八坂用水(2) 投稿者:丸男 投稿日:2015/02/20(Fri) 10:48 No.2150 ぷうぷうちさん、鳩ぽっぽさん、しょうちゃん、皆さん、こんにちは〜(^o^)。 八坂用水については、様々な貴重なご投稿、ありがとうございます。 皆さんの投稿に、私の対応が追い付けなくて、申し訳ないです。 ところで、八坂用水のスレッドが長くなってしまったので、 八坂用水(2)として新スレッドを起こしました。 もっと早くに対応すれば良かったのに、すみません。m(_ _)m Re: 八坂用水(2) - 丸男 2015/02/20(Fri) 10:54 No.2151
それと早速なんですが、元図書館職員の新船さんから、 「八坂用水資料目録」をお借りし、コピーを手元に控えてあります。 全62ページの資料で、まだ目を通し切っていません(ー_ー;)。 必要に応じて適宜紹介させていただきたく思っています。 まずは「八坂用水関係年表」だけでも紹介したいのですが、 これもまた編集するとなると結構ヘビーなので、時間がかかりそうです。のんびりとお待ちください。 Re: 八坂用水(2) - しょうちゃん 2015/03/02(Mon) 21:49 No.2155 丸男さん 陸上競技場南入り口に「八坂樋を造った小畠武堯の顕彰碑」が在ったんですね(@_@) 自分も碑が立っているのは知っていたんですが、記事までは気に留めてませんでした(^_^;) そうそう、30数年位前は八坂用水もオープンでしたよね。 自分らは三郷小前の用水や横の川では、学校帰りとかに釣りもしましたからね。 三中時代は体育の授業でボールが八坂用水の方まで飛んでしまった時は、散々な目に遭いましたかね。 伊商高もこの付近で、現伊勢崎第二体育館は元は、伊商高の体育館でしたしね。 伊商高と八坂用水の間はうっそうとした林だった様な気がしますし、林の中?に(用水側を向いて)何かのお店も在った様な・・ あっ、もしかして北部環状線の一部開通も八坂用水の歴史に関わって来るのかな? Re: 八坂用水(2) - 丸男 2015/03/03(Tue) 09:47 No.2157 しょうちゃんは、三中なんですね。若い(^^;)。 私の時代は丘の上の三郷中学校でした。 三階建て一棟の木造校舎で、体育館もなくて、雨の日の体育の授業は廊下で器械体操だったり。 講堂もなかったので、卒業式は、一階の教室と教室の間の壁を取り外して広げてつくりました。 でも、あれこれ恵まれ過ぎている現在よりも、モノの有難さを知ったり、貴重な体験ができました。 旧伊商の敷地は高いカシグネで囲まれていたように覚えています。 旧伊商の北側から八坂用水にかけては、校舎の陰になるせいか、 巨木なども植わっていたせいか、暗いイメージが残ってます。 現在の姿からは想像が付かないです(ー_ー)。 Re: 八坂用水(2) - 鳩ぽっぽ 2015/03/04(Wed) 22:05 No.2158 丸男さん、総合運動場南入口に「八坂樋を造った小畠武堯の顕彰碑」が在ったんですね(@_@) 私も、しょうちゃんと同じリアクションでした(^^;)。ここは毎年、仕事で出張していた所で今を思えば何の碑かな〜?と覗いたこともありましたが、まさか小畠武堯の顕彰碑だったとは!すっかり忘れてました。 一世一代身命賭けた大工事を成し遂げた、小畠武堯にふさわしいドラマチックな撰文ですね! またまた、丸男さんの横書き転記が読みやすく書体も綺麗ですね! 誤転記について連絡いただければということでしたので、タイトルの「八坂用水開撃功労者」の「開撃」ですが、碑では「開鑿(かいさく)」になってますので、碑の通りかまたは「開削」でいいんじゃないかと思います。m(_ _)m 画像は現在も華蔵寺公園内に残っているはずの旧い方の「小畠武堯頌真碑」、大正元年の除幕式の記念写真です。(画像は「ふるさとの想い出写真集、伊勢崎」より) 昭和の顕彰碑の中で、「伊勢崎町長従六位勲六等大野和信氏が筆頭者となり、三郷村長横堀八十吉氏、茂呂村長大沢啓太郎氏等と協力、建碑推進委員会を結成。子爵酒井忠一氏に篆額を請い「頌真碑」を華蔵寺公園に建立し・・・」と書かれているのがこの碑のことですね。 集合写真の人物も伊勢崎町長、三郷村長・・といった錚々たるメンバーなのでしょう。右側の碑の上部にうっすらと右から読んで「碑真頌」と、酒井忠一氏(お殿様の末裔なのでしょう)による芸術的な篆額(てんがく、題字)も確認できます。 藩政時代にも藩主・酒井忠温侯が小畠氏を追慕して、恐らく家老・関重巍(せき しげたか)が撰文を考えていたようですが、、建碑は「故ありて果さず」・・・ この「故ありて」というのが何なのか謎ですが、当時の用水工事というものは毀誉褒貶(きよほうへん)、ほめることけなすこと世の中のさまざまな評判があったようで、残念ながら碑の実現に至らなかったのでしょう。 (ちなみに上野国では最も有名な岡登用水を開削した、代官・岡登景能(おかのぼり かげよし)にしては色々あって島流し、挙句の果てには綱吉の時代になると切腹を命じられたというから悲惨です) 大正元年完成の碑は、八坂用水完成の宝永3年(1706年)から実に206年後にやっと建てられたわけです。 それから再び73年後になるでしょうか、1985年、総合運動場南入口に建てられた「小畠武堯顕彰碑」は堂々としたもので、偉大な先人の歴史はきっと22世紀の子供たちにも伝えられてゆくのでしょうね!! Re: 八坂用水(2) - 丸男 2015/03/04(Wed) 23:10 No.2160 鳩ぽっぽ さん、良く探してくれました(@_@)。 ありがとうございます。 「鑿」の漢字、全文の中に何ヶ所かあって、注意したつもりでしたが、 肝心のタイトルのところを見落としました(^^;)。 石碑の裏面もあるのですが、転記作業にちょっと息切れで。 その内にまた掲載します。 |
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