小林吉太郎氏の撮影記(本文から転記)学校から帰るとカメラ・フラッシュをつみ、自転車で境町から伊勢崎へ、そこから自転車で本庄、伊勢崎など各家庭や工場をまわり三週間かけて撮影しました。当時高校二年、すっかりあがってしまい緊張の連続、職人の方々に注文をつけ、無我夢中の撮影体験でした。充分な各工程の撮影ではありませんが、当時の銘仙が作られる様子を読者の皆様に少しでも感じていただければ幸いです。 |
小林吉太郎氏の写真集・ねんねこ袢纏「空っ風」には、昭和中ごろの華蔵寺公園の風景が数枚収められています。その中で、今は消え去った貴重な光景を写した写真が2枚あります。華蔵寺公園のオートレース1枚は華蔵寺公園で行われたオートレース。撮影年は昭和29年で小林吉太郎氏は高校生。当時私は5歳でしたが、華蔵寺公園は我が家から徒歩数分の距離だったので、毎日の遊び場。オートレースを見学した記憶はありませんが、この場所は覚えていて、元野球場があった場所です。現在はそのまま遊園地になっていますが、北東角などに当時の痕跡が残っています。この写真には後方全体に松林が写り、手前が平坦地になっています。この地形は記憶を辿ると一か所、現在の遊園地北入り口付近から南東方向を眺めた写真と思います。 現在の遊園地北側駐車場には一塁側のコンクリート製観覧席があって、観覧席の数か所には松が残され、子どもに取って段差が高過ぎる階段を走るように昇り降りして遊びました。よく怪我をしなかったものです。この写真には写っていませんが、写真右奥には大きなスコアボードが立っていて、その裏側も遊び場でした。「ワカマツ」などの広告が貼られていたのを覚えています。「ワカマツ」って何でしょう。クスリ? 話題を写真に戻すと、スクーターや3輪自動車が写っています。当時、「ミゼット」と言う3輪車が走っていましたが、この車もミゼットでしょうか。もう一台はスクーターのようです。いずれもレトロ感がタップリと漂っています。 華蔵寺沼に浮かぶボートもう1枚は華蔵寺沼に浮かぶボートの風景です。撮影年は同じく昭和29年。撮影ポイントは沼の北側の土手、現在のジェットコースター北側入り口の少し西側と思います。当時、この場所の石垣伝いに沼に降り、中の島まで必死で泳いだことがあります。当時、夏の水泳(当時は「水浴び」と呼んでいました)は、華蔵寺沼よりも水が澄んでいた粕川が主でしたが、華蔵寺沼の方が近いので時々は泳ぎました。このころ、沼の北側(現在の水生植物園)には湿地帯があって、北半分は蓮田、南半分は沼になっていました。華蔵寺沼と湿地帯の間にあるこの土手を当時は「なかどて(中の土手)」と呼び、沼の西側の堤防を西土手(にしどて)と呼んでいました。中土手北側の沼の水深は浅く、寒い朝には凍ることもあって、長靴スケートを楽しんだ記憶もあります。 沼で泳いだことも長靴スケートをしたことも、親は承知していたのでしょうか。 沼と遊園地の間の南北道路も、この当時は歩道もなく狭い未舗装道路で、道路と沼の間には松が一本立っていて、写真左後方にその松が写っています。 写真に写るボートは娯楽の少なかった当時において、貴重な娯楽施設でした。沼の南東隅に桟橋があって、乗る瞬間にボートが左右にユラユラと揺れるのが怖かったものですが、ボートで沼を何周も漕いで回る楽しさの方が勝り、幾度となく乗りました。 こんな思い出を呼び起こしてくれた2枚の写真。当時高校生だった小林吉太郎氏に感謝しています。(2017/2/23 記) |
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掲載の経緯21世紀銘仙 〜いせさき併用絣を紡ぐプロジェクト〜を推進する過程で、責任者である金井珠代さんが、知人から預かったのが当写真集『「空っ風」ねんねこ袢纏』でした。写真集には昭和時代の子供たちや日常の生活風景、祭りの様子など全8章が収められ、最後の章で「伊勢崎銘仙の出来るまで」と題して、伊勢崎銘仙・併用絣の各工程の作業風景が掲載されていました。撮影年は昭和30年(1955年)。反物の併用絣の製造が途絶えてから約半世紀が経ち、その復活を目指した今回のプロジェクトに取って、非常に貴重なシーンが何枚も収められていました。写真集を確認後、金井さんは早速に発行者・(有)スタジオ90と連絡を取り、東京のご自宅を訪問して、小林吉太郎氏ご本人とご家族と面会しました。面会では、撮影当時の伊勢崎市や銘仙の製造に関する話などを伺い、帰りには、当著作で使用した写真を含む昭和時代の様々な写真も貸していただきました。 当ページでは、ご本人とご家族の承認のもと、『「空っ風」ねんねこ袢纏』の最終章「伊勢崎銘仙の出来るまで」の写真を紹介するものです。面会時に借用した他の写真につきましても、後日、別ページで紹介します。(2017/1/9 記) |
本の概要サイズ:縦×横=235mm×258mm 全168ページ |