はじめに・・・2009/10/3、伊勢崎市の景観サポーター(*)の活動の一環として長野県小布施(おぶせ)町に行って参りました。心配していた天気ですが、伊勢崎を8時半に出発して上信道の県境を越える頃には結構な雨脚となって気を揉みましたが、小布施町に付く頃には雨も上がり、秋晴れの爽やかな天気の中、研修を受けたり、街中を歩いたりと、終日有意義な時を過ごしました。正直に告白すれば、小布施町に関する事前知識は、「小布施の落雁」、あるいは「信州の山々へ登山した行き帰りに通りすがる町」、程度の知識しかありませんでしたが、今回の見学を機に調べれば調べるほど、街づくり・街興しの成功事例として全国にその名を轟かせていることを知りました。 その事前知識もあって、日に日に期待が膨らみこの日を迎えましたが、小布施町はその期待をはるかに超える素晴らしい街でした。素晴らし過ぎて、伊勢崎市とのギャップが大きく、伊勢崎市の場合、どこを糸口にしたらいいのだろうかと悩んでしまうほどです。 現地のゲストセンターに到着したのが10時半。それから午後3時までの4時間半、休む間もないスピード見学でしたが、写真をたくさん撮って参りましたので、まずはご覧ください。帰ってからまだ数日ですが、次回はできれば一泊くらいの宿泊プランで再訪問したいと思っているところです。(2009/10/5 記) (*)伊勢崎市の街中景観を考える市民ボランティア団体で、私も縁あって去る9月にメンバーになりました。景観サポータの担当課は伊勢崎市都市計画部景観担当課です。 |
6次産業センターで実っていたリンゴ 6次=1次産業×2次産業×3次産業 からのネーミングで、 「どの産業が0でも 全体が0になってしまう」、 したがって、どの産業も重要と言う 示唆的な意味が含まれています。 |
スタートはゲストハウス小布施から小布施の街づくりを語る時、必ず知ることになるのが第3セクター・株式会社「ア・ラ・小布施」の存在。(→アラ小布施の経営哲学はこちら)この日、街歩きを始める前に、まず、「ア・ラ・小布施」代表の関悦子氏に小布施の歴史や街づくりの経緯について、80分ほどの時間内で簡潔明瞭に説明していただきました。会場はゲストハウス小布施の2階の多目的ルーム。 説明の内容は、1つ1つの言葉が新鮮で示唆的で、聞き洩らさないように必死で聴講しました。 |
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ゲストハウス小布施 野鳥の餌台 敷地の隅にある白壁の蔵 |
ゲストハウス小布施前の休憩コーナー 庭の樹木 落葉樹が程よく植えられた涼しそうな空間 |
◆研修を終えると、ちょうど昼食時間・・・・ |
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6次産業センターで実っていたリンゴ |
花屋 |
フローラルガーデンおぶせ 6次産業センター
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食後、一路街中へ・・・食後、バスに乗って街中へ戻る道すがら、「おぶせミュージアム」がある「観音通り(ギヤマン通り)」を通過しましたが、その風景も目を引く風景で、通り過ぎるだけではもったいなく、当初の視察予定には入っていなかったものの急きょ見学時間を取っていただきました。街中散歩の案内役は「ア・ラ・小布施」の関さんです。 |
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↑ おぶせミュージアムの入口 時間がなくて、中には入れず。 ↓ 庭園の一部のような駐車場 ”アスファルト+白線” と言う駐車場は見かけません。 これも小布施の街づくりの基本です。
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おぶせミュージアムを駐車場側から 骨董品や古陶器、喫茶 ファッションの店の入口
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これは民家だったような? 店の脇の休憩コーナー 左右に隣り合う店の間は 和風ガーデンになっていて、 手入れされた季節の山野草が 咲いていました。 店の間を自由に往来できます。 ↑(入口) 小布施中学校 ↓(正門付近) |
