Go!伊勢崎 天神山古墳 [ 遺跡と古墳公園 ]  [ Home ]

消えた古墳探しの旅

上武士(かみたけし)(剛志)天神山(てんじんやま)古墳

伊勢崎市境上武士



掲載日:2014/2/20
 先日、2月11日、当サイト掲示板に”トクチャン”から境上武士の天神山古墳に関する投稿が寄せられました。きっかけは同じく当サイト掲示板へ”にわかTT”さんから寄せられた、国土変遷アーカイブからの航空写真地図
 トクチャンは下蓮町の「右赤城」付近に生まれ育ち、現在、東京在住の方。広瀬川と粕川を挟んだオンンタテヤマ(現:御嶽山自然の森公園)は幼少の頃の遊び場だったとのこと。この投稿を引き金に、当サイト掲示板の常連さん・鳩ぽっぽさんや私・丸男も加わり”消えた古墳探しの旅”に発ちました。
 犬、猪、鶏の埴輪など貴重な埴輪が出土し、墳長127.3m、後円径61m、高さ5.5m、前方幅約80mの前方後円墳だったと言う天神山古墳。築造は今から1,500年余り前の6世紀頃とのこと。現存していれば、伊勢崎市安堀町の「お富士山古墳」、墳長=125mよりも大きな古墳でした。消えた古墳を惜しんでも元には戻りませんが、せめて当時を偲んで、皆さんと一緒に古の時代に思いを馳せてみたいと思います。(2014/2/20 記)

【お願い】
天神山古墳に関する想い出、記憶、資料などをお持ちの方がいらっしゃいましたら、こちらの掲示板から一報をお寄せください。

印:「境地域いきいきアイ」が現地に立てた天神山古墳の標識の位置
写真は米軍が1947年10月に撮影した航空写真。白線や施設名は現況。
┗━━━━━┛127m は天神山古墳の墳長=127mのスケール

「境風土記」から

しの木弘明著 境町地方史研究会, 1969.8発行)から天神山古墳の関する記述部分を引用

 上武士の広瀬川、粕川合流地点は縄文時代古代人の住居した遺跡である。縄文遺跡に複合してここには弥生文化の遺跡もある。すでに数千年の昔、人聞がここに生活していたわけで、上武士の文化は実に遠い昔から続いたのである。
 弥生時代につづいて古墳文化が発達した。四世紀から七世紀のころまで、上武士には百余の古墳が築かれた。群馬は日本でも大和についで二ばん目に古墳の多い県であり、上武士は赤堀村についで二ばん自に古墳の多い村であった。古墳は豪族の墳墓であるが、時代とともに打ち壊わされて、いま形容を整えるものがほとんどなくなったが、有名な古墳地帯だっただけに惜しい限りである。
 この古墳群からは多数の優秀な出土品があって、国立博物館や相川考古館等に保管されているが、なかでも数体の形象埴輪や、イノシシ、ふりかえる犬の埴輪は代表的なものである。文化財図鑑の巻頭を飾る埴輪はここから出土したものを使うことが多いが、境町にはここの有力な出土遺物は全然残されていない。地元の文化財関係者にとってこれもまた惜しいかぎりである。数年前の遺跡調査によって県教委の遺跡台帳に登録された古墳は十二基にすぎない。
 古墳が徹底的に破壊されたのは、あまりに優秀な出土品があったからであろう。昭和四十一年夏教育委員会の委嘱により群馬大学尾崎研究室松村一昭先生の指導で十日間にわたって天神山古墳など三古墳を発掘調査したが、三古墳とも羨道玄室はめちゃめちゃで、ほとんど出土遺物はなかった。わずかな土器片を得たにすぎなかったが、天神山古墳は穂積親王陵ではないかと目された有力大規模なものである。この調査された三古墳はその直後土取り作業が行われ、ダンプカー二万余台分の土は伊勢崎八斗島団地へ運ばれたあと、三古墳は完全に姿を消して平坦な畑地になってしまった。

きっかけは掲示板から





掲載日:2014/2/20
 以下に掲載するのは、当サイトの「井戸端会議」の掲示板に寄せられた投稿文の内、上武士天神山古墳に関するものを抽出したものです。
 皆さん、郷土の遺跡や古墳に高い関心を持ち、ウェブサイトの情報を熱心に収集して駆使し、幼少の頃の記憶や想い出と併せて、消えた天神山古墳の場所を特定すべく、意見を寄せ合っています。
 そのやり取りの仲間に加わって実感するのは、「場所の特定」と言う共通の目的を持ちながらも、実は、場所の特定はただ一つの成果に過ぎず、楽しいのはこれらの過程を通じて郷土を見直し、古の時代に思いを馳せてふくよかな気持ちに浸れたことにありました。
 この機会がなければ気にもかけなかったお富士山古墳規模の天神山古墳。跡かたもなく消え去った今、再び世に登場し、古墳に葬られた主はきっと面映ゆい思いをしていることでしょう。
(2014/2/20 記)

