八坂用水資料目録
●K202 荒砥前原遺跡 赤石城址
   昭和51年度県営圃場整備事業荒砥南部地区に係る埋蔵文化発掘調査報告書
   群馬県教育委員会 財団法人群馬県埋蔵文化財発掘調査事業団
   1985年 203P,写真85P

 『荒砥前原遺跡 赤石城址 昭和51年度県営圃場整備事業荒砥南部地区に係る埋蔵文化発掘調査報告書』(以下『調査報告書』)は、「前橋市荒砥南部地区の圃場整備事業」で失われる集落址、城址、八坂樋(大樋)等を対象に厳密なる調査方法に基づいいて発掘した成果を整理し、作成したものである。 
 このような発掘調査による八坂用水及び八坂樋に関する資料は、『調査報告書』が唯一である。
 この『調査報告書』から、従来知られていなかった事実が判明し、関重嶷が記した『伊勢崎風土記』の記述の裏付けが出来た。八坂用水および八坂樋に関する調査対象は、「荒砥川と神沢川合流の神沢川上流60m地点の台地西端に堤状に突出した部分である。」(『調査報告書』182P)
 八坂用水に関する『調査報告書』を原文に沿って要約すると次のようになる。    
a 荒砥川と神沢川合流の「侵食を受けた台地先端部の西端に八坂用水は開削された。標高は約73mで樋の施設があった突出部は、南北の長さ約70mで幅15〜25m  である。」(182P)
b 大樋で使われた「板材は高さ50cm、厚さ5cm程で両端にやや内傾している。」
 (182P)
c 「樋の断面は、幅約3m程の掘り方があり、この中に底板・側板を入れ固定した後に 掘り方との空間を粘質土を使用して詰め固め、樋を更に固定させるともに漏水を防いで いる。」(182P)    
d 「突出部は樋の土台として築堤したもの」(182P)
e 樋の規模は、樋の掛かっている「地域一帯は砂質土で保水性に乏しい」「為にかなり、 前後からの、樋施行の必要性が生じる」ので、「神沢川左岸から築堤までの間が約25 m、築堤部分が約30m」、「築堤前10数m、神沢川渡河後10数m」、合計すると、 約80mになり、『伊勢崎風土記』(群馬県資料集所収『伊勢崎風土記』47P)の2 7丈とほぼ一致する。寸法は「幅2m前後で深さ約90cmと考えたい。『伊勢崎風土 記』(同掲書)では「深三尺」とあり、『調査報告書』の調査結果とほぼ同一である
  (2)八坂樋に関する事項 181P。図版33〜35

●K614  伊勢崎耕地整理完成誌
  伊勢崎耕地整理完成誌編纂委員 未至磨大洲
  伊勢崎耕地整理組合
  昭和15年8月
  86P

 伊勢崎耕地整理組合は、大正15年(1926)から昭和15年(1940)までの伊
勢崎町全体(伊勢崎町耕地整理組合の実施区域を除外)と三郷村、茂呂村、殖蓮村の各一部を対象として実施した耕地整理事業であった。耕地整理事業の根幹である水利事業は、「佐波新田用水耕地整理組合ト八坂業普通水利組合ト」八坂用水から用水を引き入れるれ契約をし、「潅漑用」及び「防火」「夏期二至リテハ往々二シテ異様ノ臭気ヲ放ツガ如キ非衛生的状態ヲ脱却」(38〜9P)するために行なわれた。これとともに道路の拡張がなされた。現在の六間道路もこのとき作られた。このように伊勢崎耕地整理事業は、伊勢崎市地域で実施された他の耕地整理と異なって都市計画的な色彩の強いものであった。(本文及び、昭和15年に建立された『伊勢崎耕地整理完成記念碑』を参照せよ。)
 『伊勢崎耕地整理完成誌』は、こうした内容を計画及び実施状況が綿密に書き記されている。
   (5)八坂用水に付随する事項
      a八坂用水         b佐波新田用水
      c八坂堰普通水利組合  d佐波新田用水耕地整理組合
      e伊勢崎耕地整理完成記念碑77〜85P(碑文のほか、除幕式祝辞も記されている。)

