天増寺の貞和二年宝塔
橋田友治著「伊勢崎地方の石造美術 (5)」(K205イ バーコードナンバー10113116)
『伊勢崎史話』7巻(123〜124頁)所収論稿より
上記論稿を取り上げた理由は、この宝塔が
1.群馬県指定文化財となる経緯が記されている。
2.宝塔の寸法が細かく記されている。
3.宝塔の意味が書かれている。
など理由による。
なお、この論稿は縦書きで寸法等は漢数字で記されているが、掲載にあたり読みやすくするため、算用数字
に改めた。
伊勢崎市昭和町の天増寺境内には、貞和2年(1346)の造立銘のある雄大な宝塔が一基ある。
総高は8尺3寸(2m45cm [正しくは8尺1寸−引用者注])、即ち基礎は高さ2尺(60cm)横幅
2尺5寸(76cm)塔身は球形で高さ2尺3寸(70cm)下部で2尺1寸(63、5cm)、中央部2尺6
寸(79cm)上部1尺8寸(55cm)横幅を持っているが、宝塔の特徴である首部はない。
笠の部分が露盤まで含めて高さ1尺5寸(45cm)軒口の厚味四寸(12cm)横幅2尺7寸(82cm)
露盤の高さは約1寸6分(5cm)横幅1尺5寸5分(35cm) 相輪部は上から宝珠の高さ5寸 (15cm)、
水煙の高さも同じく5寸(15cm)横幅8寸 (24cm)九輪及び伏鉢(反花を刻み出している)の高さ1尺5
寸(45cm)全体を概観すると、いかにもがっしりと重量感があり、雄大な気迫が感じられ、見るも者を威圧す
るほど堂々としている。
基礎二区割に分って向かって右に「貞和二年丙戌」[「丙戌」は原文では横になっている−引用者]左に「十一
月 日』と造立の年月のみを示す銘文がある。この宝塔は、昭和35年3月23日に、赤城神社の石造美術群と共
に、群馬県重要文化財に指定されている。
この宝塔の文化財指定については、戦後間もなく当時健在であった柴田常恵氏が来伊された折、当時は現在位置
ではなく、天増寺の山門前の東側の梅の木の下に、基礎部約7寸程は地下に埋没した形であったものを、親しく視
察されて、基礎、塔身、相輪部ともに造立当初の姿を止めている点を賞賛され、国指定の文化財にしたいと申され
たが、その後手続等が伸び伸びとなっているうちに柴田常恵氏が逝去されて、また暫くそのまゝとなったが、その
後県文化財専門委員の金子規矩雄氏とも相談して、前記の様に県の指定を昭和35年に受けると共に、天増寺の松
浦住職や檀家総代の下地弥一郎氏等の尽刀で、現在地にコンクリートて基礎工事を行い、宝塔の重量による自然埋
を防ぐ方法を講じて移したものである。
宝塔の意義
『法華経見宝塔品』という経文に、釈迦如来が印度の霊鷲山で、大勢の人々を集めて、法華経を説いていられる時
に、地下より多宝如来の全身舎利を安置した七宝荘厳の宝塔が下から忽然と湧出して、『善哉善哉.釈尊の所説は
皆これ真実なり』と、塔中から声を発して釈迦を讃嘆した。会衆の中に大薬説菩薩というものがいて、この宝塔の
現出したことの因縁を問うと、釈迦は多宝如来の誓願を説いてこれに答えられ、更に十万世界から分身のみ仏たち
を集められ、この土を三たぴ変じて浄土とされた。そして指をもって宝塔の扉を開くと、多宝如来は塔中の獅子座
に坐っていられたが、自ら釈迦を招いて半坐を分ち釈迦を坐らせ、空中高く舞い上ると共に、あたりには異香がみ
ちあふれ紫の瑞光と蓮華の花びらがひらひらと舞い下る中で大音声を発して、
『誰カ能ク此ノ娑婆ノ国士デ訖ラン。広ク妙法華経ヲ説クハ、今正二是ノ時ナリ、如来ハ久シカラズシテ、当二涅
槃二入ルベシ。』
と説いたとある。
私たちが現代的な合理主義の思考で考えると、仏舎利(骨)を納めた宝塔(宝は美称であって塔)が地下から現
れ出てしかも生前の仏身を現じ給うたというのは、いかにも荒唐無稽の説話に思えるのであるが、古代仏教発生時
のメルヘンとして受け止めるならば、人間の空想カの所産であり、その限りにおいては、極めてロマンチックであ
る。
批判はともかくとして、日本では平安朝のころから、天台宗で法華経を尊び、特に天台密教系の寺院で、この宝
塔が多く建立された。
宝塔中の多宝如来、釈迦如来二尊をあがめる考え方なのであった。従って、多宝、釈迦の二尊に、過去、現在、
未来の三世の因縁、平穏、往生を願うという思想によって、宝塔を建立する風が興ったのである。このことは赤城
神社の宝塔の願文を参照するとよく判るのであるが、このことについてはその項 (引用者注 『伊勢崎史話』8巻
18〜20 37〜39頁)に譲ることゝする。
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