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「説教節を聴いていた者たちは、大男であろうと声を上げて泣いた」と言います。 その浮世絵では、鎧かぶとを付けた侍が、口を開け、涙が幾筋も流れています。 説教師たちは、漂泊流浪し辻つじで物語を語り続けました。 なにがしかの対価を受け取り、今の浪曲の原型と言えるかもしれません。 ● 今、僕たちはひとりで映画を見ていても、声を落として嗚咽としてしか泣けません。 男は、泣いてはいけないが、行動様式となって縛っています。 小沢征爾が音楽はほとんど悲しみの表現と言っている。 また、演歌は泣くための装置と、荒俣宏も言っています。 ギリシャ悲劇もありますし、日本では、平家物語です。 泣く装置が残っていても、説教節を聴いている大男のように泣いている男を見ることはありません。 大声で泣いている男を見ることに慣れていないせいで、違和感があるかも知れません。 しかし、白いお棺をかかえて両手を上げて泣き叫ぶ韓国人の葬儀の姿を見ていると、 彼らの精神の整理は、スムーズだと思わないではいられません。 笑う、怒る、泣くが字面の通りだと、人の精神は、滞ることなく健全であると思われます。 その健全のために、物語と音楽が作られた、と考えられます。 と言うか、人目を気にせず、大声で泣きたいだけのような気がします。 どんなに気持ちが良いだろうと、想像するのです。 悲劇好きと認識しますが、これでもかと泣かせる「お涙ちょうだい」は、低俗だとどこかで思っています。 この「お涙ちょうだい」とは、凄い一撃です。いつまで日本人は大声で泣いたか分かりませんが、この言葉で泣くことに恥じるようになったと思われます。 物語の寿命も尽きようというものです。 だから、現代では、物語はお涙ちょうだい的に書かない技法が必要となります。 ● 悲劇は、観衆の心の治療のために、辛苦、刻苦を描き続けると言う意味で合点がいきます。 平家物語は、滅ぼされた平家の人々との鎮魂のために「ものを語って」鎮めたのです。 説教節の小栗半官も、餓鬼阿弥の姿で土車に乗せられ、照手姫に引かれて熊野までやってきます。変わり果てた姿に、照手姫は小栗半官と認識できません。 温泉に入り治療されて、始めて焦れていた本人と解ったのです。 聴衆は「おいらの苦しみなんか大したものでない、半官や照手姫の苦しみに比べれば」と声を上げて泣かされたのでしょう。 我が事ですが、40数年前結婚式を神戸で上げて、東京に帰る新幹線の車中、見送りに来た父と母が、窓からゆっくり消えていきます。手を振り合う間もなく見えなくなります。 ホームでは老いた父と小柄な母二人はさよならをしています。その姿が目に焼き付きました。 四人座っている窓側の私とその横の私の妻。 突然、私の涙が止まらなくなり、声まで出ます。おえ、おえと泣いていたでしょうか。 妻はどうしたのと聞くが返事もできません。前の席の人のことなど気にもならなく泣きました。たぶん、父母とはこれでお別れと思ったのだと思います。 それ一度きりの涙でした。この涙は通過儀礼であったのだと思います。 父が亡くなって、死に目にも会えずに神戸に通夜に出かけても涙は出ませんでした。その分時間を繰り上げて泣いたのだと記憶しています。泣く必要をこの時感じたのです。 勝海舟がペリーのことを「大声で怒って、人格が出来ていない」と評したように、怒りを表すことも、嫌われました。 大森貝塚発見のモース教授も、時に大声を上げましたが、大声を上げない日本人に、どうして精神のイライラを解消するのか、尋ねています。 笑うことも、そんなに大声を上げてと、慎みを優先され、喜怒哀楽は心の内で感じて、身体で表現することは許されません。これが日本人の心性だと言えそうです。 ● しかし、このところ、泣く場面には行き会わないけれど、怒りを表した場面には、時々遭遇します。 クレーマーです。彼らは相手が反論する立場でない人をめがけて、怒りをぶつけています。 正論に与して怒っているわけではありません。どこかで溜まったヒステリーを発散させているように感じます。と言うか、怒りたい因子が胸に去来し続けていると、何かの拍子に爆発するのだと思います 新大久保のヘイトスピーチは、「既得権を不当に取得する人達」と言うくくりを作ったことが発端となって起こったように思われます。 新大久保は韓国人街となって、彼らのお店が立ち並んでいる。韓国料理は、時には食したくなるので、なかなかに繁盛しているのでしょう。 「俺たちは貧乏しているのに、国では日本バッシングしている君たちは何故裕福で、日本に滞在しているのか?」と問い正したいのでしょうが、それは、韓国人たちのせいではなく、日本国民に、職場と正当な賃金を与えることを止め、企業利益を優先することにこれからの日本の成長があると信じ込ませた政治のせいであると思います。 資産家に、より大きな資産の保証をして、GNPを負わせ、大多数の低所得者をより低賃金で雇用し、自国で生産できる体制を作りたいのです。(昨年超資産家は、25%も所得を伸ばしたそうです) 彼らは、小金持ちの既得権者を攻撃します。大衆は大喜びしました。我々の味方と思ったのでしょう。 大衆の為に、大阪市長は最低賃金の800円を三分割して、失業者を雇用すればよいと述べました。これは、失業者対策でなく、東南アジア並みの低賃金化のために考えたことです。小泉首相が、派遣社員を作った論理と同じです。 