藤原正俊関連事項 2
 事 項  三品系における刀の特色
 文 献  『日本刀全集4 日本刀の流派の見どころ』(徳間書店社 昭和42年)24〜25 28〜29頁
 三品系
 三品一門は、室町時代末期の美濃国関の鍛冶で、志津三郎兼氏
九代の孫といわれる兼道を祖として、長男に伊賀守金道、次男に
来金道、三男に丹波守吉道、四男に越中守正俊がいる。この四兄
弟は、永禄年間に上京し、西洞院夷川に居を構えた。この一族の
繁栄はめざましく、幕末にいたるまで続いている。
 伊賀守金道は、文禄年中に伊賀守を受領したといわれるが、そ
の他のことがらについては詳細を知り得ない。二代金道は、三晶
勘兵衝といい、寛永十四年に伊賀守を受領し、日本鍛冶の頭領と
なって、みずから「日本鍛冶惣匠」と称した.以後歴代の金道は、
みな、日本鍛冶惣匠であり、刀工の受領は、この伊賀守金道を通
じなければ得ることができなかったのである。
 来金道は、一族間での作刀は一番少ない。二代目は大法師法橋
来金道で、来栄泉ともいっている。
 丹波守吉道は、文禄年中に丹波守を受領したといわれ、三品一
門中もっとも特異な存在である。すなわち簾丹波と呼ばれるとこ
ろの、水の流れを表現したと思われる刃文で、俗に簾刃といわれ
る刃文を焼いたのである。
 二代目吉道は、覚永十六年に丹波守を受領し、同時になかごに
菊紋を切ることを許され、以後代々菊紋を用いている。
 また、初代吉道の次男は、大坂に移住し、同じく丹波守を受領
した。ここに書道家は二家に分かれ、前者を京丹波、後者を大坂
丹波と呼んで区別している。さらに大坂丹波初代の次男は、大和
守吉道を名乗り、分家している。
 越中守正俊は、兄と同じく文禄年中に越中守を受領し、その作
品は慶長年間から寛永初年にわたって技巧に富んだ多彩な作風を
見せた。正俊は三代まで続いたが、四代目になって伊賀守金道の
家に寄宿したため、正俊系はここで終わった。

〔作風〕  
姿=この一派は鎬造りの刀脇差、平造りの寸延びの短刀が多く常寸の短刀は少ない。縞造りの刀・脇差は身幅が広く、反り浅 く、鋒は中鋒の延びたものとなる。平造りのものは、一尺をこえる寸延び短刀(脇指)が多く、ほとんどが身幅広く、反りがつ いて、重ねは一般にやや厚くなっている。 鍛え=三品一派が美濃から出た刀工であることは、作風によく現 われれ、ほとんどが板目が流れて肌立っているところに共通点が ある。越中守正俊には、柾目肌もある。後代になると板目もつまり、肌も立たずにきれいになり、平凡なものとなっている。

刃文=金道・来金道・正俊には、志洋風の小のたれに互の目をまじえて、匂口のやや締まった小沸のついたもの、兼定風の互の目、兼元風の三本杉の刃文があるが、吉道にはこれを見ること ができない。また、金道には相州風の大乱れがあり、正俊には皆焼がある。 吉道は大乱れが得意で、砂流しがよくかかり、荒沸のつくものが多い。眈年になると、二代吉道以後の簾刃の芽生えが見え、やや簾刃風をまじえてくる。また金道・吉道ともに後代のものに簾刃を、さらに技巧をこらして菊水・立田川と称する流水の中に、菊花・もみじの葉を浮かべた刃文を焼いている。さらに、大和守吉道と大坂丹波は、挙形丁子に似たくせのある匂出来の 丁子に玉を焼いている。 帽子=この派の帽子は、三品帽といわれて、浅くのたれ、先が尖って返るもので、見どころの一つである。後代のものは浅くの  たれるが、先が小丸となり、なかには玉を焼いたものもある。
彫物=棒樋・二筋碩の他にはなく、わずかに正俊に薙刀樋を見るのみである。 なかご=この一派は剣形に近い入山形が多く、越中守正俊だけが  栗尻であり、他にわずかに金道に粟尻があり、吉道に刃上がり の栗尻を見るにすぎない。 ヤスリ目は勝手下がりと筋違いがあり、正俊初代は筋違いヤ スリで、晩年には切ヤスリを用いた。二代は切ヤスリである。 銘 (略)越中守正俊は、太タガネの 大きな銘で、二代・三代は菊紋を切っている。(以下 略)

 下図は同書28頁(上)「刀 越中守正俊」 29頁(下)「越中守正俊の皆焼刀」より。