K224  伊勢崎市史 資料編1
 近世1(伊勢崎藩と旗本)
 伊勢崎市
 平成元年3月31日
 写真4P 目次6P 本文859P 資料細目次16P

 「第一章 伊勢崎藩」「第5節 勤役」「勧農」「129 嘉永六年七月 八坂新堀普請出来につき鳥目下賜」(183〜184P)は、「当夏渇水」であるため八坂新堀筋の改修工事に携わった功労者に「鳥目下賜」をしたという内容である。(資料名の先頭にある算用数字は伊勢崎市史編纂室の整理番号である。以下、同じ。)         
 この改修工事は、八坂新堀筋の農民及び町民が渇水であるので、伊勢崎藩に対して八坂
新堀筋の改修工事を願い[「198 嘉永五年六月伊勢崎町渇水につき八坂用水浚い願い書」(「伊勢崎市史 資料編2近世2 町方と村方」(362〜63P)参照。)]があり、施行されたものである。
        (1)八坂用水総体に関わる事項183〜84P
       (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項 183〜84P(中村甚兵衛・新井惣蔵・大沢要吉・真下覚助・丸橋弥七郎・          田部井藤吾・小倉八寿三)

●K224  伊勢崎市 資料編2  近世U (町方と村方)
  伊勢崎市
   平成元年3月31日
   写真4P 目次9P 本文981P 資料細目次25P

 八坂用水に関する資料は「第三章 農業と商工業」「第一節 農業」「四 悪用水」に掲載されている。
「188 宝永三年三月 伊勢崎領田方用水につき議定書」(346〜48P)は、八坂新掘ができるにあたり、用水の上流にある増田村の田植えが済んだ後に伊勢崎領の村々が取水することを取り決めた文書である。伊勢崎領の村々として「伊勢崎町」「今泉村」「茂呂村」「下植木村」「太田村」「宮下村」「八坂村」「波志江村」「安堀村」が書き上げられている。
また、裏書きに「熊谷平左衛門」「五十嵐新蔵」「小畠市之丞」「戸田惣右衛門」とある。このことは、八坂新掘の工事主体及び管理が実質的に伊勢崎藩であることを意味している。この資料は、K224 「三郷文化財史蹟研究会 特集 みさとの農業とくらし」37〜40頁には、写真入れでこの資料が掲載されている。「議定書」                     
「191 天明八年一月 八坂用水水番屋払い下げ願覚書」(350P)は、『御新堀始り日記』の標題であるが、これは、『御新堀始り日記』の内容から見ると、的を得た表現であると思われる。
「198 嘉永五年六月伊勢崎町渇水につき八坂用水浚い願い書」(362〜63P) は、伊勢崎町の名主および各町の百姓代が伊勢崎藩に八坂用水の改修を嘆願した文書である。伊勢崎藩が八坂用水の維持管理を怠っていて、八坂用水が用水としての機能が低下したことが窺える。
        (1)八坂用水総体に関わる事項 「188」(346〜48P)  「198」(362〜63P)
        (2)八坂樋に関わる事項    「191」(346〜48P)
        (3)小畠武尭に関わる事項   「188」(346〜48P)
        (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項 
          「188」(346〜48P) 「191」(350P)
          藤右衛門「191」(350P)     

●K224  伊勢崎市史 資料編5  近現代U
  伊勢崎市
  昭和62年3月
 写真4P 本文912P 資料細目次24P

 「第三章 産業・経済」における「第一節 農林水産業」「三 水利」「(1)水利」の項に、下記の八坂用水に関する資料が掲載されている。
 これらの資料を見ると、近代になっても江戸時代と同じく、八坂用水の重要性は変わらないことが解る。なお、資料名と資料名にある番号は、伊勢崎市史誌編纂の際に付記されたものである。
    『75 明治十二年九月 八坂普請所へ人足差出しにつき』
    『76 明治十三年五月 明治十二年田方用水水決算割及び明治十三年田方用水予 算割』
    『77 明治十六年三月 八坂用水十六年春普請目論見帳』
     『80 明治三十三年十一月 備足堰・伊勢島堰・赤阪堰緊急調停につき』(注)
    『81 明治三十三年 伊勢島堰取り払い訴訟事件示談書』
    『82 大正三年九月 水利調査に関する件』
    『87 大正十三年水利に関する契約書』
    『92 昭和十五年八月 伊勢崎耕地整理の用水・悪水関係実施状況』(『伊勢崎耕地整理完成誌』45〜47Pより)
  (注)この資料は、内容から判断して、前半部分が失われていると思われる。
      (1)八坂用水総体に関わる事項『75』『76』『80』『81』『77』『82』    『87』『92』
      (2)八坂樋に関わる事項  『77』

