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八坂用水 投稿者:丸男 投稿日:2015/01/18(Sun) 21:34 No.2057
ぷうぷうちさん、鳩ぽっぽさん、こんばんは〜。
突然ですが、八坂用水関連の記事は伊勢崎陣屋と分けて、こちらに掲載したいと思います。
取りあえず、ぷうぷうちさんにアップしていただいた波志江町の昔の字名と現在の地形を重ねてみました。
それと八坂用水の位置を青い線で書き加えました。点線は暗渠部です。
智技授山文珠尊堂の東方から粕川までの範囲がざっと分かるでしょうか。

添付:2057.jpg (249KB)
Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/18(Sun) 21:39 No.2058
鳩ぽっぽさんの八坂用水の写真付きの記事をこちらに転載しておきました。
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投稿者:鳩ぽっぽさん
またまた、画像はアイオーしんきんさんの「いせさきフロンティア」からお借りした、「八坂樋の外観写真」です! この木製大樋は全長70メートルもあったんですね。現在のコンクリート製の大樋は、ここから神沢川を500メートルほど上流にありますね。
藩政時代、神沢川の向こう岸の下増田村は前橋藩領であったために、測量は夜間に線香の灯りをたよりに行われたことや、初めての通水の朝、小畠氏は白装束で善応寺本堂に入り、もし通水しなければ腹を切る覚悟であった等々・・・小畠武堯にまつわるエピソードを聴くと、この人は本当に偉い人だったようですね。
当時は神沢川の左岸、この辺りを八坂村と言ったようです。八坂用水はまさに、偉大な先人の歴史を今に伝えるものですね。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/18(Sun) 21:41 No.2059
同じく、ぷうぷうちさん八坂用水の写真付きの記事をこちらに転載しておきました。
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投稿者:ぷうぷうちさん
丸男さん、鳩ぽっぽさん八坂用水も歴史があって興味を引きますね。
何年か前に赤堀の資料館で八坂用水の歴史を展示していた様なのでその時に興味を持っていれば・・・、と惜しい気持ちです。
これまた何年か前に子供と八坂樋の見学に行ったとき記念に撮った看板の写真です。この絵は古文書からの転写でしょうか、中々面白い絵ですね。
伊勢崎陣屋のあとにも、分かりやすく碑や説明の看板があっても良いのになぁって思っています。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/19(Mon) 14:23 No.2061
丸男さん作成の八坂用水の地図を拝見しました! まず拝見して思ったことは、小畠武堯の開削した八坂用水はある意味で、灌漑エリアはズレますが、同じ波江志村を通過しかつて失敗に終わった「女堀」が戦乱の時代を挟んだ600年の歳月を経て、実現された姿だったんじゃないかということです。
もし通水しなければ自害を覚悟していた小畠氏が、通水成功の朗報を聞くや喜び古舞を舞ったという姿も脳裏に浮かびます。どなたかが言われていたように、八坂用水はここに水源開発の第一歩を記し、歴史的に由緒ある貴重な遺産なんですね〜!
さて、ぷうぷうちさんの言われるように、八坂用水には「旧八坂用水」という古い流れがあったようで、それはきっと小畠武堯の時代のオリジナル流路であり、その遺構を残した区間、また現在の八坂用水とダブっている区間があるのでしょう。
迅速測図によると、「旧八坂用水」は八坂樋を過ぎると全東院、やさか食堂さんのある道沿いを流れ、恐らく道路が現在の八坂用水と交差する地点から同じ流れとなっているのでしょうか? 以前、その辺りで説明板を見たように思いましたが今は見当たらないようです。
添付の画像は迅速測図をもとに藩政時代の旧八坂用水のルートを想定したものです。いや、まったくの想定外になるかもしれませんが・・・。用水路は三郷小の南を通過し、その後、旧用水が顕著に現在の用水路からそれるのはセブンイレブンの東、現在の赤坂川の分水地点です。
迅速測図では現在の分水地点から東に向かう水路は途切れてますから、そこから南下する赤坂川を旧八坂用水の流れとしていたと想定しました。
そして赤坂川から旧用水が分かれるのは、恐らく現在の北部環状線の下の暗渠となり、太田町市営住宅の東に再び開渠用水が現れます。この用水路は迅速測図で見られるある水路と同じようなルートを東南東の方向を進み粕川方面に向かうのですが、いかがでしょうか? もしかして、この水路が旧八坂用水の遺構でしょうか? ぜひ、地もてぃーの皆さんにお聞きしたところです!!


Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/01/19(Mon) 22:04 No.2062
丸男さん、新しくスレを立てて頂いてスッキリしました。
伊勢崎陣屋のスレッドに八坂用水の話が続くのも忍びなかったので。
さて、八坂(やっさか)ですが江戸期から明治初期にかけて波志江村と別に八坂村というのが独立してあった様です。場所が分かる資料が無いのですが、何でも波志江の西端で丁目で言うと今の三丁目に含まれます。丸男さんの一丁目で例えると今の稲岡とか間の山というように地域の組の名前に八坂組があるので、先の図に示した小字の位置とは違うみたいです。一種の行政区分なので三丁目で役員をやっている人に聞くと分かると思います。
そうなると、小字の八坂との関係も分かりませんね。市内の南小の近くに八坂町というのもありますが関係しているのかいないのか?
さて、鳩ぽっぽさんが言われている「女掘りの実現」ですが、ぷうぷうちも同様に感じていました。
灌漑事業は古くから水争いが多かったであろう伊勢崎地域の悲願だったのですから、それを成し遂げた小畠武堯氏も名が残るというものです。
もっとも波志江村でその恩恵に与る地域はごく一部でした。波志江のほとんどは神沢川と桂川から取水していたそうです。
桂川といえばお酒がありますね〜。明治期に現在の波志江二丁目にも造り酒屋があったとか・・・う〜ん、呑んで見たかった。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/20(Tue) 08:38 No.2063
鳩ぽっぽ さん、赤坂川が旧八坂用水だったか・・・新しい謎解きですね。興味が湧きます。
今でも、八坂用水はピオテスタウン南西角地で赤坂川に分水してますしね。
私が三郷小学校に通っていた頃(もう半世紀以上前ですが)、
八坂用水(新堀)脇のあの路を良く通りました。当時はブッシュも茂り、ちょっと怖い感じでした。
当時の分水は覚えていません(ー_ー;)

ぷうぷうちさん、八坂村があったこと、知りませんでした。これまた驚きです(@_@)。
ぷうぷうちさんが探してくれた小字の地図で、小字の数の多さにも驚きましたが、
郷土の歴史、未だに知らないことがたくさんあって、脳が刺激されます(^o^)。

あの八坂用水の堀跡が未通水で終わった「女堀」を多分に意識したであろうこと、これまたドラマですね。
いつか、NHKの大河ドラマにしたりして。
題して、「女堀の魂を継いだ八坂用水」。タイトル長過ぎ?


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/01/20(Tue) 22:12 No.2066
自分が何か勘違いしてるかな?
八坂用水の神沢越えはサイホン式?の神沢川の下を潜るトンネルだった様な?
子供のころからこの川の交差部分には絶対近づくなって言われてました。
ここの八坂用水に落ちたら二度と浮かんで来ないと脅かされてました。


Re: 八坂用水 - 金田一モニカ 2015/01/21(Wed) 11:55 No.2067
しょうちゃん、ダメよ〜、ダメダメ、神沢越えはサイホン式だなんて〜! しょうちゃんが何年か前もそんなコメントしてたのを、あたしははっきり覚えているわ。トンネル潜りのサイホン式は、粕川じゃないかしら。 
やっさか用水は現在でも、神沢越えは「大樋(おおどい)」よ。コンクリート製だけど・・・
こちらの偉いお方のブログにお写真も出てるから、ぜひご覧になって。
http://blog.goo.ne.jp/tunoda003/e/da6d019f89505cde90c71a05806a2e1a