そして、既得権者を攻撃する阿部首相と、大阪市長は喝采されたのです。 実に不思議な現象と言うべきか、相手の計算に負けたと言うべきか? 低所得者を大量に作り出そうとする政治に、低所得者が喝采を送っているのです。 興奮したい民衆は、既得権者を攻撃する手法を真似して、既得権者に攻撃しているのです。 韓国人にヘイトスピーチするなら、まず、小泉さんや彼を動かした人達に、物申すべきでした。 また、尖閣の保安船に中国漁船が体当たりした映像に「これを怒らないでどうする」と、テレビで息まいて発言した自民党の議員がいました。彼の発言のせいではなくても、大多数の日本人は、故意に流された映像に釘付けとなり、国防観念の醸成に役立ったのです。そして怒りを表わにしました。議員たる者、怒りを表すより外交を考慮すれば、熟考するよりない場面です。 興奮材料は、国防だけにあるのではなく、サッカーを見ることでも、血沸き肉躍る魚釣りや、ミヤマクワガタ採集にも、野山の写真採集にも至るところにあります。そう言えば、サッカーの得点シーンは、大の大人が肩を組み抱き合い、飛び上がって喜びを表現します。血沸き肉躍る経験もあるのです。 ● 操作する人たちが居ることを忘れるべきではありませんし、自己の楽しみは、彼らを攻撃するために使われてはなりません。(30過ぎには自己の楽しみを持ち始めないと、定年退職から楽しみ作りは出来るものではないと言われます。) この政治が続いたら、国民のための国家は、存続できなくなると言います。 消防署が、利益の上がらない部署だと叩かれる時代です。 火事を消してやるが、と、見積書を持ってくるのです。なにがしかの手当をよこせと言うのです そうではなく、国は国民のために存在するべきです。 70年も続いた貴重な平和国家や、国民国家が、やすやすと変更されることはないと思いたいのです。国民国家の存続には、先に書いた「桃さんの料理」のように、地域のソウルフードがもっとも、力があるといいます。 ● 分人民主主義を唱える鈴木は、統一した人格は、作り物と喝破しました。 怒りっぽくもあり、優しくもあり、泣き虫であり、居丈高である人が持ち合わせている気質の全てが本来だと言う。 何も、一言で表せる人格に統一することはないと言う。 統一は、洗練された美質と何時からか思うようになってきたのだ。 喜怒哀楽は、表現しても間違いではないと思う。 ただ、長い間のくくりによって表すことができなくなっているのだと思われる。 東京の人混みで、身体で喜怒哀楽を表現するシーンは、目を覆いたくなるかも知れない。と言うか、側に近寄らないでしょう。 一度、混み合った雑魚寝の船室で、100名位居たのですが、韓国人の親子がいて、奥さんが、亭主に大声を上げていました。 日本人は、聞き耳を立てて普段より静かにしていました。(自国では、大声で注意する人がいるのでしょうが、ここでは、止せとも言いません) 韓国語なので意味は解らないが、小さな子どもが二人いて、母がわめき、父は罵倒して、子供はわーわー泣いている。 何十年も経過していても、シーンがよみがえるほど、衝撃的だったのです。 アメリカ映画でも、必ず男性も女性も怒りを表します。 子供までもが怒りを表現するのは、怒り、それを表現することは生きていく上で大切とまで考えているようです。 個人の成長のためには、自己の意見や感覚は相手を打ち負かせても意義があると言うのでしょうか。 ● 日本人は、人前では大声を上げることが出来ない。 この文明は、今変化しつつあります。声を上げる人が、出つつあるのです。 国連人権委員会での席上「シャラップ」と怒鳴った日本人は「日本は自白に頼り過ぎ、中世の様だ」と言われて「この日本ではそんなことがあるはずはない」と、退けた時に他の聴衆から嘲笑が漏れ、それに対して「シャラップ」と叫んだようです。 日本では警察が「こいつが犯人だ」と思ったら、自白にまで追い込む手法を未だに使っている。早くサインすれば帰してやる等、なだめすかして自白させる。サインしたら裁判で無罪になる確率は、99%ない。(無実でも無罪とならない) その上絞首刑も存続している。(行政、司法の止めどもない劣化です) 韓国人、中国人の差別感情は醸成されていると言う認識もありません。笑われるわけだと思います。 日本人は、ヘイトスピーチもするはずはないし、会議の席上シャラップと言うこともない時代が続きました。平和で安心で、その上寛容で、興奮は他人に向けられていませんでした。 また、都知事が、イスラムを小馬鹿にした言説も、質の低下を感ぜざるにはおれません。他国について語るには、常識と見識が少々足りなく、そのうえ偉そうにしたい姿は極めて惨めです。 落ち目の悪あがきということが見えないのです。 われわれは、歴史上はじめての少子高齢化なおかつ人口減少を迎えています。 落ち目は必然だったのです。そのための政策が、最も必要だと思われるが、誰も認識しないようです。 喜怒哀楽は、喜と哀楽はスムーズに表現できます。しかし、怒るは、その人の人格が現れます。 怒るときには、余程冷静沈着な姿勢で臨まないと、自己権力のため恫喝になったり、寛容心がなかったり、自己執着したり、馬鹿にされたと小心になったり、正当な怒りの表現は難しいものです。 武道の師が、弟子に「馬鹿者!」と怒鳴るのは、余程の訓練のたまものであるのです。 2013/7/23 近藤蔵人
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