例幣使の行動
(大日光47 9頁)−−大日光編集部執筆
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日光例幣使

 朝廷より東照宮への奉幣は、造営が成った元和三年(一六一七)四月に始まる。その後正保二年
(一六四五)十一月には宮号宣下の勅使が参向、翌三年四月十六日臨時奉幣使持明院宰相基定卿が
東照宮に参向し、翌四年よりは年々奉幣使を発遣する例となってこれを日光例幣使と称した。
 この時、戦国時代より廃されていた伊勢神宮への幣使も再興されることになったが、ここに日光
東照宮に対する朝廷の重い取扱を察することができる。因みに、日光例幣使は以後慶応三年まで二
百余年に及んだ。
 日光例幣使は例年正月、武家伝奏に於いて成案を作り、関白の内覧を経て勅許を得、幣使が決定
する。幣使が決まったあと、御幣物の守護の為、随行する史生・衛士もきまる。幣使は御供米の下
げ渡しを受け、五・六粒を一包とし、二万余を用意する。二月、道中通行のための公用人馬・船川
渡等の証文の下附を武家伝奏へ申請する。三月に入ると、御所の紫宸殿に於て「陣」が開かれ、東
照宮に奉幣を発遣ある様、先例のまゝに宣命を作るべき事等が命ぜられる。この事は、文書をもっ
て幣使に伝えられ、幣使は私邸に於いて宣命をうける。この後、幣使は宮中に参向、御暇乞御機嫌
伺として、天皇に拝謁し、更に関白邸等に出向いて挨拶を済ます。その日以後、発駕まで幣使の他
出は禁じられる。出発前、必要な証文等を受取り、道中の先触等を大津宿へ送る。
 かくて四月一日、京を出発した例幣使の一行は、東海道を草津から中山道に入り、木曽路をこえ、
倉賀野からは例幣使道を経て、同十五日日光山に到着、宿坊浄土院に入る。午後は東照宮に参向、
明日の為の内見を済ませる。十六日奉幣の当日は、払暁先ず浴湯を使い、束帯を着け、用意整った
旨の注進を受けて宿妨を出、日出時に輿に乗って東照宮に参向する。御宮では石鳥居で下乗、表門、
銅鳥居、陽明門を通り休息用の幕舎に入る。こゝで宣命を懐中にする。史生・衛士は唐門から入っ
て官幣を奉納。幣使は唐門前にて手水を使い、沓のまま門を入り、拝殿階下で脱沓、剣を佩びたま
ま〔通例陽明門内は脱剣〕拝殿中央に着座。再拝後宣命を高く捧げて奉読し、再拝して宣命を案上
に置く。一たん休所にもどり再び昇殿、金幣を受取って奉幣の儀を行う。了って之を神前に奉納し、
幣使は退出する。後、大献院に参拝の後、本坊で輪王寺官の饗応を受け、その日のうちに日光を後
にする。帰路は日光街道壬生通りを経て日光本街道に出、江戸からは東海道を上り、四月三十日(
小月は五月一日〕に帰洛する。帰京後直ちに禁裏へ復命、詰所への挨拶を済ませてその任を解かれ
るのである。