( )は原著ではルビとなっている。[ ]は引用者の注
三 和 鐘
鐘の材質
和鐘は青銅の鋳造品である。まれに鋳鉄製のものもあり、むかし京都府醍醐寺には銀鐘もあったというが、記録に見えるばかりで現存しない。その形状は第二図(左図のこと−引用者)に示すように、上部に二つの獣頭で構成された懸吊装置があり、下部に円形コップを逆にした発音のための鐘身部がある。その各部分にはそれぞれ特有の名称があるので、以下それを説明しよう。
竜頭
最上部の半環状懸吊装置を竜頭(りゅうず)という。二個の相反する獣頭をその頸でつないで環状とし、その口唇で鐘の上蓋に接している。その環の上部に蓮華座上に安置した宝珠を置き、その宝珠を囲む火焔が翻って上で尖端を形づくる。それを竜頭というのは俗称であって、正しくはは 蒲牢(ほろう)というべきである。支那の古い伝説によると蒲牢とは竜の九子の一つで海辺に住む動物の名である。その蒲牢は鯨を畏れる。鯨が蒲牢を襲うと大声で鳴く。そこで鐘頭に蒲牢をつけてこれを打ち大声を出させるのだという。梵鐘の異名を蒲牢というのはそれに由来する。また鯨にちなんで梵鐘のことを華鯨、長鯨、巨鯨、鯨鐘などというのもその伝説から生まれたものである。少数の例であるが竜頭が獣頭形でない鐘がある。主としては小型鐘であって細工を省略したのが主因であるが、もっとも簡単なものは棒を折り曲げたような簡単な門状のものさえ見られる。
笠形
鐘身上蓋の竜頭のついている部分を笠形または饅頭形という。いずれもその形状によって名づけたものである。奈良時代から平安時代の大部分は笠形にその周縁と同心円の紐が施されていて、それによって笠形を上、下の二段にわけている。これはこの時代の鐘の特徴の一つで、無銘鐘の時代の判別の一つの手掛りとなる。笠形は無地なのを通例とするが、時には銘の一部が施される。和歌山県泉福寺鐘の笠形には梵字の法華曼陀羅が陽鋳され、兵庫県願成寺鐘では梵字四字が陰刻されている。和歌山県金剛峯寺の大塔の鐘の笠形には鐘の鋳造顛末を記した銘とともに多数の道俗人名が刻まれている。
袈裟襷
鐘身の外面は下端の「駒の爪」を除いて縦横に走る紐によって大小、長短の区画でおおわれている。その区画によって構成された文様全体を袈裟襷(けさだすき)または袈裟形(けさがた)という。おそらくその意匠が僧侶の袈裟を連想させることから起った名であろう。和鐘の大部分は袈裟襷を持っているが、室町時代以降には時としてこれを廃しているものがある。ことに江戸時代になると朝鮮鐘の影響を受けて袈裟襷のない鐘がしばしば作られる。
上帯、 下帯、縦帯
袈裟襷の上端と下端とに鐘を一周する帯があって、その位置によってそれぞれ上帯下帯、と名づける。この上下帯には文様のあるものが相当あって、上帯には飛雲文、下帯には唐草文を容れるのが通例であるが、時としてはそれらに代って独鈷[天竺の兵器で、煩悩を破るという意味。両側に爪が一つを独鈷−引用者]や三鈷[同じく爪が三つあるものを三鈷という−引用者]の文様をもってしたものがある。上、下帯間を縦に四等分している帯を縦帯という。鋳物師の間では「六道」(ろくどう)というのが通称である。この縦帯のうち二つは竜頭の長軸線上にその中心を持ち、他の二つの中心をつらねる直線は竜頭の長軸線と直角に交わるのが古来からの仕来りである。唯一の例外は東京都井上ふみ氏蔵鐘で縦帯は三つしかなく、したがって以下に述べる乳の間、池の間、草の間もみな三つずつになっている。
江戸時代になると鐘身表面を縦に五等分した五縦帯の鐘がかなり作られている。
乳の間・池の間
上帯の下にある横長の四区画を乳の間または乳の町という。ここには乳という突起物が配列されているからである。しかし、乳の間に乳のない鐘もある。山梨県向嶽寺鐘がその一例で、そのほか千葉県眼蔵寺鐘を始め江戸時代にかなり多く作られた百字真言鐘では乳の代りに梵字を陽鋳している。
乳の間の下にあるほぼ方形の四区画が池の間である。銘文
は主としてここに表わされる。梵鐘の鋳型の外型を作るときに |
