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消えた古墳探しの旅

上淵名(かみふちな)雙児山(ふたごやま)古墳

伊勢崎市境上淵名字銀杏
概要写真で見る変遷「境風土記」からきっかけは掲示板から
掲載日:2014/2/22

境上淵名の雙児山古墳(1947年10月)

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 先日来、当サイト掲示板で、今は消え去った境上武士の天神山古墳の場所を特定しようと、掲示板参加者の記憶や知識、情報が集まり、話題が盛り上がりました。それらは天神山古墳としてまとめましたが、同時期に”トクチャン”が投げかけたもう一つの古墳・境上淵名の雙児山古墳。”トクチャン”が子どもの頃、上淵名生まれの祖母がよく話してくれたそうです。
 天神山古墳の話題が盛り上がっていたので、話題が流れそうになった頃、”にわかTT”さんが関心を寄せ、 国土変遷アーカイブ航空写真でその位置を見つけ、現在に至るまでの変遷を確認できる地図を掲載してくれました。
 その後、遺跡や古墳、郷土史の話題の常連さん”鳩ぽっぽ”さんも加わり、得意の検索力を駆使してウェブサイトの情報を寄せてくれました。
 若い時、13年と3ヶ月、東京生活を体験しながらも、伊勢崎に生まれ現在も伊勢崎に住んでいる私・丸男も、これらの投稿がなければ知らなかった境上淵名の雙児山古墳。今は僅かな痕跡を残しながらも消え去ってしまいましたが、天神山同様”消えた古墳探しの旅”に発つことにしました。(2014/2/22 記)
【お願い】雙児山古墳に関する想い出、記憶、資料などをお持ちの方がいらっしゃいましたら、こちらの掲示板から一報をお寄せください。

上淵名雙児山(ふたごやま)古墳/釆女村11号墳の概要

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遺構概要
前方後円墳。標高60m、東方の水田からの比高3.9m、方位N30度W、周濠(盾形)、総長約130m、墳長約90m、後円径60m・高8.4m、前方幅82m・高6.9m、内部主体:後円部、両袖式横穴式石室、浮石質角閃石安山岩(FP)、 奥壁は輝石安山岩自然石巨石、羨道幅1.4m、主軸との関係(N145度W)、遺体:歯1本。<立地>台地縁辺。<保存状況>墳丘湮滅(いんめつ)。 
遺物概要
埴輪(円筒埴輪+朝顔形埴輪V式+器財埴輪(盾形埴輪)+人物埴輪(武人埴輪)+動物埴輪(馬形埴輪))+金銅製耳環+鉄刀(金銅装大刀数振+鉄鏃(型式不明)数十本)+杏葉。 
発掘概要
1962年11月15日〜25日、群馬大学学芸学部史学研究室・尾崎喜左雄が発掘調査。1988年1月実査。

境上淵名・雙児山古墳の変遷

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 下記5枚の写真は、国土地理院の国土変遷アーカイブ空中写真閲覧サービスやグーグル地図から、5つの年代に亘る雙児山古墳周辺の空中写真を抽出し、画像処理ソフトで拡大したものです。約70年間に亘る雙児山古墳や淵名神社、周辺の林や地形の変化をざっと確認できます。

 国土地理院では解像度の高い画像も有料で配布していますので、関心のある方はそちらのサイトをご覧ください。
1947年10月

 この時点で、既に現在の群馬県道2号・前橋館林線(地元通称「太田県道」、「古河街道」)が古墳を二分するように貫通していますが、北側に分かれた前方墳と南側に分かれた後円墳の形状を確認できます。
 雙児山古墳から、東北東方向にある淵名神社にかけて広大な林が広がっています。

1947年10月(国土地理院・国土変遷アーカイブから)
1948年5月

 上の写真から7ヶ月後、古墳を残すようにして周囲が整地されています。
 淵名神社にかけて広がる広大な林も伐採、整地されました。

1948年5月(国土地理院・国土変遷アーカイブから)
1961年6月

 上の写真から13年1ヶ月後、前橋館林線の北側の前方墳が消えて、畑に変わりました。
 南側の後円墳部分は形状を留めていますが、樹木はほぼ消え去り、住宅が建ちました。