またまた、明治時代の地図で見ると、波志江二丁目の奥の方には楢の木かなんかの広い雑木林があって、そこにも愛宕神社があったみたいだけど、おじいちゃんから今と違う所に昔の愛宕神社があったって聞いたことがなかったかしら?
ぷうぷうちさんの小字名地図を見ると、二丁目の奥の方に「愛宕」と付く地名が5箇所もあるわね。
大胡県道沿いの駐在所の所にある今の神社は、1913年(大正2年)に移転してきたそうだから、その前は、愛宕神社は二丁目の奥、雑木林の中にあったと、あたしは読んでるの。うふふ・・・あたしの推理、いかがかしら。


Re: 八坂用水 - 金田一モニカ 2015/01/22(Thu) 11:14 No.2068
あれれ、あたしの昨日の投稿、どなたからもお返事がないのね〜。寂しいな〜。(泣。。)
しょうちゃんに嫌われちゃったかしら。嫌われないように文をソフトに直したら、あら大変!地図も消えちゃった。
ところで、愛宕神社の謎ですけど・・・今の神社の拝殿横に立っている「愛宕神社社殿造営記念碑」にいろいろ書いてあるようね。記念碑から、小保方さんじゃないけどちょっとコピペさせていただくわ。
「愛宕神社の由緒は古く、波志江村字愛宕山の古墳山頂に祀られた火産霊神として、愛宕大明神と称され、大人六人で抱えると言われたご神木は、遠く前橋野中村からも見え、旅の帰りに利根を渡ると愛宕の森が見え、ほっとしたと古老から聞かされてきました。」
ということで、、「波志江村字愛宕山の古墳」というのが、きっと二丁目奥の雑木林の中にあったのよ!間違いないわ。石でできた苔だらけの古い宝塔と神額も、神社がお引越しの時に一緒に移動したんだわ。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/22(Thu) 13:21 No.2069
金田一モニカさん、と言いますか、怪人二十面相の鳩○○○さんかな?
愛宕神社に話が広がりそうなので、別スレを立てました。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/01/22(Thu) 21:20 No.2072
金田一モニカさん
嫌いに成った訳じゃ無いですよ。
自分のコメントが、予想とかで確定事項を言ってないので確認してからと思い遅れてます。
サイホン式・・・・・ですが、親父に聞いたら確かに有るそうです。
ただ、正式名称がまたまた不明確ですが、「新田用水?」はサイホン式の筈だと親父も言ってます。
位置的に丸男さんが明確にしてくれた、古地図の「伏田」〜「神沢端」だとか・・・
親父も言ってたサイホン式・・・・も伊勢崎側の水路の先が途中から八坂用水(三郷小の前の川)に成ってしまって
親父もあれ??て言う事で
近日中に確認に行こうかと思ってはいるのですが実現できるか?です。

追伸
親父は八坂用水の看板も位置も知っていました。

それと川の渡しに使ってた川が流れる様にくり抜いた丸太?が三郷公民館に展示してあったとか?
今は新しく建て替えた物ですが、旧三郷公民館は更地に成ってしまった、旧JAみさと支所の前
に在ったのでこの時代は在ったのかな?
これも確定事項でなくてすみません。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/23(Fri) 13:18 No.2078
謎が解けた?
金田一さん、ぷうぷうちさん、しょうちゃん、皆さんのの迅速側図や歴史資料、地域の記憶などを辿ると
八坂用水が神沢川を渡河(巨大な樋でオーバーパス)する場所は、この地図に書き込んだ辺りだったのかなぁ・・・
と思うのですが。
ざっとは、現存する八坂用水の堀跡の延長線です。

疑問点は、
■この位置で地形なりに樋を通すとすれば、一旦神沢川へ向かって下るので、波志江村側への水路勾配を確保できない?
■そのため、下る前に(現在の堀跡の南端部近く?)辺りから樋を築造する?
■その結果、長さが70mになった?
■とすると、左右端の支点位置はどの辺?

何かの痕跡が残っているかも知れませんので、後日、現地を踏査してみましょう。


Re: 八坂用水 - 金田一鳩助 2015/01/23(Fri) 22:04 No.2079
丸男さん、ぷうぷうちさん、しょうちゃんとお父上様、厳寒の候、皆様ますますご発展のこととお慶び申し上げます。 八坂用水及び愛宕神社の件に於きましては、皆様の深いご洞察、誠にお見事!と心から感銘を受けた次第です。
さて本日、丸男さん御投稿の現代の航空写真、ありがたく拝見致しました。またまた蛇足で御座いますが、ほぼ同じ範囲の古い写真が見つかりましたので投稿させて頂きます。
当画像は、昭和二一年(1946年)十月二八日、米軍撮影による航空写真で、国土地理院のサイトより拝借したものです。
昨日の迅速側図と同様に小生が赤で加筆した「い」の字は小畠武堯翁による八坂樋跡、「ろ」の辺りに現在の、やさか食堂さん、「は」が現在の八坂樋、「に」の辺りが昔の愛宕神社、「ほ」が現在の十三屋さん、「へ」が旧八坂用水の流れ、「と」の茂みが智技授山になってます。
智技授山の横には旧八坂用水の痕跡。終戦後の当時はまだ「へ」の部分に旧八坂用水に水が流れていたことが確認できます。その流れは現在、十三屋さんのある交差点の手前で道路から反れ、現在の八坂用水に合流していたようです。(青矢印)
また特筆すべきは「に」の旧愛宕神社の位置に、うっすらと前方後円墳のあったような跡が見られることです!その周囲に於いても、周濠を囲む堤の跡のようなものが僅かに見られました。(青ライン)
寒さ厳しき折から、お風邪並びにインフルエンザなど召しませぬようお気を付けください。


Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/01/23(Fri) 22:51 No.2081
皆様、八坂樋のあった辺りですが三郷側はなにやら工事が始まっているようです。
遠くからちょっと見えただけなので何の工事か分かりません。
すくない旧八坂用水の痕跡がさらに減ってしまうかも知れません。
何ができるんだろう?
道路?宅地?工場?農地整理?発掘?コンビニ?←これは無い


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/24(Sat) 14:00 No.2082
金田一鳩助さん、分かり易く整理していただき、ありがとうございます。
1946年撮影の写真ではその位置が良く分かるんですね。
と言うことは、地元の7,80歳台の人たちならば記憶に残っているかも知れませんね。

ぷうぷうちさん、工事情報、ありがとうございます。
今ならまだ痕跡が見つかるかも知れないと思うと、すごく気になります。
今日は無理ですが、早めに行ってみなくっちゃ。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/01/25(Sun) 14:14 No.2088
現八坂用水の伊勢崎側の出発地点は徒歩で行ける距離なので探索してみました。
自分が言ってた、神沢川を渡るサイホン式?のトンネルは今は有りませんでした。
親父に聞いた話から説明しますと・・・・
現八坂用水の伊勢崎側入り(現中野面スポーツ広場)は窪地になっていて、以前Nさん宅が有り(廃屋?が在ったのは自分もうろ覚えが有ります)
台風か何かで壊れた家の廃材だかゴミが神沢川に大量に流れて来て、八坂用水の桶(橋)に
引っ掛かり先のNさん宅に川の水が流れ込み、親父も含め?助けに行ったそうです。
その為、川の上部を渡す桶(橋)が危険だと言う事か?桶(橋)の修理の為かで、サイホン式を作った筈と・・・・
そのサイホン式の伊勢崎側の出口と現在の伊勢崎側の出発地点(現中野面スポーツ広場南西端)は親父の話からも完全に一致します。
それと、八坂桶と八坂用水の跡の碑を見て来ました。
丸男さんの地図で示した地点に有りました。
ぷうぷうちさんの肝心な説明書きの看板が見つけられなかったです。
もしかして碑の反対側に在ったのかな?
そして看板に<<佐波新田用水>>と書いて有るので親父の言う「新田用水・・・・」と言った事も間違えでは無い事も確認出来た様な・・
丸男さんの新堀と言う呼び名も子供の頃よく言ってた事を思い出してます。

追伸
ぷうぷうちさんの言う工事は太陽光発電の工事の様です。
一部ほぼ完成してましたがこれより以北の現八坂用水までの間の工事も周りの環境から見ても、
人が住むとか会社(住民が嫌う施設なら別ですが・・)には素人が考えて無理だと思うので多分太陽光発電だと思います。
またこの場の太陽光発電を設置してる会社か解りませが、側近に太陽光発電の設置関係会社は有りました。
丸男さん
碑が在る所のチョット西側に北(神沢川沿い)に登れるバラス道が有り、途中に何故か東屋が有りました、。
そのまま北進すると現八坂用水チョイ手前に行き付き、前橋側に渡りますがそのままさらに北進すると、北関東道の側道に出られますよ。


