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上流志向と下流志向

掲載日:2013/6/6

「桐島、部活やめるってよ」と、「デタッチメント、優しい無関心」

 日本とアメリカの高校生活を描いた映画です。
 「桐島、部活やめるよ」は吉田大八監督の4作目にして、昨年の日本アカデミーショ―を受賞した作品。「デタッチメント、優しい無関心」はトニー・ケイ監督二作目です。
 高校生を描いた作品では、アメリカの暴力教室など数多く製作されていて、日本もこんな風になるのかと、アメリカの先進性(良くも悪くも)に驚いたものである。映画には、時代の鏡とするという、表現に徹する映画と、楽しくて、見た後スッキリと言う映画があるが、この2作は、高校生という時代のリアリティーに重きを置いた作品である。

「桐島、部活やめるってよ」


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 「桐島、部活やめるって」は、バレー部、バトミントン部、野球部、映画部と、部活動に楽しみを見つけている子供たちの物語である。映画の初めに、「やりまくれる帰宅部と、熱心な部活動どちらがいい?」と問う場面がある。そんな女子、男子の心の動きをとらえた大学生で芥川賞を取った小説の映画化である。現代の映画として、どこにでもある高校ではなく、エリート校とおぼしき小説家の高校の物語であるところがまだ上流志向が残存している理由だろう。
 内田樹が「下流志向」を書いたように、子供たちが上流をめざすのでなく、好んで下流を目指す子どもたちの物語が、現代を表すと思っていたが、この映画は早稲田大学に入る小説家の高校時代の日常という視点で撮られている、それが、われわれ団塊の世代にも通じる、医者になりたいとか、画家や外交官や教師になりたいと思う上流志向の高校生活に近い生活状態となっている。



 社会には、カーストがあると言われる。
 この土佐の高校にも、学力、運動神経が図抜けた少数のトップのグループのカーストがあり、それが、桐島といわれるバレー部のキャプテンの位置である。映像は、彼を中心に物語が廻っていくが、彼自身は一度とて映像には現れない。登場人物は、彼の魅力に夢中のトップのグループの美少女は不在の桐島に、やきもきしている。美少女を囲む、帰宅部の女子と、バトミントンにのめり込む二人の少女の三人。
 バトミントンの少女は、桐島の代わりにバレーのアタックを受け続けるひたむきな少年に、どうしてこんなにも一生懸命になれるのか?と問いつつ彼にあこがれている。この問いが、全編のテーマとなっている。
 また、桐島の友人で、ハンサムでスポーツ万能の少年、先の帰宅部の女子が彼を独り占めしようとするが、彼をあこがれている少女は沢山いる。彼に認められたくて、彼が見えるところでサックスを吹く吹奏部部長の少女、桐島の友人は、二人の帰宅部仲間と、校舎のはずれのバスケット練習場で、バスケットをしながら桐島が部活動から上がって来るのを待っている。みんなで塾へいくためだ。彼ら、彼女らのグループは自分たちがカースト上位を認識している。



