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波志江町の愛宕神社 投稿者:丸男 投稿日:2015/01/22(Thu) 13:30 No.2070
八坂用水の話題で盛り上がっていますが、八坂用水が神沢川を渡る堰について
その位置について話が展開する過程で、愛宕神社のことが話題になりました。
現在、大胡県道脇にある愛宕神社は昔はこの堰付近にあったようで
その裏付けが、先日「ぷうぷうち」さんがアップしてくれた昔の波志江村の字名にもあるので、
その部分を拡大して、字名その他を書き加えてみました。

しょうちゃんの情報や金田一モニカ さんの愛宕神社の調査結果などの参考にご覧ください。

添付:2070.jpg (151KB)
Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/01/22(Thu) 20:58 No.2071
愛宕神社ですが、親父は昭和12年生まれなのですが、その親父が聞いた話として
現在の地図と合わせた上の古地図で言うと「愛宕」と書いて有る愛の文字付近に小高い山が在ってそこに神社が在ったと聞いているそうです。
それで波志江のあちこち点在する神社?を現在の所へ集めたとか・・・
ちなみに、我が家は「新田」と「愛宕下」の区分線付近で親父の実家も数メートルの所に有ります。
昔から有名な家だったとか??


Re: 波志江町の愛宕神社 - 金田一鳩助 2015/01/22(Thu) 21:51 No.2073
はじめまして、金田一と申します。通常は名物ブログ「ほぼにちパート2」さんの中で、探偵を少しさせて頂いている者ですが、こちら様でも事件だということで投稿させて頂く次第です。ちなみに、お騒がせの金田一モニカは小生の娘であります。
「ほぼにちパート2」さんによれば、Kさんが入手されたミヤサカ・トリートメントシルクソープなるものが「八つ墓用水のたたり」による事件解決の鍵を握っているそうですが、石鹸のお使い心地はいかがでしょうか?
ふるさと先生が言われる如く、用水のたたりが一日も早く石鹸の泡と一緒に綺麗サッパリ洗い流されることを願うものです。
さて、Go!伊勢崎様におかれましては、伊勢崎城お堀の水の引き込みから端を発した今回の事件でありますが、その水源を求めて遡行し八坂用水に辿り着き、その謎が新たな謎、今から百弐年前の愛宕神社の遷宮(せんぐう)移転の件に発展したものとお見受け致しました。
添付した地図は、明治の迅速側図に現代の基盤地図が合成されたもので農研機構様から拝借したものです。
小生が赤で加筆した「い」の字は小畠武堯翁による八坂樋、「ろ」の辺りに現在の全東院、「は」の辺りに現在の八坂樋、「に」の辺りが昔の愛宕神社、「ほ」が現在の十三屋さん、「へ」が旧八坂用水の流れ・・・になってます。
こういった合成地図はどうしてもズレが生じてしまうようで、現代の道路、建物のパターンは実際よりも数十メートル西にズレてしまっているようです。

ということで、かつての愛宕神社があった位置は、十三屋さんの前の道を二十メートルほど東に進んだ角を左に曲がり、北に百メートルほど進んだ辺りにある(有)嶋鉄工所さん、居酒屋よりみちみさとさんのある辺りではないかと見てます。
「ぷうぷうち」さん投稿の小字名地図を元にした丸男さんの地図も更に重ね合わせると、まさに小字「愛宕」の所にかつての愛宕神社があったことになります! 二丁目の「愛宕」にあったことは間違いないでしょう。
尚、あしからず未だ現地調査はしてなく、古地図上で見立てただけの鑑定となってます。願わくは更に土地勘のある地元の方々に、この辺りに神社の痕跡やかつて何か手掛かりはなかったかお伺いしたい所であります・・・と思ったら、、驚き桃の木山椒の木!でしょうか先ほど、この辺りの名家の御曹司、しょうちゃんからのあっぱれな投稿が入ってました!!さすが、地元民の仰ることは説得力あります!
これは小生の出る幕ではありませんでしたが、「愛宕神社社殿造営記念碑」の碑文をもって結びとさせて頂きます。碑文によれば、大正二年の秋に、旧社殿をそこから現在地に移築したようですね。
「さらに大正二年(1913)秋、波志江金蔵寺と地交換して現在地大字波志江一五二三番地に遷祀神楽殿が造営され、つづいて昭和三年(1928)御大典記念として社務所、神輿殿、玉垣の造営が行われるとともに、篤志者による水屋鳥居の造営が成り、同九年狛犬が献納され・・・。」云々と記されてます。その後の愛宕神社は、平成に入り新社殿が竣工され現在見る姿に変遷してきたのでしょう。


Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/01/22(Thu) 21:56 No.2074
以下、資料(冊子:波志江町の民俗)の書き写しです。
>愛宕神社はもと、中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上にあり、社の森が遠くからも眺められたという。四十八段の石段を登って参拝したので愛宕山というにふさわしく・・・中略・・・波志江の社では愛宕神社よりも現在は無い七社のほうを重視している。これは藩主が七社の修造に力を貸していたからに違いない。ともかくも「伊勢崎風土記」には愛宕神社の説明はない。けれども、波志江の人々には、ウブスナサマとして古くから親しまれ尊ばれてきた社なのである。<引用終わり。
また、明治41年に16社が愛宕神社に合祀と有ります。以下内訳(16社以上記載あり)
1、宿波志江 字天神山の菅原社
       字大沼上の赤城社および末社八万社
       七社
2、宮貝戸  今宮社および境内末社の七社
       雷電社
       出雲社
3、西屋敷  近戸社
       秋葉社
4、岡屋敷  諏訪社
       浅間社
5、中屋敷  近戸社
6、中の面  愛宕社
7、間の山  稲荷社と末社菅原社
8、稲岡   熊野社と末社蚕影社と秋葉社
       字中堀の稲荷社
       字稲荷前の稲荷社
9、大鍋
10、下波志江 赤城社および境内末社稲荷社
11、新宿   字伊勢島道上の稲荷社
12、八坂   稲荷社
いまでも小字名以外で使われている名前が有るような。大鍋に記載が無かったり。
そのほか「三郷村では安掘の富士神社へ5社、太田の五郎神社へ2社が合祀された」と有ります。
これについての資料は探せば結構出てくるでしょう。

さて、金田一モニカ さん、コメ、ちょとウケてました。


Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/01/22(Thu) 22:01 No.2075
金田一鳩助さん
「正解です」説明も親父とぴったしカンカン、言うか親父も聞いた話なのでね、
又聞きって尾ひれとか付いちゃって悪い方へ行く事が多いいので濁らせてしました。

よりみちみさとを知ってるって事は三郷いやいや波志江・・いや2か3丁目と推測しました。
もしかして地元の行事では顏を合わせてたりして・・・
ちなみに去年・今年と愛宕神社で初詣の甘酒を自分らが配ってました。(^0^)V


Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/01/22(Thu) 22:06 No.2076
愛宕神社の神輿です

Re: 波志江町の愛宕神社 - 丸男 2015/01/23(Fri) 12:39 No.2077
金田一鳩助さん、ミヤサカ・トリートメントシルクソープの効果は着々と(^^;)。

明治の迅速側図に移築前の愛宕神社の位置が記されていること、バッチリ確定ですね。
「ぷうぷうち」さん紹介の波志江村の小字名の「愛宕」もバッチリ裏付けていて、
しょうちゃんのお父さんの記憶ともバッチリ一致して。
皆さんの調査、興味、関心で謎解き解明、一件落着でしたね。

ところで、「ぷうぷうち」さん紹介の波志江町の民俗資料がまた新たな興味の神経を刺激してくれました。

「愛宕神社はもと、中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上にあり、社の森が遠くからも眺められたという。
四十八段の石段を登って参拝したので愛宕山というにふさわしく・・・」

