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伊勢崎陣屋重ね図 投稿者:海彦山彦 投稿日:2015/01/10(Sat) 18:14 No.2029
先日、丸男さんから伊勢崎陣屋の重ね図の電子データの依頼を受けました。
早速、休み明けにpdfをmailしたいと思います。
伊勢崎陣屋(個人的には伊勢崎城)は、赤石城とともに伊勢崎の礎と考えています。
個人的には、ゆっくりと長く調査をしていきたいと思っています。まだ現役なのであまり時間を費やせない事情が背景にあります。
目標は、3DCADで3次元的に伊勢崎城を復元したいと願っています。
少し前に赤堀歴史民俗資料館で伊勢崎城本丸建物の間取り図が展示してありました。図書館に保管されているようですが、もう少し精神的に余裕ができたらT館長さんにお願いしようと考えています。
追伸 伊勢崎城の堀は水堀であったといわれていますがどこから水を引き込んだのでしょうか?
どなたかご存知でしたら教えてください。
Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/10(Sat) 22:53 No.2030
海彦山彦さん、お忙しいところ、まして年度末の多忙期にすみません。
伊勢崎城の3D模型の製作、有意義でかつ楽しそうです。
伊勢崎城の堀・・・水路勾配を考えると、おなべっ川か赤坂川でしょうかね。
鳩ぽっぽさんが探してくれた1946年の航空写真でも、赤坂川は現在位置と同じ位置にありますね。
あの周辺の標高を調べてみます。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/11(Sun) 19:01 No.2031
海彦山彦さん、丸男さん、アドバイスをありがとうございます。
何年か前に海彦山彦さんの「いせさき景観情報サイト」と出会って、「伊勢崎城の遺構を尋ねて」の記事を拝見した時は目から鱗でした。
特にCADによるお城縄張り図と現代の街の重ね図は、郷土史ファンにとってまさに画期的で、重ね図をもとにした具体的な遺構の調査もさすがですね!!
またまた、3DCADによる伊勢崎城の復元、とても楽しみですね〜。ぜひぜひ実現なされて、橋田友治先生も星野正明先生もビックリの伊勢崎郷土史、デジタル時代の金字塔を打ち立ててください!

さて、「伊勢崎城の堀はどこから水を引き込んだのでしょうか?」ということですが、言われてみると不思議ですね。
ひとつ参考資料として、画像は国土地理院地図からのものですが、明治前期の低湿地を表しています。
ベージュ色は水田、田ということで、伊勢崎駅の辺りも田んぼが多かったことがわかります。地図の「大手町」と書かれた辺りまでベージュ色が来てます。そこには寛政10年の古図にもありますが、中台寺東の通りから今の井下時計店辺りにかけて幅一間(1.8メートル)の水路があったようなので、その辺から水を引いたんじゃないか?という気がします。いや、あくまで素人判断ですが・・・

また、この明治前期の低湿地の地図で特筆すべきは、伊勢崎城北部から東部にかけての内堀が水色で描かれていることです!水色は川、湖沼なので、内堀に確かに水があったことが確認できます。
ただ現代の地図との合わせが悪く、海彦山彦さんの重ね図のようにぴったり納まってないので、雁行する道路と堀がズレているのが惜しいです。

