本陣の建築
『例幣使街道』(みやま文庫28)所収論稿 五十嵐富夫「柴宿」「1 柴宿の宿勢」
149頁〜156頁      本文 縦書き

 三、本陣の建築
 柴宿本陣は関根家が代々世襲したのであるが、そもそも本陣は高級武士や公卿の旅舎として設置さ
れたもので、近世武家住宅を根幹として、これに店舗的要素を加味して発達した一種独得の形態を有
する建築である。
 柴宿関根本陣は後退型に属するもので、その家造りは、平家造りにして通常の旅籠星には禁止され
ている門、玄関を構え、且雨天の際には、荷物の積降しに便利なように板間を設け庇を出して、使用
に便利になっていた。
 門を入ると玄関、式台があって奥座敷へ導くようになっている。その奥まった位置に最上位の座敷
があり、この座敷は畳敷の広えんをへだてて奥庭に面している。その奥庭には非常の際に避難するの
に使用する退口門が設けてあった。雪隠も上下に区別して、不便のないように要所に設置されていた。
 表門は当時では高貴の人々の休泊所であった関係上、その威厳を示すために重要視された関係で、
本陣、脇本陣以外には設立を許可されなかったもので、当宿本陣は、本屋は茅葺であったが、表門は
瓦葺になっていた。
 内部構造について考察するに、現在の旅館のように廟下と壁によって各室が区分されているのとは
大分趣を異にし、各部屋は腰高障子によって仕切られており、障子の腰板の部分には彩色の花鳥が画
かれている。
 このように障子による部屋の区分なら、休泊人員の多少により部屋を大きくも小さくも仕切れるの
で、至極便利であったと思われる。奥の最上位の部屋は八畳敷で、床の間、脇床を備えていた。当本
陣の畳敷部屋数は広えんを含めて、一六、畳数は一〇三・五畳となっていた。
 次に部屋と畳数との関係を示してみよう。
  二一畳敷       一
  一〇畳敷       二
   八         二
   六         四
  四・五畳敷      一
   四         三
   二         三
 この他に、湯殿一、土蔵二、物置、長屋があった。
 柴宿関根本陣は、上記のごとき施設であったが、これを他の街道の本陣規模と比較すると、本陣数
脇本陣数の少ないのはもちろんのこと、建坪においても、大きな相違のあることがわかる。(注建坪
は本陣の一つを引例した)

 右の表を比較することにより、例幣使街道の交通量も判然とするところである。  
次ぎに、本陣の営繕について、ふれておきたい。本陣は勅使、院使を含む公卿および宮・門跡・諸 侯・公用武士等の休泊する特別の旅舎で、庶民が休泊に使用することはできなかった。
 上記の人々の休泊する宿舎故、本陣職に任ぜられる者は土地の名望由緒ある家で、代々世襲が原則 であった。従って、本陣家は苗字、帯刀を許されているのが原則で、柴宿関根本陣家も安永八年(一 七七九)に苗字帯刀を許された。これは、第一回日光例幣使派遣より一三二年後に当る。
 さて、前述のごとく本陣家は苗字帯刀を許されていたと述べたが、文化十二年(一八一五)当時の 日光例幣使街道の他の宿駅の本陣家の例をあげてみよう。  
  栃木宿   長谷川四郎三郎
  天明宿   松村与左衛門   
  太田宿   橋本金左衛門   
  柴 宿   関根甚左衛門  
 本陣が江戸幕府の交通政策の所産の一つである宿駅に、公卿、諸侯等の高級衆人の族舎として誕生 し、発達した宿駅の機構の一つであることは言をまたないが、本陣は旅籠と異なり営利本位でなく、 本陣職を世襲してその任務に服したが、本陣は一般族籠のように常時休泊者があるわけでなく、特に 日光例幣使街道は他の街道と異なり本陣利用者の往来が極めて少なかったにかかわらず、大きな建造 物と家具類を常時維持しておらねばならず、従って収入の少ないことから経済的に困窮し、経営維持 には非常な苦労を伴なった。
 日光例幣使街道は平年の交通量は極めて少ないが、神忌の年は往来が頻繁となるため、本陣、旅籠 宿全般および道路の完備を必要としたために、前もってこれらの下見分を行なって、万遺漏なきを期 した。
 明和二年(一七六五)は一五〇回の神忌の年に当るために、その前年に伊勢崎藩主は領内の諸施設 の下見分を行なった。
     明和未酉年日光御法会二付道中御調
   御勘定    倉橋与四郎様 
   御泊本陣   御附御普請役 菊池 惣助様
   御勘定万   成瀬喜大郎様 御泊脇本陣
  下見分の結果、領主より本陣、脇本陣及旅籠四軒に対して修理費が加給された。
  来酉年御法会二付座敷御補理、玄関御入口門囲次の玄関料理之間湯殿雪隠御拵持被成下侯。
  其外脇本陣小左衛門並清左衛門甚五左衛門助左衛門利八方迄座敷御手入被下旨二御座侯。