Re: 八坂用水 - 金田一鳩助 2015/01/25(Sun) 21:01 No.2090
うちの馬鹿娘!が先週は、名家の御曹司しょうちゃんに誠に失礼致しました。m(_ _)m
また、Nさんご家族の救出に向かわれた、お父上様はじめ皆様に心から敬意を表したい思いであります。
さて今日は、旧八坂用水がどういった経路を辿り、伊勢崎町に流れていたか考えてみた次第です。
画像はまたまた、米軍撮影の昭和二三年の航空写真を国土地理院より拝借したものです。
旧八坂用水は「新堀川」と呼ばれ、「り」の地点、すなわち現在の赤坂川分水地点から赤坂川の経路を辿ります。(迅速測図では現在の赤坂川分水地点から、東に向かう「ろ」の水路は途切れてます)
次に「へ」の現在「壱丁田公園」のある辺りで赤坂川と分かれ、東南東、「は」の方向に向かっていたように思われます。赤坂川と分かれる地点は、現在は北部環状線下の暗渠で見えなくなっています。
「は」の辺りを過ぎると、この写真、昭和二三年の当時は南北に流れる用水路にどんつくして南下してます。この南北に流れる用水路でありますが、これは藩政時代に「い」の中村沼(華蔵寺沼)東の粕川から取水し、城下町に流れていた用心堀の名残りと思われます。用心堀の水は伊勢崎城下の紺屋町出口に辿り着き、現在の伊勢崎駅前より旧田原屋前を雁木折している道の真ん中に設けられた防火用水路を流れてました。
藩政時代の伊勢崎町は度々、大火に見舞われ、こういった用心堀や水路を構えることが必須であったようです。また面白い事にいざ伊勢崎陣屋が火災の際は、駆付け人足(にんそく)を出動させ消化に駆けつける村が指定されていたということですが、その村はまさに波志江村と太田村であったそうです。
そういえば、波志江村が祀る愛宕神社は、お師匠Kさん曰く「火伏せ・防火に霊験のある神社」として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られているようです。これも単なる偶然でしょうか?

いささか脱線致しますが、以前、話題となっていた、伊勢崎陣屋、御堀への水の引き込みの件、その件についても一言申し上げておかなければなりません・・・。
鳩ぽっぽさんが用意された陣屋と周辺城下の地図を見て、現在の伊勢崎駅前にあった水路から水を引いて外堀(海彦山彦さんの解釈では内堀)に引き込んでいたという結論でした。しかしながら、その地図をよ〜く見ると、外堀の上に橋のようなものが掛かっています。水は外堀に引き込んでいたというより、外堀の上を「樋」でまたぎ、本丸御殿周りの御堀に落としているように描かれてます! たとえ周りの城下町が大火に包まれたとしても、類焼せずに陣屋御殿だけは守ろうとしたものでしょう。
こういった城下町の防火用水を確保するためには、先に中村沼南より南下する用心堀が開削され、それだけでは不十分な点を宝永三年(1706年)に完成した御新堀用水(旧八坂用水)でカバーしたとも言われてます。
航空写真に戻って、「へ」で旧八坂用水と分かれた赤坂川は、「と」(現在の太田町交差点)の辺りでまた二手に分かれ、一方は現在の赤坂川の流れ。もう一方は大胡町道にほぼ沿って城下に流れています。
かつては「赤坂堰」と呼ばれた堰は、恐らくこの二手に分かれた地点にあったものと思われます。こちらには先日、ぷうぷうちさんが調査に行ってくださった訳ですが、高低差がありすぎて分水は困難と言われてましたがどうでしょうか、もし大胡町道に向かう流れの方が本流で高い位置を流れ、そこから分水されて現在の赤坂川の流れの方に水を落としていたとは考えられないでしょうか? また、この辺りはかつて「赤坂山」と呼ばれ、日が暮れると追い剥ぎが出て恐れられていた話も聴いております。
ちなみに、「ち」の辺りが現在の三郷二号公園になっており、「り」〜「は」が旧八坂用水、「と」が赤坂山、「へ」が壱丁田公園、「ほ」が備足山(びったりやま)、「に」は旧伊勢崎高校(後の旧伊勢崎商業)・・・
「古くよりこの地を石山と云ふ 旧藩時代八坂用水の開発により水利に恵まれ 南に赤坂 西に一丁田 東に諏訪安山岩の備足山を背後に肥沃な農地なり」といった冒頭で始まる記念碑の位置関係も徐々に解ってきた次第です。明治初期の迅速側図では赤坂山、備足山の辺りは、お富士山古墳のような等高線は刻まれておらず、いずれも「楢」と表示が見られることから、山と言うよりもなだらかな楢林の丘陵であったかと想像します。
最後までご一読頂き有難う御座います。皆様のご健勝を心からお祈り致します。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/01/25(Sun) 22:21 No.2091
金田一鳩助さん・金田一モニカさん
気になさらなで下さい。現に謝られてる事??が何か自分が解っていませんから(^_^;)
皆様?から見ると、50歳直前の若造?なのにあれこれ言って、かえって皆様に混乱を与えて迷惑でないかが心配です。
親父に聞いたりして、話がかみ合いそうな時は色々情報を提供して行きますので宜しくお願いします。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/26(Mon) 13:57 No.2092
しょうちゃん、全くの偶然で驚いています。ニアミスだったかも?
私も昨日、「八坂樋」の場所を踏査して来ました。
現地と、その周辺の左岸堤防、右岸堤防、現在のコンクリート製の水路橋、
それと前橋側の用水の堀跡などを歩きました。

皆さんからたくさんの意見や調査結果、資料や情報を寄せていただいたので、
後日、「八坂用水」のページを制作して記録にとどめたいと思います。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/26(Mon) 21:40 No.2093
丸男さん、しょうちゃんのフットワークの軽さに驚いてます。 やはりリアルモードになって、現地調査が一番ですね!
そういう私はすみません、遠いので自転車で図書館に行くくらいです・・・
ところで、現在の八坂樋はコンクリート製の水路橋になってますが、昭和時代にサイフォン式だった時もあったようです! その時の写真も見ましたが、確かに樋はかかってませんでした。
旧八坂樋から現在の場所に移ったのは、佐波新田用水に変わった大正13年からのようですね。その時、赤坂川の分水地点から更に東、華蔵寺南を通るルートに延長されたということです。
その先の粕川越えは、現在でもトンネル潜りのサイフォン式ですね。


Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/01/26(Mon) 22:38 No.2094
しょうちゃん、丸男さん、現地調査ありがとうございます。
あの工事は太陽光発電でしたか。地形がおおきく変わることはなさそうですね。
それから、サイフォン式の時代も有ったとは・・・初めて知りました。
色々資料が残っているようですね。
また、伊勢崎の町中や陣屋の水と八坂用水の関わりで分かることがあればおもしろいですね。
ぷうぷうちも気に留めて調べてみます。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/01/26(Mon) 22:47 No.2095
鳩ぽっぽさん
神沢川のサイホン式の写真有りましたか(^_^)v。
小学生の頃だから、昭和50年代前半だと思いますが、カブトムシとかを取りに
元Nさん宅(廃虚?)付近の神沢川に行き、このサイフォン式を見つけ親父に話したら
滅多に怒った事の無い親父に、「絶対に近づくな!、もし落ちたら二度と上がって来れないからな」
って怒られたので良く覚えていたんです。
今の画像は撮って来たんですが、1枚1枚だと迷惑かと・・・・
でも現地に行ってみて、サイフォン式の跡と思わえる空き地(歩いて行くしか無い畑の一番奥で川の直端なのに小石が敷き詰められてる)が在ったり
その反対側の前橋側の護岸が他と違ったコンクリートの土手だったりでチョット違和感がありましたね。
サイフォン式の時もし川の水が呑み込めなかった時の為に溢れた水は神沢川へ流れる様にしたと親父が言ってましたが
今もこの非常用の排出口は前橋側には有りましたね。
追伸
実は土曜日の昼頃一度探索して自分成りに画像を撮ったりしたのですが、今一撮りたらない感じがして
日曜日は丸男さんがルート的に一番に八坂用水に来るかなと期待をしながら9時頃二回目の探索をしたんですよ。
一番の地元民が、直視しないのにあれこれ言うのもね悪いですからね(^_^;)。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/26(Mon) 23:30 No.2096
皆さん、お返事ありがとうございます。しょうちゃんのお父さんの言葉が、、「絶対に近づくな!、もし落ちたら二度と上がって来れないからな」が実にリアルに響きました!
でも、これは標準語訳? 実際は、「絶対、近づくんじゃねえどぉ〜!もし落っこってみろやぁ、おんめ〜、はぁ二度と上がって来れねえで〜!!うんまかぁねえどぉ〜そらぁ」なんて感じだったか? 勝手に想像しちゃいました。