●K205 伊勢崎史話
  所収論稿 渡辺 敦「小畠武尭小伝」
  第4巻(1〜12号)
  伊勢崎史談会
   昭和36年(1961)

 『伊勢崎史話』に所収の「小畠武尭小伝」(138〜40P)は、渡辺敦先生の著述である。この「小畠武尭小伝」は小論ではあるが、八坂用水や小畠武尭等に関して重要な記述を持つ。要点を記すと次のようになる。
a 小畠市之丞武尭は、酒井下野守忠寛の伊勢崎分封からの家臣で禄百五十石。正徳4年(1714)には、郡奉行(任免年不詳)。亨保18年(1733)没。墓、善応寺。
b 「下増田は堀田伊豆守正虎(出羽山形城十万石)の飛地領だった」「ので、夜陰に乗じ、ひそかに線香の火あかりを用いて測量をとげたといゝ伝えられているが」(138P)、これは測量のために火あかりを使用したのである。〔暗闇の測量術については、松崎利雄『江戸時代の測量術』(総合科学出版1979)113〜15P参照。『江戸時代の測量術』では提灯を夜間測量で使用したと著述されている。〕
c 「両毛線伊勢崎駅西北の一本木下を通る小溝俗にハンギョッ川(原文のまま。ハンギョッ川については、6Pの注を参照せよ。)と呼ぶものは 宝永三年に通水した幹線水路の一つだった。後末広町寿町の北境を流れる新堀ができたと思われる。」 (139P)  
       (1)八坂用水総体に関わる事項 138〜40P。ハンギョッ川139P 
       (2)八坂樋に関わる事項  138P
       (3)小畠武尭に関わる事項 138〜40P
       (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項        
         菊池武右衛門友輔(号楓堂)139P 阿久津藤右衛門138〜39P  
         後藤作兵衛839P。六谷田喜左衛門139〜40P 石川泰三139P
       (5)八坂用水に関するその他の事項 a華蔵寺公園の頌徳碑138〜39P
        b『溝洫再成記』139P
(注)ハンギョッ川の「ハンギョッ」とは、「はんぎょう」、つまり藩の告示文や命令書などを掲げた高札場を意味する判形(はんぎょう)である。ハンギョッ   川は、高札場=判 形(はんぎょう)のそばを通る川である。ハンギョッ川と訛って言われる様になったのは、老人たちが時に伊勢崎を「いっさき」と   発音するのと同様である。
 ハンギョッ川については、「伊勢崎史話」第4巻 所収論稿 渡辺敦「ハンギョッ川」 (200P)。同書「補遣 ハンギョッ川」(300P)
   橋田友治『伊勢崎の史話』(伊勢崎郷土文化協会 平成元年3月)269P
   を参照せよ。

