群馬県伊勢崎市美茂呂町の夏の風物詩「水神宮祭」。2016年に200年目を迎えました。「茂呂の花火」としても知れ渡っていた祭りですが、花火大会は今年が最後となりました。水神宮祭は屋台囃子や灯篭流し、地元団体の音楽イベントなどを企画しながら、これからも継続するとのことです。
水神宮祭 2016年8月20日(15分3秒) 光円橋の高欄に取り付けられた水神宮の飾り 2016/8/20 美茂呂町の屋台 2016/8/20 美茂呂町の屋台に施された彫刻 2016/8/20 美茂呂町の屋台に施された彫刻 2016/8/20 水神宮の幟旗と水神宮前に立つ巨木 2016/8/20 |
水神宮 2016/8/20 水神宮・住職祈願 2016/8/20 広瀬川・灯篭流し 2016/8/20 広瀬川・灯篭流し 2016/8/20 広瀬川・灯篭流し 2016/8/20 子どもたちが作った段ボール灯篭 2016/8/20 |
水神宮祭・茂呂の花火 2016/8/20 水神宮祭・茂呂の花火 2016/8/20 水神宮祭・茂呂の花火・大ナイアガラ 2016/8/20 水神宮祭・茂呂の花火 2016/8/20 水神宮祭・茂呂の花火 2016/8/20 |
退魔寺の水神宮祭が今年で200年目を迎えます。水神宮祭のはじまりは文化13年(1816年)。「上州七里ヶ片土手」として知られている広瀬川左岸の光円の地に「水神」を奉った石宮が建立され、同年6月28日(旧暦)に水神宮祭が行われました。 例年7月31日に前夜祭、8月1日に本祭が行われてきましたが、近年の諸事情により、今年から8月第3土曜日に前夜祭、同日曜日に本祭と変更になりました。2016年の今年は下記の日程で行われます。 8月20日(土)・・・灯篭流し、吹奏楽演奏、フラダンス、花火大会など 8月21日(日)・・・子供神輿(町内巡行)、灯篭流しなど なお、7年に1回は第3土日がお盆と重なりますが、その年は第4土日になるとのことです。 また、「茂呂の花火」としても広く知れ渡っていた水神宮祭ですが、近年の茂呂地区の住宅増加や警備・安全管理などの観点から花火大会は今年が最後とのことです。最後を飾るべく、クライマックスシーンでは特大スターマインと大ナイアガラがあがります。(2016/7/29 記) 8月20日の詳細日程は下記のとおりです。 午後2時〜 子ども屋台ばやし 午後3時〜 水神宮祭 住職祈願 午後5時〜 茂呂5地区の屋台ばやし演奏 美茂呂町(光円橋北側たもと)、茂呂南町・南北千木町(橋の南側)、茂呂町一丁目・二丁目(橋の北側) 午後6時00分 交通規制開始 午後6時05分 第一中学校吹奏楽部演奏(約20分、光円橋北側たもと) 午後6時30分 フラダンス(Hula Halau O Na Pua Lehua )(約20分、光円橋北側たもと) 午後7時00分 灯篭流し(約150個) 午後7時15分 祭典実行委員長挨拶 午後7時30分 花火大会開始 午後8時30分 終了 |
調査と文:石原義司(よしじ)さん(伊勢崎市美茂呂町在住)
太古から人間は自然の神羅万象に恐れを感じ、神として祭り、敬い、自分自身を始め家族、地域の安全を祈り、崇拝してきたものである。その名残が化学文明の発達した現代にも、色々な形で各地に伝承され残っている。 水に対しても水難を起こしたり人々の生命に危害を加える盤怪的なものとして恐れられる反面、人々の生活や農業に欠くべからずものとして、雨や水の恵みを祈り続けてきた。全国に水難、火難を避け、また旱魃(かんばつ)に雨乞いをするために水神を祭り、水天宮を建てて信仰し、お祭りをしている所が数多くあります。 広瀬川は比利根川と言われた昔から何回となく氾濫を繰り返してきたが、文化10年に未曾有の大洪水を起こし、当時伊勢崎地方に二ヶ所きりなかった大橋の一つである茂呂の大橋も流され、家や田畑の被害も甚大でこの地方の住民は大いに困った。 この茂呂の大橋というのが、今の光円橋の所にあったものである。 この大洪水の恐ろしさを忘れ切れない文化13年(1816年)に偶然か広瀬川で溺れ死んだり、怪我死するものが数多く出た。 先の大洪水もあり、村人が相談して洪水や水難を避け、合わせて旱魃時の雨の恵みを祈るために水神宮の石宮を光円の地に建立して、その年6月28日に茂呂村全体で水神宮祭りを行った。石宮を建ててお祭りを始める以前に何らかの水神を祭っていたかどうかは記録が見当たらないので不明であるが、古文書に見る限りこれが水神宮祭りの始まりである。 「文化13年茂呂村中で始められ、嘉永3年に又水神宮祭りこれより村中にて祭り、油代を三組に出す」と古文書に記されている。その間36年の内大部分は当時の美茂呂町地域の人が中心で行われてきたらしい。嘉永3年から7年にかけて茂呂の屋台が4台建造されている。美茂呂町の屋台は嘉永7年に作られているので、この年から水神宮祭りに屋台が参加するようになった。明治になり一時村中の屋台全部祭りに揃えようとしたが、当時の道路事情、経費、労力の面で無理だと2年位で中止になった。 明治の末、日露戦争で出征した兵士が船で海を渡った時、船の照明が海面に映えて美しかったのが印象に残り、帰還後それを再現しようと川の向こうからこちらに針金を渡してそれに灯油と灯心を急須に入れたもの幾つも吊るし、火をつけてカンテラ式に川面近くにさげたら、灯りが川面に映えり美しく人々の目を楽しませたこともあった。 明治の始めから大正と昭和の戦後間もない頃まで、若者がそれぞれ趣向をこらして浮かし灯篭を造り川の流れのなかに浮かべ、表面に絵や文字を書き、中に水流を利用して回転するものをつけて、ランプ状のものか、ローソク状の灯りで、走馬灯のように見せて奉納していたものです。 そのころ、いつからかははっきりしないが、伊勢崎地方は織物が盛んになり、当地も織物関係に携わる人々が多く、機屋(はたや)と言われる、いわゆる織元が多数ありましたが、その一軒である児島佐吉さんが商用で京都など関西方面に出かけた時、精霊流しを見てきて、美しいものであり、幻想的でもあるから、ここでも水神祭りの時、広瀬川に灯篭を流してみたらどうかと茶飲み話に話題としたら、それはよい、やってみようと祭典委員会で決まり、灯篭流しが始まったと言われる。 最初は麦藁を十字に縛り、ローソクをつけたものだったらしいが、材質も造りも時と共に変化して来たが、近隣に「茂呂の灯篭流し」として有名になり、水神宮祭りと言うより茂呂の灯篭流しと言われて大いに賑わった時代があった。 大正、昭和の時代から31日の祭りには花火の打ち上げはあったが、戦後昭和30年代の高度成長期を迎え、祭典委員さんの努力もありましたが、近隣の企業商店個人の方々のご厚情もあり、ご寄付も頂き花火の打ち上げも盛大となり、水神宮の奉納花火も伊勢崎地方の夏の風物詩となり、今は「茂呂の花火大会」と言われるようになりました。 変遷を経ながらも長く続く伝統行事を守り受け継ぎ、後世に残したいものです。 |
退魔寺水神宮祭(美茂呂町の花火大会)位置図 |