小学生の頃は寛永の古図なんかを見て、「水は広瀬川から引いたんだろうな〜」なんて単純に考えてましたが、かつて川幅の狭かった広瀬川が現代よりも水面が高かったとしても、伊勢崎城は言うまでもなく崖の上、段丘上に築かれているので、堀を相当深く掘削しなければ水は入ってこないし動力ポンプでもなければ無理ですね。
城の北側、現在、県営住宅の建つかつて沼地であった辺りもベージュ色になっていいるので、水田であればそこまでは水が来たのでしょうが、県営住宅から今の石井皮膚科の辺りにかけて道路が若干、登りスローブになっていたような気がします。
或いは、おなべっ川か赤坂川かという、丸男さんの説も有力ですね!
藩政時代の伊勢崎城と城下町は、稲垣長茂によって骨格が形成されたと言われてますが、それ以前の中世の城館(赤石城)はそれより北側の同聚院の辺りに位置し、おなべっ川がその堀として活用されていたようですね。
最初に同聚院に陣屋を置いた長茂が、新しい城郭縄張りを構想した時に、おなべっ川の水を引き込もうというのは自然の流れだと思います。
また、取水ルートを敵に知られ、塞がれて空堀にされてしまうという事態もあり得る時代なので、現代でもどこから水を引き込んでいるのか解らない城も多いようですね。
昔の人は井戸を掘ったり地下水脈を探ったり、高度な土木技術を持っていたのでしょう。今後の調査を楽しみにしてます♪


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/12(Mon) 23:01 No.2032
鳩ぽっぽさん、伊勢崎駅周辺の水路関係ですが、推測と記憶と調査結果を含めてまとめますと・・・

●現在建設中のベイシアの南側辺り(旧自転車置き場への通路)沿いに用水がありましたが、普段は枯れていて、雨天時にも流れの方向はハッキリしない。現在は埋め土されている。
●ベイシアと大胡県道の間にある旧家の前にも用水があるが、普段は渇水。流入元は不明。
●数十年前まで、アイタワー花の森の西側(公園通りの西側)に池があったが、流入元は不明。
●アイタワー花の森の東側に用水が流れていて、現在暗渠として駅東・南北通りにやや平行に流れている。暗渠のため、常時水が流れているのか不明。
●これらは西桂川が粕川に合流する堰から分流する西桂川用水?(サンデンの下などを縦断)から引き込んでいる?
●西桂川用水?はボーリング場の北側付近で分流し、赤坂川まで流れる。大胡県道までは暗渠。
●おなべっ川は雨天時の雨量調整的位置づけと、周辺の湧水を集めただけで、付近の水系を水源にしていなかった?

と言った感じです。
陣屋のお堀ならば、流れていなくても良かったでしょうから、河川や水路からの流入でない可能性もありますね。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/13(Tue) 00:07 No.2033
海彦山彦さん始めまして。
鳩ぽっぽさん、丸男さんお久しぶりです。
門外漢のド素人ですが、この話題にわかに興味が沸きました。
以前、Go!伊勢崎さんで話題になった「歴史的農業環境閲覧システム」の迅速地図を参照しますと丸男さんが言っている旧自転車置き場沿いの用水路と、アイタワー西の流水の流入経路が分かります。アイタワー西というよりも、現伊勢崎駅の場所に南北に川が流れていた様です。線路や駅が出来たことで流れが変わってお堀の水が無くなったとも想像できますね。
鉄道の無かった明治初期に作成された迅速地図にはお堀が描かれていますが取水ルートは分かりません。ですが駅の所を通っていた川が怪しいのではないでしょうか。ここから駅前通を南下する水路を作れば、そこから西へは水を流しやすいと思います。
いま、市街地は空洞化から再開発に移行しつつあります。空襲を受けたときよりも町並みが変わろうとしているように思います。再開発時に発掘調査でも入れば証拠がでるかも知れませんね。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/13(Tue) 10:17 No.2034
ぷうぷうちさん、お久しぶりです。
今年もよろしくお願いします。
「歴史的農業環境閲覧システム」の迅速地図・・・全く思いつきませんでした。
私も早速に確認してみました。
少し先入観も作用したかも知れませんが(^^;)、河川と水路、お堀部分に色付けしてみました。

現在、建設進むベイシアの敷地を西北西から東南東に向かって流れていた水路(現在埋め土されています)の存在が気になって来ました。
この水路が駅南・東西通りを暗渠で横断し、
また、現在、建設進む三原診療所の北側を東西に流れていた水路、
この辺が水源だったのかなぁ・・・と想像しています。