1961年6月(国土地理院・国土変遷アーカイブから)
1974年12月

 上の写真から更に13年と半年後、前橋館林線の南側の後円墳部分も外形線に痕跡を残すのみとなりました。
 北側の前方墳部分に一部かかるように工場が建ち、淵名神社の林も範囲が狭まりました。

1974年12月(国土地理院・国土変遷アーカイブから)
現在
(この画像はグーグル地図から。撮影年不明ながら地図記載のコメントでは2014年とあります)

 上の写真からおよそ40年後。前橋館林線の南側の後円墳部分には円墳の形状に沿うように建物が建っています。北側の前方墳は整地されています。

現在(グーグル地図から)

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「境風土記」から

しの木弘明著 境町地方史研究会, 1969.8発行)から雙児山古墳の関する記述部分を引用

上淵名

 上淵名の北方一帯は縄文時代の遺跡が無数にある。ここから伊与久雷電神社北方にかけて、縄文時代の初期、およそ六千年ぐらい前から、弥生土師器文化にいたる住居跡が折重るようにあるわけで、この附近はかなり古い時代から集落があったかも知れない。
 古代人の生活には水流がなくてはならないが、それは東部を流れる早川と、字神谷というところの湧水を利用したであろう。早川もほとんど涸れることがないし、神谷は少しの山林の谷間にある湧水源で、その水を神の水としたのかも知れない。
 上淵名は古い住居祉とともに古墳群のあることで広く知られ、とくに太田、伊勢崎県道新設にあたって二分され、今ではほとんど面影をなくした讐児山古墳は江戸時代から有名であった。大規模な前方後円墳で、県道工事によって二分された墳丘は、さらに近年の土取作業でほとんど形をとどめないが、周濠によってわずかに昔の巨大墳の面影を知ることが出来る。雙児山古墳は江戸時代からたくさんの出土記録があるが、次に発墳歴に載せる例題をひいて昔の様子を紹介しよう。
  • 予かつて淵名村を過ぎ、土偶人の溝に委する者を見たり、去歳再往きてこれを訪うにその所を失し、里人に問ふ。里人いふ。かつて丘を撃ちて偶人を得たり、村童採りて溝壑(こうかく)に捨て今はなしと。予感慨に堪へず、直ちに適きて穴口に臨みしに孤あり。驚きて丘上に奔走せり。
  • 十数年前(安永年中)淵名邑なる淵名院の主僧或夜ひそかに雙児山を撃ちて仏像及古器許多を得、以て藩に告げぬ。侯仏像をば院に納め、古器をば庫に蔵めしめられき、石室は今なお存せり。
  • 享和元年の孟夏、予淵名邑の雙児山に行く。丘あり小雙児といふ。古磁器の壊れしもの数枚あり、童児いふ、前は村人新介といふ者万剣を鑿出(さくしゅつ)せりと、其万長さ二尺八九寸鉄錆びて用ふべからず。
 この記事によってもわかるように余ほど立派な古墳だったから、昔から盛んに盗掘して遺物を掘り出している。土偶人というのは埴輪のことであろう。
 雙児山古墳をはじめ、その周囲に幾十の古墳があったが、すでに完全に壊されてしまって、数年前調査したときには雙児山の附近に十基、淵名神社西方一号墳、同四号墳の十二基がわずかに形をとどめるにすぎない。一号墳は淵名氏の墳墓と伝えている。

きっかけは掲示板から

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<前略>
Re: 無題 - トクチャン 2014/02/13(Thu) 22:55 No.1213
付け加えます。上武士は利根川乱流地帯より土地が高く台地状になっています。
上武士を中心にかなりの古墳があったそうですよ。剛志小学校には学区内の古墳からの出土品が展示してありました。そして上武士から北東に行くと上渕名があり、ここも相当な数の古墳があったそうですよ。私の祖母は上渕名の出で子供の頃、ヤシキの中にあった「塚」(古墳)の話をよくしてくれました。上渕名には、確か太田県道を作る時だったでしょうか、大きな前方後円墳を壊してると思います。名前は・・双子山?二子山?雙子山?だったかなぁ??、すみません。調べれば出てくると思います。

