3 鐘 楼
当鐘楼の平面は、(略 左記図)ようである。屋根は、入母屋造り瓦葺で、袴腰のついた本格的な鐘楼である。この鐘楼は、低い自然石(玉石)を積んだ基壇上に立つ。袴腰は地伏と笠木の間に下見板を張ったもので、竪の押縁で押える。上層の縁腰組は、中備(なかぞなえ)に板蟇股(現在は間斗束になっている)を用いた和様出組とし、縁の高欄をはね高欄にしている。
柱は下層を八角柱、上層を円柱とし、頭部に粽(ちまき)をつけている。柱頭には頭貫を納め、唐様の木鼻(拳鼻(こぶしばな))を出し、上部に台輪をのせる。柱上の斗組(ますぐみ)は、平三斗組(みつどぐみ)とし、中備に板蟇股を置く。屋根は、二軒(ふた
のき)半繁垂木で深く軒を出し、ゆるやかな反りを持たせているので、その外観は大変美しい。
当鐘楼は以上のような意匠上の特徴を持つので、建築様式は比較的質のよい和唐折衷様式である。
建造年代については、棟札や墨書などのように、建造年代を直接示す資料を残していない。しかし、寺伝によれば安永四年(一七七五)四月、竹芳寺十三世角堂瑞鱗住職の代に、中島伝五衛門が願主となり檀家を募って梵鐘と共に、鐘楼までも喜捨したものという。なお、梵鐘には、「安永四年夏四月良辰」の文字を残し、建築の細部様式にみる名種の特徴からみても、当鐘楼は安永四年に建造されたものとみてよいであろうと考える。
なお、本堂は当寺に残されている『上毛国郡波郡連取風土記』(写本)によれば、駒井右京親昌によって、寛文二年(一六六二)七月に建造されたもので、その時の奉行は、小田切新左衛門、久保田平右衛門、久保田清左衛門、中島太郎左衛門、小林権左循門の五氏で、本堂ばかりでなく山内に諸堂坊舎を建造したとある。しかし現在、寛文二年当時の建造物と考えられる遺構は、本堂だけである。この本堂も調査時には、内外とも新建材による激しい改造を行っていたので、復原図採取はとても無理な状態であった。(桑原)(『伊勢崎の社寺建築』(伊勢崎市 昭和58年)158〜159頁
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上 東からの鐘楼(平成11年5月 改修前)
右 竹芳寺鐘楼復元平面図(『伊勢崎の社寺建築』 158頁 |
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