちで起きるのかは予測できないが。 私たちが「真の才能」を重んじるのは、それだけが「そういうとき」に備えているからである。「真の才能」だけが「そういうとき」に、どこに踏みとどまればいいのか、何にしがみつけばいいのか、どこに向かって走ればいいのか、それを指示できる。 「真の才能」はつねに世界のありようを根源的なところからとらえる訓練をしてきたからだ。 問題は「すべてが崩れる」ことではない。 すべてが崩れるように見えるカオス的状況においても、局所的には秩序が残ることである。「真の才能」はそれを感知できる。 カオスにおいても秩序は均質的には崩れない。 激しく崩れる部分と、部分的秩序が生き延びる場が混在するのがカオスなのである。 どれほど世の中が崩れても、崩れずに残るものがある。 それなしでは人間が集団的に生きてゆくことができない制度はどんな場合でも残るか、あるいは瓦礫の中から真っ先に再生する。 どれほど悲惨な難民キャンプでも、そこに暮らす人々の争いを鎮めるための司法の場と、傷つき病んだ人を受け容れるための医療の場と、子供たちを成熟に導くための教育の場と、死者を悼み、神の加護と慈悲を祈るための霊的な場だけは残る。 そこが人間性の最後の砦だからである。 それが失われたらもう人間は集団的には生きてゆけない。 裁きと癒しと学びと祈りという根源的な仕事を担うためには一定数の「おとな」が存在しなければならない。別に成員の全員が「おとな」である必要はない。 せめて一割程度の人間がどれほど世の中がめちゃくちゃになっても、この四つの根源的な仕事を担ってくれるならば、システムが瓦解した後でも、カオスの大海に島のように浮かぶその「条理の通る場」を足がかりにして、私たちはまた新しいシステムを作り上げることができる。私はそんなふうに考えている。 自分の将来について考えるときに、「死ぬまで、この社会は今あるような社会のままだろう」ということを不可疑の前提として、このシステムの中で「費用対効果のよい生き方」を探す子供たちと、「いつか、この社会は予測もつかないようなかたちで破局を迎えるのではあるまいか」という漠然とした不安に囚われ、その日に備えておかなければならないと考える子供たちがいる。 「平時対応」の子供たちと「非常時対応」の子供たちと言い換えてもいい。 実は、彼らはそれぞれの「モード」に従って何かを「あきらめている」。 「平時対応」を選んだ子供たちは、「もしものとき」に自分が営々として築いてきたもの、地位や名誉や財貨や文化資本が「紙くず」になるリスクを負っている。 「非常時対応」の子供たちは、「もしものとき」に備えるために、今のシステムで人々がありがたがっている諸々の価値の追求を断念している。 どのような破局的場面でも揺るがぬような確かな思想的背骨を求めつつ同時に「富貴」であることはできないからである。 人間は何かを諦めなければならない。これに例外はない。 自分が平時向きの人間であるか、非常時向きの人間であるかを私たちは自己決定することができない。それは生得的な「傾向」として私たちの身体に刻みつけられている。 それが言うところの「あるがままの自己」である。 だから、「あるがままの自己」を受け入れるということは、「システムが順調に機能しているときは羽振りがよいが、カオスには対応できない」という無能の様態を選ぶか、 「破局的状況で生き延びる力はあるが、システムが順調に機能しているときはぱっとしない」という無能の様態を選ぶかの二者択一をなすということである。 どちらかを取れば、どちらかを諦めなければならない。 以上は一般論である。 そして、より現実的な問題は編集者が示唆したとおり、今私たちがいるのが「閉塞感漂う現代社会」の中だということである。 「閉塞感」というのは、システムがすでに順調に機能しなくなり始めていることの徴候である。制度が、立ち上がったときの鮮度を失い、劣化し、あちこちで崩れ始めているとき、私たちは「閉塞感」を覚える。 そこにはもう「生き生きとしたもの」が感じられないからだ。 壁の隙間から腐臭が漂い、みずみずしいエネルギーが流れているはずの器官が硬直して、もろもろの制度がすでに可塑性や流動性を失っている。 今の日本はそうなっている。それは上から下までみんな感じている。 システムの受益者たちでさえ、このシステムを延命させることにしだいに困難を覚え始めている。 一番スマートな人たちは、そろそろ店を畳んで、溜め込んだ個人資産を無傷で持ち出して、「日本ではないところ」に逃げる用意を始めている。 シンガポールや香港に租税回避したり、子供たちを中学から海外の学校に送り出す趨勢や、日本語より英語ができることをありがたがる風潮は、その「逃げ支度」のひとつの徴候である。 彼らはシステムが瓦解する場には居合わせたくないのである。 破局的な事態が訪れたあと、損壊を免れたわずかばかりの資源と手元に残っただけの道具を使って、瓦礫から「新しい社会」を再建するというような面倒な仕事を彼らは引き受ける気がない。 だから、私たちがこの先頼りにできるのは、今のところあまりスマートには見えないけれど、いずれ「ひどいこと」が起きたときに、どこにも逃げず、ここに踏みとどまって、ささやかだが、それなりに条理の通った、手触りの優しい場、人間が共同的に生きることのできる場所を手作りしてくれる人々だということになる。私はそう思っている。 