この「愛宕山古墳」、全く知りませんでした。
四十八段の石段・・・一段のステップ高を20cmと仮定すると高さ9.6m。
ステップ高を15cm〜30cmの範囲とすれば、7.2m〜14.4m。
ざっと10m規模としても、3階建てほどの高さで周囲から結構目立ちます。
残っていて欲しかった〜。

それと、愛宕神社が明治41年に16社を合祀したとのこと。
伊勢崎市内の神社を調べると、合祀や移築はたまに聞きますが、16社の多さには驚きました。
まして、「三郷村では安掘の富士神社へ5社、太田の五郎神社へ2社」など、外の村にまで出たこと興味深いです。
昔の波志江村の小字の多くに社があったことや明治期の合祀政策、新たな興味が湧いています。


Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/01/23(Fri) 22:41 No.2080
丸男さん、自分もコレを読むまで愛宕山古墳というのは知りませんでした。
1946年の航空写真ではすでに平らで畑のようです。備足山と同じように削りとられたのですね。
ただその写真では、円墳もしくは後円部を囲む様にあった道の名残が半円形に見えるような気がします。おそらくお富士山のような山がもうひとつ有ったのだろうと空想します。

お祭りでは、ここに10基の屋台(山車)が波志江中から集まったそうですが山には上がれなかったのではないでしょうか?もっとも屋台が集まるような大祭は数える位しか記録が無いようです。

さて、昨日資料をうつして投稿したあと、別の箇所に目を通すと17社とも30社とも言われる合祀があったと書かれています。物凄い数の合祀ですね。道端で時々目にする祠は合祀前のよりどころだったのかもしれません。

宮貝戸の今宮社は合祀前は今の武士牧場の北、小丘上にあって石段が下から五段、続いて二十段位あったそうです。合祀後も境内にあった石祠7社他が宮貝戸の神様として沼畔に祀られて今に至っています。下沼の北側で遊歩道を歩いていると目にする事ができます。

資料を読むと、各地区で信仰していた土着の神様を(愛宕様へ)つれて行かなくてはならなかった住民の気持ちが行間に漂っていました。


Re: 波志江町の愛宕神社 - 丸男 2015/01/24(Sat) 14:15 No.2083
ぷうぷうちさん、備足山と言う、またまた始めて聞く名前が出てきました(@_@)。
その辺にあった古墳でしょうか?
それと、愛宕神社の権威と言いますか、力と言いますか、想像も含めて当時の立場に想いを馳せると、
何とも言えない存在だったんでしょうね。

宮貝戸の今宮社の石祠7社他が波志江沼(下沼)沼畔に祀られていること、
その場所はサイクリングコースなので、度々通るので知っていたのですが、由緒は知りませんでした。
ただの路傍の石祠とは異なった祀られ方をしているので、何か歴史があるのだろうとは思っていたのですが、
ぷうぷうちさんのおかげで謎が解けました。\(^o^)/
・・・と言うことは、地元に残る石の祠や石碑は、それぞれ調べてみれば、きっと長い歴史を背負っているんでしょうね。
またまたサイクリングで途中停止の機会が増えそうです。


Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/01/24(Sat) 18:54 No.2084
丸男さん、備足山(びったりやま)は以前「第二の石山を探せ」のスレッドで軽く紹介させて頂きましたが、どんな山だったのか調べておりません。
第三中学校の南にあった山で大正期から崩し始めて、戦中〜戦後まで崩し続けていたようです。
なので人造の山ではなく流れ山だったのだろうと推測します。
古墳といえば消えてしまった渕名の前方後円墳といい、両毛線建設などの危機を経験しつつお富士山が今まで残って居るのは奇跡的と思えます。良くぞ今日まで、(涙涙)・・・
さて、愛宕神社ですがそこまでして合祀したのになぜ金蔵寺の隣に引っ越す必要が生じたのか?
資料にに行き当たっておりません。
まあ、現在の位置は波志江の中心部に近いので鎮守様としては合理的ではあります。
愛宕神社は神楽殿も新装となっておりますので初詣に限らず是非御参りいたしましょう


