岡屋敷の阿弥陀三尊仏の紹介
(「岡屋敷の三尊石」が世に出た経緯−引用者)

岡屋敷の三尊石仏と笠懸の来迎弥陀像
−伊勢崎地方の石造美術補遺−
 石造美術の権威である川勝政太郎教授が、十一月三十日夕
来伊し、当夜は一泊の上、翌十二月一日に、市内各所の石造
物を親しく調査された。当日は川勝教授と随行者である、史
跡美術同考会東京支部の幹事中村進氏、県文化財専門委員の
金子規矩雄先生、伊勢崎市文化財委員長下城一郎氏、黒崎社
教課長、清水保二君、植月旭君、筆者の一行八名で、下城委
員長の乗用車と、黒崎課長の乗用車の二台に分乗、宮子町旧
紅厳寺址の文永五年の笠塔婆及び、目くじり薬師、波志江二
丁目愛宕神社境内の宝塔、同町岡屋敷の阿爾陀三尊石仏、上
棟木本町の建長三年造立の石仏二基。天増寺境内の貞和二年
の宝塔及び明応八年の弥陀三尊石仏、下植木(宮前町)赤城
神社の石造美術群、以上が市内で川勝教授が視察、又は調査
した箇所であった。この調査が終ったのが午後四時頃であっ
たが、川勝教授の希望で、新田郡笠懸村馬見の丘の来迎弥陀
三尊石仏を調査して、岩宿駅で佐野市へ向う川勝教授と中村
氏と別れたのは、午後五時過ぎであった。
 以上の調査個所の石造物については、大部分は史話誌上で
「伊勢崎地方の石造美術」という題で、筆者が既に紹介して
いるが、このうち幾つかは、この時の執筆から洩れているも
のもある。特に岡屋敷の弥陀三尊石仏については、一度報告
をせねばと考えながら、ついつい遅延して今日に到ってしま
った。今回の川勝教授の来伊を機会に一応報告をしたい。
 この石仏の発見者は、史談会々員の清水保二君で、たしか
昭和四十二年の五・六月頃と記憶しているが、ある日図書館
に見えて、波志江で凝灰岩の大きな石仏を見つけたが、お堂
の中にあるため、窓からのぞいただけなので、何とも不明だ
が一度調査してほしいという話があった。その時の話では等
身大ぐらいの石仏ということだったので、早速同君の案内で
現地に出向き、附近の人にこの堂宇の管理者をお尋ねして、
鍵を開けて頂いて、この石仏を調査することとした。
 材質は砂岩質の凝灰岩で全長九十五p、基部厚味三十五p
の石の上部を小判形に加工し、表面中央に螺髪通肩の如来坐
像を半肉彫りで彫出し、その左右に宝冠を戴き、両手を腹部
の前で梵篋印のように組み合せた印相の脇侍が、それぞれ稍
外方を向いた形で立っている。中尊の全長は五十五p、頭部
(螺蝶から頤まで)の全長は十七p、肩の張りは二十六p膝
張りは四十七pで、その扶坐した膝下の台座は厚味十二pで
ある。脇侍の二菩薩は全長四十六pで、前述のように少し横
向きに彫出してあって、そのため体部の疇は十四pであった。
ただ梵篋印とも思える手の上方、胸部の附近に雨音薩とも円
形の凸出部が彫出されている。この円形のものが日月であれ
ば、脇侍の二菩薩は日光・月光の二仏となり、この石仏は薬
師三尊ということになる。しかし堂宇の管理者の話では古く
からこの堂を阿弥陀堂と呼んでいたとあるので、恐らく阿弥
陀三尊でよいのであろう。
 なお中尊の印相の方は、右手の部分が損壊していて、或は
はめ込みになっていた御手があったのかも知れない。左手の
方も、今では磨滅していて定かには判定でき兼ねる。三尊と
もに顔容はほとんど不明で、僅かに中尊の鼻が判るのみであ
る。この一石三尊の石仏は、脇侍が外方を向いている彫法な
どに、上植木本町の建長三年の石仏との類似点も考えられ、
更に石質も凝灰岩である点、半肉彫であることなどから、鎌
倉末期、下っても室町初期と推定していたのであるが、今回
の川勝教授の御意見でも、鎌倉後期としてよいであろうとの
ことであった。
 拙稿「伊勢崎地方の石造美術」第十三回の、三郷愛宕神社
の宝塔の項でも書いたが、金沢文庫本『r念仏往生伝』には、
建長六年(一二五四)の「上野国渕名庄波志江ノ市小中次太
郎ノ母」の念仏往生の説話がある。更に上植木の建長石仏の
ある附近も往生伝の樹(うえき)の市の所在地かと想定して
いるので、これらを関連させて、波志江には中世石仏が存在
しても不思議でないし、むしろ無くてはならぬと考えていた
程なのである。
 ただ残念なことには、この三尊石仏には銘文と思える文字
が一つも見当らぬことであり、この石仏の造立者名も、石工
名も何一つ解明する手がかりがない。また文献記録や資料は
今のところ、何一つ得られないのである。勿論造立当時の文
献資料が発見されるということは、万に二つも望みはないが、
せめて上植木や茂呂、太田などのように、元文三年の書上帳
でも発見されれば、この三尊仏に対する何等かの記録が出て
来るのではあるまいか。資料発掘の重要性が痛感されるので
ある。
『伊勢崎史話』(昭和45年12月15日発行)
 13巻 76〜77頁