いずれそのような重大な責務を担うことになる子供たちは、たぶん今の学校教育の場ではあまり「ぱっとしない」のだろうと思う。 「これを勉強するといいことがある」というタイプの利益誘導にさっぱり反応せず、「グローバル人材育成」戦略にも乗らず、「英語ができる日本人」にもなりたがる様子もなく、遠い眼をして物思いに耽っている。 彼らはたしかに何かを「あきらめている」のだが、それは地平線の遠くに「どんなことがあっても、あきらめてはいけないもの」を望見しているからである。 たぶんそうだと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上 ■ 内田樹は、やりきれない方向に向かいそうな時代の気配に、少し、いらだっているようだ。 そのために、勢いのある文章となったのだろう。 現政権は、憲法も、法律も、メディアも思惑通りになるように解釈しなおし、そのために人選までも行った。 それでも半数以上の支持率が続き、大衆の給料を下げることによって、経済界が有利になるような政策を上げても、当の大衆が喝采を送る。 内田先生は、大衆は馬鹿ではない有効な選択をすると述べつつも、富貴の人物を、必要な人材とみなさない。 このままではいかんという思いがこの文章を書かせたのだと思う。 例えば、役場のカウンタ―内で、怒りをぶつけに来る市民の担当にアルバイトを当て、用品売り場のような時給で雇用し、その実、過去には危険手当である特別手当を支給していた部署なのだ。 ほとんどの市民は善良で、誠実だけれど、週に一人二人、殴られる恐れのない彼らに鬱憤を晴らしに来る人がいるという。10分、30分1時間不満を吐き出して帰る。 時給850円でその職をこなし、(今は役場の窓口はほとんどアルバイトである)、その時給じゃあ、一般ではもっと下げてもよいと、社会一般の低賃金の時流を作っている。 それでよいのか?と、正したいのだが、もうそういうことはいい、そういうことに言説を傾けるほどには余裕がない。 今では、富貴の人生を想像だにしない未来を見続けている子供たちに期待を寄せるしかない。 内田先生は、外車に乗り、合気道道場及び私塾を学べる私邸を数年前に建てている。 それらのすべてを、遺言で、塾生に譲るという。 自分は、富貴の人生にはまっている。未来は、富貴をあきらめた子供たちに託すしかない。 僕たちは、いつも旅を夢想してきた。 旅は、日常から、非日常へと気持ちの切り替えを行える。 解りやすく言えば、旅は日常という「飼いならされた思想」から、非日常という「野生の思想」を憧れるということだ。 野生と、認識することがなければ、ただ、家畜のような日々からの脱出とおもえばいい。 それは、僕の言っていることでなく、レヴィー・ストロースと言う学者の弁である。 家畜や、飼いならされた動物に、破壊された世界を再生する能力はない。 しかし、野生の力は、無意識として僕たちの体に隠れている。 熱いものを触ったとき、すかさず手を離す。 これは、脳の中の意識が命令してから手を動かすのではなく、 身体が判断してやけどを防いでいるのだ。 人は、脳優先で物事を考えるが、脳の機能はいつも後出しである。 脳幹や原始脳と言われる脳には、その判断ができるが、大脳皮質は、時間差があって判断する。その上固着するし、寛容を忘れるなど大脳皮質の弱点も知る必要がある。 イグノーベル賞の実験の、ラットと椿姫では、人ほど発達していないラットの脳も、オペラを感じることができた。 野生の力とは、言葉でこうだとは言えないが、このようなものだろう。 脳は日常が永遠に続くと思いたい。 また、続くよう努力を重ねても、システムの過剰な維持は、システムの劣化しか呼び寄せない。退職した裁判官の告発の本が出たが、正義をつかさどる判事や検事にして、数々の非常識を事例が示すばかりだ。 橋本治は、東海原子力研究所の臨界事故の時のことを著書に記している。 バケツで放射能水を運び多機能不全で亡くなった2人は、当然放射脳管理資格を持った有識者だったろう。その人たちが、放射能をかき回し、その為、所内は汚染が広がり被爆者を多数出すことになった。その後、容体が急変した当事者を、救急搬送するにも、放射能の事は知らせず被ばくさせ、あげく近隣の住民数万人が非難した事件のことだ。 これは、原子力が安全かどうかのレベルの問題ではなく、人に原子力を扱う力量が、変わらずあり続けるのだろうか?という問題であるとしていた。扱っていたのは、プロの原子力技術者である。その後に、福島原子力事故である。 先日の韓国客船の船長や係りの者が、乗客を救出せずにいち早く脱出したニュースを見て、カノ国は、ズサンだなーと思っていたら、福島原発爆発事故のおり、所長の指示に従わず、90%の幹部も含む所員が逃げたと新聞に出た。 それらは、国、東電がシステム維持の為、故意に隠蔽していたのだ。 自分に置き換えても、使命を果たせるか自身が無くなった。 断崖絶壁から落ちていく先頭には気づかず、ひたすら後に続く飼いならされた動物。 世界が、順調に回っているときには、綺麗も、清潔も、無臭も僕らの貴重な財産だった。 保育園児の時から、緊縛衣を着せられることになれた僕たちは、従順と努力と、現状維持だけに、尽力してきたが、いつか、世界が瓦解すると、想像しなければならないようだ。 2014/5/20 近藤蔵人
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