ぷうぷうちさん、今日は図書館で以前、ぷうぷうちさんが見つけた太田町郵便局付近を流れる用水の、赤坂川からの分水点についてちょっと調べてきました。
ぷうぷうちさん現地調査では(コメントの引用失礼致します)>この辺で分水は無理そうですね。赤坂川は河床が思った以上に深いです。分水できる程の高い堰を作ると物凄いダムになり、水没する地域が出そうです。
ということでしたが・・・う〜ん? 迅速側図を見ても米軍撮影の写真を見ても、どう見てもここで水が分かれているので気になってました。
まずは添付した画像(米軍撮影の航空写真、国土地理院より)をご覧ください。分水点にはやはり昔からの堰があり、「赤坂堰」と言ったそうです。
図書館にあった「三郷文化財史蹟研究会機関誌」から引用させて頂きますが、「大胡県道のすぐ東に大きな水門があり(注・現在の八坂用水、赤坂川分水地点)、ここより下った水は段々に深くなり君塚産婦人科の処で高堰を作り水を揚げ、大胡県道に沿って下り・・・」ということでした。
君塚産婦人科さんが懐かしい響き♪でしたが、やはり、ぷうぷうちさんが想像した通りの高い堰が設けられていたようです。
明治の迅速側図ではその後、用水路は「大胡町道」のしばらくの間、道路西側に沿って流れてますが、米軍の写真は道路を直線にした影響でしょうか、太田町郵便局の所ですでに東側を流れてます。現在、そこは暗渠となりその上が歩道になっていることが確認できます。
この用水は昔は田方用水(民俗用語、水田用の用水の意)として扱われ、その先は、現在の大胡県道から左にそれる恐らく旧道に沿って伊勢崎城下方面に向かってます。先ほどの機関誌では、その水路沿いに「一本木」とか「お化け銀杏」とか言われる銀杏の木があると書かれてましたが、現在も旧道の傍らに大きな銀杏の木があったと思います。
一方、赤坂川の下流に記した橋の印は言うまでもなく、我らが丸男さん設計の「平成赤坂アーチ橋」で、その先には昔は水車があったそうです。
「山」は、迅速側図で「楢」の雑木林になっている範囲をもとに、「赤坂山」はこの範囲であったのではないかと想定して書き込んでみました。
昔、赤坂山は日が暮れると追い剥ぎが出るので、波志江で病人が出ても医者には「明日にしてくれい!」と断られたそうです。その後、大胡町道がそこを通り山が東西に分断されると、気のきいた茶店もできて「赤坂もち」や焼きまんじゅう、酒などが出されて街道端の憩いの場になっていたそうな・・・


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/28(Wed) 17:23 No.2097
旧八坂用水は伊勢崎城下に入ると、城下町の総構え(そうがまえ)としていた土塁に沿ってあった堀をほぼ経路としていたと思われます。
現在は、中台寺東の道路を南下して、子供の頃にゴジラとかガメラの映画をよく見に行った元、日吉劇場の前を通過して、井下時計店前で本町通り(かかあ通り)と交差している通りに幅3間(約5.4メートル)の土塁と堀があり、土塁の上に松の木が植えられてました。
昔、南小学校でご年配の先生から「江戸時代は、井下時計店から東は町はなかった。みんな田んぼと畑だったんだよ〜!」と教えられたのも思い出します。(ちなみに時計店の有名な息子さんも同級生でいました。)
日吉劇場の辺りは1960年代初め頃までは暗渠にならず、堀があったそうです。
井下時計店を過ぎると昔は「南銀座通り」と言っても昔からひなびた商店街でしたが、そこを通って赤城煎餅さんの辺りから道路が左にそれてカーブしてます。この辺りからは現在でも、旧八坂用水らしき用水路が残っていて往時を偲ぶことができます。
こちらは私の地元でもありますので、少年時代は通学で毎日のように通った道です♪
グーグルマップの投稿写真は、その通りから南の八坂町方面を向かって見た写真です。道路左側のフェンスの下は用水路で、用水路は突き当たりの整染工場(グンセン)の所で左右に分かれます。
右へ進む流れは蛇川となり南小の方に流れてゆきます。左へ進む流れはかつての八坂用水として、この下流地域を灌漑していたのでしょう。今泉村の法長寺の北(現在の今泉陸橋辺り)〜旧、名糖牛乳の裏を通って、茂呂村の先で粕川に合流してます。写真の道路を白い車が写っている方にそのまま進めば右側に、焼きまんじゅうの田中屋分店さんがあります。
また、ここは伊勢崎町と旗本領であった今泉村の境界で、ここにも城主、稲垣長茂が築いたと言われる幅4間程(7.2メートル)の土塁と松の木が植えられていたようです。
藩主が参勤交代で江戸から帰って来た時は、町役人たちがこの「今泉の石橋」の所まで出迎えたと言われます。前橋、天川の松並木の風景を思えばイメージが湧いてきそうです。
また古老の話ではここは「ハッツケ場」とも呼ばれていたそうで、戦国時代の処刑は「みせしめ」の意味でも、このような領分境で往来のある道沿いに磔刑場があったようです。
「八坂町」の地名は、この辺りに八坂神社があったという記録はなさそうだし、京都の八坂のように「坂が多かった」ような地形でもない。恐らく、八坂用水が流れていたからここも「八坂町」と呼ぶようになったのではないかと想像してます。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/29(Thu) 08:54 No.2098
鳩ぽっぽ さん、用水を辿ること、楽しいですね。
八坂用水も、三郷地区からの分流後はほとんど掴んでいないので、興味あります。
いつか、ゆっくりと辿ってみようか・・・などと考えています。

ところで、鳩ぽっぽ さんやぷうぷうちさん、しょうちゃん、皆さんに盛り上げていただいた八坂用水について、
取りあえず、神沢川を渡る樋とその周辺についてページを起こして、本日付で掲載しました。
皆さんからのたくさんのご投稿、ありがとうございました。
まだ、ごく一部なので、関連項目についてはページを改めて掲載する予定です。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/29(Thu) 21:43 No.2099
丸男さん、「八坂大樋」がいよいよ記事になりましたね!
八坂用水についての記録や紹介はネットでも図書館に行っても極めて少ないのが現状で、今回、Go!いせさきさんで紹介されてナイスです〜♪
またまた、Go!いせさきさんならではのフィールドワーク〜実地踏査と写真による解りやすい説明、(グーグルマップの写真じゃ白い標識の向こう、藪の中はどうなっているのか見えませんからね〜。)
さすが、橋梁のプロが手懸ける、航空写真と古地図に基づいての位置検証も素晴らしいです!