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店先の真っ赤な木の実が鮮やかです 食事処の入口 ギヤマン通り沿いにある 西永寺の山門。 中に入る時間はありませんでした。
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↑ 和風の食事処 ↓(上と同じ店の道路脇の植栽) 食事処の建物と道路の間に作られた小粋な空間。 古井戸を模したベンチ?です。 地酒屋さんの入口 |
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蔵の窓 |
ギヤマン通りを振り返ると雁田山が |
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ギヤマン通りと街中を横切る国道403号の交差点近くには「栗の木美術館」があります。館内の作品だけではなく、大きな和風庭園も見事です。美術館のすぐ南には和風レストランがあり、その店の庭園側が大ガラスになっていて、食事をしながらこの庭園を楽しむことができます。 | ||||
「栗の木美術館」入口 美術館前の休憩所 「栗の木美術館」前の庭園と通路 各スポットへの案内も 淡い色で小さな文字。 主役以上には目立ちません。 |
「栗の木美術館」前の庭園 苔に覆われた手前の広い空間と 木立の間から流れ落ちる小滝 美術館の入り口から見る庭園 |
街のど真ん中の駐車場・・・、そこは癒しの空間。 |
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街中にある公共駐車場の周囲には古い建物が残されています。 |
駐車場片隅の古民家 駐車場の入口 この左の建物は・・・・銀行です。 銀行も景観や修景に協力しています。 |
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駐車場の床は木のような年輪のような波のような模様を描いた石畳です。 奥にある土壁の蔵と大木が何とも言えず落ち着いた雰囲気を醸し出しています。 |
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◆駐車場とは・・・ 駐車場には白線を引かない、できる限り駐車場を目立たせない、これも小布施の街づくりの基本とのこと。 広大な敷地に自動車販売店のように車が並び、その後ろに大型店舗が立ち並ぶ光景を見慣れた私に取って、街の主役は「車」でなく「人」であることを改めて認識しました。 ◆スーパーマーケットが成り立たない? バスで移動中、学校のそばの大きな空き地が整地されていました。関さんに尋ねると、小布施町にあった最後のスーパーマーケットが撤退した跡地との事。スーパーの経営が成立しない、人口約1万1,600人の長野県で一番小さい町。 その小布施町が、年間で人口の100倍の来訪者を寄せます。街中のレストランやショップは、町外の多くの若者に働く場を提供しています。そして、来訪者はリピーターが多いと聞きます。 |
高井鴻山(こうざん)と葛飾北斎小布施町の今日を語る時、高井鴻山(こうざん)抜きに語ることはできません。江戸末期の文化3年(1806年)、小布施有数の豪農・豪商の家に生まれた高井鴻山は、若い時から江戸や京都に遊学し、幅広い教養を修得し多くの人脈を築き上げました。そのようにして出会った葛飾北斎を小布施町へ招待。その時、北斎83歳。以後、北斎は小布施を4回訪れ、晩年の集大成である肉筆画に全力を注ぎました。高井鴻山は葛飾北斎のパトロンになるだけでなく、事業で得た私財を惜しみなく地元のために投じたとのことです。 |
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高井鴻山記念館 |
高井鴻山記念館の入口 |
高井鴻山の像 |
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高井鴻山記念館 時間の都合で見学はできませんでした。 |
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北斎館・・・・そして、高井鴻山と葛飾北斎のこの交流が縁で小布施町の街づくりはスタートします。 |