取りあえず、加筆前の画像です。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/13(Tue) 10:21 No.2035
加筆後です。

Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/13(Tue) 20:22 No.2036
こんばんは。丸男さん、ぷうぷうちさんの考えがかなりいい線いっているようですね!
いや〜、今日まず、お二人のコメントを拝見して、みな考えることは同じなんだな〜としみじみ思いました。才覚あふれるお二方にアドバイス頂いて、この謎も一挙に解明が近づきました!
私も昨夜はグーグルマップの画像で伊勢崎駅の周りを見回したり、かすかな記憶をたよりに昔の風景を思い出していたところです。
またまた、海彦山彦さんの問題提起「伊勢崎城の堀はどこから水を引き込んだのだろうか?」・・・そのキーポイントとなる地点が、、おもしろいことに今、まさにベイシアと(都)3・4・44号線道路をはじめとした駅周辺開発工事の最中であることも実にタイムリーです!

「ベイシアの敷地を西北西から東南東に向かって流れていた水路。」への着目はさすがですね。実は私も、投稿の画像を昨夜、グーグルマップから複写したところでした。
画像の中央をご覧ください。道路わきに橋の欄干にあるようなデザインの石造物とフェンスがかろうじて残っていました。この下を、水路が駅南・東西通りを暗渠で横断しています。
ただし、この水路の遺構も今日はすでにないかもしれませんね。

また昔の話になってしまいますが、稲垣氏は新しい伊勢崎城、外堀と城下町を築いた時に、町の周囲も「お囲い土手」で囲み惣構(そうがまえ)にしました。
その土塁は確か、幅三〜四間、高さ二間の規模で、上には松が植えられていたそうです。土塁の外側には幅一間の堀を設け、町の外へ出るには橋を渡ったり囲いを抜ける木戸をくぐりました。
海彦山彦さんのサイトで紹介された寛政10年の古図でも、東側は中台寺東の通りから今の井下時計店前を通り八坂町にかけてあった水路がはっきり見られます。また、その古図では水路が中台寺から西方向に折れ曲がり、途中で途切れてますが現在の駅南を東西に横切るように書かれてます。
そこは、ぷうぷうちさん紹介の迅速地図でも確認できますが、私が子供の頃は中台寺付近、銭湯があった辺りには、藩政時代からあったであろうその水路が暗渠になってなかったのでよく分かりました。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/13(Tue) 20:54 No.2037
丸男さん、「●ベイシアと大胡県道の間にある旧家の前にも用水があるが、普段は渇水。」というのはこれじゃないですか?
旧家の奥は堀沿いに大谷石でできた蔵も建ち並び、かつての大正〜昭和初期を思わせる今でも風情ある通りですね。この堀も、(都)3・4・44号線道路の計画とかぶっているので、やがて消えさる運命でしょうか・・・城下町の懐かしい風景は残したい、でも街を新しくしたいという、ちょっと複雑な心境になりますね。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/14(Wed) 16:11 No.2038
鳩ぽっぽ さん、そう、その場所です。
塀の中の旧家もそのまま和風旅館になりそうな風情で、気に入ってます。

