top | 目 次 | 伊勢崎市の文化財地区別地図 | 伊勢崎地区文化財所在地図 |
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文化財事項
書誌事項
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10 |
|
|||
写真は、故橋田友治先生所蔵写真 (この笠塔姿が市指定になった昭和48年頃の撮影だと思える。) |
|||
橋田友治「伊勢崎地方の石造美術」より( 『伊勢崎史話』第7巻第6号 通巻74号 106頁〜107頁) 伊勢崎地方の石造美術(4) 文永の笠塔婆 上植木の建長石仏よりも十七年遅れて造立された笠塔婆が市内宮子町の紅巌寺址基地内にある。 この塔婆発見の端緒については伊勢崎史話の昭和三十四年五月号誌上で紹介してあるが、宮子町で史談史 例会を開催した折の収鍵であった。 笠塔婆というのは柱状の石材に笠石を置いたものであり、塔身に仏像又は種子を刻んで供餐の意味を表す もので、後にふれる予定の変形板碑に笠をのせれば即笠塔婆となる。 笠は塔身の形に応じて宝形造り又は四柱造り等となるが、宝形造りとした場合は最上部に宝珠を置き請花・ 伏鉢等までも造り出したものもある。紅厳寺址の笠塔婆は安山岩質の方形の石柱に笠をのせた形であわ、笠 も棲めて素朴なもので、上部の突起も宝珠というほどのももでなく、市女笠の様な形に見られる。 塔身上部正面に雄勁なタガネ彫りで@(キリーク)が石面一杯に刻み出され、二重蓮弁の台座、その下方に A(サ)B(サク)と蓮弁が刻み出されていて、通例見られる板碑とほとんど変りがない。キリークは阿爾陀如 来を表わす種子であり、サは観世音菩薩、サクは勢至菩薩を表わす種子で、阿陀三尊である。この種子の下 方に、五字宛四行に、十方三世仏(ジッポウナンセブツ)一切諸菩薩(いっさいしょぼさつ)八万諸聖教(はちま んしょせいぎょう)皆是阿弥陀(かいぜあみだ)と阿滴陀如来讃仰の偈が刻まれている。こゝにも鎌倉時代の往 生思想にもとづく阿弥陀信仰が、いかに民衆の心の中に浸透していたかゞみられる。 この塔身背面には 文永五年大才五月二十五日僧吉阿弥 戊辰 右□□慈父聖霊(しょうりょう)成仏(じょうぶつ)得道(とくどう) 男女教子(きょうし)七人 敬白 ??(マ マ) この造立銘によって、文永五年五月二十五日に、僧吉阿弥というものゝ指導によって、父親の霊が仏教 の道を得て成仏することを祈念して、男女七人の子供(教子は孝子と同じ)たちが造立したことが知られる。 吉阿弥という名でも解るように、唱導した坊さんは浄土宗の僧である。中世以前の墓塔の造立銘などに、よ く阿弥、又は阿の字のついたものを、まゝ見受けるが、この阿弥、阿は阿弥陀仏の略であり、吉阿弥は吉阿弥 陀仏をつ(ママ)ゞめたものであり、仏門に入って仏弟子となり法号として俗名当時の名を一字だけ頸に冠した 阿弥号、阿号といったものが、当時盛んに行われたものであるう。 この卒塔婆には厚味約ニ十センチの方形の台石もあり、石質手法等からして、台座、塔身、笠共に造立当初 の姿を、そのまゝに伝えたものと考えられ、伊勢崎附近はもとより、筆者の管見では、群馬県下でも稀少価値を 有するものである。 現在紅巌寺址墓地の北方正面奥の、旧宮子の領主跡部家の墓碑の並べられている土壇の一番西に安置さ れているが、この笠塔婆の直ぐ右手には、室町末期造立かと推定出来る一石造りの五輪塔の風化したものが 二基程並んでおり、また跡部家の墓碑も江戸時代に盛んに造立された石碑のさまぎまな型が、こゝで殆ど見る ことが出来る。 |