 この映画は、主人公が桐島かと思うと、不在で、この友人が主人公かと、二転するが、主人公は、桐島グループからはずれた、最下層のカーストの映画部のお宅少年たちである。教室で映画秘報を熟読している映画部部長の監督の近くで、桐島の彼女グループが、だべッているところに、映画部副部長が、トイレから教室に戻り、監督に「おまたー」と手の水滴を制服になすりつけながら現れる。
 彼女たち「おまたー」だってと水滴を落とすふりをしながら、笑い転げる。副部長「監督になっても、あいつらは絶対撮ってやらない」と気色ばむ。そして、監督に「昨日満島ひかると会ったよ」と語る。監督どこで会ったのと聞き返すと、「夢だよ」。監督執拗に、どんなシュツエーションだった?と聞き返す。
 映画部は、映画甲子園で一次通過し、朝礼のステージで全校生徒に、栄誉を祝福される。映画は、映画部顧問の台本で「君よ拭け、暑き血塩」と題されている。
 この熱血性は、馬鹿にされるし、映画部監督も望まない。監督は、顧問が言う「半径1mの範囲の映画を撮る」というつもりはなく、宇宙から来た細菌によって発生したゾンビの映画が撮りたい。と部員に掛け合う。
(だが、この映画自身は、半径1mの映画であるし、吉田監督の最初の映画のタイトルは、賦抜けども、悲しみの愛を見せろとか何とかだ。そして、この映画も熱き血潮の映画となった)
 剣道部の部室の壁の中に映画部部室があり、7,8人の部員はマンガに夢中で物申さず耽っている。部員は、顧問を無視して、監督とゾンビ映画を撮る承諾をする。その足で、校舎屋上の近未来らしき風体の階段室とタワーの前で、撮影を行おうとする。屋上には、桐島の友人に聞かせるサックスを持った部長が居座っている。場所を譲って欲しいと監督哀願するが、サックスは、涙ながらに抵抗する。これを最後と、彼に演奏を見せたいと、監督に抵抗するのだ。
 「私は吹奏部部長だから、こんなことは最後にしたいの」と目に涙。桐島の友人用あって移動すると、見ていたサックスも吹奏部に帰る。桐島の友人は、野球部に在籍しているが、部活動に興味がない。上級生のキャップテンが、試合に出てくれと頼むが、行く気がない。練習をしなくともレギュラーの位置を約束するが、行かない。彼情熱を失い、やる気が起きない。
 バスケットの力量をほめられて、力のある者はあるだけで、ない者はないだけだと、友人に告げる。現実だけを指摘する桐島の友人。ある日の塾の帰り、夜遅くキャップテンが素ぶりをしているところを目撃する。気づかれないように、あわてて姿を移した彼は、何を思って隠れたか?後日、キャプテンに質問する。

 「キャップテンは夏休みで部活卒業だと思うが、どうして今でも続けているのですか?」

 キャプテン「ドラフトが終わったらね」
 「どこか言ってきているのですか?」
 「どこも来ていないけれど、ドラフトが終わったら」と、坊主頭で、野球にしか神経を使わない風のキャップテンの言葉に、彼、途方に暮れる。

 桐島屋上に現れると言い、皆が屋上を目指す。屋上では映画部が、流血の準備と、落ちてきた隕石と、部員一同演技しているところを、監督が撮影している。カメラの前に、桐島の友人、3人が現れる。撮影は中止され、桐島はどこだと聞かれても、彼らには桐島と言う人物に興味もないし、知りもしない。
 カースト上位に興味のない映画部監督。そこへ、女子たちも現れ、バレー部一同も走ってくる。桐島の不在に、バレー部ゴリラの血がのぼって、隕石を蹴飛ばす。様子をうかがっていた怒ることのない監督が、「あやまれよ!これは大切な隕石なんだ、あやまれよ!」とゴリラに詰め寄る。
 乱闘になりかけるが、監督、意を決して、部員のゾンビに「彼らを食え!襲え!」と命じる。部員達ゾンビの姿勢で彼らに襲いかかる。監督カメラを回し続ける。スクリーンには、本家のロメロのゾンビと同じシーンが、内臓をえぐられ、首筋にかみつかれ、足を食べられるシーンとなり大団円となる。
 バックには、吹奏学部が練習しているローエングリーンの曲が大きな音で流れている。
(吉田監督はインタビューで、ここのところは編集していて目がうるうるしたと述べている)
 映画部員取り残されて、後かたずけしている。
 「ここで生きるしかない、ここが我々の生きる場所なのだから」と、台詞の練習を聴いていた帰り際の桐島の友人、
乱闘で壊れたカメラに、「見せて」と近寄る。
 「デジタルと違ってフイルムだから画像は汚いけれど、歴史が続いてると感じるんだよ」と監督説明する。
 映画について嬉々として話す。彼が写しているカメラを「逆光だから」と監督取り上げ、上から下に取り始める。
顔を映しながら「かっこいいね」と撮り続けると、「僕はだめだよ、だめなんだよ」と顔がゆがむ。
 「どうしたの、大丈夫?」と監督とりすがるが、彼、屋上を後にする。
 校庭では、夕暮れに包まれてライトに照らされた野球球児が、声を上げて練習している。桐島の友人の後姿と、校庭と、野球部の練習風景が写され、彼が、もう一度、情熱をかけて、野球を始めるのだなと、思わせてこの映画は幕を閉じる。