境風土記のこと


▲ページTopへ
境風土記や天神山古墳 投稿者:丸男 投稿日:2014/02/16(Sun) 09:32 No.1251
この境風土記では各地区別に歴史が書かれていまして、
64ページ以降に上淵名(今回話題の淵名神社近くの太田県道で二分されてしまった前方後円墳など)

89ページ以降に上武士(同じく天神山古墳など)
を始め、多数の古墳があったことや、発掘の経緯などが記されています。詳述ではないのですが、他の文献や組織を調べるには十分なヒントが書かれています。

それと手持ちの本「図説・はにわの本」には、天神山古墳(この本では「剛志天神山古墳」と紹介)で出土した犬、猪、鶏の埴輪の写真なども載っています。

境風土記の天神山古墳の記述 - 丸男 2014/02/18(Tue) 21:38 No.1255
天神山古墳の個別ページ作成はまだ未着手ですが、取り敢えず、境風土記の天神山古墳の記述部分です。場所を特定できる記述はありませんが、概要や遺跡調査の経緯などが分かります。
(この記述部分は、当ページ上部に転記してあります)

Re: 境風土記や天神山古墳 - トクチャン 2014/02/19(Wed) 14:50 No.1257
 境風土記の上武士天神山古墳の記述部分の掲載、ありがとうございます。この本は出版された時、著者の篠木さんからいただきましたが、引っ越しの時に失い、いまだに残念でなりません。さて、記述の中で思い出したことがあります。天神山を含む三古墳とありますよね、子供の頃、オンタテヤマに行くと、オンタテヤマの東、北東あたりにかけて、山がありました。全て畑になってた山と、オンタテヤマのすぐ東側の山には木が生えてたと記憶してます。またオンタテヤマの北側は現在芝生になっていますが、子供の頃は畑で、畑の中には土器や埴輪の欠片がゴロゴロしてました。
 子供の頃、夏場はいつも粕川で水浴びをしていました。広瀬との合流点から二番目の瀬のあたりで遊んでました。この山々が切り崩されるとき、粕川の二番目の瀬のあたりからオンタテヤマの北、東、のあたりの山を重機で切り崩す様子が見えました。毎日、ここから八斗島までダンプカーがひっきりなしに土を運ぶため、切り崩す現場には近づくことができませんでした。オンタテヤマから今の運動場のあたりにかけてずっと山がありましたね。オンタテヤマの北側から東側にかけては今よりも盛り上がったところばかりでした。なので当初、オンタテヤマのすぐ東側の山が天神山かと思っていました。天神山以外にも名前が付けられていたと思いますが、いまでも残ってるオンタテヤマ東側の民家に住んでる、私の年代(57才)から80才前後の方たちならご存知ではと思います。篠木さんの書かれた境風土記の記述を読んで、記憶が少しだけよみがえってきました。


Re: 境風土記や天神山古墳 - トクチャン 2014/02/19(Wed) 23:20 No.1259
 実は、地元の品川区立図書館で読んだ本を思い出しました。その本は「はにわ屋高田儀三郎聴聞帳」というタイトルで、ちょっと考古学の裏を垣間見ることができます。この中に天神山古墳周辺で発掘された埴輪の写真が載っています。先日図書館へ行くと・・見つからず、きょうアマゾンで見つけ、注文しました。

 それから天神山の場所ですが、天神山は個人の所有でしたから伊勢崎市など、官庁が持っている公図などに記載されていないでしょうか?先日来、地元へ連絡を取っておりますが、私が航空写真地図でここではないかと目星をつけているところに、やはり地元の高齢者からもそのあたりではなかったかと情報が寄せられました。私の眼には、昔の航空地図の中に畑にはなっていますが、前方部が確認できる箇所があります。
 それと、子供の頃に見た、粕川で水浴びをしていた場所から見上げた場所とその古墳前方部が重なるような気がしてます。私も伊勢崎市など公官庁が持っている、土地台帳などの公図を探してみますね。今まで書いてきた場所については、私の記憶で推測の域を出ません。ですから、そうしたものがあれば解明できると思います。

●現地に立つ標識●

▲ページTopへ
1947年の豊東橋付近の広瀬川 投稿者:丸男 投稿日:2014/02/14(Fri) 13:41 No.1216
以前、にわかTTさんがアップしてくれた1947年の航空写真、私も今朝、地理院のサイトから表示・DLしてみました。何と、これは米軍の撮影なんですね(@_@)。
この画像に現在の広瀬川を重ねてみました。拡大縮小・回転の合わせ点は、下蓮交差点、武士橋たもと、勝山神社などです。

広瀬川が島村付近の利根川に負けず劣らずの暴れん坊だったんですね。
随分大幅な河川改修だったようで。河川や地形がスマートになりますが、ちょっと情緒や味わいが欠けるような(ー_ー)。
以前、右赤城のページを編集した時点では作成しなかった、こんな画像を作成してみました。


Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - トクチャン 2014/02/14(Fri) 14:48 No.1218
曖昧な記憶で、ご迷惑をかけてすみません。たったいまもう一つのところへコメントを書きました。
親や祖父母がこの世にいないため、記憶で書いてます。すみません。

Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - トクチャン 2014/02/15(Sat) 10:41 No.1226
先ず、皆さんに、大雪のお見舞いを申し上げます。怪我の無いようにどうかご注意ください。
改めまして、丸男さん、にわかTTさん、鳩ぽっぽさん、丸男さんの新たな地図を見ていただきたいのですが、写真の中に広瀬川に沿った場所ですが剛志小学校がお分かりになりますか?その西隣に雑木林がありますが、林の東側の山、後円部を北側にして前方部が広瀬川の崖まで達しているように見えますが、前方後円墳に見えませんかね?この山は西中学校を建設する時に削られたと聞いています。削られた山の西側は僕が子供の頃まで一部が残っていました。昔はこの山の下は広瀬川に削られた崖になっていました。この山の上から昔の子どもたちは、崖下の広瀬川に釣糸を垂れて釣りをしてました。地元の方に聞くことができればいのですが、それか、どなたか上毛古墳綜覧で確認できるといいのですが。あくまで見えるだけで、古墳の確証はありません。すみません。


Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - 丸男 2014/02/15(Sat) 18:04 No.1234
トクちゃん、こんばんは。
今日は午前10時から午後4時まで、カーポートの雪おろしと通路の雪かきをしていました。
庭の積雪量を測ったら、深いところでは90cmありました(@_@)。
生まれて初めて体験する大雪です。
近所では、2台用のカーポートが壊れて、車も破損したお宅もあります。
屋根の雪が落ち切るまでは、不安です(ー_ー;)。

ところで、剛志小学校付近の様子、No.1216でアップした航空写真のオリジナルサイズをアップしてみます、
No.1216より多少大きく見ることができます。


天神山古墳跡地の標識 - 丸男 2014/02/15(Sat) 18:18 No.1235
この標識柱が天神山古墳跡地に立っています。
境地域いきいきアイ」が平成23年度地域活性化事業で建てたものです。
境の総合グランド西に立っています。
「境地域いきいきアイ」の知り合いが、この標識が古墳のどの位置なのか、知っているかも知れませんので、いつかの機会にきいてみます。


天神山古墳跡地標識の位置図 - 丸男 2014/02/15(Sat) 18:32 No.1236
この地図は、同じく「境地域いきいきアイ」が作成した標識柱写真集に載っている地図ですが、ラフスケッチなので、詳細な位置の特定は難しい感じです(ー_ー;)。

天神山古墳跡地・グーグルストリ... - 丸男 2014/02/15(Sat) 18:53 No.1237
グーグルストリートビューに写っている天神山古墳跡地の標識です。標識の脇に、元の前方後円墳の形状や寸法、現況との位置関係が描かれた説明板が欲しい所です。

天神山古墳跡地標識の位置図 - 丸男 2014/02/15(Sat) 19:02 No.1238
現在の地図に天神山古墳跡地標識の位置を記してみました。
この後、この位置を1947年の航空写真とマッピングさせてみます。
でも、この標識の位置が前方後円墳のどの位置になるんだか知りたい・・・(ノ_<;)

(この画像は当ページ上部に掲載してあります。)

天神山古墳跡地の標識+航空写真 - 丸男 2014/02/15(Sat) 20:05 No.1239
天神山古墳跡地の標識を1947年の航空写真に重ねてみました。
赤い●印です。
ただ、長さ127m相当の前方後円墳らしき地形を特定できません。
どうにか東西に丸い形状をした地形があります。
消えた古墳の位置の特定・・・、なかなか手ごわい(ー_ー;)


天神山古墳跡地の標識 - 鳩ぽっぽ 2014/02/15(Sat) 21:08 No.1243
丸男さん、天神山古墳の標識が、遂に登場しましたね!
「おのおの方、この標識が目に入らぬか!」と水戸黄門様の印籠が出たのを見るような思いで驚いてます!!
そうすると、トクチャンは助さん、にわかTTさんは格さんだったのでしょうか!
またまた、丸男さんが解っていて、これをすぐに登場させない所がよかったです。
まるで、幻の古墳をめぐるミステリー小説のような展開となって、雪降る晩をいろいろと思いめぐらし楽しかったですね。
更なる詳細な位置の特定等々、丸男さんはじめGo!伊勢崎の皆さんがどこまで古代の謎に迫れるか?これからも楽しみにしてます!


