町田佳聲(1889~1981)日本の民謡研究家

荒物醬油店の町田賢兵衛、タツの次男として、伊勢崎郵便局本局の道路を挟んだ南にある大きな二階建ての家(現三光町)で生まれる。
幼名は英(はなぶさ)。母タツは常磐津を親しんでいた。子どもの頃は体が弱く、いつも母タツといることが多かった。母が口三味線を混じえて歌っていた常磐津を聞いていたことが、英を邦楽に興味を抱かせることになった。
明治
- 明治34年(1900年)英は前橋中学(現群馬県立前橋高校)に入学。 中学4年の春、脚気に罹り自宅で長期療養中に、看護に来た隅川というおばさんから三味線を習う。同じ頃、前橋中学校では生徒の間で詩集を作ったり読んだりすることが流行しており、同級生の萩原朔太郎はその中でも別格の存在だった。そんな朔太郎の影響を受け、英も文学の世界にのめり込み、5年生の頃には校内同人誌「坂東太郎」の編集長にもなり挿絵なども書いていた。
- 明治40年(1907年)「伊勢崎銘仙の柄書きにでもなれば」と兄浜次の勧めで、上野の東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)の試験を受け合格する。2年生の頃、目を患い将来の図案作成等を断念するが、邦楽への関心はますます高まり独学で五線譜を学び、邦楽への採譜を試みる。
大正
- 大正2年(1913年)休学もあり2年遅れで東京美術学校卒業後、時事新聞社に入社。社会部記者の美術担当になるが、病気が再発しわずか1年で退社。
- 大正6年(1917年)中外商業新聞社(現日本経済新聞社)に入社、芸能担当となる。この頃三世杵屋六四郎に入門、杵屋四郎三郎の芸名で長唄研積会等の舞台出演をする。宮城道雄らと新日本音楽運動をおこす。三味線伴奏による童謡の作曲活動もはじめる。筆名に博三(ひろぞう)を用いる。
北原白秋の許可を得て彼の童謡詩にも三味線曲をつけるようになる。この出会いが後に起きる新民謡運動で白秋の詩「ちゃっきり節」への節づけにつながる。
- 大正14年(1925年)中外商業新聞社を退職。この年開局した東京放送局に入局し、邦楽番組担当者として日本最初の民謡番組をはじめ、放送初期の民謡番組に関わり活躍する。姓名判断で戸籍名を嘉章(よしあき)と改める。
- 大正15年(1926年)東京放送局は大阪、名古屋の各放送局と合併統合し、日本放送協会(現NHK)となる。この年当時人気絶頂だった初代堀米源太(本名渡辺源太郎)の八木節を放送する。
昭和
- 昭和2年(1927年)北原白秋に依頼され「ちゃっきり節」を作曲する。これを契機に数多くの新民謡を作曲していく。
 - 昭和2年(1928年)伊勢崎銘仙の宣伝普及のために土地の有志と伊勢崎甲種料理店組合からの依頼を受けた嘉章が、唄を北原白秋、踊りを花柳徳次に依頼して「からりこ節」を作る。「からりこ節」は翌年2月、伊勢崎の芸者の春子、日出次らが出演し、NHKで全国へ生放送される。
- 昭和5年(1930年) NHKを退職し嘱託となる。
- 昭和7年(1932年)伊勢崎在住の横堀恒子が作詞し、上毛新聞社・ビクターレコード共催の全国代表民謡で第一位に当選した「機場むすめ」を町田嘉章作曲・四家文子唄でレコードが発売される。
- 昭和8年(1933年) 伊勢崎銘仙の宣伝ために発表し成功した「からりこ節」に続き、歌詞を公募、作詞を西岡水明、作曲は嘉章、振り付けは嘉章の芸仲間の藤陰静枝に依頼した「伊勢崎小唄」を作る。
- 昭和9年(1934年) NHKの改組により退社する。この頃から「東京行進曲」などの映画主題歌が流行し、民謡会も東北民謡をはじめ本来の民謡に押され新民謡は衰退していったため、作曲家「町田佳聲
の道は閉ざされてしまった。
- 昭和10年(1935年)民謡をレコードに収録することを思いつき、民謡放送の初のレコード化した「栃木県の夕」を放送。以後私費で民謡番組のレコード化を行う。これが後の「日本民謡大観・関東編」の編集に役立つことになる。
- 昭和12年(1937年)町田式写音機が完成し、それを持って藤田徳太郎と初の民謡採取旅行に青森に出かける。これ以後、作曲家藤井清水と共同採取を始める。
- 昭和14年(1939年)西日本採取旅行を前に民俗学者柳田國男を訪ね、民俗学の一部である伝承歌謡を本格的に始めるための指導や協力を依頼する。
 - 昭和16年(1941年) 柳田國男を団長とするNHK「東北民謡試聴団」に参加し、録音関係事務を担当する。
- 昭和19年(1944年)「日本民謡大観・関東編」が刊行される。
- 昭和20年(1945年)戦災により自宅を焼失する。終戦後はしばらく研究活動を中断する。
- 昭和23年(1948年)NHKは民謡調査を決定し、嘉章に委託し事業を継続する。
- 昭和26年(1951年)邦楽放送の向上に尽力し、多年にわたる俚謡、民謡の採譜、採録を集大成し、我が国の放送文化の向上に寄与した業績で第2回放送文化賞を受賞する。
- 昭和27年(1952年) 「日本民謡大観・東北編」が刊行される。監修者である柳田國男は、この序文の中で「この続刊発行を機会に、私達の立場から放送協会に希望したいことは、第一巻関東編、第二巻東北編に引続いて更に中部、近畿、中国、九州と日本全土に亘る大集成を是非共完成して貰いたく種々の障害や困難もあると思うがそれを押し切って、このままの編集形式を保持して、単なる音楽家、作曲家だけの虎之巻とするに留めず、五線楽譜を判読することもできない者にとっても好箇な参考書たり得るような、日本民謡の百科事典たらしめて貰いたいものである。」と記している。
- 昭和30年(1955年) 「日本民謡大観・中部編(北陸地方)」、昭和35年(1960年) 「日本民謡大観・中部編(東海地方)」、昭和41年(1966年)
「日本民謡大観・近畿編」、昭和44年(1969年) 「日本民謡大観・中国編」、昭和48年(1973年) 「日本民謡大観・四国編」、昭和52年(1977年)
「日本民謡大観・九州編(北部)」、昭和55年(1980年) 「日本民謡大観・九州編(南部)・北海道編」をそれぞれ刊行し、全9巻を完成させる。
- 昭和56年(1981年)老衰のため逝去する。享年93歳
※1956年(昭和31年)紫綬褒章を受賞。
※1962年(昭和37年)姓名学者から雅号「佳聲」(かしょう)が贈られ、筆名として使い始める。
※1965年(昭和40年)勲四等・旭日小綬章を受賞。
※1974年(昭和49年)勲三等に叙され瑞宝章を受賞。
【参考図書】
・武内勉「民謡に生きる 町田佳聲八十八年の足跡」株式会社ほるぷレコード 昭和49年12月1日発行
・「町田佳聲展」ぐんま民謡フェスティバル実行委員会 平成9年8月30日発行
町田佳聲顕彰会 |