柴宿の宿勢
『例幣使街道』(みやま文庫28)所収論稿 五十嵐富夫「柴宿」「1 柴宿の宿勢」
137頁〜143頁      本文 縦書き

 一 柴宿の宿勢
 柴宿は、現在群馬県伊勢崎市柴町と称しているが、かつては上州郡波郡芝町と呼ばれていた。即ち旧
町村は明治二二年三月四日(一八八九)付群馬県令第一九号により、戸谷塚村、中町、芝町、北今井村、
山王堂村、韮塚村、八斗島町、阿弥大寺村、堀口村、下福島村を合併して新しく名和村が誕生し、また
那波郡は明治二十九年(一九九六)三月二十九日付法律第四十一号により、佐位郡と同時に両郡は廃止
になり、その両区域をもって、新たに佐波郡が置かれることとなった。この柴町の位置を地理的に観察
するに、利根川と烏川の合流点より一・五粁上流の利根川左岸に位置し、土地は概ね平坦にして、四囲
の眺望良好の地である。
 さて、さかのぼって柴宿の宿駅時代について考察するに、寛文四年(一六六四)酒井忠清にたまわっ
た知行目録によれば、柴宿は前橋藩領に属していたが、天和元年二月(一六八一)に前橋藩主酒井雅楽
頭忠清は、第二子てある酒井下野守忠寛に自己の所領である佐位、那波二郡中の二万石を分与して、伊
勢崎に陣屋を置いて伊勢崎藩主とした。従って、柴町も此時、伊勢崎藩領となり、幕末に至るまで伊勢
崎藩領であった。
 次ぎに、柴宿が宿駅としてどのような宿勢であったかを理解するために、文化二年の「宿方明細書
上帳」、文化十一年の「関東御取締御出役様江書上」および明治五年の「職分表」によって、史料を紹
介する。
 文化二年(一八〇五)
  酒井駿河守領分
  江戸江道法廿三里
  日光江廿八里
  下之方木崎江三里廿八丁
  上之方五料宿江壱里
 一、当国伊勢崎当右領主酒井駿河守陣星迄壱里
 一、宿高七百三拾石九斗五升
  但内 田二十二町四反二畝二歩
    畑四十一町四反八畝十六歩
   右之外
    高七拾二石二斗九升五合
    但畑
   芝中町、掘口村当宿の加宿二御座侯
 一、宿内地内往還長拾弐丁四十八間
   道幅二間
  宿内地内人別四百日三拾一人
   内男弐百六拾五人   
     女百六十六人                               
 一、宿内惣家教 百七軒                             
 一、本陣   上町一軒
  脇本陣   西町一軒
  旅寵産     六軒
 この史料によると、柴宿の宿の長さは、十二町四十八間で、道幅は二間であった。宿内の戸数は、一
〇七軒で、人口四百三十一人で、内訳男の数が女に比し一〇〇人多いことを特色としているが、この現
象は同一の街道でも、梁田、八木、木崎、玉村宿とは非常に異なることで、上記の四宿などは男女の比
率が同数か女が多い宿がある。このことは、これらの宿に飯盛女をおく旅籠屋の多いことを物語ってい
る。
 本陣は上町にあって、関根甚左衛門家が、代々世襲したばかりでなく、名主、年寄、問星を兼ねてい
る年代が多かった。
 一、宿高札場 宿中程二相建侯
 一、問屋場  三ケ所
 一、御朱印地 高拾五石
 一、右往還通掃除之義者宿方二而相勤申侯
 一、宿内御並木無御座候
 一、此宿より上之方五料迄之間並木無御座候
 一、此宿より上之方立場無御候座慎
 一、宿地内堀長八丁程、堀幅六尺
 これらの史料によると、宿高札は宿の中程に建てられておった。問屋場は三カ所あり、神忌の年の如
く特殊の年は別として、平年は問屋当番宅で継立を行なっていた。問屋三カ所とは、柴町と加宿である
中町、掘口に各一カ所、計三カ所があり、毎月の一日から十日までが、柴宿の問屋が当番に当り、十一
日から二十日までが中町、二十一日から月末までが堀口の問屋の当番
に定められていた。
 柴宿の朱印地としては、名刹である相州鎌倉円覚寺の末寺である禅宗泉竜寺が、十五石の朱印地を許
されていたばかりでなく、泉竜寺の山林も除地となっていた。
 宿内の往還中、中央に長さ八丁の堀があり、その堀幅は六尺であった。この水源は、利根川より上げ
て、その流末は同じく利根川に落していた。
 宿民の経済については、宿民の中で酒食、その他の商品を販売する商人は、十二軒あった。その他の
宿民は、農村なるが故に、農業の問、換言するならば、農閑期には駄賃稼ぎや縄をつくっており、女は
糸引きや織物をして、家計の手助けをした。柴宿は利根川に臨んでいるが漁業で家計としているものは、
一人もなかった。
 加宿である中町の高その他は、次ぎのごとくであった。
 一、高合六百拾五石四斗八升
   但田弐拾壱丁四反五畝拾壱歩
    畑弐拾七丁九畝十六歩
加宿中町の往還の長さは、四丁五拾四問で芝宿の三分の一であったが、道幅は柴宿と同じく二間であっ
た。宿内の家数は、四十九軒でその内、旅籠屋が三軒あった。
 さて、文化十一年(一八一四)の柴宿の家数は一〇一軒、文化二年に比し、六軒の減少となっている
が、五十八年後の明治五年(一八七二)になると、一四六軒と文化十一年当時に比して四十五軒増とな
っている。文化十一年当時の戸数一〇一軒の職業別内訳は、次のごとくであったが、これをみても、純
農村と異なり、宿駅の特色をよく表わしている。
 寺社四軒は、一〇一軒の戸数の別枠として、一〇一軒の内訳を分類してみると、次ぎのようになる
 農業一派渡世の者           五一軒
 農間商並旅籠屋諸職人渡世の者     五〇軒
後者の中には、次ぎのごとき職業を含んでいたところに、宿駅形態をよく、あらわしている。
旅籠              一〇戸
酒造並居酒渡世          一戸
居酒渡世             六戸
質屋渡世             一戸
 明治時代に入って、近代文化の潮流はひしひしと、地方の農村にも浸入してきて、その代表的文化が
近代的交通機関であった鉄道の建設であった。この鉄道は旧街道に沿って建設されていく場合が多く、
従って旧宿駅は何らかの近代的要素を具備しつつ鉄道の発達と相保って、近代的都市として更生した例
が多かった。然るに、柴宿の場合は、鉄道沿線から遠く離れ、特色ある近代産業もおこらず純農村とし
て、古えの繁栄を形態的宿場構造に残して、近代的発展から取残されていった。