ところで、昨日、海彦山彦さんから伊勢崎陣屋と現況の重ね図をお送りいただきましたので、
図形処理やページを制作するなどして、後日、掲載しますね。
お楽しみに・・・。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/14(Wed) 21:19 No.2039
丸男さん、海彦山彦さん、重ね図のご手配をありがとうございます。
「伊勢崎城の堀はどこから水を引き込んだのだろうか?」ですが、、ぷうぷうちさんもご参加くださって盛り上がってきたところですけど、すみません、気が短いので伊勢崎図書館に行って調べてきてしまいました。
「伊勢崎市史 通史編 近世U」の中に、画像のような明治四年の伊勢崎陣屋と周辺の地図がありました。
このページを開いた瞬間、おお〜っと! 陣屋の北東部で、東西に流れる水路から外堀までの水のルートが目に飛び込んできました!
この水路は、昨夜お話した城下町一帯を囲む惣構(そうがまえ)の土塁に沿った水路です。取水地点は、現在の伊勢崎駅前の交差点〜西の須田歯科医院の範囲にあったと思われます。
すなわち、「現在、建設進む三原診療所の北側を東西に流れていた水路、この辺が水源だったのかなぁ・・・と想像しています。」と言われていた丸男さんが図星でしたね!!
水のルートは、そこから同聚院に突き当たる道で曲がって、その後も雁行して延命寺南の道路をちょっと東に進んだ、角に赤いポストのある梅田印刷さんを入った辺りで外堀に注がれているようです。それにしても、取水口からお堀までストレートで来てもいいように思いますが、これも敵の目を欺くようにでしょうか、水路もわざわざジクザクに雁木折(がんぎおり)しているのが面白いところです。
また、もう一か所、惣構の水路からではありませんが「紺屋町(こうやちょう)」とある水路が真ん中にある大通りが雁木折している箇所と、外堀が一本の水路でつながっています。ここは元、田原屋、現在はお城(といっても西洋風の)のある結婚式場あたりでしょうか。
余談ですが、外堀の最下流は新開橋の手前、元交番のあった三光公園の所で水は広瀬川に放流というわけですが、こうしたお堀も現代はある程度、循環させないと水質が悪化し、悪臭を放ったりアオコが発生してしまうという話も聴きました。

さて、伊勢崎駅南の取水ポイントに話は戻りますが、、ここの惣構の水路の水はどこから来ているかというと、地図上部に何本かの水路が惣構水路に入っていることがわかります。一本は、丸男さんが言われた例の旧家前の用水から来ているらしき水路。他に、ぷうぷうちさんが言われていた現在、伊勢崎駅の辺りから流れ込んでいる水路が数本見られます。一方、惣構水路は西に向かうと現在の、おなべっ川のルートになり赤坂川に下っているようです。
ということで、「伊勢崎城の堀はどこから水を引き込んだのだろうか?」、お二人にご検討頂いたおかげで晴れて謎が解けました!お付き合い頂いて心から感謝です!!
ふるさと先生の真似になりますが、丸男さん、ぷうぷうちさん、海彦山彦さん、そして伊勢崎城に乾杯♪


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/15(Thu) 21:26 No.2040
鳩ぽっぽさん、本当におお〜って感じですね。
さらに図書館も流石です。
それにしてもよく見付けましたね。ネットだけではみつからないですよね。
駅前通りの真ん中を水路が流れていたりして今の都市とはちょっと違っていて・・・どんな風情だったのでしょうね。
現在、駅前通りは南北に高くなっていて大変緩やかではありますが市街地の背骨のように感じます。この高いところに水を流すため赤坂川から水を引く工事をしたのでしょうか。「Google earth」で見ると赤坂川の取水場所は今も当時の堀を留めているように見えます。
この水路、自然の流れには思えません。水の少ない町中を灌漑するために作られたのでしょうね。
この話題のお陰で、古墳探しとは違った視点で古い航空写真や古地図を眺めることが出来て良かったです。ちなみに迅速地図にある古い往還が今も結構残っているのが分かり不思議な気分になりましたが、その話題は別の機会ということで・・・。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/16(Fri) 01:14 No.2041
ぷうぷうちさん、お返事ありがとうがざいます!
赤坂川の件ですが、ちょっと私の説明不足だったようですみません。赤坂川へは取水でなく、どちらかと言えば排水になります。この川は城や城下町のある段丘よりも低い所を流れてます。
伊勢崎駅前にあった惣堀(そうぼり、惣構の水路)の水の流れは西に向かうと、おなべっ川と呼ばれる同聚院と善応寺境内の間の斜面を蛇行しながら流下し、城北橋のある窪地に流れ込み赤坂川に排水されます。
また、明治の迅速測図を見ると、大胡県道を入った旧家前の用水であれば遡ると太田町、現在の伊勢崎ゆまーるの辺りで赤坂川から取水していたようです。

