赤城神社貞治5年多宝塔
                                                                                                         
  『伊勢崎市史』「通史編1」「第三章 中世社会の伊勢崎」「第六節 石造物の世界」(K224イ バーコードナンバー101801918)752〜755頁 原文縦書き 
 
 Bは、基壇(高一四・〇センチ、幅一一八・八センチ)、基礎(高五二・二センチ、幅上八四・〇センチ、下八三・〇センチ)、球形の塔身(高四一・〇センチ、幅上六二・〇センチ、中七〇・五センチ、下五〇・入センチ)、凸字型一石造りの中台(高三七・〇センチ、下幅五五・〇センチ、上幅八三・〇センチ)、笠(高六〇・五センチ、下幅入四・五センチ)、相輪(二二・五センチ)からなる。相輪は室町時代の後補と思われる。この形式は、全国的にも例を見ず異型宝塔である。次に基礎に刻まれた銘文を示す。
 B貞治五年(一三六六)多宝塔銘
   (正面)
  敬白 奉造立殖木宮石塔事
  原以、宝塔、是三世諸仏全体、一切衆生自証覚路也、依之多宝踊現之、春朝四衆踏花  坐、宝塔坐中主之、秋夕十界居月宮、然則三所明神五衰三熱夢覚、令成八相化儀矣、  若爾今上皇帝御願円満、将軍家御息災延命、天下太平、万民豊楽、特当郷地頭家御心中所願成就、社内安穏、興隆仏法故也、兼又先妣法蓮、成等正覚法界衆生平等一如、
    貞治五年丙午仲冬日
                   (向右面)
                     思 秀
                     安 法
                     秦清書
                     同清口
                     同貞吉
                     同重音
                  大工 清原光書
                   (向左面)
                     蓮 阿
                     平宗書
                     ロロロ
                     ロロロ
                  神主 守(カ)貞
                     泰 貞
(本文読み下し)
 原(たず)ねおもんみれば、宝塔はこれ三世諸仏の全体なり。一切衆生は、自(みずか)らに覚路(かくろ)を証するなり。これによって多宝踊現す。春の朝(あした)には四衆花坐(けざ)を踏む。宝塔坐中の主。秋のタベには十界(じゅっかい)月宮(がつきゅう)に居す。然らば則ち三所の明神、五衰三熱の夢さめ、八相(はっそう)化儀(けぎ)を成(じょう)ぜしむ。若ししからば今上皇帝の御願円満、将軍家御息災延命、天下太平万民豊楽なれ。特に当郷の地頭家御心中の所願成就、社内安穏、仏法興隆の故なり。兼ねて又、先批法蓮にも等正覚を成(じょう)じ、法界も衆生も平等一如ならんことを。
                   
 冒頭に、「殖木宮」(うえきのみや 下植木の赤城神社)に石塔(多宝塔)を造立すると記し、多宝塔の功徳を述べ、「三所明神」 (赤城山の大沼・小満・地蔵岳)との結びつき、神仏習合の趣旨が記されている。次に造塔の目的として、今上皇帝(後光厳天皇)・将軍家(足利義詮)の円満・息災と天下太平・万民豊楽を祈願し、とりわけ「特に当郷地頭家御心中所麟成就」 「社内安穏・仏法興隆」を祈麻し、最後に「先枇(せんび 亡母)法蓮」の菩提を弔う旨が記されている。いくつかの目的を羅列しているが、母法蓮の菩提を弔うため、子息たちが造立したものである。人名としては、思秀・安法と秦姓の四人の檀那(施主)と清原・平姓の大工や守貞・泰貞二人の神主が記されている。
 AとBは十五年のへだたりがあるが共通の人物がいる。すなわちAで貞吉・清吉と記された人物は、Bで秦清吉・同貞吉として登場し、秦姓であることが知られる。Aの法蓮は、Bではすでに逝去し菩提を弔う対象となっている。両者を関連させてとらえると、Aは法蓮やその子息たちを含めた秦一族やその他の一族など、いくつかの氏族の連合による造立と考えられるのに対し、Bは秦氏一族による造立である。
 この秦氏はいかなる氏族であろうか。また、この二つの塔が道立される歴史的背景はどのようなものだったろうか。Aの観応二年(一三五二)十一月には、観応の擾乱が起こり、鎌倉を中心に足利尊氏・直義の骨肉の戦いが展開され、尊氏の勝利によって直義派の上野守護上杉憲顕などが関東から放逐される。代わって上野守護には宇都宮氏網が補任され、渕名荘は伊豆走湯山密厳院と新田大島讃岐前司義政に下地申分される。やがて上杉憲顕
は貞治二年(一三六三)に関東に復帰し上野守護となる。Bで祈願した「当郷地頭家御心中所願成就」の当郷地頭はこの走湯山なのか、新田大島義政なのか、あるいは義政を放逐した上杉憲顕なのか不明である。ともかく、大きな政治的変動の時期に造立されていることは事実である。
 「伊勢崎風土記」は下植木赤城社について、次のように記している。
 源二位頼朝、草創の頃には、大胡城主なりし大胡氏は赤城山内外の祠宇を修理し、殖木の塁主殖木氏は殖木村の赤城の神祠を修理し、子孫相続して之を祭りぬ。元弘・建武の乱に、殖木氏離散せしかば、祠宇も荒廃しけりとぞ。長尾景家記に日く、足利将軍義満が摂駁(うしはぎ)ける貞治年時には、上野の国主上杉民部大輔再び之を建てられき。永禄年時には、長尾景忠(上杉輝虎の臣なり)植木を領しければ、修理をぞ加えられける。同じく五年に景忠武州にて戦死し、其の子景治相続して之を祀りぬ。
 ここでは、殖木の「塁主」(城主)として殖木氏を赤城社を修理し祭祀を興した人物として記し、長尾景家(下植木に定着した景治の祖父)の記として、「貞治年時」に上杉民部大輔憲顔が赤城社を再建し、永禄年時には、植木の領主として長尾景忠(景治父、景家子)が修理を加えたとしている。南北朝期以後の、上杉氏と長尾氏との関係を示唆している。この伝承は、殖木(植木)氏の存在とともに今後真偽を追求する必要があるが、今はここまででとどめざるを得ない。