●K224 伊勢崎市の今と昔
 渡辺 敦
 伊勢崎郷土文化協会
 昭和50年
 140P

『伊勢崎市の今と昔』は、渡辺敦先生が「伊勢崎市政だより」に発表した伊勢崎の歴史 ・事件・俳人を中心に利根川・行事・古墳などの幅広い論題の諸原稿をまとめたものである。このように『伊勢崎市の今と昔』は、諸般な論題の小論を集約した図書であるが、豊富な歴史資料に裏付けられたれた内容を持っていて、伊勢崎の歴史を知るための基本的図書の一つである。
ここに出てくる鈴得六右ヱ門は、寛文8年(1668)前橋藩中の淵岡長十郎が目論んだ水源を桂川に求める中村御沼(華蔵寺下沼)の工事を地方役として進め、「(華蔵寺のー引用者)沼のすぐ下を東へ流れる古新堀〔元禄7年(1694)ー引用者)〕を掘り、今では不要になっている上沼〔貞享3年(1886)ー引用者)〕も作った人だ。(貞享元禄の頃)」(88P)と記されている。
  (1)八坂用水総体に関わる事項 37P(「田場の用水」36〜7P)。89P。
 (2)八坂樋に関わる事項   89P。(「鈴得六右ヱ門」88〜9P)
 (3)小畠武尭に関わる事項
    37P。48P(「新井雀里と小畠武尭」47〜P48)。89P。
 (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項      
     阿久津藤右衛門37P。 菊池武右衛門友輔(号楓堂)89P。
      後藤作兵衛89P。   六谷田喜左衛門89P。
 (5)八坂用水に関するその他の事項 佐波新田用水36P。  茂呂の東田89P。

●K224  伊勢崎の史話
  橋田友治
 平成元年3月31日
 伊勢崎郷土文化協会
     284P

 『伊勢崎の史話』は、『市政だより』に橋田友治先生が、昭和52年から87回連載したものをまとめたものである。「三郷D 八坂用水のこと」(44〜47P)は、『市政だより』に掲載されていた(昭和52年12月16日号)ということで量的にはわずかだが、阿久津庄次の書き残した「御新掘始め日記」を分かり易く訳文で紹介している。  
 「御新掘始め日記」は天明8年(1788)に書かれているので、宝永3年(1706)
八坂用水が作られてから、約80年程たって記録されたものである。この資料により、『上野国伊勢崎郷土誌』、『佐波郡誌』、華蔵寺公園にある小畠武尭頌徳碑等に小畠武尭の協力者「地方役阿久津庄次」と記載された部分は間違っているということがわかる。
 なお、「御新掘始り日記」に出てくる阿久津藤右衛門は、墓碑には「阿久津藤左衛門」(八坂生活改善センター南の古墳上には、「藤左衛門」の墓があり、「法名 泰顔了道居士 宝暦四年戊二月二十八日」とあるという。(『三郷文化史蹟研究会−特集 みさとの農業とくらし』[機関誌第十号 平成三年三月十五日]32P頁)
 前橋市下増田町所蔵文書「伊勢崎用水八坂水下議定書」(宝永3年3月)には八坂村名主として「藤左衛門」(上掲書36〜40Pには、「議定書」の写真と訳が掲載されている。)とある。「議定書」
 『伊勢崎の史話』には、この他、開拓・治水関係として「名和F 利根川堤防の自普請」「殖蓮E 書上原の開拓」「北G 華蔵寺の沼」「南G 川久保町の町づくり」等がある。
   (1)八坂用水総体に関わる事項  44〜47P
   (2)八坂樋に関わる事項     44〜47P
   (3)小畠武尭に関わる事項    44〜47P 227P
   (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項
      阿久津藤右衛門 45P 227P 鈴得六右衛門44P 227P

●K709 伊勢崎市の文化財
        伊勢崎市教育委員会

 『伊勢崎市の文化財』は伊勢崎市にある国、県及市の指定文化財を収録した図録で、埴輪・石造美術・古文書等の重要文化財、天然記念物、遺跡・墳墓等の史跡、武術等の重要無形文化財から構成されている。上段が写真、下段が説明である。
曲輪町の善応寺にある小畠武尭の墓は、昭和42年(1976)2月15日、伊勢崎市指定史跡「伊教文19号」として指定された。
      (3)小畠武尭に関わる事項    39P。49P(指定文化財一覧表)
      (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項
        阿久津藤右衛門39P 鈴得六右衛門39P

●K224 伊勢崎風土記
        関重嶷 著
       渡辺敦 訳
       伊勢崎郷土研究会
       昭和11年4月
       250P

