Go!伊勢崎 境・街中風景 [ 旧伊勢崎市・街中風景日光例幣使道 ]  [ Home ]



当ページ内→町屋造りや洋館、蔵絹の家赤レンガ倉庫織間本陣跡
別ページ→境ふるさとまつり境まち歩き糸市絹のまちめぐり旧 群馬県蚕業取締所境支所

掲載日:2009/9/21、更新日:2015/2/19 ●画像下の日付は撮影日
 皆さんは境の街中を歩いた事がありますか。

 境の旧市街地に限らず、車社会の地方都市においては、特別の用事でもない限りその街中を歩いてみることはほとんどないのではないでしょうか。それはそこに住む地元の人々でさえ例外ではないでしょう。

 車が人々の足代わりになる以前は、街中の人々は徒歩で、また郊外の人々はバスや電車で街中を訪れ、映画を観たりレストランや食堂で食事を楽しみ、買い物をし、そういう賑わいが街中に活気を与えていました。それはちょうど「三丁目の夕日」の風景で、街中に人々が行き来する温もりのある風景で、主役は「人間」でした。今から4,50年前の昭和時代の風景です。

 現在は移動手段が車に代わり、人々が歩くのは店舗・施設の入口と駐車場の間です。それさえもギリギリで、少しでも入口に近い駐車スペースを探し回る車を見掛けることは度々です。会費を払ってスポーツジムのルームナンナーで汗を流し、でも駐車場とジムへの行き来は最短距離を選ぶ。ダイエットのサプリを飲みながら、スーパーの買い物は入り口真ん前の駐車。こんな滑稽なようなチグハグな光景が違和感なく溶け込んでいるのが地方の車社会です。

 地方都市の街づくりと車社会との関連は切っても切れない重要な関係。

 従来は、都市計画を行う時、車社会の存在は当然の大前提であったと思いますが、それを見直す、あるいは違ったアプローチでの街づくりの流れが少しずつ話題になっています。エコロジーだけでなく長引く不況の厳しい現実もその大きな背景になっていると考えています。

 車を所有しない、通勤通学を自転車やバスに切り替える、ちょっとした距離は歩く・・・こう言った流れの理由は経済的、健康管理、環境保護に参画・・・など様々でしょうが、この不況で車を余儀なく手放す場合も今後は増えるのかと予想しています。

 各家庭で大人の数分の乗用車を所有することが例外ではない地方。購入費だけでなく、車検代、保険料、燃料費、整備費などの維持費が馬鹿になりません。職の機会が減り、収入が半減し、でも自家用車の維持費はその比率では減っていません。住宅ローンと教育費を抱えて複数台の車を所有し続けること、所有しないで済む社会になるならばそちらの方がいいことは言うまでもないでしょう。

 何やら、話が境の街中の話題と少しかけ離れてしまったようですが、このページを起こした背景となる基本的事柄で、また私が常日頃のサイクリングで街中の路地裏を好んで走る志向の説明にもなるので、敢えて書いてみました。

 さて、前置きが長過ぎたようですが、境の街中について。

 私は境の街中にはサイクリングで月に1,2度訪れますが、私の認識では車社会から見事に取り残されたような街並みが至る所に残されています。車社会として開発が高度に進んだ街区と比べれば比較にならないほどの未整備状態と言わざるを得ない状態ですが、この時代、果たしそれが未整備と言う事なのか、今改めて考えさせられています。

 「車に対して不適合」、これは「車」が大前提のこと。「車」社会が下降線の今、「車」が「」に代わるならば「適合」に転じることもあり得ます。車には狭い道幅も、人には十分に広い道幅になります。歩道がない道の隅を、通過車に遠慮しながらサイクリングしている私も、人や自転車が主役の道路が増えればどれだけ快適な事か。
 ヨーロッパの街並みを映像で見る時(残念ながらヨーロッパにもアメリカにも行った事はありません)、車道のない石畳の道路、また、広い道路の真ん中が歩道で、車は脇の道路をギリギリ1車線で通過する風景などを見て、発想の違いに驚くことがあります。
 道路事業の未整備を補う時、従来手法にこだわらず、今までよりも「」に重点を置き、不況と言う理由からではなく、未整備をむしろ優位性に変えるような発想が必要なのかと思っていいます。

 話が突然ジャンプしますが、このページを起こした側面の理由・・・それは、境の街中に残された歴史的建造物があります。


 この点についてはまだまだ知識や見識が不十分で知った風な事は言えませんが、例幣使道や町屋造り、養蚕事業が隆盛を極めた頃の個人遺産、これらの事を少し調べた段階でも、これらが現存していることの貴重さ、また、今後の保存や活かし方などの対策の難しさなど、考えただけでも私の能力の範囲外ですが、それを補うために、現存するそれら建造物や街並みを皆さんに紹介し、一緒に考えるきっかけになればと思っています。
 (2009/9/21 記)