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今から33年前の昭和51年、小布施町は北斎館を建てました。町内に遺されている北斎作品の散逸を防ぎ、公開するためです。 この時、北斎館の周囲は田んぼに囲まれ、近くには栗菓子の小布施堂があっただけとのことです。 たった2つの建物・・・そこから始まった小布施の街づくり。 |
北斎館 入館料・大人¥500 |
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◆北斎館周囲の広場今では、北斎館の前はちょっとした広場になっていて、栗菓子の店、ホテル、レストランなど多くの店が集まっています。 |
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小布施堂の事務所と工場 メタセコイヤの木陰のオープンカフェ 寄り付き料理・蔵部(くらぶ) 北斎館前の広場 |
小布施堂の事務所と工場 緑の竹笹と石畳の曲線が優しい風景を作っています 広場の片隅にメタセコイアの巨木 寄り付き料理・蔵部(くらぶ) |
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お土産屋さん お土産屋さんの前のカフェ。 レトロな車が似合います。 人力車なども似合うかな? お土産屋さん |
広場の隅にある「栗どっこ市」 地元産の野菜、果物も販売。 お土産屋さんの入口。 カメラを向けたらお客さんが遠慮して脇へ寄ってくれました。スミマセン。 お菓子屋さん |
これは公衆トイレです 和風で落ち着いた雰囲気の 一見民家のような建物で 周囲には植栽が施されています。 看板も目立たないので 近くへ来て始めてトイレと分かります。 観光地に取ってトイレは重要。 でも主役になってはいけない。 機能やデザインに手を抜かず そして脇役に。 このトイレ、理想的と思います。 伊勢崎境町駅前の赤レンガ倉庫の トイレも赤レンガ倉庫と調和し、 同様にいつも感心しています。 |
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和モダンなホテルが広場の一角に・・・ | |||
桝一客殿(ホテルです) 左側がホテルの入口 |
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国道403号沿いに立ち並ぶ店と、その前に1枚の写真を。 |
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この写真は何でしょうか? これは官民境界の杭の位置です。 国道403号沿いは、その昔、町屋造りの商家が並んでいたとのことです。 町屋造りは間口が狭く、奥行きが細長いのが特徴。しかも昔は車社会じゃないので、街道ギリギリに軒が出っ張っていました。 小布施の街づくりに当たり、各店舗のオーナー達が家を後退させ、店の前を公共用地に提供し、訪問者たちの歩くスペースを創り出しました。 官民一体となっての街づくりです。 ● 舗装には栗木をサイコロ状に細工したブロックが使用されています。地元の名産・栗の木の再利用です。 |
中央が官民境界の杭 後方が店舗側、手前が国道側 |
国道403号と周辺に立ち並ぶ店 | ||
諸国・民工芸雑貨の店・自在屋 国道脇の一角にあるミニ公園 メタル製のトンボとカブトムシ そば屋さん おやきの店 福栗焼き ブティック ↑ 栗菓子、和菓子の小布施堂 ↓ 小布施堂の入口 |
手作りジャム・ヨーグルトの店とそば屋さん ↑ 桝一・市村酒造。手前は国道403号。 国道に面する建物の中では最も重厚感があり、街並を引き締めています。 ↓ |
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栗菓子の店 料理屋 国道沿いに立つ祥雲寺の案内板。 高井鴻山の墓があります |
土産物店の並び ガイドセンター |
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空の青さに蔵の白壁が映えます。 国道沿いの藁葺民家 |
改修中の土壁の建物 町外の人が新たに店を開くとのこと |
◆ 蔵の窓 ◆蔵の窓になぜか惹かれます。アイボリーか白の広くてプレーンな壁。その中に、大切な絵を飾るかのように分厚い何層もの額縁。まるで美術館の壁に大事に飾られた絵のようです。 |
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◆ 小路 ◆小布施の街には訪問者が自由に往来できる小路があります。 |