ちなみに、善応寺に小畠武堯(おばた たけたか)という伊勢崎藩郡奉行のお墓があります。当時、田植え時には水不足に悩む伊勢崎領の水田に水を灌漑するために、小畠氏が1704年から用水の工事を担当しました。それは八坂用水と呼ばれ、伊勢崎町と波志江、安堀、太田、今泉、茂呂等の各村が用水の恩恵を受けることができました。
水田だけでなく、ぷうぷうちさんと丸男さんが見つけた城下町の水路の水もきっとこの用水に関係しているのだと思います。
また赤坂川を遡ると、太田町で丸男さん設計の「平成赤坂アーチ橋」を経て、伊勢崎市立第三中学校の南を流れる八坂用水にたどり着きます。

>「Google earth」で見ると赤坂川の取水場所は今も当時の堀を留めているように見えます。
私も「Google earth」を近いうち、ダウンロードして見てみたいと思います!御意見また、よろしくお願い致します。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/16(Fri) 21:34 No.2042
鳩ぽっぽさん、こちらこそ大いに説明不足で恐縮しております。
赤坂川から取水していたと考えた場所は太田町郵便局の近くです。(添付画像の矢印付近)
今でも堀の様なものが残っていますが、江戸時代からあったものか作り直されたものかわかりません。
この場所はGoogleMapでもYahooMapでも写真モードでわかります。
とにかく赤坂川の河床も低いので堰や樋など何らかの方法で分水していたものと想像します。

八坂用水が江戸時代に華蔵寺の辺りからどこを流れていたか寡聞にして知らないのですが、赤坂川とも関係があったと思います。(今も分水していますね)
また、伊勢崎駅辺りを南下していた当時の川も八坂用水と関係していたのでしょうね。
ちなみに市内の八坂町って町名は何か関係があるのでしょうか?

小畠 武堯(おばたけ たけたか)はWikipediaにも出ていて地域の偉人として小学校で教えている様です。以前「八坂樋」の話を子供から教えられましたが、今は樋の位置がすっかり変わっています。前橋の二之宮町にある智技授山文珠尊堂というお堂の近くに女掘の様な遺構があります。これが旧八坂用水です。ストリートビューでも見れます。時々自転車で通るのですが、ここに木造の大樋を架けて水を渡したと想像すると、結構ダイナミックです。

伊勢崎陣屋のお堀の話が微妙に逸れてきたのでこの辺で失礼いたします。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/17(Sat) 15:49 No.2043
ぷうぷうちさん、丸男さん、画像をありがとうございます。
赤坂川からの取水は、これですか〜!!そうですね、航空写真で見られる堀の跡のような形跡が、迅速測図の水路とよく似てますね。恐らくこの水路は現在は大胡県道の下を横切り、郵便局の北から歩道が急に広くなっているので、歩道の下を暗渠となって流れているのでしょう。
迅速測図によると、そのまま大胡町道沿いを南下して丸男さんの見つけた旧家前を通り、伊勢崎の城下町〜お堀に流れていたものと思われますね。
稲垣長茂の時代から、伊勢崎藩では田植え時になると水不足で、村々の間で争いが絶えなかったようです。