Re: 1947年の豊東橋付近の広瀬川 - にわかTT 2014/02/15(Sat) 21:51 No.1244
おっと、こんなしっかりした標識があったのですか。
現地の情報がしっかり有るのですね。さすがGo伊勢崎さん。
埴輪の写真などを見ていると、境上武士という地名は良く目にする名前でした。
今回トクチャンや丸男さん、鳩ぽっぽさん、皆さんのおかげで色々知ることができて、この話題に首を突っ込んでよかったと思っています。


天神山古墳跡地の標識 - 丸男 20... - トクチャン 2014/02/16(Sun) 00:44 No.1247
丸男さんへ
ありがとうございます。

「境地域いきいきアイ」の知り合いが、この標識が古墳のどの位置なのか、知っているかも知れませんので、いつかの機会にきいてみます。

お手数を掛けますが、よろしくお願いいたします


天神山古墳跡地 - 丸男 2014/02/16(Sun) 09:13 No.1250
 鳩ぽっぽさん、トクちゃん、にわかTTさん、おはようございます。こちら、波志江町台所山では、まだ窓外の風景は銀世界です(^^;)。

 天神山古墳跡地の標識ですが、設置位置は境町サイクリング&取材時に確認したり、「境いきいきアイ」の冊子も所有していたり、あれこれと資料は持っていたのですが、なにせ、現状では、その痕跡を少しも確認できず、「境いきいきアイ」の冊子に掲載されている手描き地図も相当にラフで(編集の皆さん、スミマセン)、にわかTTさんが紹介してくれた1947年の航空写真にもそれらしい姿を明確に発見できず、紹介を躊躇していました。

 それならば、1947年の航空写真やトクちゃんの子どもの頃の想い出を参考にしながら、掲示板による「古墳探しの旅」に出てみたいと思った次第です。遺跡や古墳、郷土史は大好きなので、あれこれと資料も持ってたりしますので、これからも皆さんと一緒に古の時代へのタイムスリップを楽しみたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。



▲ページTopへ
武士の天神山古墳で 投稿者:トクチャン 投稿日:2014/02/15(Sat) 16:06 No.1233
 みなさん、雪害の影響はありませんでしたか、大変だと思います。怪我の無いように祈っております。
 さて私が書いた上武士の天神山古墳について、丸男さんはじめ、鳩ぽっぽさん、にわかTTさんにこれだけ多くの調査と、検索をしていただき、感謝いたしております。私の話は古い記憶ばかりですみません。ずっと住んでいたなら記憶と現状がある程度繋がるのでしょうが、子供時代から途切れた状態での昔話ばかりです。これからもお騒がせいたしますが、よろしくお願いいたします。天神山古墳のことがこれだけ分かり、嬉しいです。子供の頃聞かされていた、あの山は「宝の山」だと、言われた天神山だけに、昔の人はずっと貴重なヤマだと知っていたんでしょうね。オンタテヤマに立つと、利根川、烏川が乱流した関東平野が一望できます。武蔵との国境も近く、武士を含む剛志村、伊与久や渕名を含む釆女村の地域は大昔からの古文書に登場するところですから、ある意味そういう伝統も残されてきたのでしょうか?きっと天神山に葬られた被葬者は、上野、武蔵が一望できる、この台地の上に埋葬されるくらいの権力があったのかな、といつも思っています。ありがとうございました。

Re: 武士の天神山古墳で - いせや 2014/02/15(Sat) 20:36 No.1241
トクチャン、丸男さん、なからご無沙汰しちゃったいね。いせやっつうもんだけんど覚えててもらったんべかな〜?
トクチャンのブログっつんも見してもらったけんど、まっさかイッサキ弁が達者でたまげたいねぇ。イッサキで育ったっつんじゃ、同し仲間だいねぇ!!
それにしても今日は雪がまぁず、すげんねぇ〜〜。おれんちも雪かきがなっから大変だったい。
イッサキでこんなすげえ雪は生まれて初めて見たいねぇ。おーか積もったんで電車も動かしねえし、勤めも休みになって助かったんよぉ。
おれんちじゃ庭木が折れたぐれえだけんど、思ったよか雪の被害がなから出てる見てえで、被害にあったお宅はお気の毒でしょうがねえやぃ・・・。
近所のお宅じゃ何軒か、カーポートの屋根が雪の重みでぶっ壊れて、車の屋根までへっこんだりしたみてぇでうんまかねんさねぇ。
こらあ近所の友達んちのブログなんだけんど、この有様をぜひ見てやってくんねえかい。こーゆー気の毒なお宅は祈って見守ることぐれえしかできねんだけんど、義援金も千円くれえ出すかどうか検討中なんさ。
大雪ん時はカーポートっつんは、まっさかおっかねんね!これからは気をつけんべぇ。

古墳とか、オンタテヤマの話っつんも、まぁずためんなったい。
境町民プールの南っかわで川ずたいの道はよく通るんだけんど、そこからオンタテヤマ、広瀬と粕川の合流地点の方なんか見ると、ぐ〜と眺めがいんさねぇ〜。
電気の送電線と鉄塔がいっぺえあるんだけんど、おーか気にしねえで見ると川向こうに下蓮の家並がよくめえら。下蓮の向こうには利根川が流れてて、そのまた向こうはっつうと晴れてる日な、秩父の山々、武甲山、日本百名山の甲武信岳と両神山、東京都の最高峰の雲取山なんかもよくめえらいねぇ〜。
今日辺りは山なんか見えっこねえし、どこ見ても真っ白な雪景色だったんべねぇ〜。