陽鋳の文字の木型をここにいけ込む(押し込む)ことからいけの間といい、池の字をあてたものであろうとは香取秀真氏の説である。銘文の代りに、仏、菩薩、天人などの像や池中蓮華図などをここに鋳現わすことは平安時代以降往々行われるが、江戸時代の鐘には飛天像を陽鋳したものが少なくない。
中帯・草の間
池の間の下、撞座の左右に鐘身を一周している二段の帯を中帯という。中帯は通例無文であるが、文様を施した鐘もまま見受けられる。京都府鹿苑寺鐘には巴文[ともえもん。うずまき]が、
石川県本念寺鐘には雷文[いなびかりのように屈折する文様]が施されている。
中帯の下、下帯の上に乳の間よりさらに小さな横長の区画があって草の間とよばれる。これを草の間というのはここに唐草文様を鋳現わすから、唐草の草の字のみをとって草の間というのだろうと香取秀真氏は提唱した。この区画に唐草文を施すことは室町時代以降のことであるから、その名称の発現の時期もほぼ堆測できよう。
駒の爪
鐘の下端を一周している幅の広い突起帯を駒の爪と名づける。この部分がその名にふさわしく肥厚してくるのも主として室町時代以降のことで、平安時代以前のものにあっては、たんに二条またほ三条の紐からできているにすぎない。(略)京都府笠置寺鐘は駒の爪の下面に六箇所の切り込みをこしらえて荷葉[かよう。蓮の葉]に見立てた六葉鐘である。これは支那鐘の形状を模倣ようとした勧進上人重源の創意になるものが、上人の没後この様式をならうものはなかった。駒の爪を波状にして荷葉の形にした鐘ほ江戸時代にしばしば作られている(略)。
乳
乳は乳の間の内に各区同一数を娩則正しく配列した突起物である。若干の鐘に無乳のものがあること乳の間の項に記したとおりである。乳の形状は円丘状、円柱状箸の簡単なものから、
茸(きのこ)、蓮蕾状など複雑なものまで多種多様で、概していえば古いものはど簡素で、新しくなるほど複雑になる。一区内の配列数は鐘の大小により一定しないが、一般的にいえば最小数は一区内三段三列(すなわち一区内九個、四区合計三六個)で、最大数は一区内四段九列または六段六列(すなわち一区内三六個、四区合計一四四個)である。そのほか室町時代の末期から始まって江戸時代に流行した首八乳がある。その場合一区内五段五列個二五個四区合計百個と四縦帯上部に各二個計八個とを合せて首八乳となり、百八煩悩になぞらえたのである。(略)
撞座
鐘身側面縦帯下部に撞木を受けるために設けられた蓮華文の座を撞座という。時には銃とも八葉ともよばれる。蓮華文は各時代の瓦当や磬[中国古来の楽器]、鰐口[社殿等の前にある中空で組み紐を叩いて鳴らす]等の撞座と共通した意匠からなり、その弁の数は八葉のものが多いが、十葉、十一葉、十二葉から極数は十六葉まである。
撞座は相反する位置の二個所にあるのを通則とするが、稀例としてはぜんぜん撞座のないもの、一個所のもの、三個所のもの、四個所のものなどもある。江戸時代の鐘では五撞座のものもめずらしくない。撞座の位置は通例鐘身高の二二%前後のところにその中心をおくが、古い時代のものほど高く、時代が降るにつれてしだいに低下する。奈良時代の鐘では平均三七%、時としては四〇%を超えるものもあるが、鎌倉時代の鐘では平均二三%内外となって、その後は二二%前後のところに定着する。この事は伊東忠太博士が看破したところで、梵鐘の年代を決定する有力な指標の一つである。いま一つ撞座が示唆する時代判定の基準となるものは撞座の位置と竜頭の方向の関係である。平安時代中期以前の鐘のほとんど全部は平面的に見た場合、二個の撞座の中心を結ぷ直線と竜頭の長軸線とは直角に交叉すること[右図A]に示すとおりである。
ところが、それ以後の鐘の大部分は同図Bに示すように撞座
の中心を結ぶ直線は竜頭の長軸線と一致するように変化するの
である。以下前者を古式とよび、後者を新式と称する。(以下 略原文縦書き。なお、禁則処理ができないため、句読点の位置が通常の文章とおりではないなどに留意してください。)
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