当時の八坂用水は全長14.5キロ(約15キロ)、堀幅3.3メートル、両側に1.8メートルずつの砂置場があったそうです。用水になぜ「砂置場」なのかはっきり解りませんが、素掘りの堀は放っておくと堀底に土砂がたまったりして、しばしば堀さらい等のメインテナンスが欠かせなかったようです。
また、小畠武堯氏が造成した全長14.5キロのうち、かなりの部分で既存の水路が利用されたとも言われてます。特に伊勢崎藩領内では、華蔵寺付近から下流の多くが既存水路だったように思います。
小畠氏が実際に開削した区間は、伊勢崎藩領内よりも前橋藩領内の方が全然長かったようです。前橋藩領内の土地の高低測量は、夜に線香の灯りで行ったというエピソードもスゴいですね。
この偉業を称えた小畠武堯頌徳碑が、今も華蔵寺公園に建ってました。

画像は「伊勢崎市史」にあった八坂樋の全景写真です。網点ばかり目立つ写真ですが、大樋の佇まいと周りの風景の様子も撮らえた貴重な一枚ですね。位置検証の参考になればと思います。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/29(Thu) 23:20 No.2100
鳩ぽっぽ さん、ビッグニュース!(@_@)。
今日、景観サポーターの催しがあって、メンバーでもある郷土史家の星野さんと話を交わし、
伊勢崎城のお堀の水源について色々と教えていただきました。
すると、な、な、何と、鳩ぽっぽ さんやぷうぷうちさん推定の八坂用水からの流入経路が正解のようです。
大イチョウの脇を流れていたこと、蛇川のこと、伊勢崎駅の西側を南に下ったことなど
皆さんが展開した話が見事に重なりました。
八坂用水からの流入は江戸末期頃からのようで、
それ以前は、粕川の間之山橋下流の「二ノ堰」から分流した水路から流入していたようです。
このルートは、サンデンの下を通り、アイタワー花の森の東を通る水路で、
私も、ずいぶん以前に別の経緯で知った情報と一致してました。

・・・と言うことで、このテーマもいつか整理したてみたくなりました。└(^o^)┐


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/30(Fri) 00:10 No.2101
鳩ぽっぽ さんがアップしてくれた画像でちょっと遊んでみました。
元の画像が粗いので、部材の細かいところは不明なんですが。
アイオーさんの写真を参考に、後で丁寧に描いてみたいと思います。
取りあえず、ご愛敬の範囲でご覧ください。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/30(Fri) 21:04 No.2102
丸男さん、彩色され現代によみがえる「八坂大樋」が、ジオラマかそれとも幕末の総天然色写真を見ているようで素晴らしいですね〜!
青空と白い雲が明るい雰囲気でさわやかだし、よく見ると神沢川の流れもリアルに着色されてたりで楽しいです〜♪
またまた、昨日の講演会場では、星野正明先生とお会いされたそうでスゴいですね!
な、な、何と!こちらの掲示板さんで皆さんと推定してきた用水ルートが当たっていたということで、何より嬉しいですね〜!!
星野先生ともコンタクトを取ってくださってありがとうございます。m(_ _)m

添付した画像は迅速側図をもとに、波志江村から伊勢崎城下を経て今泉村へと流れる八坂用水を中心として、今まで皆さんと検証してきた堀や用水路をふり返って書きこんでみました。

1706年(宝永3年)に八坂用水が開削される、以前の伊勢崎周辺の水利事情も興味深いですね。
昔々、上植木村の粕川には三つの堰があったそうで、丸男さんの言われる通り、17世紀は「相ノ山橋」付近にあった堰から取水した水を伊勢崎町方面に送っていたようですね。
現在も間之山橋から宴会場の旧、宝島さんの脇を通る用水路が残っていて興味をそそります。
また、1632年(寛永9年)になるとその取水堰を華蔵寺東の堰に移しているので、そちらが「三ノ堰」になるのでしょうか。
この「粕川堰用水」は華蔵寺南の、現在の六間道路と北部環状線の交差する八幡町交差点辺りから旧道に沿って南流し、現在の寿町辺りからは旧道とともに六間道路からそれて斜めに(南南西の方向)向かい、「紺屋町(こんやちょう)出口」(現在の伊勢崎駅前)方面に到達し稲作、城下町の防火用水に使用されてます。
そのルートをすでに、丸男さんが掴んでいたということでさすがですね!
この曲がった旧道は石川泰三町長時代の大都市計画の先駆けで、華蔵寺公園から茂呂村まで一直線の!六間道路が完成してからは姿を消していったのでしょう。

また一方、迅速側図では天増寺の西で粕川は二股に分かれて流れ、この二股が再び合流する赤城神社付近から、現在でもとりせん駐車場の東〜伊勢崎工業高の東に沿って流れる用水路が残ってます。これは「天増寺堰」から取水される八坂用水以前からあった用水路の名残りだと思われます。
当時はこの用水路で下植木、今泉、茂呂村が灌漑されてましたが、1706年の御新堀用水(八坂用水)造成後は、既成の古い用水と新堀が合わせて利用され、用水の増量アップと安定化が図られたことでしょう。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/31(Sat) 00:35 No.2103
鳩ぽっぽ さん、粕川と八坂用水、両河川からの流れの位置と歴史の整理、ありがとうございます。
当時の道路とのからみ、また、本町を通り抜けて、今泉や茂呂へ流れて行く経路、
この辺も興味深いです。
現在、オープンになっている水路が暗渠になる前に、街中の水路巡りもしてみたいです。

・・・ところで、鳩ぽっぽさんアップの一昨日の写真に、これまた鳩ぽっぽさんアップのアイオーさんの写真を重ねてみました。左右を反転して重ねてみました。
木製の雰囲気が出てきました。


Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/01/31(Sat) 22:05 No.2106

丸男さん、やはり伊勢崎陣屋などの歴史について良くご存知の方はいらっしゃるのですね。
ネットで簡単に素人が調べても分からないことばかりです・・・わからないから調べたくなるのですが・・・。
お蔭様でずいぶん勉強ができました。

今日、BSUで13:30から「凸凹探検で謎解き!裸にしたいTOKYO」という番組をたまたま途中から目にしてかぶりつきで見てしまいました。
東京のかつての水利を調べる番組で、ちょうど伊勢崎陣屋の水利について調べるのとそっくりな感覚でした!
1600年代に江戸の町の為に引かれた水路や水利の話を、芸人さん+専門家の現地レポを含めつつスタジオで纏めながら進行する番組です。
中でも多摩の羽村から四谷までの全長43km・・1653年に築かれた「玉川上水」の話は、その距離を平均2パーミルの斜度で流しているという高度な技術力に圧倒されました。
江戸詰めだった小畠武堯さんはこれらの技術を学んでいたことでしょう。玉川上水の50年後に八坂用水が計画されたことになります。
今ある八坂用水も前橋域では斜面をトラバース気味に流れていたり面白いポイントがありますね。

丸男さんが航空写真に重ねた八坂樋の位置は現状の地形との関係性も明瞭で、時代をつなぐロマンを感じることが出来ました。
色彩画も加わっていろいろ想像しやすくなりますね。当時の子供はこの中を泳いで渡ったという武勇伝を思い出しました。
地形の高低もわかる3DのCADモデルが出来れば最高ですね。

鳩ぽっぽさんも苦労している赤坂川と合流〜分流して流れる駅北のルートは、今のところ迅速図しかビジュアル資料がありません。
戦後米軍が残した航空写真ではすっかり耕地整理が終わって迅速図の面影がありません。
大正11年に新田用水として延長されてから昭和15年の伊勢崎市制移行〜さらに中島飛行機伊勢崎第一工場開設の昭和17年の間に地形も変わってしまったのでしょう。
そういえば中島飛行機の工場を建設するにあたって備足山の一部で水田を埋め立てたという話も聞きました。
このエリアの変遷もかなり興味深いです。