 天明三年(一七八三)の四月から八月にかけて霧雨、七月に浅間山の大噴火により諸国は大飢饉に 見舞われたが、凶荒誌には奥州と羽州とが特に被害が甚しかったと述べており、日本災異志によると、
 天明三年 東山、畿内、北陸、東海
  〃     四年 畿内、東山
 七年    諸国  が気候不順で凶作であった。
 それでは、柴宿地方はどうであったろうか。天明三年は霧雨と大噴火による大洪水という二重の天災で、農作物や家屋の被害は甚大であったが、この被害状況を伊勢崎藩家[老]、関重嶷の著「沙降 記」には、次ぎのごとく述べている。
  柴街、門外に至れは濫水横流し、道路も江河の如く其の深さ腿を過ぐ。街の南裏を経て之を臨めば生物を見ず。街中、半西は圧泥軒を埋め、半東は溢水床を浸す。
 羽鳥一紅の「文月浅間記」には、次ぎのごとく描写している。
  凡て此の水筋、福島五料の閑も跡方無之、昨日までさもゆかりしかりし家居も、今日は飛鳥川の瀬 と変る。   河岸は泥に入江となって高き所に在る家居には、あたりの人寄り集り、二階に登り屋根に上り、三 日四日は  物も食はず水につかえて、いかきといふものを泥の中に伏せて目より漏りたる水を飲み露の命を支へたれども  風の音すれば又もや水の増すかと肝を消し、雨の音を聞きては石砂の降るかと魂をとはす
  本陣記録にも、次ぎのごときものがある。
  天明三卯年七月の浅間山焼泥入二而御関所押埋侯。
 従って、このように甚大な被害を受けた柴宿としては、将来の安全を期する必要に迫られ、当時の位置より北方に当る現在の地へ、移転する動機となった。
       乍恐以書付奉願上侯
  先年日光御法会之節御登山之御方様其後も御拝礼之御方様御休泊私方相勤釆候処、天明三卯年信州浅   間山焼二而家作居屋敷等迄押埋候処屋舗替仕り普請仕候。
 よって、柴宿の本陣もこの時、同時に移転したことは言を要しない。
 それでは、当地方がこのように大被害を受けた当時の本陣規模はいかなるものであったろうか。宿方明細書上帳という文書によると、本陣の建坪は七〇坪でもちろん玄関、門構であった。脇本陣は四 十五坪で、これも同じく門構となっていた。
 ところが、天明三年の利根川の大洪水で宿全体が移転して現在位置に新しい宿づくりをしたが、そ の際の本陣は二十八坪という本陣としては極めて小規模なもので、玄関、門もなく、本陣としての機能を発揮することは、ほとんど不可能であった。
 然るに、文化十二年(一八一五)は東照宮の第二〇〇回の神忌に当るので、多量の交通量が予測され るので本陣としては一日も早く復旧して機能を発揮せねはならず、ここで十一年二月藩主に対して 本陣関根甚左衛門組頭五名、名主の連名で代官小嶺応左衛門宛、家作願を提出して援助を懇願した。この願に対して、五月二〇日に藩主は、次の役人を派遣して、本陣の見分を行なった。
   御奉行     磯田道蔵
   御代官     小嶺応左衛門
   御吟味方    青田言内
             秋本権左衛門
   御作事方    留岡清六
   御地方     三名
 この見分の結果、普請の願が許可された。更に、畳替の費用も領主に懇願したが、畳替は従来、宿負担で行なっていたが、度重なる災害により宿方も関根本陣も経済的にすっかり疲労困憊その極に達 しているので、如何ともなし難いので、領主に対して、ご下賜金を願い、それによって畳替をせざるを得ない経済状態にあった。これに対して、十二年十二月伊勢崎藩主から畳替手当として三両一分永 一五文が与えられた。
 何処の宿駅においても同様であるが、本陣は宿駅中第一の建築規模を有しておっても、それは公卿大名、及び武士の休泊する旅舎として使用され、使用者の範囲が一部に限定されていることから、収入も限定されているので経営維持に非常な困難を来すことは必定であったが、神忌の年には交通量が増大することから特に設備の整備の必要にせまられたため、一段と苦痛を味あわなければならなかっ た。その解決方法としては、藩主に助成援助を懇願して、その任務を遂行するより他に方途を発見す ることはできなかった。
 文化十二年の藩主よりの助成金額は、左記の通りであった。
    一〇ケ年賦
    金拾両       御本陣へ
    金五拾両      当町旅籠屋へ
    金拾両       中町旅籠星へ
    金拾両       堀口旅籠屋へ
    金百両       三町宿内へ
    金九両壱分弐朱 脇本陣弥市方へ
 このように、経済的困難の中にあって、本陣の横能を発揮するために全力を傾けたが、徳川氏が倒 れるに及び永い間使命を遂行してきた本陣も終止符をうって、時勢の潮流の中に姿を没していっ た。