●スタートはここから●

▲ページTopへ
無題 投稿者:トクチャン 投稿日:2014/02/11(Tue) 02:16 No.1205
 すみません。投稿ばかりで。確かにわかTTさんでしたか、国土変遷アーカイブからの航空写真地図を投稿されていましたね。あの地図をよぉ〜く眺めていたら、なんと!上武士天神山古墳の墳形が分かるではありませんか!すごい!私が小学生の頃、上武士天神山古墳は八斗島工業団地造成のため、土砂を採取され消えてしまいました。本当に、残念の一言です。かつての天神山古墳は古墳の長さ127mの前方後円墳で、動物埴輪(犬形埴輪、馬形埴輪、鶏形埴輪、猪形埴輪)や人物埴輪、玉類などを出土しました。これらは東京国立博物館に所蔵され、展示されています。
 私は天神山古墳から出た犬や猪の埴輪を見に時々国立博物館へ行きます。これらは国の文化財に指定されているんですよ。聞くところによると、八斗島工業団地の造成地から埴輪の欠片がたくさん出たと聞いています。ジイチャンやバアチャンから、あの辺りには大小さまざまな古墳がたくさんあったと聞いています。子供の頃、オンタテヤマへ遊びに行くと、山の周辺でたくさんの埴輪の欠片を目にしました。畑の中にも転がっていました。いま古墳の復元などできませんが、何らかの資料館などがあるといいですねぇ。
すみません。場違いなコメントで。

残念、消えた上武士天神山古墳 - 丸男 2014/02/11(Tue) 10:46 No.1207
 トクチャン、上武士天神山古墳が切り崩される前の姿をご存知なんですね(@_@)。
 旧伊勢崎市で最大規模の前方後円墳は、安堀町のお富士山古墳、墳長=125mですが、上武士天神山古墳はそれを上回る127m。もし残されていたら、伊勢崎市の貴重な歴史財産でしたね。
 お富士山古墳も、JR両毛線で南西角の円墳部分が少し削られてしまいましたが、それでも大部分が残されていて、古墳に登るとまだ前方後円墳の形が良く分かり、桜や新緑の季節にはたまに寄ってみます。

 旧市の南の方は、暴れ利根川や広瀬川の関係で、古墳は少なかったと勝手に思っていましたが、武士天神山古墳が残っていれば・・・本当に惜しかったです(ノ_<;)。

 赤堀地区や旧新里村、旧粕川村辺りに、赤城山麓の普通の小山がたくさんあるし、あの辺を切り崩せば両者に都合が良かったのでしょうが、八斗島工業団地から距離的に近いので狙われてしまったんでしょうね。つくづく残念です。


幻の上武士天神山古墳 - 鳩ぽっぽ 2014/02/12(Wed) 22:39 No.1210
 丸男さん、トクチャン、上武士天神山古墳は本当に惜しいことをしましたね。なるほど!古代人が通常、古墳を造らないはずの利根川低地帯エリアの八斗島から何故か埴輪の欠片がたくさん出てきたというのは、悲劇的にも工場団地の造成に天神山古墳を切り崩した土砂を使っていたからなんですね。
 経済の高度成長時代の価値観は、現代とは大きく異なってましたね。
 国土変遷アーカイブからの航空写真を改めて拝見しました。にわかTTさんすみません、お写真を拝借致します。
一昨年9月のトクチャンのブログで、上武士天神山古墳は「たてのやま(御嶽山)の北側にあった」といった記述がありましたので、古墳の大体の位置はわかりました。
 左側の写真(1947年の方)の右上辺り、粕川の東に横向きになっている前方後円墳らしきを確認できますが、上武士天神山古墳はそれでしょうか?
 航空写真では広瀬川と粕川の合流地点の上部が白くなっている(にわかTTさんがカスリン台風の影響か?と言われていた所)が最初に目に付きますが、そこにこんもりした木の茂みがあるのが御嶽山ですね。
 前方後円墳があった場所は、現在の御嶽山・自然の森公園入口の駐車場から北に200〜300メートル位の距離で、老人ホーム・いこいの里よりはちょっと北の住宅地の辺りでしょうかね〜?
 上武士天神山古墳(6世紀)がもし現存していれば、トクチャンと丸男さんが言われるように伊勢崎市最大規模の古墳で、出土した埴輪類も全国的なレベルで見ても非常に価値のある日本の代表的な埴輪になってますね。鶏の埴輪なら、群馬県立歴史博物館にも所蔵されているようです。
 なんと言っても東京国立博物館所蔵の猪の埴輪は「簡略な表現で的確に猪の特徴を捉えた秀逸な造形である」と国立博物館での評価も高いですね。この猪は何体かの所蔵がある様子ですが、7〜8年前ちょっとしたハプニングがあったようで、それはよかったらこちらからご覧ください。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200611100336.html