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 吉田監督は、半径1mの青春映画を撮りたかったのだと思う。取り立てて下流志向な高校生でなく、彼彼女たち自身が上流に位置するその彼彼女たちは、団塊の世代が好む、ノスタルジーあふれる物がたりの主人公となった。
 僕たちは、いちずに情熱を傾ける生活にあこがれながら、出来ずにいた。絵を描き、テニスをし、それでも僕の時代は、うやむやとしたものがあった。彼氏を思い、彼女を思い、それでも、まじめな高校生活であった。希望と挫折を行来し、勉強をし、また、怠惰な生活に耽り、友達と海にキャンプに行き、六甲山に初日の出を拝みに登った。
 それらを通り過ぎて振り返ると、高校生活は、いちずさが、情熱がまだあったのだと、記憶されている。
 この映画の最も象徴的なシーンは、屋上に全員集まる乱闘のシーンだ。バレー部のゴリラたちが手を上げ、映画部の部員たちに襲いかかっていると、帰宅部の女子、「いけ!」とか「やれ!」とかつぶやいて興奮している。
 バレー部桐島の控えの選手にこがれているバトミントンの少女、帰宅部女子をにらむ。それらを同時に感じていたバトミントンのもう一人の女子が平手で帰宅部女子をたたく。
「ぱし!」
 いちずな情熱は、人々を優しくさせ、思いやりを持たせる作用がある。叩いた少女は、帰宅部女子に「ごめん」とあやまり、帰宅部女子何故叩かれたか不明の顔。叩いた少女は今美少女と騒がれている橋本愛が演じているが、彼女も叩いた真意を理解していない。彼女は彼がいるが、監督とは中学からの同級で、監督のナチュラルな行動に無意識に引かれているのだ。監督たちの情熱に魅かれて、知らずにひっぱたいてしまった。
 いちずな情熱を愛した少女たちが、帰宅部女子の意地悪な視線を懲らしめたシーンである。映画を鑑賞するひとびとは、高校生の情熱や、リアルな日常生活に、ノスタルジーを感じ、かつて経験したそれぞれの高校生活に思いをはせる。彼らの情熱に、そして情熱から離れてしまった桐島の友人に成りきって、もう一度情熱をと、自分にも置き換えて考え込んでしまうのである。

(桐島の友人役、映画部副部長、監督たち若き役者に良き未来あれ!)

「デタッチメント、優しい無関心」




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 トニー・ケイ監督は、一作目「アメリカンヒストリーX」で、ネオナチに心酔する若者をとりあげた。若者たちは、興奮したくてうずうずしている。そこから悲劇が訪れるやもしれぬ想像力は、未だ育っていない。複雑な世界から、手を差し伸べるのが教師の役目と、さげすんでいた人種であった黒人の教師に、未来の感じかたを教わり、主人公は更生する。
 2作目の「デタッチメント」は、教師の目から高校生を見つめる作品となっている。
 この映画で監督の資質が花開いた。かつて、オトラント城奇談を書いたウォールポールは、「世界は、考える者にとっては喜劇となり、感じる者にとっては悲劇となる」とうたった。そうだ!感じる者にとって、世界は悲劇なのだ。
 ソフォクレスが、ギリシャ時代に定めとしての悲劇を書いたが、トニー・ケイ監督は、現代の悲劇を、下流志向の人々の悲劇として造形した。考える者にとっては、どの国も、戦火は交えないといいながら多大な軍事費をかける無駄さに呆れかえり、感じる者にとっては、現代は異常な両親に育てられた異常な子供の物語であり、異常だよと、両親にあたっても、両親も異常な祖父母に育てられたから、それぞれ、自分で決着をつけるしかない。