国道354号通りに面する町屋造りや洋館、蔵




下記の画像は一部「遺産」のページと重複します。 ▲ページTopへ
何度訪れても、その度に新たに発見する境の街中の町屋造りの家や蔵。
一体、何棟の建物が残っているのでしょうか。
まだまだ現役で頑張っている建物、少し壊れかけて空家になっている建物、それぞれですが、
長野県の小布施町と負けずとも劣らない歴史を感じるこれらの建物の数。
境の街中の整備を考える時、これらの建物を大切に活かせるならば
きっと特色ある境らしい街並が出現すると想像しています。(2009/11/27 記)

国道354号沿いの町屋造りの家 2009/9/26


国道354沿いの共同無料駐車場脇に建つ蔵 2009/9/26


国道354沿いの町屋造りの家 2009/9/26

国道354号から少し奥まった所に建つ蔵
2009/9/26


国道354号から少し退いた場所に建つ蔵
2009/9/26


国道354号沿いの町屋造りの家
2009/9/26

▲ページTopへ

境駅前通りと国道354号の交差点の南に建つ蔵。
真っ白な壁が青い空に映えます。
2009/9/26


アバンセの反対側の国道354沿いに建つ商店
後ろには蔵造りの家
2009/9/26


阿原本店。国道354沿い
2009/11/23


レンガ張りの蔵
2009/9/26

国道354沿いの町屋造りの家
2009/11/23

国道354沿いに建つ蔵造りの家
2009/11/23

国道354号から少し奥まった所に建つ蔵。
2009/11/23

国道354から奥まった所に建つ蔵。
煙突は境の街中の風呂屋さん。
2009/11/23

▲ページTopへ

町屋造りの表側を洋風に改造 2009/9/13


町屋造りの家と洋館 2009/9/13



洋館の薬局 2009/9/13

境町駅前の交差点の東(ガストの西)にある町屋造りの家
伊勢屋さん(和菓子屋)
2009/9/13



ガストの東にある町屋造りの家
2009/9/13



↑の家をガストの駐車場側から。
間口が狭く、奥行きが長いのが町屋造りの特徴です。
2009/9/13

▲ページTopへ

↑の家を正面から
重量感のある屋根、落ち着いた色、格子の窓
2009/9/13


2009/9/13
群銀の駐車場北側のレンガ塀
不揃いのレンガに味わいがあります。


2009/9/13

奥まった所にある蔵
2009/9/13


錆びたトタンがレトロ、焼きまんじゅうの福島屋
2009/9/13


国道から南に入った所にある洋館
南側には焼き饅頭の「大坂屋本店」さんがあります。
2009/9/13



2010/7/31

▲ページTopへ

国道北側沿いのレンガ張り建物 2009/9/13


国道北側沿いの町屋造りの家。少し朽ちかけているのが残念。
2009/9/13


2010/7/31

店の看板がまさに「三丁目の夕日」
2009/9/13


駅南の小路沿いの家並み
買場(かいば)通り
2009/9/13


2009/9/13

2010/7/31
いかがでしたか?
今まで境の街中の国道354号を通過した人も、車を停めてじっくりとご覧になったことはないのではないですか?
たまには車から降りてのんびりと散歩してみませんか?


絹の家(境図書館の東に隣接)




▲ページTopへ
 絹の館は、明治20年、境町下武士に生まれ、機織業として成功した金子仲次郎の居宅を、仲次郎の死後、夫人と子息が境町に寄付した建物です。工場敷地も同時に寄付され、そちらは境図書館本館と駐車場として利用されています。
 下記文章は、寄付を受けた当時の境町町長・新井暢太郎氏が建立した金子仲次郎顕彰碑の全文で、「金子仲次郎の生涯」を引用しました。
■「金子仲次郎の生涯」<顕彰碑文の解説>、■昭和58年1月21日 発行、■発行者 境町、■印刷所 桜井印刷

金子仲次郎顕彰碑

境町長 新井暢太郎謹書

 秀麗な赤城嶺の姿を北空に仰ぐ境町に、金子仲次郎は、明治二十年一月二十六日(一八八七年)父助作母いその長男として生まれる。幼少の頃からそのオの閃きを見せ、長じて群馬県立伊勢崎染織学校に学ぶ。父は不慮の災難のため多額な負債を残し、明治三十七年六月四十八歳で没した。そのため仲次郎は十八歳で家業の内地向織物製造業を継承し、また弟妹の父親代りともなって苦難の道を発足した。しかし天性の秀れた経営手腕と不屈の精神は次々と新機軸を生んで、家業は急速に繁栄し多額な負債もまたたく聞に返済した。またその製品の独特な優秀さは、一流デパート三越の厚い信頼を受け
て、直接取り引きをするまでになった。こうして大正五年三十歳には一流機業家としての名声を広め、昭和二年四十歳の時伊勢崎織物組合の重鎮となり、以来伊勢崎銘仙の進歩発展のために多大な貢献をした。またおされて境町議会議員ともなった。