 「訳文伊勢崎風土記の刊行に就きて」において、「伊勢崎乃至佐波郡の昔時を調査する
に必要なるは、其に関する古文献なるが、之に就き最も纒りたる資料を提供し又最もよき手引ともなるは、伊勢崎藩の室老關重嶷の遺著なる伊勢崎風土記に若くはなし」と渡辺先生が記しているように、『伊勢崎風土記』は、江戸時代の伊勢崎地域を知るための基本的文献である。  
 しかし、伊勢崎郷土研究会発行の伊勢崎風土記は渡辺先生が危懼していたように誤植が多い。たとえば八坂用水の成立についての記述では、宝永を寛永としている。図書館の相川考古館所蔵の原本のコピー及び『群馬県資料集 2巻風土記編U』所収「伊勢崎風土記」では、「寶永」となっている。
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●K208 群馬県資料集 2巻 風土記編U
 所収「 伊勢崎風土記」
 関重嶷 著
 渡辺敦 訳並びに校注 橋田友治 解説
   群馬県文化事業振興会
 昭和42年8月
 「群馬県資料集」の『伊勢崎風土記』には、読み下し文が原文の後にあり難解な文字には注記があるというように、正確であるとともに注が具体的で難読の文字には読み方も付いて、理解しやすい。(伊勢崎風土記に関する範囲は1〜159P)
なお、華蔵寺公園に篆額が「頌徳碑」と刻まれている小畠武尭頌徳碑の原文である「水
道愛之碑」も掲載されている。この文化7年(1810)という年数が記されている「水道遺愛之碑」は、関重嶷が「重嶷嘗て水道遺愛之碑を作り之を呈せり。然るに事寝みて行はれず。姑らく斯に記す。」とあるように、碑を建立して、小畠武尭の実績を顕彰しようとしたが、果たせなかったが、この碑は、大正元年(1912)12月、建立された。
(昭和11年の「伊勢崎風土記」を「昭和11年版『伊勢崎風土記』」、群馬県資料
集所収「伊勢崎風土記」を「群馬県資料集本『伊勢崎風土記』」とする。)    
    (1)八坂用水総体に関わる事項 
       「昭和11年版『伊勢崎風土記』」 41P。※114〜51P
       「群馬県資料集本『伊勢崎風土記』」54〜55P。※148〜51P
   (2)八坂樋に関わる事項 
「昭和11年版『伊勢崎風土記』」 41P。※114〜51P
「群馬県資料集本『伊勢崎風土記』」54〜55P。※148〜51P
   (3)小畠武尭に関わる事項
     「群馬県資料集本『伊勢崎風土記』」55P。
               (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項
       水道遺愛之碑は「群馬県資料集本『伊勢崎風土記』」55P。※の箇所。


●K224 伊勢崎史話
 所収論稿 渡辺敦
 『木門の儒者楓堂 菊池友輔』
 第4巻(1〜12号)
 伊勢崎史談会
 昭和36年(1936) 
 渡辺敦先生のこの著作の内容は、菊池武右衛門友輔の経歴と八坂用水以前の潅漑施設の 建設、八坂用水の建設及び菊地友輔による八坂用水再興との二つに大別される。前稿の菊池武右衛門友輔については、次ページの「菊池武右衛門友輔の経歴」を参照せよ。 後稿は、八坂用水以前の潅漑施設である淵岡新十郎の見立ての寛文8年(1668)に完成した華蔵寺下沼、鈴得六右衛門の見立ての貞享3年(1686)に完成した華蔵寺上沼、元禄7年(1694)に通水した古新堀について記述の後に、小畠市之丞武尭による宝永3年(1706)に完成した八坂用水は次第に荒廃し、享保20年(1735)に郡奉行に就任した菊池友輔が、八坂用水を改修したという内容である。 
『溝洫再生記』(『群馬県資料集』所収「伊勢崎風土記」付稿『溝洫再生記』)を参照せよ。
     (3)小畠武尭に関わる事項 299P
     (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項 
         菊池武右衛門友輔 299P  富田麻右衛門   299P 
         戸田惣大夫    299P  六谷田喜左衛門  299P
         阿久津藤右衛門  299P  野崎幸四郎    299P
         石原吉右衛門   299P  後藤角大夫    299P