古墳は何処に? - にわかTT 2014/02/13(Thu) 22:26 No.1211
 トクちゃん、鳩ぽっぽさん、丸男さん、上武士天神山古墳は興味あります。お富士山クラスの古墳がどこにあったのでしょうね。よろしければ教えてください。
 犬や猪の埴輪が出ているということは古墳時代の中では比較的新しい古墳だったのでしょうか。どうしても伊勢崎で古墳というと北側メイン(三郷、殖蓮地区)のような思い込みがありました。
 昭和まで古墳が残っていたことを考えると利根川の暴れ方も思うほどではなかったのかもしれません。鳩ぽっぽさんが話題に出された「蛍行橋」では東山道を思い起こさせます。そのような街道があったとすれば脆弱な土地ではなかったのでしょうね。
1946年の上武士近辺の航空写真を貼っておきます。カスリン台風以前です。ここに天神山古墳は写っているのでしょうか?


Re: 無題 - トクチャン 2014/02/13(Thu) 22:36 No.1212
鳩ぽっぽさんへ

トクチャンです。赤い丸を付けた所は能満寺だと思います。先ずオンタテヤマはお分かりですので、オンタテヤマの右上を見ていただくと、ヤシキ林のある民家がL字型に並んでいるのが分かりますか?民家はおそらく後円部に沿って並んでいると思われます。後円部から北に撥(バチ)がたに前方部が広がっているのが分かるかと思います。墳丘は畑になっていますが、周囲の畑の区画と明らかに違うのでお分かりいただけるかと思います。今年のお正月、数十年ぶりにオンタテヤマまで車で行きました。老人ホームへ行く道の手前に古墳があったことを示す、説明版が建てられていました。
どうですか?たぶんこれが天神山古墳だと思うのですが・・・

Re: 無題 - トクチャン 2014/02/13(Thu) 22:55 No.1213
付け加えます。上武士は利根川乱流地帯より土地が高く台地状になっています。
上武士を中心にかなりの古墳があったそうですよ。剛志小学校には学区内の古墳からの出土品が展示してありました。そして上武士から北東に行くと上渕名があり、ここも相当な数の古墳があったそうですよ。私の祖母は上渕名の出で子供の頃、ヤシキの中にあった「塚」(古墳)の話をよくしてくれました。上渕名には、確か太田県道を作る時だったでしょうか、大きな前方後円墳を壊してると思います。名前は・・双子山?二子山?雙子山?だったかなぁ??、すみません。調べれば出てくると思います。


古墳は何処に? - 鳩ぽっぽ 2014/02/14(Fri) 01:23 No.1214
 トクチャン、にわかTTさん、お返事ありがとうございます。
 1946年の上武士近辺の航空写真、壮大な眺めですね! 広瀬川のかつての蛇行した流れもはっきりわかる貴重な写真ですね。特に現在の繭ドーム付近で、流れが北に向けて蛇行する様は写真で初めて見ました!
 伊勢崎市の地形は大きく分けて、広瀬川の左岸が伊勢崎台地で遺跡や古墳はその台地上に多く見られ、広瀬川の右岸から利根川にかけては広瀬川低地帯と呼ばれ、暴れ川利根川が文字通り暴れまくった地帯ですね。他に赤城山斜面台地、大間々扇状地もかかってます。

 一方、古墳は何処に?幻の上武士天神山古墳の位置ですが、トクチャン、航空写真で今度は右側の1960年版の方に青い印を付けてみたのですが上武士天神山古墳はこれでしょうか?
 なんと!古墳跡の説明版が建てられていたということで、説明版を先程グーグルマップでこの付近を探し周ってみたのですが、なかなか見つかりませんでした。それだけに当古墳はベールに包まれていておもしろいです。
 上武士天神山古墳(剛志村30号墳)は現在の御嶽山に連なる台地上に築造された、墳長127.3m、後円径61m・高さ5.5m、前方幅約80mの前方後円墳で6世紀のものとされているようです。
 保存状況はトクチャンが言われたように、1966年の調査以前に墳丘大半は消滅していたということでした。
ちなみに現在の御嶽山・自然の森公園内にも墳長32.5mの「剛志50号噴」墳長45.5mの「御嶽山古墳」いずれも前方後円墳があったようなので、上武士天神山古墳と同グループでこの辺りもちょっとした古墳群になっていたのでしょう。
 古墳のお話を少しさせて頂きます。群馬県内で最も古い前方後円墳が4世紀の前橋天神山古墳。
 5世紀になると全長210mの東日本最大と言われる太田天神山古墳が登場しますね。また同時期に我らがお富士山古墳、赤堀茶臼山古墳が築造され、5世紀は太田エリアの有力豪族のイニシアチブのもと地域連合体が成立していた模様で、その上毛野国(かみつけのくに)の大グループは畿内の大和政権とも深いパートナーシップが取られていたとかよく言われますね。
 その証拠となるのが、棺である「長持型石棺(ながもちがたせっかん)」で、この長持型石棺は畿内の大型古墳を中心に採用されており、関東では太田天神山古墳と伊勢崎のお富士古墳だけから出土したというからスゴイです!
 上武士天神山古墳が築造された6世紀になると古墳時代も末期で、墳丘上の人物、動物埴輪はバラエティー豊かになり、副葬品の内容も極めてゴージャスになったようですね。
 上武士天神山古墳では猪、鶏、犬の埴輪も出土しており、犬が猪を追いかけるといったユニークな狩猟風景が古墳上で再現されていたと考えられているそうです。
 6世紀後半は上毛野国では榛名山の大爆発があり大量の軽石を降らせたそうです。その軽石(安山岩)を石室に用いた古墳が榛名山の麓に多く見られ伊勢崎にまで及んでいたそうです。
県内で6世紀の代表的な古墳は群馬の森の北にある観音山古墳で、歴史博物館に石室内部が復元されていたように思います。
 きっと上武士天神山古墳にも、それと似たような石室があったのではないかと想像してます。