さて、以下全くの想像です。
新紺屋(コーヤ)町というのが今の駅前にありました。(イッサキではコーヤと言った様ですが高崎はコンヤだったらしい)
街中に紺屋町があったにもかかわらず新しく染物街を形成した。
これは八坂用水からの水で潤った町の北側の水路が染め屋に魅力だったと。
ちょうどそのころは養蚕が盛んになって来て染物の需要も増えてきた。
染物には糸を煮るにも染料を煮出すにも鍋が要りますが、このなべ、お鍋っ川の名前と何か関係が?
ちなみにおなべっ川で検索するとGo伊勢崎さんのサイトしか出てきませんね。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/01(Sun) 00:34 No.2107
丸男さん、高橋寿郎氏ご所蔵のお写真を転用して、反転の技(わざ)ですね〜! こうして見ると以前、ぷうぷうちさんが言われていたように、大樋らしくかなりダイナミックな光景になってきました!!
この大樋の中を泳いで渡った子供がいたとは!知らなかったです。
ところで、ぷうぷうちさんも駅北から華蔵寺にかけての米軍の航空写真をご覧だったのですね! 私も昨夜は同じ写真をじっくり眺めてました。この辺りの耕地整理は早かったらしく、すでに現在に近い区画になってしまってますね。
迅速側図の時点では伊勢崎駅前から華蔵寺に向かう道があったのですが、すっかり消えてました。
大正時代〜昭和初期、これも伊勢崎銘仙の黄金時代を背景に、伊勢崎町から市へと昇格を目ざして立案された「大伊勢崎計画」の華々しい邁進のひとつでしょうか。富士重工、、言われてみれば、中島飛行機でしたね。
またまた、おすぎとピーコさんもビックリの!! 新紺屋(コーヤ)町〜おなべっ川への鋭い展開に、な〜るほど〜とつくづく深い感銘を受けてます!
紺屋町の読み方を、私も昨夜のコメントで間違えてしまい実は気になっていたところです。(下手に訂正すると画像が消えてしまい、丸男さんのお手数になってしまうし・・・)
そうですね、イッサキ人なら、「コーヤマチ」が正解ですね!

追記:コメントを書くのにたまに参考にさせて頂いている、高尚なブログ「いとしきもの 自分のための子守歌」さんの記事中に、一昨日、「最近、Go!伊勢崎の掲示板で八坂用水等の議論が盛り上がっているようだ。」と、こちらの掲示板さんのことが紹介されていてちょっと嬉しかったです!http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/04/post-7415.html
一番下の方に追記で出ています♪


Re: 八坂用水 - 金田一モニカ 2015/02/01(Sun) 12:29 No.2108
ぷうぷうちさん、こんにちは。
ぷうぷうちさんのおっしゃってた八っ坂用水の >駅北のルートは、今のところ迅速図しかビジュアル資料がありません、、、ということでしたが、、
ビジュアル系!とまではいかないけど、こんな図でよかったら「伊勢崎市史」の中に出ていたわ。(添付画像をご覧ください)
そこのエリア、ちっちゃくて見にくいけど(ー_ー;)八っ坂用水はじめとして用水路のパターンは、迅速図と、金田一鳩助が先週、米軍写真の中に見いだしたパターンとほぼ一致してるわ!
あっ、それからそれから、確か〜明治の終わり頃の「三郷村郷土誌」じゃあ、村内を流れる河川としては「新堀川」はあっても「赤坂川」の名前がないの。。「赤坂川」は後から名付けられた川の名前なのよ。
たぶん、今のセブンイレブンの裏の方にある赤坂川分水ポイントから、大正13年?に八っ坂用水が華蔵寺の方まで延長された時に、分水ポイントから南に流れる川を「赤坂川」と名前を付けたんじゃないかしら??
またまた、「平均2パーミルの斜度」ですって、、ふむふむ・・・あたいなんかには良くわかんないけど〜、めちゃわずかな傾きってことかしら。昔の人の技術ってスゴかったのね〜♪
そうよ、あたいも小畠武堯は、多摩で玉川上水を(@_@)こんな西川きよしみたいな眼になって、よ〜く見てきたんだと思うわ!!


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/01(Sun) 15:40 No.2109
平均2パーミルの斜度・・・・
調べて見たら、1km進んで1mの上りまたは下りで1パーミル様ですね。
って事は1kmの下りを自宅近くの解り安い建物を当てはめたら
現「愛宕神社」(現八坂用水の伊勢崎起点から真東に在)と「北部環状線」(ほぼ平行する用水より少し下)と成りました。
ここの区間(八坂用水の水路とほぼ同じ)が2パーミルかは解りせんが数値では大した事が無い様ですけど、
丁度ほぼ同一コースを最近チャリで移動した事が会ったんですが
結構これが下るのは楽だったんですが、帰りは汗は掻くし、足はパンパン(これは普段の運動不足)
このわずかな計測を当時の方は行たって事でしょうから凄いんですね。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/01(Sun) 19:43 No.2110
金田一モニカさんの八坂用水の水路を見て不図気に成る事が在るんですが・・・
用水の橋(桶)を渡り切り、伊勢崎に入ると急に東に折れ、現用水路付近で南下してる様に見えるのですが??
そこで、現用水路の脇に在る「十三屋」の管理地に石の門柱?が在るんですけども、
1本は店側(道路北側の東角)、もう1本が道路南側で西角(コイン精米機や旧プロパンガス置き場?)
と距離がチョット離れているのですが、八坂用水を南北と東西で挟んだ用水の曲がり角(現用水との合流するヶ所)
と仮設すると石柱がそれぞれ立って居る説明が付くんですが・・・
それと用水には関係無いと思いますが、お賓頭盧様が直脇に在ります。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/01(Sun) 21:55 No.2111
「おなべっ川」の名前の由来が「新紺屋(コーヤ)町」にあったという!ぷうぷうちさんの説に魅かれて周辺の地図を作ってみました。お馴染みの迅速側図にちょっと用水路を書きこんだだけですが・・
というより、実は昨夜、この地図を作っている時に偶然、ぷうぷうちさんが新紺屋町についてコメントされていたので驚きでした!
まず地図中の紫色で門のようなものを書いた所が、新しい交番がある伊勢崎駅前交差点よりもちょっとだけ西にあった旧駅前交差点の辺りです。
ここはかつて「紺屋町出口(こーやまちでぐち)」と呼ばれ城下町から外に出入りする「木戸」があった場所で、伊勢崎城下の北玄関と言ったところでしょうか。
伊勢崎町も町の出入り口に木戸を構え、盗賊や狼藉者(ろうぜきもの)から城下町の治安を守っていたのでしょう。
「新古日記」によると城主・稲垣長茂の時代には、ここにも西は同聚院の北裏から東は中台寺の北裏にかけて幅四間(約7.2メートル)の土手があったそうです。この土手はいつ頃まで残っていたかは解らないようですが、地図に土手をイメージして緑色で書きこんでみました。
また土手に沿って堀が設けられ、中台寺の裏辺りは平成に至るまで用水路がずっと残っていたように思います。
陣屋の外堀と更に城下町を囲った「お囲い土手」による惣構え(そうがまえ)で、伊勢崎町も完全なる城郭構造の体をなしていたわけですね。
地図に戻りますが、(紫色の)木戸から町に入ると南に下るメインストリートで、この地図では切れてしまいましたが旧・田原屋辺りで現在も道がカーブする雁木折(がんぎおり)の辺りまでが紺屋町。
木戸から逆に外に出ると東西に向かう道となり、木戸から善応寺方面の西へ向かう道の界隈が、ぷうぷうちさんの言われる新紺屋町ですね! まさにこの界隈は現在、ベイシア伊勢崎駅前店と駅南・東西通りの工事の真最中でというのも何かを物語っているようです。
私が子供の頃は、そのまま西へ進めば杉か何かの並木道で善応寺の参道だったように思います。また旧道は現在の道路より斜め右にそれ、小さな堀に沿って大谷石でできた蔵や旧家が建ち並ぶかつての大正〜昭和初期を思わせる風情ある通りでしたが、その界隈も近いうちに消えてゆくのでしょう。
さて、木戸から東に進めば道はすぐに左に折れ、中村(華蔵寺)方面に向かう道でした。その道沿いの堀には、城下の防火用水に用いられた粕川堰用水、江戸時代後期は八坂用水の水が流れていたのでしょう。
旧伊勢崎駅前交差点から東に向かってすぐの小さな角を左に入ると、やはり古い家並の風情ある通りでした。
Go!いせさきさんの記事で見て解ったのですが、現在はなんとその小さな角の所に交番が建ち、新しい駅前交差点となったようです。最後まで残っていた寄棟の民家も、実はその界隈のお宅であることを知りいささか複雑な心境でした。
このように、かろうじて残っていた城下町の面影も、新しい時代に向けて姿を変えてゆくのでしょう。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/02(Mon) 16:14 No.2112
またまた、すみません昨日の続きです。
現在の伊勢崎駅前辺り、すなわち江戸時代の「紺屋町出口(こーやまちでぐち)」から華蔵寺方面に向かっていた道と用水路の遺構らしきものを、グーグルマップの中に見つけました!
画像は「一番街通り」と言うのでしょうか、現在の駅前交番とクリーニング屋さんの間の道路ができる以前にあった狭い道を高架の方に向かった所です。(現地は今は更にすっかり変わり果て、丸男さんでないと場所を正確に特定できない状況です。)
道の奥、樹木の茂みが最後まで残っていた寄棟民家の敷地、道の東側には現在、自転車預かり所やよいさんの新店舗が建っているのでしょう。
さて画像の手前、左側の緑色の古いフェンスの中が用水路の遺構と思われる所です!
この道は旧伊勢崎駅前交差点の角にあった、セブンイレブン(その前は、おかそうさん)から東に向かってすぐの小さな角を左に入った道で、古い家並がそれなり風情ある通りでした。
鉄道が敷かれる以前の明治初期は、この道は用水路とともに北北東に進みゆるく蛇行しながら中村(華蔵寺)方面に向かってました。この辺りでは、八坂用水もこの水路が使用されたと思われます。

