「伊勢崎佐波の神社誌」によれば、後光明天皇の慶安年間(1648~51)に、それまでの植木村が上植木村と下植木村に分割され、その際、当上樹神社は上植木の鎮守社となったとのこと。 その後、明治22年(1889年)4月1日、 町村制施行により、上植木村、下植木村、八寸(はちす)村の一部が合併し佐位郡殖蓮(うえはす)村が成立し、明治29年(1896年)4月1日、郡統合により佐位郡と那波郡が統合し、佐波郡が生まれ、昭和15年(1940年)9月13日には伊勢崎町、茂呂村と合併して伊勢崎市となりました。 伊勢崎佐波の神社誌によれば、当社の創建は明らかではないものの、永禄11年(1568)と推定されています。以来450年余りにわたり、幾多の変遷を見続けて来た村社・上樹神社。 現在と比べ、昔は神社と地域住民との接触はより密接で、祭りごとや参拝、日常の催しなどが頻繁に行われていたよう。地域の歴史を見続けて来た社殿の前に立ち、それぞれの時代の人々がどんな思いを抱いて訪れたのだろうかと思いを馳せると、その時代にタイムスリップしたような不思議な感覚に陥ります。今自分が触れている社殿の柱や壁、石造りの狛犬など、江戸時代の農民や町民、商人、あるいはちょんまげ姿の代官や武士らも触れたかも知れません。何世代も人が生まれては死に、生まれては死んでも神社は残り続け、地域を見守ります。 余談ですが・・・、 60年以上前の子供の頃の記憶ですが、我が家には ・・・と、全く余談の思い出話ですが、そんな思い出が残る上植木町の神社「上樹神社」の紹介です。(2021/9/14 記) |
上樹神社の地図(Google Map) |
拝殿(西側から) 2021/4/22 拝殿(西側の正面から) 2021/4/22 拝殿の彫刻拝殿に施された彫刻 2021/4/22 →彫刻を更に大きなサイズ1760pix×912pix)で表示 拝殿と本殿拝殿(左)と本殿(右奥) 2021/3/22 拝殿(左)と本殿(右) 2021/3/22 |
上樹神社・拝殿のすぐ前には一対の狛犬が置かれ、参拝者を迎えます。 | |
正面左側に座る吽形 2021/3/22 口を閉じた「吽形(うんぎょう)」 2021/3/22 |
正面左側に座る阿形 2021/3/22 口を開いた「阿形(あぎょう)」 2021/3/22 |
戦没記念碑 2021/3/22 伊勢両宮太々講記念 2021/3/22 |
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上樹神社玉垣奉納の由緒 2021/3/22 |
上樹神社由緒記 2021/3/22 |
社殿を包む新緑 2021/4/22 社殿の南東側の新緑 2021/4/22 |
参道に並ぶ7基の鳥居 2021/3/22 上樹神社参道入口 2021/3/22 |
主祭神 |
大雷命(おおいかづちのみこと) |
配祀神 |
事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと) 大己貴命(おおなみちのみこと) 大物主命(おおものぬしのみこと) 船玉命(ふなたまのみこと) 太麻彦命(おおあさひこのみこと) 木花咲爺姫命(このはなさくやひめのみこと) 奥津比古命(おくつひこのみこと) 誉田別命(ほんだわけのみこと) |
上樹神社・由緒当社はもと雷電神社と称し、その創建時は明らかではないが、正親町天皇の御代の永禄11年(1568)、荻田備中守が赤石城主となってこの地を領するに及び、神威を奉じて社殿を建立したという。旱魃の時などには雨乞いを行い郷民の安穏を祈願したともいう。後陽成天皇の慶長6年(1601)、稲垣平右衛門長茂が領主となるに際して社殿を修理し、その後伊勢崎藩主酒井氏に至っても代々崇敬された。後光明天皇の慶安年間(1648∼51)、それまでの植木村が上下両村に分割となった際、上植木の鎮守社となった。 明治10年村社に列せられ、同41年には、字関山の無格社八幡宮、字八幡の無格社村主社、字上西根の無格社鹿島神社、字後田中の無格社諏訪神社、字間組下の無格社稲荷神社、字東の無格社稲荷神社、字新屋敷の無格社鹿島神社、字堤中の無格社八坂神社、字西根の中無格社稲荷神社を合祀し、上樹神社と改称して現在に至る。 参道でひときわ参拝者の目をひくのは、建ち並ぶ七基の石造りの鳥居である。これは合祀時に移設されたもので、手前から「村神大明神」「鹿島大神宮」「上樹神社」「諏訪大明神」「八幡宮」「富士嶽神社」の奉額がそれぞれ掲げられている。 また境内には、伊勢講による神楽奉納の記念碑が残っている。大正8年・同15年・昭和9年の三基が認められ、市内では最も数の多い「神楽奉奏記念碑」といえる。 【祭日】 2月11日:祈年祭 4月15日:春季例祭 10月17日:秋季例大祭 11月23日:勤労感謝祭 【境内地】 約 688坪 |