 絶えず新知識を求め創始の業を開く仲次郎は、昭和七年四十六歳の時、大きな転換を遂げた。未来への明断な見通しと英断をもって三越等との内地向安定市場を自ら捨て、その企業を輸出向織物に切り替え、当時の東毛業者たちにとってその先駆者となった。以来しばらく続いた苦難の道も克服し、金子輸出織物工場は隆盛を極めて、その名は関東関西に広く知れ渡った。こうして企業は愈々躍進を続ける途上、不幸にも病魔に犯され、昭和十三年五月二十一日(一九三八年)前途を惜しまれながら他界した。享年五十二歳。

 仲次郎はその生涯を通し「富を残さず徳を残せ」等の自らの信念を貫いた。町の学校や公共福祉の諸団体にしばしば私財を寄付しその死に際しても同様な寄付を遺言として書き留め、その志を果たした。また一族への世話と共に恵まれぬ幾多の家庭の子弟には、学資を援助しその育英に温い手を差し伸べた。工場従業員には厳しくもまた寛容な心で接しその成長を末永く見
守ったと聞く。その他陰の美徳は数知れず仲次郎を「陰徳の人」とも語り伝えている。これら数多くの遺徳は後進の人々への薫り高い教訓となって今もなお生き続けている。
 金子輸出織物工場は、昭和十六年に勃発した太平洋戦争の影響を受けて、止むなくその業を同十八年に転換し、仲次郎夫人るい氏及び子息政志氏がその後を守って今日に至った。

 このたび、両人は仲次郎の遺志を継ぎ、その居宅約三一九平方米及び同工場の敷地等約五三二三平方米を境町に寄付された。その行為は偉大であり、奇特の極みとする。このたび、同工場敷地内に一碑を建て金子仲次郎の業績と人徳を諮え、これを後世に伝える。
昭和五十四年十二月十一日建立
建立者 境町長 新井暢太郎

絹の家を南西側から 2009/7/25



南東側から 2009/7/25



北東側から 2009/7/25

絹の家の玄関 2009/7/25


母の碑 2009/7/25


2つの碑が建物の西側にあります。
2009/7/25


金子仲次郎顕彰碑
2009/7/25


輸出織物時代の金子工場の一部(合資会社金子輸出織物工場作成の絵はがきより)
(「金子仲次郎の生涯」の挿入写真を引用しました)

▲ページTopへ

旧 群馬県蚕業取締所境支所(東の門から) 2007/4/7

旧 群馬県蚕業取締所境支所(境町)


こちらのページに移動しました。
(2015/2/4)

赤レンガ倉庫

→ 赤レンガ倉庫特集ページはこちら ▲ページTopへ

概観と隣接の公衆トイレ。 2007/4/7



秋には蔦が建物全体を覆います。 2009/9/13

2007/4/7


庇が新しい 2007/4/7


日光例弊使道・織間本陣跡

→日光例幣使道

▲ページTopへ

織 間 本 陣 跡

 旧例弊使街道(*)、境宿織間本陣は寛文二年(1662年)に伊勢崎藩士鶴田弥太郎氏の家を当地に移築したもので、わら葺平屋建ての主家と片袖付門構えは古い建築様式をそのまま残し旧本陣として境町の町指定史跡であった。本陣跡の建物は門をくぐり大玄関を上ると九個の室を配し、広い土間(ダイドコ)や貴賓の上座の間を有した。
 上座の間から見る中庭には見事な松樹があり来遊した江戸の学者、古賀侗庵は織間本陣を蒼松幹と命名し、また文学の名をもって有名な安中城主板倉甘雨亭候はここに御小休されたときこれをほめ讃えて蒼松幹の軒記を書き与えたのである。
 本陣は例弊使街道を上下する諸大名をはじめ、とくに毎年四月京都より下向する例弊使や公卿門跡衆の休泊を主とした。そのとき門前に掲げた関札と呼ばれた泊り札が現在も五十余礼保存されており、当時の面影を残している。
 寛政三年(1791年)四月十二日、小林一茶は江戸から信州へ行く途中、織間本陣の家主である俳人専車を訪ねたが不在で会うことができなかったので
  - 時鳥我が身ばかりに降雨か -
の一句を残して立ち去ったことが一茶の帰郷日記に書きとめられている。

境町教育委員会

(*)「例幣使街道」は、現在、正式な呼称を「例幣使道」としていますが、ここでは原文のままとしました。


織間本陣の地図


織間本陣跡の石碑。一茶の句が刻まれています。
2009/7/25



織間本陣の間取り。9つの部屋。



織間本陣の側面図


▲ページTopへ

街中で見かけたお店


街中の手作り豆腐屋さん
正根寺豆腐店さん
0270-74-0842


焼きまんじゅう
大坂屋本店さん



あんこ入り


大坂屋さん

六味羊かん
栄寿堂さん
0270-74-0266



栄寿堂さんはこちらにも掲載



Site view counter since 2006/9/17

▲ページTopへ