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陣屋小路
小路の脇には石のベンチ 一休みできる空間が優しさを感じます |
栗の小径。名産の栗の木を敷き詰めた道 |
◆オープンガーデン・・・オープンガーデンの発想はイギリスに始まったとのことです。 |
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オープンガーデンとは、個人の庭を一般公開することです。 小布施の街中には、現在オープンガーデンが106軒あるとのことです。 一般公開することで自宅の庭をよりきれいに手入れし、それが訪問者の目を楽しませ、街全体の緑化や美化につながり、自分たちの生き甲斐として還元されること、素晴らしいことです。 |
おわりに・・・小布施町視察で思う事 |
以上、たった一日の駆け足視察の報告でした。私なりにまとめてみますと・・・ ■ 小布施町は人口1万2,000人に満たない長野県北部の寒村。 でも、その寒村にはこんな貴重な歴史が・・・。それは ●高井鴻山(こうざん)の存在。 豪農、豪商の家に生まれ、文化や芸術、学問を大切にし、多くの人脈を築いたこと。 そのようにして生まれた ●葛飾北斎との交流。 鴻山は私財を投じて北斎のパトロンになり、北斎は町に多くの作品を遺します。 そして ●市村郁夫氏(現町長の叔父)が町長時代に町の真ん中に造成した ●住宅団地政策が成功し、平均100坪の宅地に町の外から2,000人が流入。 町は農地を宅地として販売した利益を ●北斎館の建設に投入。 当時は「田んぼの中の美術館」と揶揄されたこともあった北斎館建設が ●街づくりの引き金に。 街づくりと言っても、国道沿いの家並みは ●町屋造り。 町屋造りと言えば、間口が狭く奥行きが長いのが特徴。 採光や風通しが悪く、駐車場は作り難く、隣近所の騒音がそのまま聞こえ、住人に取っては不便・不都合が多い。 この実態を直視し、住民と行政が会議に会議を重ねて ●町屋造りの名残を残しながら、街並を修景。 街並は建物の梁や柱、場合によっては壁の基調色を黒や茶褐色とした「和」のスタイル。 ●古い建物は極力保存して改装。 街並修景を進める傍ら、地元の昔からの名産の ●栗、栗かのこ。加えて ●ぶどうとりんご これら ●古くからの地元の財産はさらに付加価値を付け、そして、 ●花とオープンガーデンを新たに町の特徴に。 竹下内閣の「ふるさと創生事業」資金の1億円は 中学生や主婦たちがガーデン作りの先進国のヨーロッパ視察の費用に。 以来、街づくりが着々と進み、年間、人口の100倍の訪問者を迎える今日の姿に。 これらを大胆にも更にまとめてみれば・・・、 高井鴻山と言う資産家が芸術・文化を愛し、私財を投じ 時の絵の大家・葛飾北斎と交流し、多くの北斎作品が街に遺される。 その歴史的資産を市村家(高井鴻山の末裔)が活かし、 地元名産の栗と共に街づくりの核に。加えて花の街づくり。 ◆ 資産家の存在、芸術への思い入れ、強力なリーダーシップ、 住民の合意と協力、行政と住民の継続的な情熱と努力、 小布施町の今日の姿はこれらの結晶ではないでしょうか。 たった一日の駆け足視察で自分の目と足で見たこと、そして少し調べて得た知識。 きっとまだまだ小布施のごく一部を見たに過ぎないことでしょう。 小布施町の街づくりを更に研究した時、そこから抽出されるであろういくつかのエキス。 そのエキスを伊勢崎市の街づくりに活かせればと思った視察でした。 ● 当サイトへの訪問者は伊勢崎市に在住、在勤、在学の人が多いと思います。 何か感じたことがありましたら、掲示板・「管理人の独り言」へお願いします。 |
株式会社 ア・ラ・小布施の経営哲学 (ア・ラ・小布施のホームページから引用) |