Re: 波志江町の愛宕神社 - 鳩ぽっぽ 2015/01/24(Sat) 19:29 No.2085
「備足山(びたりやま)」、懐かしい響きですね〜♪ 仰る通り、2013年10月に「江戸城の石垣」が話題になった時、ぷうぷうちさんが見出した三郷2号公園にある記念碑に書かれていた「石山」!、それは北部環状線から三中に向かう時に曲がる交差点の北西辺りにあった、「備足山」ではないかという説がありました。やはり米軍撮影のものだったでしょうか、航空写真も紹介されてましたね〜。
備足山は昭和10年代にはすでに開発、平坦化が進められたようです。また記念碑には「南に赤坂 西に一丁田 東に諏訪安山岩の備足山を背後に・・・」と書かれてますが、「赤坂山」というのもありました。そこは現在、大胡県道になっているらしく、恐らく先日ぷうぷうちさんが調査に行ってくださった太田町の交差点付近、協和運輸さんの辺りにあったようです。

ところで、本題の愛宕神社ですが、、今日は図書館に行って色々と調べてきました。2階の調査相談室をちょうど担当していたお師匠Kさんが、この掲示板内容も既にご覧ということで、三郷地区の郷土史関係の資料を手際よく用意してくださったから助かります。
本のタイトルはうろ覚えですみませんが「三郷の文化と史跡」とかいう小冊子には、旧愛宕神社があった場所はやはり「愛宕」という小字名が集まった所で、平地にそびえ立つ古墳の上にあった神社に「愛宕」と神社名を冠したようなことが出てました。
一方、ぷうぷうちさんがご紹介の「波志江町の民俗」も置かれてました。かなりシブい本で素晴らしいです!
ぷうぷうちさんがご紹介の通り、「愛宕神社はもと、中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上にあり、社の森が遠くからも眺められた・・・」という文が出てました。明治41年に合祀された各社の中にも、「6、中の面 愛宕社」とあるから、中の面にあったことは確かですね!

ということで、「愛宕」と「中の面と八坂の境」・・・
小字名から言って明らかに異なる場所に、きっと二つの愛宕神社があったのではないでしょうか?
両社とも、小高い古墳の上に神社があったということでは共通してますね。
また同名神社が同じ地域に集中して複数あるということも、決して珍しいことではないと思います。
(例としては、森高千里さんの「渡良瀬橋」の歌詞にある八雲神社は、足利の街にいくつもあります。)


Re: 波志江町の愛宕神社 - 丸男 2015/01/25(Sun) 10:21 No.2086
ぷうぷうちさん、鳩ぽっぽさん、その山でしたか。
すっかり記憶から消えていました(^^;)。
その山ならば、まだ全部切り崩す前の姿の記憶がかすかに残っています。
今の市民体育館の南側で、新堀(八坂用水)の少し南側、三中東側の通りの東側辺りにあったように覚えています。
まだ残っていた小山に冒険気分で登って遊んだこともあります。
もう半世紀以上も前の記憶ですが。
ごみが散乱して、ブッシュも茂り、肥溜めの人糞も廃棄していたようで、臭かったことも覚えています。今はすっかり住宅地になっちゃいましたね。


Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/01/25(Sun) 14:54 No.2089
親父に聞いたら
現愛宕神社から元愛宕神社までの通り(自分の家の前の通り)をやはり屋台は引ってたそうです。
現八坂?(お富士山北側集落)にも屋台は在ったそうですが昔・・・・・で現在は無いだんそうです。
(内情は聞かされてますが・・・・)
って言う事は昔は愛宕神社に集まる屋台は11台在った事ですかね。
ぷうぷうちさんの言ってる、16社のナンバー1〜12が現在の屋台の組名と一致しますね。
7・8は合同で稲間組で1組となりますから、やはり八坂は・・・(T_T)
波志江1丁目3台・自分の2丁目4台・3丁目3台の計10台が現在ですね。


Re: 波志江町の愛宕神社 - 鳩ぽっぽ 2015/03/12(Thu) 21:57 No.2161
しょうちゃん、丸男さん、ぷうぷうちさん、三郷小のHPを拝見致しました。
ひさびさに愛宕神社について投稿させて頂きます。
http://www.isesaki-school.ed.jp/misatosyo/misatohome/
サイト内の「三郷地区の史蹟と伝説」によると、愛宕神社は・・・
「明治42年、愛宕、赤城、七社等、各神社が合併し愛宕神社と称した。最初は八坂全東院西の古墳の上に建立されていた →後に中の面に移された →更に大正2年に現在の所に置かれた。」
というようなことが書かれてます。
「中の面に移された」ということで、ぷうぷうちさんが仰っていたことがばっちり書かれてます!
また、明治初期の迅速側図に出ている小字名・愛宕にあった愛宕神社をこの中に整合させると、合併前の愛宕社ということになりますね。
こちらの「三郷地区の史蹟と伝説」で注目すべきは、愛宕神社は最初はなんと!「八坂全東院西の古墳の上に建立されていた 」といった件です。「最初は」と言っても、時代が何時なのかはっきり特定できないのが残念です。文脈の前後関係から言えば、合併後のお話のようですが・・・
また、おしまいの方の寺院の紹介では全東院の山号が「愛宕山全東院」と出てます。愛宕山と全東院は密接な関係があるのでしょう。
しかし、「三郷地区の史蹟と伝説」の地図では全東院は現在の位置とほぼ同位置なのに、お寺の紹介では所在地は「波志江町八坂」とあるのが引っかかります。小字名・八坂ならもっと東北の北関東道の辺りだったはずですが、その辺のことを是非じもてぃの皆さんにお聞きしたいところです。
そういえば、しょうちゃんが以前、お富士山にも近いこちらの方に「八坂生活改善センター」があったりと仰っていたように思います。現在、「八坂」と呼ばれているエリアは、「小字名・八坂」とはズレているようですね。


Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/03/13(Fri) 00:09 No.2162
鳩ぽっぽさん
<<お寺の紹介では「波志江町八坂」>>と有るのは間違えで無いと思います。
現在、自分らが使ってる小字名の位置と一致してます。
このお寺の南に在る、前橋の下増田に行く通りの北側(八坂桶へ行く地域)と、波志江のセーブオンからぐるっと回り込み北部環状線に繋がる、
この楕円形状の道路の内側(北)が波志江町に成るんです。
シティマラソンコースを見て貰った方が解るかな?
下増田に行く通りの南側と楕円形の通りの外側(南)で北部環状線の南が安堀町とざっくばらんに見てもらえると納得できるかと。
とすると「八坂改善・・・」も波志江町内で八坂に在るって事になり、問題無?
お富士山(楕円形の通り)もフレッセイ(環状線の通り)も通りの外側(南)なので安堀町って事で・・
北関東道の付近の八坂が通じるのは、70歳以上の方や地元(自分の様に直近)の方と思います。

