武孫平関係資料
 八、武 孫平  諱宜昭幼名を覚太郎と称し安政六年三月伊勢崎町に生る、天資醇厚聡明、不幸に
して早く父を喪ひ賢母の教養に頼り能く世態人情に通し弱冠にして人の長たる器宇を備へた、明治
四年十三歳にして責善堂肝煎見習となつた。年二十三歳にして戸長となり二十二年町村制の実施せ
らるゝや町長に挙げられた、明治三十二年職を辞するに至る迄多年郷党の為に心身を??竭して専ら
自治の発達を図り町政を整理して学資並基本財産を増殖し道路を開通しで物産を振作し学校を興し
て教育を奨め風俗を矯正し生業を奨励する等公共の事務に誠実勤勉した、氏少壮にして能く老成の
功を収め独り町政のみに止まらす常に慎密なる計画を立てゝ地方人士の指導啓発に努めた、広瀬桃
木両堰水利土功会委員長、佐位那波郡私立教育会長、佐波郡会議長、伊勢崎実業協会長、繭糸織物
市場取締、群馬商業銀行取締役として臨機重要の時務を処理し、又伊勢崎、太田間の新道の開通に
カを致し、織物同業組合の紛議を和解する等苟も地方公共事業にして陰に陽に氏の徳望と斡旋とに
俟たないものはない、自治の町政能く緒に就くに及ひ其の地位を後進に譲つた敢て公事を閑却した
るに非るも主として身を運送業の経営に委ね質実勤勉益之か改善発達に努めた、二十七年十二月十
五日公共事務の功労顕著なるの故を以て勅定の藍綬褒章を賜ひ其の善行を表彰された、明治四十四
日八月二十六日俄に病に侵され溘然として逝去した、年五十三。
                                      

群馬県佐波郡役所編纂『群馬県佐波郡誌』(安岡喜太郎 大正12年3月)190−191頁