<後略>

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渕名の前方後円墳 投稿者:にわかTT 投稿日:2014/02/14(Fri) 20:45 No.1220
 トクチャンのコメントに「渕名に大きな前方後円墳があったが、消滅した」との情報がありました。
この話が気になったので1948年の航空写真で渕名の前橋古河線を見ていたら早速前方後円墳らしいものが写っています。貼り付けた画像をご確認ください。トクチャン、これでしょうか?話題に出たのは。
 りっぱな周溝墓らしくお富士山クラスの大きさです。現在でも周囲の堀の輪郭が残っているようです。この古墳は名前や番号が付いているのでしょうか?近くに鶴巻古墳があるのにこちらは壊されてしまって勿体無かったですね。


Re: 渕名の前方後円墳 - トクチャン 2014/02/15(Sat) 01:40 No.1225
わざわざお調べいただきありがとうございます。
渕名神社の西側、太田県道に寸断されてしまい、ならされてしまったこの古墳がそうです。
群馬県内でも、上武士天神山や五目牛にあった大きな前方後円墳とともに、姿を消してしまった貴重な古墳だそうです。名前は・・・確か・・・ふたごやま、といったと思うのですが・・
すみません。上渕名出身の祖母から時々この塚(古墳)の話を聞いていましたが、名前がはっきり思い出せません。昔の人は古墳のことを「塚」と呼んでいました。茂呂・武士・伊与久・渕名にかけて多くの古墳があったそうですが、今ではそのほとんどが消えてしまいました。僕が子供の頃は上武士には畑になった古墳がまだいくらか残っていましたが、もうありませんね・・
剛志小学校東側の法光寺の裏山や、法光寺の北東にある上武士の三柱神社も古墳だと聞いています。
完全な墳丘ではありませんが、何基か残っています。


Re: 渕名の前方後円墳 - 鳩ぽっぽ 2014/02/15(Sat) 16:01 No.1232
なんと!みんなが通る太田県道に立派なお濠を持ち、こんなに優美な形のいい前方後円墳があったとは驚き桃の木です!!
3段階に渡る古墳壊滅の写真を拝見すると、この古墳の数奇な運命を感じないではいられませんね。
現在の平井産業運輸さんの赤い屋根の建物が、お濠の外周に沿うように建てられているのもおもしろいです。
ネットで調べられる範囲ですが、上渕名には確かに「双子山古墳」(「雙児山」とも書かれる場合あり)といった古墳があったことが確認できます。
上渕名双子山古墳は「上毛古墳綜覧」では「釆女村10号墳」と掲げられており、1962年、群馬大教授で昭和の代表的な考古学者、尾崎喜左雄氏により発掘調査され、
周濠も入れた総長約130m、墳長約90m、後円径60m、前方幅82mの規模で、横穴式石室を設けた貴重な古墳だったんですね。
ここだけは太田県道を、緩やかにカーブさせて古墳を迂回して造ってほしかったです!
詳しくはぜひ、こちらの古墳好きな方のブログをご覧ください。「佐波郡采女村第11号雙児山古墳跡」として上から5番目位に出てきます。上記の古墳番号とは一致してませんがご了承ください。
http://de101705.btblog.jp/cl/0/1/2010/12/
このブログの方が撮った写真の場所と、にわかTTさんの航空写真の場所も一致しており、トクチャンの言われている古墳は「ふたごやま古墳」にほぼ間違いないでしょう。


Re: 渕名の前方後円墳 - にわかTT 2014/02/15(Sat) 21:59 No.1245
トクチャンのお陰でこの立派な古墳を探すことが出来ました。こんなことでもなければ一生知らずに終わってしまうでしょう。ありがとうございます。
鳩ぽっぽさん、ネットで知れべられたのですか!凄い。私のネット検索力はまだまだです。
古墳名と番号まで調べて頂きありがとうございました。それと面白げなブログのご紹介もナイスです。



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