注意・・注意・・注意
上記記載は自分個人の見解で間違えてる部分が有るかも知れませんのでそのへんはお願いします。


Re: 波志江町の愛宕神社 - 鳩ぽっぽ 2015/03/13(Fri) 22:25 No.2163
しょうちゃん、「波志江町八坂」について、貴重なご説明ありがとうございました!
全東院付近の八坂と、北関東道付近の八坂の違いも解りました。
全東院付近の八坂は、きっとこの辺りが「旧八坂村」だったからなんでしょうね。そう思うと、こちらの方面に「八坂生活改善センター」といった名称の施設があるのもわかるような気がします。
そうすると、(恐らく合併後の)愛宕神社が最初に建立されたのは、現在の全東院西の古墳のあった所ということになりますね。
全東院から八坂大樋にかけてのこの辺り一帯は「八坂遺跡」と呼ばれ、恐らく1973年頃に発掘調査が行われたようです。縄文、古墳〜平安時代にかけての埋蔵文化財が確認され、群馬県を代表する縄文後期、晩期の遺跡として著名だそうです。実は私も中学生の時、ここに土器の残骸を拾いにいったことがありました。
八坂遺跡で特筆すべきは、焼石(しょうど)を中心に約2.5メートル四方に方形に石を配置した遺構が発見されており、その中から土器片やイノシシの頭蓋骨が発見されていることから、ここで祭祀(さいし)が行われたのではないかという説があることです。
現在、全東院の西辺りは墓地、更に道路の西は畑や残土置き場、民家になっているようです。そのまた西は木三橋で、荒砥川、神沢川の段丘上に古代人には絶好のロケーションです。
一方、明治初期の迅速側図に出ている「小字名・愛宕」にあった愛宕神社の付近は文字通り「愛宕遺跡」で、やはり縄文、古墳〜平安時代にかけての遺跡でした。
ちなみに、西から八坂遺跡、新堀遺跡、愛宕遺跡と続き、この辺りもさながら遺跡銀座ですね!


Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/03/13(Fri) 23:57 No.2164
しょうちゃん、三郷小のHPリニューアルの紹介ありがとうございます。
意外なところから面白い資料を見ることができますね。小学校、侮れません。
それにしても愛宕様、全東院のところに有ったとは知らなかった。
全東院の山号が愛宕山だったというのも全く存じませんでした。

江戸時代後期に纏められた伊勢崎風土記には話題の愛宕神社が出てきません。
そして祠サイズの愛宕様ならば佐位と那波両郡あわせて14座あると書かれています。この小さな愛宕様のひとつが全東院の西のものか?
それとも愛宕神社は意図的に伊勢崎風土記から消されていたのでしょうか?


Re: 波志江町の愛宕神社 - 金田一モニカ 2015/03/17(Tue) 22:47 No.2167
ぷうぷうちさん、あたいも愛宕神社のルーツをちょっち調べてみたわ。
でも、愛宕神社は「伊勢崎風土記」には出てこないのね・・(ー_ー;)
ちなみに社殿造営記念碑によると、「江戸時代末波志江八景の歌には愛宕山夜雨と題して
愛宕山宮のあたりの雨の音にふりさけ見れば夜半の松風」と
と詠われ、山林三町五反八畝余りの社地の景観が伺い知られます。」
と記されているわ。山林三町五反、、ってとっても広い社地みたいなんだけど・・。

またまた三郷小のHPで、全東院は江戸の享保年間はすでに「愛宕山全東院」だったことも解ったわ。
添付画像(グーグルマップより)は、全東院南の三叉路の角(木三橋に向かう道の手前、阿久津商店さんの脇)にある「経塚」(きょうづか)の写真よ。
HPによると、この「経塚」に「上野国佐位郡伊勢崎邑 小字八坂郷 享保廿年(20年)・・・愛宕山全東八世老前周峰和尚」とか、銘文が刻まれていたようね。
享保(きょうほう)っていうと暴れん坊将軍・吉宗の時代だもの、かなり古くから八坂(やっさか)に愛宕山があったことが証明されたわ♪
その時代に周峰という老僧が中心となって経塚を建てたらしいわね。


Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/03/18(Wed) 21:51 No.2168
金田一モニカさん
毎日通勤で、ここの丁字路は通ってるのに全く気が付きませでした。
4年前の震災でガソリン不足の時、一時チャリンコでも通っていましたが、
交差点脇と言う事もあって、安全運転に気が行く為中々下を見ませんでしたからね。
通勤時間帯は、特に交通量が多く成るし、信号も無いし「暗黙の了解的な」な車の動きになる為
通勤時に一番緊張する交差点(丁字路)なんですよね。
明日は見ようかとは思いますが、安全運転が優先しますからね、残念になると思います。


Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/03/19(Thu) 23:13 No.2169
金田一モニカさん、
八坂の愛宕社の名残があるなんて、それをストリートビューで見つけてしまうなんて
いやはや、びっくりですよぉ。
しかも、しょうちゃんと同じく「何度も通るところなのに、ねぇ〜?」って感じです。
次の通行時に注意してみて見ます。


Re: 波志江町の愛宕神社 - 金田一モニカ 2015/03/20(Fri) 19:45 No.2170
しょうちゃん、ぷうぷうちさん、レスとってもうれぴ〜(死語?)わ!
三郷小のHPによるとこの三叉路の角は昔、ガソリンスタンドだったそうね。きっと田舎の小さなGSね。
「経塚様」と言ってここで毎年3月と7月の8日に、八坂組内の当番が出て経塚の周りに燈篭を立て蝋燭を灯して念仏を唱えた・・とあるけど、現在も続いているのかしら? 写真を見るとあんまりやってる空気じゃないわね。
経塚(きょうづか)と言われるように、かつては墳丘状に土で覆われて塚になっていたらしいわ。

ところで、問題の「愛宕山」ですが、、(汗) 山号って、例えば「比叡山延暦寺」と言うように本来はお寺の所在する山の名前を冠するわけで・・やがて平地にあるお寺でも「○○山○○寺」と呼ぶようになったのよね。
「愛宕山」が本当に山だったかどうかはっきり解らないけど、全東院西に古墳があったことは確かよ!そうだったわ、最初の愛宕神社はその古墳の上に建てられたんだったわ。
またまた、ぷうぷうち先生によれば、、後に移転した愛宕神社も、えっ!>中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上にあり、社の森が遠くからも眺められたという・・・から、またも「愛宕山古墳」という言葉がつきまとい、、これも八坂(やっさか)のたたりかしら?? 
更に、明治初期の迅速側図に出ている「小字名・愛宕」にあった愛宕神社、そこも古墳の上にあったから、これを入れたら三つ巴で・・・愛宕=古墳の組み合わせ、三つの愛宕山?はいったい何を意味しているのかしら? うふふ。謎が謎を呼んでるわ。



Re: 波志江町の愛宕神社 - 金田一モニカ 2015/03/20(Fri) 22:25 No.2171
「愛宕山全東院」を、戦後の米軍空撮写真で見たらこうだったわ。(添付画像あり)
イ、木三橋
ロ、全東院西の雑木林、或いは山(愛宕山?)であったか? ここに古墳と愛宕神社があったと思われる。
ハ、現在の三叉路、経塚のある辺り。かつてはここでカーブする道はなく、南から北のお寺に向かうとドンツクだったと解るわ。現在の道路に沿って南北に花壇があるの・・その花壇の西側が古い道で突き当たり(正面)はちょうど経塚になってたと思うわ。ドンツクを西に向かえば木三橋。東に向かえば現在の緑風苑商品センターさんの敷地北を通り、左折して、やさか食堂さんの前に出る道がこの空撮写真にある旧道らしいわね。
ニ、全東院本堂と思われる建物。
ホ、八坂大樋跡
ヘ、旧八坂用水。(当時はまだ残っていた)


Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/03/22(Sun) 09:51 No.2173
金田一モニカさん、愛宕社は伊勢崎風土記では14座という事ですからいっぱいあっても良いと思います。
但し「中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上」と言われている場所は迅速図の愛宕神社を指しています。
小字の地図を見ると色々惑わされますが大字(現在の組名)では「中の面と八坂の境」で考えると自然に迅速図どおりと解釈できます。
というわけで八坂絡みで登場する愛宕山は2つですね。
また、「波志江町の民俗」では全東院は「愛宕山全東院龍水寺」と記されていました。現在お寺の額とか看板に標記があるのでしょうか?