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りんご、栗と北斎、町並み修景などをキーワードに、独自性あふれる時代を拓いてきた小布施町に暮す私たちは、今後どのように町づくりを進めていくのが望ましいだろうか。 一人でも多くの住民が「ここに住んでいてよかった」と、 幸福感をもって暮らせるような、成熟した生活文化をもつ町にしたい。その為の手段として、私たち第三セクターの株式会社ア・ラ小布施を設立しました。 第三セクターは、行政・民間相互の長所を生かして、地域の将来を見据えた経済・文化活動を推進する企業体である。 「小布施方式」の独自の流儀を創造しながら、果敢に事業を進めていきたい。 この決意を込めて、 仏語で「・・風 ・・流」を意味する「a la」に決定し、商号を「ア・ラ・小布施」としました。 栗菓子産業は、特産の農産物である栗の加工業によって付加価値が高められ、土産物店や飲食店の経営などに商業チャンスをもたらしている。町民は地場産の上質な栗を使った家庭料理を楽しんでいる。 農業・工業・商業そして生活文化までを高める「栗の循環」が確立されている。事業の選択と推進にあたっては、 農業とそれによって形成されている田園風景という、この土地の独自性に正面から向き合いながら、 商業、工業、農業が融合した循環産業を育成・推進していきます。 また本店が市街地に位置する立地条件をふまえ、地方小都市の商店街のモデルになるような商店経営に取り組みたいと思っております。 ア・ラ・小布施の出資者は、賃金、労力、アイディアなど、持てる資源を提供するが、直接の見返りは求めない。事業活動の成果として、小布施町全体が向上することの恩恵を、活動に携わった住民として楽しみあう事とする。 以上の経営哲学を確認しあった人間集団の連帯感と、小布施という土地への限りない愛着。この二つを土台に、株式会社ア・ラ・小布施は発足しました。地方小都市「小布施町」の生活文化をいかにして高めるか。この視点から、 多彩な人々とのダイナミックな交流が生まれるような企業体に仕立て上げてゆきたいと思っております。 ※上記記述の太字は、私こと管理人・丸男が特に感じ入った箇所です。 |
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小布施町のまちづくりの経緯 |
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昭和51年(1976):北斎館の会館 昭和56年(1981):第二次町総合計画の策定 昭和57年(1982):まちづくり基本計画策定 昭和59年(1984)〜61年(1986):町並修景事業の実施 昭和61年(1986):町総合計画後期基本計画の実施 「うるおいのあるまち環境デザイン協力基準」(骨子)作成 昭和62年(1987):「小布施町地域住宅計画(ホープ計画)」策定(建設省指定) 平成元年(1989): 住まいづくり相談所の開設 平成2年(1990):「うるおいのある美しいまちづくり条例」制定 平成3年(1991):第三次町総合計画の策定、「小布施景観研究会」発足 平成4年(1992):「住まいづくりマニュアル」「広告物設置マニュアル」作成 平成8年(1996):景観づくりの指針、「あかりづくりのマニュアル」作成 平成12年(2000):「小布施オープンガーデン」開始 平成17年(2005):「小布施浪漫空間検討委員会」が提言書を町長に提出 (全国都市再生モデル調査) 平成17年(2005):「東京理科大学・小布施町まちづくり研究所」設立 平成18年(2006):小布施町が「景観行政団体」となる(2004 制定の「景観法」に基づく) 「小布施町景観計画」策定(2006 年4 月1 日施行) 花づくり 昭和55年(1980):装いの花、福祉の花、産業の花 地域、家庭、花壇の3 部門を対象としたフラワーコンクール開催 ヨーロッパ花の町づくり町民海外研修の実施 平成11年(1999):第6次産業センターオ−プン |
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小布施町都市計画の概要 |
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○ 都市計画区域名:須坂都市計画 ○ 区域指定年月日:昭和44年5月20日 ○ 区域面積:1,677ha(行政区画面積1,907ha) ○ 市街化区域決定:昭和46年1月28日 ○ 市街化区域変更:昭和56年3月27日 ○ 市街化区域面積:152ha ○ 用途地域指定:昭和47年12月25日 ・第一種低層住居専用地域〜 準工業地域までの指定 ○ 都市計画街路 ・計画決定路線3路線 ○ 都市計画公園 ・計画決定箇所数:4ヶ所 ○ 公共下水道 ・計画決定:昭和56年12月12日 ・計画決定面積:265ha ・整備率:100 % ・普及率:77.4 % ・接続率:76.0 % |