●K282 近世伊勢崎の人々
  所収論稿 『菊池楓堂』
   渡辺敦
 伊勢崎郷土文化協会
   昭和45年
  228P

 『近世伊勢崎の人々』は、「伊勢崎史話」に元図書館長で地域の歴史に造詣が深かった渡辺敦先生が発表した論稿を先生の没後に編纂し、出版したものである。こうした図書であるため、内容は多岐にわたって、長尾一雄景範、常見浩斎、新井雀里等の伊勢崎藩の役人として活躍した人々、学習堂教授小松原剛治醇斎のような藩の教育に携わった人々、墨水庵二世、万葉亭古調と号した酒井仲をはじめとする伊勢崎の茶道家、伊勢崎地名、江戸時代中頃の伊勢崎町の状況などについて書かれている。
 菊池武右衛門友輔(楓堂)も藩の役人のひとりとして記述されている。菊池武右衛門友
輔については、「菊池武右衛門友輔経歴」を参照せよ。なお、八坂用水を改修し、再興したことについては、『溝洫再生記』(『群馬県資料集』所収「伊勢崎風土記」付稿『溝洫再生記』)を参)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項
照せよ。
   (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項 
  楓堂菊池武右衛門友輔100〜01P。
       (5)八坂用水に関するその他の事項 『溝洫再生記』101P。
K614  群馬県耕地事業史        鈴木吉五郎 編集
      群馬県農政部耕地開発課 監修
      群馬県土地改良事業団体連合会 発行
      昭和45年 485P
 『群馬県耕地事業史か』(以下『事業史』)は、明治32年(1899)における耕地整理法発布及びこの法律に伴う群馬県の諸規則に基づいて始まった群馬県の耕地整理の歴史と各地域の耕地整理事業の概要を中心に、昭和40年代初めまでを時代範囲としてまとめたものである。
『事業史』の構成は、「第1部 耕地事業編」「第2部 災害復旧及び防災関係事業編」「第3部 耕地事業功績者編」「第4部 群馬県耕地協会及び群馬県土地改良事業団体連合会編」となっている。
佐波新田用水に関する箇所は、「第1部 耕地事業編」の「第18章 県営排水幹線事
業(其の1)ー土地改良施行前に事業を完了したものー」「1.佐波新田用水事業」である。数値での記載が多く、佐波新田用水の概要をつかみやすい。例えば、「(3)主要工事」には、取入堰堤、逆彎管(サイフォン)、掛樋等の形態の寸法が記されている。
 八坂用水に関する箇所は、「『注』八坂用水について」である。 
 他書に見られない主な部分は、次の記載である。「通水上の基源である八坂堰及び桃広堰の諒解を得大正12年3月18日境町三楽座に於て関係5カ町村その面積753町余歩地主1800余人の総会を開き、佐波新田用水耕地整理組合を設立し、佐波郡長(大野和信)を組合長に推し、事業予算35万8千余円を満場一致をもって可決した。」(142P)
 「第3部 耕地事業功績者編」では、「小畠伴左衛門(伊勢崎藩邑溝渠開鑿)」と「石
川泰三(佐波郡伊勢崎町)」が取り上げられている。小畠伴左衛門でなく、小畠市之丞武
尭が正しい。この伴左衛門の呼称に関しては、『佐波郡誌』の項を参照せよ。
(1)八坂用水総体に関わる事項143P。    
(2)八坂樋に関わる事項143P。
(3)小畠武尭に関わる事項 367P。
   (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項
     石川泰三 372〜73P
(5)八坂用水に関するその他の事項 a佐波新田用水 143P    c伊勢崎耕地整理組合の設立 372〜73P