愛宕神社のプロセス - 鳩ぽっぽ 2015/03/22(Sun) 21:53 No.2175
ぷうぷうちさん、
>「中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上」と言われている場所は迅速図の愛宕神社を指しています。
ええ〜っ、そうだったのか〜〜!(@_@)今まで「小字名地図」に、すっかり惑わされてました。。
例えば地図の「中の面西と八坂前の境」の辺りを、米軍空撮の写真で何か痕跡はないものかと一生懸命探したりです・・・(そこには田んぼしかありませんでした。)

今まで各資料から出てきた内容を少し整理しますと、
一、「波志江町の民俗」によると、>愛宕神社はもと、中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上にあり、社の森が遠くからも眺められたという。四十八段の石段を登って参拝したので愛宕山というにふさわしく・・・云々
一、「三郷の文化の記録」という小冊子には、旧愛宕神社があった場所はやはり「愛宕」という小字名が集まった所で、平地にそびえ立つ古墳の上にあった神社に「愛宕」と神社名を冠したようなことが出てました。
一、地元にお住まいの、しょうちゃんの御父君のご記憶によると>現在の地図と合わせた上の古地図(小字名地図)で言うと「愛宕」と書いて有る愛の文字付近に小高い山が在ってそこに神社が在ったと聞いている。
一、「愛宕神社社殿造営記念碑」によると>「愛宕神社の由緒は古く、波志江村字愛宕山の古墳山頂に祀られた火産霊神として、愛宕大明神と称され、大人六人で抱えると言われたご神木は、遠く前橋野中村からも見え、旅の帰りに利根を渡ると愛宕の森が見え、ほっとしたと古老から聞かされてきました。」

・・・といった具合で、旧愛宕神社は小高い古墳上にあったことや、その森は遠くからもよく眺められたこと等で大方一致してましたね。
しかし、「小字名地図」をもとにして考えた場合・・「愛宕」と「中の面と八坂の境」という相異なる場所に浮かんだまるで双子のような二つの愛宕山??
あたごも、(洒落を言ってる場合でありませんが、汗。)あたかも、それはアナログ式カメラのレンジファインダーを覗いて見える黄色い二重像のように・・二つの山が並んでました。
今回、ぷうぷうち先生の解釈で、>大字(現在の組名)では「中の面と八坂の境」で考えると自然に迅速図どおり、、ということで、やっと二つの愛宕山がぴったり一致してフォーカスが合いました!!
大字(現在の組名)で考えると違いがあるんですね!実は、しょうちゃんも丸男さんも解っていて、解らなかったのは自分だけかもしれませんが・・・(汗)

そうすると、三郷小のHPにあった愛宕神社のプロセスは、
>最初は八坂全東院西の古墳の上に建立されていた →後に中の面に移された(迅速図の愛宕神社もここ) →更に大正2年に現在の所に置かれた
ということも辻褄が合ってきました! これを時代で語れば・・・
→経塚に「愛宕山全東(院)」と刻まれていたことから、江戸時代享保年間にはすでに全東院西にあったのでしょう。
→迅速図の明治初期は中の面、>また明治10年(1877)村社に列せられる。
→明治41年1月、境内末社及び、波志江無格十七社が合祀される。
→そして大正2年(1913)秋、遷宮。恐らく旧社殿(本殿、拝殿、幣殿)ごと中の面から現在地に移築?その際、新たに神楽殿(現存している)を造営。
→平成9年(1997)以降、新社殿竣工。
といった運びになるんじゃないかと存じます。


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