上武士天神山古墳位置特定 - 丸男 2014/02/14(Fri) 13:28 No.1215
 トクちゃん、鳩ぽっぽさん、にわかTTさん、みなさん、こんにちは(^o^)
上武士天神山古墳のことがどうも気になって、昨日はオリンピックの夜更かしだけじゃなく、寝付きが悪かったです(^^;)

 トクちゃんのコメントを参考にし、茂呂に住む義兄にも聞いたり、今朝はKさんからも電話をいただき、是非場所を特定してくださいと期待されたり、「境イキイキあい」の皆さんが標識を設置して(多分、トクちゃんが言う標識)、私も標識は何度か見ているのですが、現状は畑ばかりで特定できず、とにかく、位置不明でした。

 そこで・・・
 にわかTTさんが以前アップした1947年10月の航空写真を今朝ほど私も地理院サイトから表示し、高解像度画像をDLし、距離スケールを作成したり、現況図と位置合わせしたりするなど、睨めっこすること3時間(仕事をほっぽって(^^;))。

 そして到達したのがこの場所です。前方後円墳の形がほぼ残っています(そう言う先入観で見たせいかな?)。トクちゃん、多分これではないでしょうか?


天神山 - トクチャン 2014/02/14(Fri) 14:45 No.1217
すみません。かれこれ50年以上前の小学生の時の記憶で、あいまいなところがありました。
きょう丸男さんが投稿してくださった地図で分かりましたが、最初に僕が能満寺だといったところですね。実際の能満寺はもっと北でした。すみません。この丸男さんの川を青く塗った地図で分かったことは、僕が小学生の夏休み、ブルトーザーで切り崩していた山がご指摘の山ですね。もう他界した親や祖父母の話しの記憶では、オンタテヤマから境西中学校まではずっと山が続いていて、西中は山を削って作ったと聞いたことがあります。オンタテヤマの隣にも山があったので、僕はずっとこの山が埴輪の出た山だと思っていました。僕が聞いた天神山の住所は上武士の小字で「宮前」だということです。この住所が重なれば適合かと思います。僕が見た標識はオンタテヤマの東側にあるグラウンドのところですが、このグラウンドのあたりにも当時はならされて畑になっていましたが、山がありました。ちょうど太田の鶴山古墳の状態ですね。古墳が全て畑になった状態です。ここが上武士の小字で「宮前」かどうか、いま下蓮の80才になる叔父に確認の電話をしましたが、記憶があいまいでした。僕が最初の航空地図でここかなと思ったところです。畑の区割りから三味線のバチ状に開いた前方部かと思った場所です。もし、確定できるとすれば、「上毛古墳綜覧」か、境の篠木さんの書いた「境風土記」のどこかに書いてないでしょうかねぇ・・
僕が子供の頃、祖父母から天神山は「宝の山」だと言われてたが、やっぱりお宝が出てきたんだ。と言ってました。僕も調べたいのですが、現在東京在住ですから、記憶でしか書けません。すみません。上武士・小字「宮前」さえはっきりすれば、その山こそが天神山に間違いありません。

Re: 無題 - にわかTT 2014/02/14(Fri) 20:34 No.1219
トクチャン、早速お返事いただきありがとうございます。
ご回答の文面を自分なりの解釈で復元して見ました。読解力が「?」なので間違っていたらご指摘をお願いします。丸男さんの解釈と私の解釈も異なっていて面白いと思います。(自信無いです・・・)
配置した古墳はほぼ同一スケールのお富士山です。共に1947年の航空写真からです。丸男さん同様に時間をかけちゃいました。テヘペロ