●K224 『殖蓮村郷土誌』()
  伊勢崎郷土文化協会
  昭和56年  
 
 『殖蓮村郷土誌』は、『伊勢崎郷土誌』と同様に 明治43年(1910)に群馬県の訓令により殖蓮村村が編纂したものである。
 「第一編 自然界」「第2章 水界」「第三 水利」(4〜5P)の項で、水利について次のように記されている。
 「本村は、日本一田植の遅き所と云ふ俚諺あり。これ本村は大半天水場にしてただ大井戸より湧出する水と増減定まりなき粕川と如上の池沼水を以て潅漑をなすのみなれば其水利の悪しきこと推して知るべし。 (附)「以前は八坂樋を通過する水を使用せしが、今は用いず(原註大正十四年追記)佐波新田用水耕地掘=潅漑の自由は村民多年の願なりしが、たまたま大正十三年の大旱魃に困りしより、他町村の関係者と合同し同年氏、工を起こしたり。掘りは、華蔵寺橋下より土器沼(かわらけぬまー引用者)西を経て北浦を斜めに東南に走り、小斎より采女村に入る、支線は谷田を樋にて通し小斎方面の田に通ず。大正14年夏には工成り土器沼以南の地は、この利を受けて常水の上田を見るに至れり、村民喜頗る大なり。」(4〜5P 原文カタカナ 殖蓮地区略図参照せよ。)
大旱魃については、『群馬県耕地事業史』(141P)及び、『是我ー石川泰三伝ー』(63P)も見よ。
    (1)八坂用水総体に関わる事項 4〜5P。
    (2)八坂樋に関わる事項4〜5P。
    (5)八坂用水に関するその他の事項 佐波新田用水 4〜5P。

●K223 佐波郡誌
  群馬県佐波郡役所 編纂
  大正12年3月
  255P 

 『佐波郡誌』は大正12年3月に郡制が廃止されるに付、作成されたものである。記述の時間的範、当然のことながら、郡制が施行された明治29年7月から郡制が廃止の大正12年3月迄を主に取り扱っていっている。
 小畠市之丞武堯の記述の内容は、『明治四三年刊 上野国伊勢崎郷土史』とよく似ている(「一 小畠市之丞武尭」の項、99〜100P)。     
 この記述に対して、渡辺先生は次のように記している。 「一、小畠武堯 市之丞又は伴左衛と称し」(『佐波郡史』190P)と記してあるが、「伴左衛」は間違いで、「華蔵寺公園の頌徳碑に小畠伴左衛門ともいうと書いてあるのは、トンダ誤りで伴左衛門は享保八年の没で、寺も本光寺にあるのを私は石塔から読み出」(伊勢崎史談会『伊勢崎史話』 昭和36年 第4巻第6号 通巻40号 138P)した。

      (1)八坂用水総体に関わる事項 前編190〜91P 後編32P
      (3)小畠武尭に関わる事項 前編190〜91P
      (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項 
         前編190〜91P
      (5)八坂用水に関するその他の事項 
         a 小畠武尭頌徳碑191P
         b 佐波新田用水耕地整理組合・八坂堰普通水利組合 前編101〜03P
           前編190〜91P

●K224 『三郷村郷土誌』
  伊勢崎郷土文化協会
  昭和56年  

 「第一編 自然界」「第二章 水界」「第一節 河」(4〜5P)の項で、三郷村には「広瀬川、粕川、荒砥川、神沢川、新堀川、桂川」が流れている。
 「新堀川 木瀬村の北部を流れ来りて有名なる八坂樋を通じて、本村に入りしものなりしが、大正12年佐波新田用水耕地整理組合成り、水路の拡張せらるるに当り、樋の北方に新水路を利用して、波志江の東部旧水路の南折点より更に華蔵寺公園の南方に向かって新水路を開き、水量の増加に併せ利便甚大なり。」(4〜5P 原文カタカナ)
     (1)八坂用水総体に関わる事項 4〜6P。
     (2)八坂樋に関わる事項 4〜6P。96P。
     (5)八坂用水に関するその他の事項 『伊勢崎風土記』96P。

 
●K614 佐波新田用水土地改良区の沿革 
  佐波新田用水土地改良区  
  出版年不詳        
  2P。付図1枚。付文書2P

 『佐波新田用水土地改良区の沿革』は、江戸期の八坂用水に触れている部分はないが、佐波新田用水の沿革の建設とその改良が数値を伴って書かれてでている
参考になることが多い。
  『佐波新田用水土地改良区 昭和27年(1952)11月18日付群馬県指令群33号により佐波新田用水耕地整理組合が組織変更した
     (5)八坂用水に関するその他の事項 
       a佐波新田用水土地改良区 1〜2P
       b八坂堰普通整理組合 1P