橋田友治先生著の「伊勢崎歴史散歩」では、「(紺屋町出口の)木戸外に出ると道が二筋に別れて、一本の道は東北へ出て中村・華蔵寺を経て赤堀方面への道となり、他の一本の道は西へ向かって大胡街道となっていた。華蔵寺道の旧道は現在(注・昭和47年頃)の魚直こと加藤政吉氏の家の前を通る道であり、大胡街道の方も、善応寺の山門前の杉並木のあたりで北に入ったもので、今も僅かに古い頃の面影を残している。」と記されてます。
「魚直」という魚屋さんの位置を、どなたかご年配の方でご存知の方がいらっしゃらないでしょうか?


Re: 八坂用水 - 金田一モニカ 2015/02/02(Mon) 17:39 No.2113
しょうちゃん、即レス、うれぴ〜わ!
平均2パーミルの斜度・・の説明、あたいにも解りやすかったわ。
八坂用水の経路の方も、ぴったし カン・カンでちゅ〜☆ 
>用水の橋(桶)を渡り切り、伊勢崎に入ると急に東に折れ、現用水路付近で南下してる様に見えるのですが??
しょ、しょ、しょうちゃん、その通りよ!!あんな小さい地図で、超細っかい所までよく見てくださったわね〜。
この付近のことですけど、金田一鳩助 2015/01/23(Fri) 22:04 のコメントをまた見てもらえると嬉しいわ。航空写真で新、旧八坂用水が合流してるのもよくわかるわよ!
ところで添付した画像だけど、、今回はあたいも大物クリエーター・丸男さんを意識して、絵なんて描いてみちゃったの〜。
じゃん、、これが昔、ここに旧八坂用水が流れていた頃の想像図だわ!!
場所は十三屋さんの自販機&精米機コーナーで、グーグルマップさんの写真と1946年撮影の米軍航空写真をもとにしてるわ。実際の流れはちょっとズレてたかもしれないけど〜。まっ、イメージってことで(汗)
そうそう、謎の石の門柱があったわね! 旧八坂用水は八坂樋の方からこの道路に沿ってここまで流れてきて、門柱よりも向こうの道路が妙に広くなっているのがお解りかしら? これはきっと旧用水の流れていた名残りなのよ。
旧用水はたぶんこの門柱辺りで道からそれてカーブして、コイン精米機の辺から自販機コーナーのうしろを通って、交差点の南の方で新しい八坂用水に合流したんだと思うわ。
或いはもう一つの説!、、明治初期の古地図を見るとあら不思議??旧八坂用水は交差点の角でほぼ直角に曲がっていた!
ということで十三屋さんの建てた謎のモニュメント・・・東西角の「二つの門柱」は八坂用水の、、ワンチュ!角々、角々、曲がり角〜♪を現していたという、しょうちゃんの推理がかなりいい線いってると思うわ!!


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/02(Mon) 21:48 No.2114
金田一モニカさん
やっぱり地元の強み?
自分の推理も的外れじゃ無いってことですかね。
石柱(門)に何か表記してあるか気に成りますね。
それと、桶を渡り東に折れ、現用水路に至る水路ですが、
現「東昇運輸」さん東角から現用水路までの水路と思われる堀が道路と民家の間に在るんですよね。
車で何時も走っているんですが、素人目に必要以上に堀が深いな〜って思ってるんですよね。
この推理も合ってるるのかな?
昔からの馴染みの店なので、顔を見れば撮影も一つ返事でOKでしょうけど
最近は個人的にはご無沙汰なので????(お互い歳取ったから顔忘れてるかな?)


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/02(Mon) 23:39 No.2115
鳩ぽっぽ さん、八坂用水から伊勢崎城への水の流れ、
特に伊勢崎駅の東西で南北に流れていた用水の特定など、
高架化工事前に撮った写真を探したり、地図を用意したりと、
多少は整理しているのですが、掲示板で展開するのは限界があるので、
後で、ページを起こしてまとめます。しばらくお待ちください。
その間、皆さんが情報を寄せてくれるのは大歓迎です。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/05(Thu) 10:07 No.2116
鳩ぽっぽさん、ぷうぷうちさん、しょうちゃん、皆さん、
先ほど、八坂大樋の上流(前橋側)の堀跡を記事にして掲載しました。
http://go-isesaki.com/yasaka.html#maebashi
それと鳩ぽっぽさんがアップしてくれた伊勢崎市史の画像を、前回よりも丁寧に仕上げて再現してみました。


Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/02/05(Thu) 21:41 No.2117
丸男さん、八坂樋の続編イイですねー。
現地取材の写真付解説も、うんうん頷いちゃいます。
掲示板の皆さんが持ち寄った資料も含めて、これだけ八坂樋の情報が一挙に見られるサイトって無いんじゃないですか?

そうそう、モニカさん、遅ればせながら水路マップありがとうございました。はじめて見る資料で大変興味深いです。

さて、八坂樋が廃止になったのが大正13年らしいのですが、それまで八坂地区や安堀の西組では素掘りの水路から浸透した水が家屋内に染み出す被害が多かったそうです。
江戸時代はそんな苦情をお上に物申すこともままならなかった様です。
伊勢崎町や自治体がしっかりしてきた大正になって陳情が認められて八坂用水は現在のルートに変えることが出来たということです。

子供のころから用水路は自然発生の河川に比べて魅力が無かったのですが、今回人造の水路がとてもドラマチックだなぁと感じています。
身近なところで大正用水をGoogle Mapでたどると、ルートのうねり具合が女堀に似ている様な気がします。
女堀も技術がほんの少し足りなかっただけであと少しだったのかも知れないな・・・なんて。

用水路の木製樋の写真を貼っておきます。これは昭和初期の大正用水らしいですが、往時の八坂樋をリアルに忍ぶことが出来るのではないでしょうか。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/05(Thu) 23:16 No.2118
丸男さん、ぷうぷうちさん、しょうちゃん、こんばんは。
八坂大樋の彩色復元写真が更に精密に、リアル映像に仕上がってナイスですね〜!
画像を拝見していると、八坂用水が完成した1706年(宝永3年)の春にタイムスリップしたようで、すがすがしい気分になります\(^o^)/
またまた、昭和初期の大正用水、木製樋の写真もダイナミックで迫力ありますね!!