ところで、旧八坂用水というのはこれ(画像はグーグルマップより)じゃないでしょうか? ぷうぷうちさんの言われたように、智技授山文珠尊堂の近くを探していたら見つかりました! 自信がないので迅速側図で確認すると、お堂のある山の東側をしっかり南北に流れる水路が出ているし、そのちょっと下流には水路が神沢川を渡る橋まで出ていたのでスゴい!と思いました!いや〜、迅速側図ってほんっとに、おもしろいですね〜。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/17(Sat) 16:14 No.2044
またまた、画像はアイオーしんきんさんの「いせさきフロンティア」からお借りした、「八坂樋の外観写真」です! この木製大樋は全長70メートルもあったんですね。現在のコンクリート製の大樋は、ここから神沢川を500メートルほど上流にありますね。
藩政時代、神沢川の向こう岸の下増田村は前橋藩領であったために、測量は夜間に線香の灯りをたよりに行われたことや、初めての通水の朝、小畠氏は白装束で善応寺本堂に入り、もし通水しなければ腹を切る覚悟であった等々・・・小畠武堯にまつわるエピソードを聴くと、この人は本当に偉い人だったようですね。
当時は神沢川の左岸、この辺りを八坂村と言ったようです。八坂用水はまさに、偉大な先人の歴史を今に伝えるものですね。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/17(Sat) 20:20 No.2045
丸男さん、写真の掲載、感謝です! 恐縮ですが、いささか写真とコメントの辻褄が合わなくなってしまったので補足させて頂きます。
コメントNo.2043の「赤坂川からの取水は、これですか〜!!」というのは、一つ前のコメント、ぷうぷうちさんの写真のことを言ってます。
「ところで、旧八坂用水というのはこれ(画像はグーグルマップより)じゃないでしょうか?は、コメントNo.2043に掲載された写真についてです。ぷうぷうちさんに確認してもらわないとはっきり特定できませんが、このまるで女堀のような遺構、江戸時代に掘られた旧八坂用水ということでスゴい!と思いませんか〜。
このガードレールの道を左方向(西)に向かえば、すぐに丸男さんもよくご存知の智技授山文珠尊堂です。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/17(Sat) 22:54 No.2046
鳩ぽっぽ さん、大丈夫です、コメントのずれ、ちゃんと理解してました。
智技授山文珠尊堂東方の堀跡、あの脇は神沢川から荒戸川へ向かう私のサイクリングコースなので、
時々通って、気が付いてます(^o^)。
確か、写真も何回か撮っていたような?フォルダを探してみます。見つかるかなぁ?
三郷地区には八坂(やっさか)と言う字名があって、確か今も使用されていると思います。
「中の面」や「岡屋敷」南方の八坂用水周辺地区です。
今の町名では波志江二丁目ですかね?

木製の水路の「八坂樋」の写真・・・よく見つかりましたね(@_@)。
神沢川をオーバーパスする昔ながらの土木技術、素晴らしいです。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/17(Sat) 22:57 No.2047
それと、ちょっとコメントを控えていたのは、忙しかったせいもありますが、
海彦山彦さんから送っていただいた重ね図のPDFファイルを
画像処理したりページ作成していたためで、明日には掲載できると思います。
調査や確認などでご利用ください。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/17(Sat) 23:51 No.2050
丸男さん、鳩ぽっぽさん八坂用水も歴史があって興味を引きますね。
何年か前に赤堀の資料館で八坂用水の歴史を展示していた様なのでその時に興味を持っていれば・・・、と惜しい気持ちです。
これまた何年か前に子供と八坂樋の見学に行ったとき記念に撮った看板の写真です。この絵は古文書からの転写でしょうか、中々面白い絵ですね。
伊勢崎陣屋のあとにも、分かりやすく碑や説明の看板があっても良いのになぁって思っています。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/18(Sun) 09:04 No.2051
ぷうぷうちさん、八坂用水の説明板、始めて知りました。ありがとうございます。
素晴らしいです。これ、どこにあるのですか?

智技授山文珠尊堂東方の堀跡も女堀規模で、
でも位置が女堀とは違うし、何なんだろうとずっと気になっていたのですが、
八坂用水跡だったとのことで、今回謎が解けて嬉しいです。

今日付けで、伊勢崎陣屋の地図も掲載します。謎解きの参考にしてください。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - しょうちゃん 2015/01/18(Sun) 12:00 No.2052
丸男さん
八坂(やっさか)に付いてですが、八坂は波志江町三丁目(お富士山古墳北側)に成ると思いますよ。
<シティーマラソンコースのお富士山付近の道路の北側・内側は三丁目、南側・外側が安堀町>
実際、古墳北側の地区公民館は「八坂生活改善センター」と言う名称に・・・