 参観日に、親は誰も来ない学校、授業が成り立たない騒々しさ、授業をボイコットされた教師の虚無、乳首の見える洋服に自己実現を目指す少女、教師は、性病に侵されたヴァギナの写真を見せて、未来を想像させる。
 勉学に励んで、将来をつかみ取るという発想がない、下流志向の生徒たち。最低の学力しか発揮しない生徒に、将来の希望をたずねると、「歌手になるか、モデルにでもなる」と答える。
 「勉強もしない、努力もしない、ふてくされているだけではモデルにもなれないし何にもなれない。コンピューターに仕事を奪われて、子供だけは作れても、最低の生活しか未来にはない」と、教師は嘆き、どうして将来をすてるの!と悲嘆にくれる。

 日本でも、アメリカでも下流志向の子供たちであふれている。努力して未来を築こうとしないのだ。両親にも、子供を慰撫し、気力を高める力はない。子供たちは、消費世界の中で、国家を上げて消耗材の一つとして扱われている。子供たちを最低の賃金で使用するには、最低に落し込む必要がある。子供たちは、授業中遊びまわり、自分の成績を上げるより、他人の成績を落とすことに夢中となっている。ユニクロの社長が言うように、年収100万の人材を作る必要があるのだ。
 大阪の市長は、最低賃金を下げて、三人で分ければ、三人分雇用出来ると言う。国家は、国民の為にあるのではなく、企業の為に存続するようになった。池田隼人内閣で、所得倍増計画をなし、終身雇用など国民のための政策は過去の物となってしまった。国民国家と呼ばれる国は、世界から取り残されてしまったのだ。企業が繁栄すれば、国民も潤うとされた資本主義は、企業が世界企業に変身することで、米国企業のスコットランドへの何百憶ドルもの納税のように、一円でも安い税金の国に移動する。その企業は、米国の公聴会に呼び出され詰問されていた。
 しかし、企業論理としては、金銭が一番だとしたら、安い国税に移動するのは、気の狂った話ではない。ただ、彼らのために、政府が政策を立てることが問題なのだ。

 日本で開かれたアフリカ会議で、日本から何兆もの供出されるお金は、国民に帰って来るお金でなく、グローバル企業が利益を上げる為に使われるだろう。終身雇用から、企業がよろこぶ契約社員制度に移行させ、暴動の起こる国で操業するより、低賃金で採算のあうようになれば、日本国に戻りたいのだ。
 国税を払わない企業の為に、使い捨て出来る子供をつくる学校制度もつくられ、電気料金値上げを理由に原子力発電も継続することとなった。子供たちは、企業にも政府にも無関心で、あげくに最低生活しか営めない未来を選んでしまった。



 19世紀ゴシック小説を書いたウォールポールは、セレンディピティー「思いがけない物を発見する能力」を発見し、考える者には世界は喜劇で、感じる者には世界は悲劇と見抜いた。だが、時代は150年も前である。ひとびとは、生来の悲劇を持って生まれ、150年後の現在にも悲劇はいやまして存在する。

