勝山神社は粕川と広瀬川の合流地点から1kmほど北方にあります。500mほど北西には保泉ニュータウンがあります。神社南側の2つの川に囲まれた区域には水田が広がっています。 勝山神社の起源は和銅年間(708〜715)、穂積親王の東征に遡るとのことで、その昔、この地を穂積と言い、天正18年(1590)に保泉村と改め、勝山神社が村社に列せられたとのことです(詳しくは由緒参照)。 勝山神社を最初に訪れたのは2007年12月。境上武士から粕川を渡って境保泉へ入り、神社前の細い路を通過した時にちょっと立ち寄ったように覚えています。以来、粕川堤防上の道を通って御嶽山自然の森公園へ向かう時などにたまに立ち寄って、しばしの時を過ごしています。 (2013/2/6 記) |
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拡勝山神社の位置 |
唐金鳥居と拝殿 2013/2/3 拝殿 2013/2/3 拝殿の龍の彫刻 2007/12/23 |
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拝殿を西側から 2013/2/3 拝殿と境内を南西側から 2013/2/3 拝殿西側脇の鞘(さや)殿 2007/12/23 拝殿東側脇の鞘(さや)殿 2013/2/3 |
唐金鳥居と拝殿 2013/2/3 拝殿 2007/12/23 拝殿を南西側から 2013/2/3 |
両脇に鞘殿を備えた拝殿 2013/2/3 |
金井烏洲天井絵の標識柱 2013/2/3 →金井烏洲の紹介 境内。東の道路沿いに桜 2007/12/23 庚申塔群(境内北東の入口脇) 2013/2/3 本殿の裏に並ぶ末社 2013/2/3 |
境内西側の林 2007/12/23 拝殿(右)と本殿(左)を西側から 2013/2/3 参道の西側に一列に並ぶ石燈籠(?) 2013/2/3 |
【由緒】元明天皇の御代の和銅年間(708〜715)、皇子の大政官事一品穂積親王が東征のときに当地に駐連し、皇子が常に尊崇していた天祖天照大御神と素盞鳴命を奉祀し、東征成就を祈願されたという。その跡に郷民が相談して社殿を造営し、二柱の大神を勝山大明神と崇め祭ったのが、当社の起源とされている。上野国神名帳に、「従四位穂積明神」と記されるのが当社である。もとはこの地を穂積と言ったが、後陽成天皇の御代の天正18年(1590)に保泉村と改め、明治10年には村社に列せられた。同40年6月6日、村内に祭られていた、倉稲魂(うかのみたま)命・誉田別(ほんだわけ)命・菊理姫(くくりひめ)命・建御名方(たけみなかた)命・大日め(おおひるめ)命・大物主(おおものぬし)命・少彦名(すくなひこな)命を合祀し、今日に至る。 社前にある唐金(からかね)の鳥居は、明和6年(1769)に奉納されたもので、「保泉には過ぎたるものが二つある。唐金の鳥居に四九郎先生(鈴木広川)」と唄に歌われている。 また、現在の拝殿は天保年間(1830〜1844)に、名工弥勒寺音次郎が造立したものである。格天井(ごうてんじょう)の絵画は、金井烏洲の名筆で、社務所の絵画は天田熊郊の名筆である。現在は、御祭神と社名にちなんだ厄除け・必勝祈願に信仰されている。 →金井烏洲の紹介 【主祭神】速須佐之男命(はやすさのおのみこと)【配祭神】倉稲魂(うかのみたま)命 誉田別(ほんだわけ)命 菊理姫(くくりひめ)命 大日め(おおひるめ)命建御名方(たけみなかた)命 大物主(おおものぬし)命 少彦名(すくなひこな)命 【祭日】火伏祭 (2月10日)春季例祭 (4月3日) 献灯祭 (9月5日) 例大祭 (10月17日) |