ただ、自分の親父らは今住んで居る波志江町二丁目(中野面等)でも行政区(班)は有るのですが、
八坂側とか新田側と呼ぶ事が有るので丸男さんの言う二丁目?内の八坂の事は自分には詳しくは説明出来ません。
親父が今、親類の法事に行っている為、帰って来たら八坂の件を聞いて見ますね。
自分が言った、八坂は三丁目・・・で無かったら再び投稿します。
序に、シティーマラコースに有る<十三屋またはチコマートと言う商店の隣>には「お賓頭盧様」と言う薬師が有りますよ。(ここも八坂に成るのかな?)


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/18(Sun) 16:19 No.2053
丸男さん海彦山彦さん、陣屋の図面拝見させていただきました。
目を見張る詳細さです。この図を頭に叩き込んで曲輪町界隈を自転車で散歩してみます!
こんな、素晴らしい図を見たあとで八坂樋のレスを着けるのも恐縮ですが、看板の位置をお知らせします。
智技授山文珠尊堂を話題にしておきながら看板は三郷側で全東院の裏手に有ります。そのまま行くと砂利道を通って神沢川の端まで下りることも出来ます。
八坂用水は地元では「しんぼりがわ」または「しんぼりっかわ」(新堀川)と呼ばれていたと記憶しています。江戸時代に出来ても新堀なんですかね。八坂用水というのはかなりフォーマルな呼び方だったと思います。
それから今日、赤坂川の分水地点と思ったところを通って見たのですが、この辺で分水は無理そうですね。赤坂川は河床が思った以上に深いです。分水できる程の高い堰を作ると物凄いダムになり、水没する地域が出そうです。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/18(Sun) 16:41 No.2054
しょうちゃん、丸男さん、連投失礼します。
手元に波志江の字名を記した資料があったのでスキャンして添付します。
コレを見ると今の道路が記載されていないので分かり難いのですが、八坂樋のあたりは新堀上/下という字の様です。
北関東道の側道に新波橋というのが有りますが(前橋の新井町と波志江町の境)字=八坂とはここの波志江側周辺のことみたいですね。(なんだかピンと来ませんが・・・)いかがでしょうか。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/18(Sun) 18:49 No.2055
しょうちゃん、八坂は三丁目でしたか。
実は二丁目と三丁目の境界は良く分かっていません。
一丁目は何となく分かるのですが。
新田・・・と言う字名は初耳でした。

ぷうぷうちさん、説明板の位置図、ありがとうございます。
北北西側に延長すると、智技授山文珠尊堂東側のお堀跡に繋がりそうですね。
それにしてもぷうぷうちさん、あんな奥まった場所の説明板、よく見つけましたね。
私も遠からず写真を撮りに行ってきます。

それと、波志江の字名の資料のアップ、ありがとうございます。
分かる名前が2割くらいしかありませんでした。
いつかこの画像を拝借して、現況図と重ねてみたいと思います。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/18(Sun) 21:03 No.2056
「伊勢崎陣屋重ね図」が、ついに「Go!いせさき」さんにその姿を現しましたね! しかも今回は、CADによる海彦山彦さんの渾身の作を収めたオリジナルファイルをベースに、丸男さんスペシャル♪でリニューアルされた形で公開されて素晴らしいです!!
地図のスケールが大きく城郭図らしく堂々たるものになり、土塁もリアルに描き込まれたので見ていて迫力が、縄張図のようなスゴ味があります! 特に、フルサイズ表示にするとオリジナルの緻密さが露わとなって、ほんと目を見張るものがありますね!
これは伊勢崎市史の中でも未だかつて無かったもので、、海彦山彦さんと丸男さんのコンビは、伊勢崎市史に偉業を成し遂げたと言っても決して過言でないでしょう。
色々と掲示板でも書かせて頂きましたように、この重ね図を通して、現代の街の中に今まで気付かなかった様々な新しい発見がありました。例えば伊勢崎織物協同組合の角の交差点の、今では花壇になっている更地は昔はガソリンスタンドだったように思います。その辺りにかつて城の最初の大手門があり、その更地に面して北側に現在でも残っている細い通りが、実は門の下をくぐっていた通りで、つまりそこは城の玄関であったことが解りました。そのように今まで自分が何気なく通っていた所が、かつての城の重要ポイントであったことを知った時の驚き!はまさに、ふるさと再発見で一番おもしろいところです!