 この映画では、主人公の教師は、7歳の少年時代、母親の自殺を目撃した。全裸で口から泡を吹いて倒れている母親を見てしまったのだ。母親と祖父との関係が、原因のようであるが、真相は知らされない。
 彼の脳裏に、母親が現れる。頭をかかえながら、その少年時代の生活の映像が白昼夢としてあらわれる。彼にあこがれる親に許されない写真を撮る少女は、彼の写真の顔面を白く塗りつぶして現象する。
 深夜彷徨する教師は、バスの中でフェラチオをする少女と乗り合わせる、目撃した教師は、顔を押えて涙ぐむ。少女は、客に叩かれ、代金を取り損ねる。
 たまらず降りた彼の後を、口元から血が流れる少女が付いてくる。一回100ドルと、教師にせがむが、教師は離れる。翌日、深夜帰宅途上に少女が待ち伏せている。
 空腹だからお金が欲しいと言う少女に、「何か食べ物がある」と、自宅に入れる。ソファーに掛けた少女の股間から、血がにじむ。強姦されたのかと問うも答えない。教師、オキシドールで治療し、シャワーに入れる。
 少女は、新しいシーツにくるまり居つくこととなる。アパートで客を取る少女に教師は「君が望むなら何をしてもいいが、ここではやめてくれ」と、客を脅し代価を少女に渡すように声を荒げる。
 少女は居着き、夕飯など作るようになる。教師の祖父が入院する病院で、祖父は教師の亡き母親が現れたと、度々口にする。教師が母親の声音で祖父に許しを与える。祖父はそれを聴いて安心し、すやすやとまどろむ。そばで聞いていた少女に、教師は始めて、小さい頃の境遇を話す。

 教師にしか本音で会話の出来ない写真家の少女、教師に抱きついて告白するも、教師が拒絶したと思い、教師の退任の日、目前で自殺する。教師は、ふさぎ込み、居着いた少女を養護施設にあずける。少女、泣き騒いで、渡さないでと懇願し、ここが初めての家庭だったと告げ、あなたを愛していると叫ぶ。
 養護施設の二人にはがいじめにされて少女は連れられる。後日、HIVの検査結果が出ましたので、至急来て下さいと、電話ある。少女は教師と検査を受けていたのだ。



 世界は、悲惨だ。哀しみに満ちている。どっぷりとつかった悲哀の世界は、時に表層に現れる。我々は、この映画を見て涙ぐむだろう。嗚咽となって、声をひそめるだろう。HIVの少女を迎えに行く教師、教師を見つけて走り寄り、飛びつく少女。
 映画は、教師のモノローグで終わる。エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」を朗読する。教室は廃墟と化し、散乱したイス、机、教科書だけが悲しげに朗読を聞いている。

 我々には、下流志向の意識は存在しなかった。頑張れば、一段上の社会生活が出来ると思っていた。小学生のころは、ノーベル賞をもらうと誓、中学になると、勉強さえしてれば、地位も上がり、望むことが出来ると思っていた。
 高校で、異性に目覚め、社会のほころびに気が付き、それでも、世界は開けていた。同級生に韓国の子がいたり、貧しい子供もいたが、表面的には、僕らと変わりはなかった。そのうちいじめ問題が発生してきた。子供たちは勉強することへの未来性が薄らぎ、何か興奮することに楽しみを見出した。落ちこぼれな生徒は、いつの時代にもいるだろうが、同級生をいたぶる楽しみを発見した子供たちは、家庭と社会と時代が生み出したものだろう。
 このあと勉強もしない、授業中騒ぎ、動き回り、授業が成り立たない教室が増えてきた。いじめもなお続き、家庭では小言を言ってもらえるのは、まだましな家庭で、放っておかれ、友人と言える者もなく、性欲だけには敏感な子供たちの時代となってしまった。助けたいと教師はもがいている。他者を拒絶する彼らには、時間しか救いはないと思われるが、その時には、子が出来最低限の生活しか営めなくなっているかもしれない。子供が成長することの困難さを改めて感じさせられる。



 養老先生「子どもたちを、原生林に一週間でも放っておけば、元気になる」と言う。人は、人間対人間だけの生活が人生ではない。何でも思うようになる都会の生活が、唯一ではない。海があり、山があり、魚が泳ぎ、鳥が飛んでいる。海水浴、山登り、さかなつり、昆虫採集、バードウォッチング。思う通りになる都会で、思うようにならないと歎くなら、思うようにならない自然に、思うようならないのが普通だと、馴染んでみるといいと思う。

2013/6/6 近藤蔵人







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