倭文神社
(上之宮町)
1 由 緒
祭神は天羽槌雄命で、織物・農耕・養蚕の神として崇敬されている。
配祀神は、倉稲魂・菅原道真命・豊受姫神・木花咲耶姫・大己貴命
・大山祗神・誉田別命・素箋鳴尊・菊理姫命の九神が祀られている。
延長五年(九二七)に撰集された延書式神名帳の中に「倭文神社」
の名が見える。
古来の名社で、貞観元年(八五九)に官社に列し、従五位下を授け
られた。その後「上野神名帳」では「従一位倭文大明神」とあり、上
野の九の宮とも称された。倭文神社は倭文民の氏族神として信奉され
た神でもあって、縁起には天孫降臨の際にも功績のあった神としてあ
り、氏族の人々が誇りを持って崇めた神としても想像できよう。
創建のときは、垂仁天皇の御代三年といわれるがこれを明らかにす
るものは現在不明である。
戦国時代に兵火にかかって荒廃したが、寛永年間(一六二四〜一六
四四)に入る頃に社殿が再建され、別当寺として新義真言宗宮川山慈
眼寺が定められた。
慶安元年(一六四八)九月には、御朱印地一〇石が下賜され、神社
の経営もようやく安定した。その後享保一二年(一七二七)八月八代
将軍吉宗から勧進の許を得て上野の国内はもとより江戸府内からも浄
財の寄進を仰ぎ荘厳な社殿や鳥居などが再建された。しかし慶応三年
(一八六七)一一月九日この社殿は火災により灰燵に帰した。
現在の社殿は、その後明治一三年一〇月一四日に再建されたもので
ある。なお、御朱印地は明治維新の際に上納され、また明治元年の神
仏分離令により別当寺や社僧制も廃止された。明治七年に郷社となり、
明治四二年五月二二日以降稲荷神社ほか九社を合祀し、大正四年一一
月五日神饌幣帛料供進神社に指定された。
伊勢崎市『伊勢崎の社寺建築』「伊勢崎市史社寺建造物調査報告書 第2集」(伊勢崎市 昭和58年12月)102〜103頁 |