最近、城郭ファンの方々のブログを見ることも多くなってますが、遠くから伊勢崎陣屋の史跡巡りにやってくる人が意外と多いことがわかります。しかし、それといった遺構が見つからずに「遺構を残さないのが伊勢崎人の気質なんだろう・・・」と書かれていたり、「これだけの城郭があったところなんだから、せめて説明板くらいは立ててほしかった・・・」云々といったことが記事に書かれてます。

幕府大老として権勢を誇り下馬将軍とも呼ばれた前橋藩主・酒井忠清が、二男の忠寛に分与した二万石の伊勢崎陣屋だけあって、その全貌は本丸を囲むように二の丸、乾崎郭の諸廓に外堀、城下町の各所に寺院を配置、道路は雁木折り(がんぎおり、筋違い)にしたのは軍事的防御に基づくものと言われ、更にその周り城下町一帯を総掘りと土塁で囲んだ総構え(そうがまえ)で、「陣屋」とは言うものの完全な城郭構造の体をなしていたスタイルですね!
この「伊勢崎陣屋重ね図」を通して、私たちは後の時代を生きる伊勢崎の子供たちに、歴史を伝えてゆかなければならない!!と切に思わされています。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - しょうちゃん 2015/01/19(Mon) 00:20 No.2060
ぷうぷうちさん・丸男さん
親父に直説聞くことが出来なかったんですが、ぷうぷうちさんの資料から
自分なりに解った事をお知らせします。
三ノ堰から新田・八坂前・西屋敷前・四反田と北側の八坂・西屋敷・西屋敷東の区分線が
北関東道とほぼ一致する様な気がします。
伊勢崎大胡線は岡屋敷(中央))・半在家左(西)・大鍋右(北)・大鍋前右(東)の区分線が合う様な?
これはあくまで予想なのであしからずですが、この地図で二丁目(中野面)に八坂と新田と言う
名称が有るので親父の言う八坂側・新田側と呼ぶ意味と位置が合う気がしてます。

これは失礼しました。
もう丸男さんが別スレで回答してましたね。
投稿後気が付きました。、どうもすみません。
北関東道はほぼ合ってましたが大胡線はチョットずれてましたね。
ごめんなさい。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/20(Tue) 08:46 No.2064
しょうちゃん、中野面や八坂は子どもの頃から知っていたのですが、
三ノ堰、新田、八坂前、西屋敷前、西屋敷東、四反田、半在家左、大鍋右、大鍋前など、
始めて聞く名前ばかりで興味深かったです。
皆さん、まだ覚えているんでしょうかね。

それと、小字の地図が現況図にピッタシは重ならなかったので、多少の変形を加えています。
その関係で、大胡県道や石山県道(深津伊勢崎線)と小字が微妙にずれているかも知れません。

いずれ、八坂用水関連は別スレで。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - しょうちゃん 2015/01/20(Tue) 22:09 No.2065
丸男さん
70歳代以上?でしたら新田・八坂・半在家は殆ど解ると思います。
実際今でも会話の中で家の位置とかでしたら、60歳代以上方からは出て来ますよ。
中屋敷の新しい(北関東道関連の工事開始以降)住宅街は半在家の・・・・とか
親父なんかは、近年の行政の指定区より新田側とか本組(中野面)八坂側とか方が解るとか・・


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