天神山 No.1219 のコメントにに・.. - トクチャン 2014/02/15(Sat) 00:47 No.1223
にわかTTさん、そうです。そうです。そのあたりですよ。お富士山よりも新しい6世紀の古墳だそうですから、丸男さんがご指摘された古墳のように、前方部がお富士山よりも発達した形だと思います。叔父も総合グランドのあたりの山じゃないかと言っていましたし、僕が子供の頃、オンタテヤマから東に山が見えたんですよ。山と言っても墳丘は開墾されて畑でした。ただ、後円部には木の生えたところもあったように思います。丸男さんご指摘の箇所も前方部が発達した後期の古墳に見えますよね。昔はこの辺りから剛志駅辺りまで、さらに下武士方面にかけて、大小さまざまな古墳があったと聞いています。墳丘が完全ではありませんが、何基か残ってると思います。ご協力いただき、ありがとうございます。この場所が上武士の「宮前」と呼ばれる場所ならば、にわかTTさんがお示しくださった地点に間違いないと思います。40数年前、境町のお菓子屋さん「しのぎ」のご主人が書いた境風土記に何らかの記述があるんじゃないかと思っています。僕は親が篠木さんからいただいた境風土記を引っ越す時に失ってしまいました。残念でなりません。

Re: 無題 - にわかTT 2014/02/15(Sat) 12:02 No.1228
トクチャン、返信ありがとうございます。
雪かきでヘロヘロです。まだクルマが家から出られません。今日は会社をあきらめましたが明日も外出できるかどうか分かりません。午後もカーポートの雪下ろしをします。未曾有の大雪です。
さて、ネットでチョロットしらべた程度では武士の天神山古墳は分かりませんね。
国学院大学の古墳時代の文献で「小字宮前」がヒットしたのでそこだけ貼り付けて置きます。これだと下武士になっています。かえってナゾが深まってしまった様です。


宮前について - トクチャン 2014/02/15(Sat) 12:53 No.1229
にわかTTさんNo.1228 の投稿について。
雪かきごくろうさまでした。知り合いの家のカーポートが潰れてしまったそうです。怪我にご注意ください。さて宮前ですが、いま注目している所が天神山古墳であるとすれば、天神山古墳は上武士と、下武士のムラ境にかかっていると思います。たぶん総合運動場はムラ境ではないですかね。
おそらく運動場あたりにあったと思いますから。すみません、すべておぼろげな記憶で間違いがあったらすみません。


天神山のあった宮前について - 鳩ぽっぽ 2014/02/15(Sat) 14:27 No.1230
今日は東武伊勢崎線も大雪による架線支障の影響で運転見合わせとなり、めずらしく私も休日となりました。
上武士天神山古墳は群馬県埋蔵文化財調査事業団や歴史博物館では「剛志天神山古墳」と呼ばれてました。周りの多くの小古墳も合わせ、総称して「剛志古墳群」と言うのでしょう。
遺跡ウォーカーといったサイトに、「伊勢崎市境上武士宮前 」に「武士1号墳(剛志村79号墳)」といった古墳がありましたが、発掘概要は「 集成、1980年、町教委が発掘。グランド造成により湮滅。」と出てました。
・・・ということは、現在の境総合運動場(グランド)のある場所は「宮前」ということなのでしょう。
丸男さんが合成した航空写真を見ると、御嶽山と剛志小学校の間にこんなに広い雑木林があったんですね〜。
更に現在の地図とも比較してみましたが、雑木林の辺りは現在、境町民プールとすぐ北のグランドの一部になっているようです。仕事の関係で、こちらのグランドの駐車場はよく利用させて頂いてます。
雑木林と剛志小学校の間の畑が、現在の境西中学校になるのだと思います。
一方、雑木林と御嶽山の間にある集落(にわかTTさんが前方後円墳を合成した辺り)もきっと「宮前」と言ったのではないでしょうか?
「宮前、天神山、御嶽山」とくると、ここに古来から信仰の対象になる何かがあったことに違いないでしょう。
また、グランドとプールのある側が現在は上武士、東隣の境西中学校のある側から下武士になってますね。


Re: 無題 - トクチャン 2014/02/15(Sat) 15:47 No.1231
鳩ぽっぽさん No.1230へ
ありがとうございます。親や祖父母の話ではオンタテヤマから剛志小学校あたりまで、あの辺り一面がヤマ(雑木林)だったと聞いてます。ヤマと塚(古墳)だらけだったようです。戦前・戦中・戦後の食糧難の時代に次々と開墾され畑となっていったようです。僕が子供の頃、まだ数か所ですが切り崩されたヤマ=塚=古墳の一部が残っていました。オンタテヤマから東、グランドの方角のすぐ隣にヤマがあって、そのヤマの下に集落がありました。そのヤマから埴輪が出てきたと聞いていました。僕らは子供の頃、粕川の浅瀬を渡ってオンタテヤマへ遊びに行ってたので、あまり上武士集落までは行きませんでした。ただ、冒険した時だけ、西中隣のヤマへ行くことはありましたが、半分以上は削られて畑になっていましたね。叔父が子供の頃は西中ができる前のこのヤマから、崖下の広瀬川へ釣糸を垂れて釣りをしてたそうですが、周りはほとんどがヤマ(雑木林)だったと言ってます。そこに大小さまざまな古墳が群をなしていたようですね。
僕もまた都立図書館と国会図書館で調べてきますね。



▲ページTopへ