●K289 是我ー石川泰三伝ー
  長谷川龍雄 編著   
  伊勢崎文化協会  
  昭和47年12月 

 『是我ー石川泰三伝ー』は、石川泰三の生涯と業績を将来に残すために作成された伝記である。石川泰三の推進した佐波新田用水耕地整理組合の設立と佐波新田用水建設も石川泰三の生涯と業績の一環として記されている(「町長時代」における「社会事業としては」の項の「佐波新田用水耕地整理組合の設立」「伊勢崎耕地整理組合の設立」63〜64P
参照せよ。)。                
      (5)八坂用水に関するその他の事項 63〜64P。117P

●K224 明治廿一年 村誌 
   佐位郡伊勢崎町    
   明治廿一年   
 『明治廿一年 村誌』は、平民武孫平、士族新井雀里、士族長屋重三郎を誌料編纂有志賛襄者とする伊勢崎町を紹介した、いわば現在の要覧である。人物の項で小畠市之丞武堯「小畠伴右衛門」(60P)としている。また、完成した八坂用水の通水の日に『佐波郡史』等他書では菩提寺(注1)善応寺において通水が無かった場合、屠腹の用意をしていたというようにあるが、『明治廿一年 村誌』には、小畠武尭は「同聚院ニ入リ屠腹ノ支度ヲナシ」とある。
「屠腹ノ支度ヲナシ」という記述は、、確実な資料により裏付けられてはいないので、伝承と考えるべきである。
      (1)八坂用水総体に関わる事項 60〜61P
      (3)小畠武尭に関わる事項 60〜61P
●K224 三郷文化財史蹟研究会 特集 みさとの農業とくらし
  三郷文化財史蹟研究会
  平成三年三月十五日
 
 八坂用水だけでなく、他の三郷地区の用水についても書かれている。また、三郷地区の農業や水車についての論稿もあり興味深い。
 末尾には、三郷地区に関する年表もある。
      (1)八坂用水総体に関わる事項 31〜41P
      (2)八坂樋に関わる事項 31〜41P
      (3)小畠武尭に関わる事項 31〜41P 42P
      (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項 31〜41P
      (5)八坂用水に関するその他の事項 31〜41P 用水の供給地域を示す地図(「水系及水車位置図)56
        備足堰44P  大樋懸替(天保3年[1832])119P

●K224 八坂樋と伊勢崎の堀と川 
  長谷川龍雄  
  昭和63年7月
  伊勢崎市郷土文化協会
  62P
 この『八坂樋と伊勢崎の堀と川』は、、内容は八坂用水に関することと、広瀬川と粕川の橋・堰、広瀬川の舟運などに関することに大別できる。特に潅漑だけでなく、江戸時代の伊勢崎の古資料を基に防火用水としての八坂用水を資料の面から捉えている。
 桃木川の取水口から境町の女塚の放流口までの写真が12ページにわたり掲載してある。  (1)八坂用水総体に関わる事項 6〜45P。
       (2)八坂樋に関わる事項 6〜9P。11P(写真)。24〜6P。30P。        34P。40P。
       (3)小畠武尭に関わる事項 7P。 24〜5P。
       (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項 
         a菊池武右衛門友輔  45〜9P 90P 118P 133P。
         b『溝洫再生記』 7P。      c鈴得六右衛門  25P。41P。
          d野崎幸四郎   7P。      e六谷田喜左衛門 7P。
         g阿久津藤右衛門 25P。    h後藤角大夫   7P。
        i石原吉右衛門  7P。41P
       (5)八坂用水に関するその他の事項 
        a佐波新田用水  7P。12〜23P(写真)。29〜38P  41P。
        b佐波新田用水耕地整理組合 25P。29〜38P。
       c伊勢崎耕地整理組合    37〜8P。
       d八坂堰普通水利組合    29P。36P。

●K224  わたしたちの伊勢崎
伊勢崎市教育委員会 
      
伊勢崎市教育委員会が編纂した社会科の補助教材で、分かり易いよくまとまった記述内容となって 
       (3)小畠武尭に関わる事項 146〜55P
       (4)八坂用水に関わった地方役人、行政当局者に係わる事項 
          阿久津藤右衛門149P。