長い間、水不足に悩まされてきた村々のお百姓さんたち、小畠武堯はじめ藩のお役人たちにとっても、八坂用水のみなぎる豊かな水の流れをはじめて見た時は、ドラマチックで感激の一瞬だったことでしょう!
中島みゆきさんの「風の中のす〜ばる〜♪」で始まった、NHKのプロジェクトX〜挑戦者たち〜や大河ドラマを見るようです。

この用水ができるまでは、実に様々な歴史、背景がありました。
まず地理的背景としては、桃の木川を介して水量豊富な利根川の水を導入している八坂用水が開削される以前は、台地上になっている広瀬川の左岸(川の東側)の田植え、稲作は粕川、桂川、神沢川等の水量が乏しい河川や湧水の水を、中村沼(華蔵寺沼)や鯉沼等々の溜池を築造し蓄えて利用するしかなかった。それでは安定した水量を確保できず、水不足で苗が枯れてしまうことがあった。
政治的背景としては、幕府の譜代(ふだい)名門・酒井氏の分家で完全な城郭も持ち合わせていた伊勢崎藩ですが、二万石という小藩が、参勤交代では多額の費用を費やし藩財政は圧迫され疲弊し、すなわち農民たちの年貢は重税をかけられ、他国なら収穫した米から納めるものと自分たちに残るものの割合が5部5部であったものを、伊勢崎藩はなんと7割もの米をお上に納めなければならなかったという苦しさで、、農家の困窮は痛々しいものであったようです。
そうした中に私たち伊勢崎人にとって忘れてならない尊き犠牲・・・このあまりにも過酷で不条理な重税の改善を求め、農民たちを救うために死を覚悟して藩に直訴した二人の義人、波志江村名主の上岡玄蕃氏(かみおか げんば)と茂呂村名主の高橋五太夫氏(たかはし ごだゆう)
ぷうぷうちさんも言われるように、そんな苦情をお上に物申すこともままならなかった様で、どんな正当な正しいことを訴えても直訴は御法度=死罪という時代でした。
上岡玄蕃氏は天和2年(1682年)2月4日に打首、高橋五太夫氏は14年間、牢につながれた後、元禄10年(1697年)牢死と伝えられています。
農民たちから慕われた二人の義人、その尊き血が流され、その後、彼らの志は藩主にまで伝わって重税は軽減されたそうです。
また丁度その頃の江戸では、将軍家をコントロールして幕府の権力を一手に握ろうとした酒井家が、水戸光圀や堀田正俊という老中たちと対立した結果、敗れています。5代将軍・綱吉側の老中たちは狡猾に酒井氏を陥れるあら探しを始め、その政治的策謀は地方の伊勢崎にまで及びました。
上岡氏と高橋氏の直訴も、かつて20年前の伊勢崎藩主であった酒井忠能(さかい ただよし)の課した重税を失政として、幕府の下級役人に欺かれ告発したと言われてます。
正義感あふれる二人の義人は、中央・江戸の権謀術数の狭間の中に巻き込まれて落命してゆきました。
二人の犠牲ももとはと言えば、藩の財政悪化〜農民への重税が原因でした。それからの伊勢崎藩は、新田開発と新しい水路を開削して農政改革を実施していったようです。
八坂用水はそういった背景の中に計画され、実現された藩にとっても希望の水路だったことでしょう☆
今、私たちの生活も、物価は上がる光熱費は上がる税金は上がる将来は見えない、でも給料は下がるボーナスはもらえない、あげくの果てには私のように失業する・・アベノミクスと言ってもまだまだ不景気の地方都市、伊勢崎市に暮らしている中で・・・
今回の丸男さん作、新緑の季節のような爽やかな八坂大樋の彩色復元写真を眺め、そうしてそこにみなぎる水路の流れを想像していたら、、何だか自分の心も潤い活力がみなぎってきました! 素晴らしい作品をありがとうございます!!

この掲示板スレットがここまで導かれたことを感謝して、丸男さんはじめ皆様に聖書の中からこの言葉を贈らせて頂きます。
まるで質実剛健なその人、上岡玄蕃氏のことを語っているような旧約聖書の有名な言葉。詩篇1篇です。(新改訳聖書から引用)

幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/06(Fri) 08:56 No.2119
鳩ぽっぽさん、ぷうぷうちさん、しょうちゃん、
八坂用水のページは全く皆さんのおかげです。
皆さんの日ごろの興味、関心、発信力に刺激され、促されるように動いただけです。
ありがとうございます。

神沢川右岸沿いの道路(私は勝手にサイクリングロードと思っていますが・・・)は良く走り、
荒砥川合流部手前のどん詰まりの場所などは、人気がなくてかつて人に会ったことは一度もなく
大きな農業施設側のセンダンの実(写真)を眺めたり、あの堀跡を眺めたりしていただけで、
まさか、あの場所が今回の八坂樋、八坂用水の舞台だったとは、知りませんでした。

この後、あのページに現在の渡河用水や、墓所などを掲載する予定です。

それとは別に、皆さんが投稿してくれた投稿の中から、
●伊勢崎城つながりの八坂用水、三郷から茂呂まで
●粕川からの水路(西桂川?)めぐり
●伊勢崎城のお堀めぐり
などをまとめられればいいなぁ・・・などと思っています。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/06(Fri) 21:04 No.2120
丸男さん
色々検索してたら気になる地図を見つけました。
丸男さんは、ご存じだったかも知れませんが・・
http://nrb-www.mlit.go.jp/kokjo/inspect/landclassification/water/risui/data/tonegawa/tonegawa/03543940.pdf
倍率を上げたり、左側の表示メニューにチェックを入れる事で解り安く成るのですがどうでしょうか?
直接検索するとエラーになる??のでコピー検索してみてください
法律・規則・道徳から良く無いと思いましたら削除して結構ですm(_ _)m


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/07(Sat) 20:48 No.2122
しょうちゃん、その地図を見てみました。
国交省のページで、色々な機能を持っているようですね。
農業用水路と河川を表示してみました。
今まで皆さんが語った河川や水路が表示されています。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/07(Sat) 21:37 No.2123
丸男さん、「水利と開墾の歴史に関する展示会」は八坂用水の関連展示もあり!ということで、かなりタイムリーな展示会ですね〜!
またまた、「八坂用水資料目録」というのが、図書館にあったんですね♪ 先日の八坂大樋の写真も図書館所蔵のもののようです。
私も今日は図書館で色々と調べてきました。調査相談室のK師匠から「八坂用水で盛り上がってますね〜!!」と激励頂いて励まされてます!

今日は「三郷文化財史蹟研究会機関誌」といった書物を拝見していたら、旧八坂用水は八坂樋に入る手前で「新土塚城址の濠の東を通って、八坂樋に至る」という記載がありました。
以前、Go!伊勢崎さんでも紹介されてましたが・・そういえば智技授山の山も城跡だったと思いつつ「前橋市史」を手にしました。画像は「前橋市史」に掲載されていた新土塚城(しんどづかじょう)の縄張り図です。
なんと、私たちが旧八坂用水の遺構と思っていた女堀のような広い堀は、新土塚城の堀でした!
「新土塚城址の濠の東を通って」とありましたが、「濠の東」とは旧八坂用水が濠内の東よりを通っていたのか? 或いは、濠外の東を通っていたのかは解りません。縄張り図を見ると濠外の東に細い川が描かれてます。米軍の航空写真でも、同じルートで木立の中を流れる川が確認できます。
迅速側図では、土橋よりも南側の堀跡東側に細い道があるようですが、水路は道の東側を通っているように見えます。

新土塚城は天正年間、伊勢崎の赤石城主でもあった由良氏の家臣、増田政繁の城だと言われてます。
「前橋市史」によると新土塚城は「西面を荒砥川に托し、東面を幅15メートルの濠で堀り切り、大手虎口をその中央にとり土橋を通じている。北東に偏して本丸があり、その南につづいて二の丸、さらに南に三の丸があったというが、今はまったく消滅してしまった。西寄りに新土塚と呼ぶ古墳がある。遠見台に用いられていたことであろう。この古墳から地名が出ている。」と記されてます。
新土塚城の濠は中世城郭マニアに取っても、地方のマイナー城館にしては大規模、豪快な濠を有しているので驚きのようです。こちらのブログさんの写真もぜひ参考にご覧ください。
http://www.geocities.jp/sisin9monryu/gunnma.sinndoduka.html
と思ったら、、さきほどトップ記事で「今村城址」が紹介され、最近のGo!伊勢崎さんは郷土史ファンにはたまりませんね〜!!


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/08(Sun) 10:52 No.2124
丸男さん、ぷうぷうちさん、しょうちゃん、
昨日の新土塚城(しんどづかじょう)の縄張り図と米軍の写真をもとに、ラフですが、旧八坂用水と思われるルートを描いてみました。丸男さん作成の写真に描いてしまいすみません。

画像、上の方のルートは、もう少し西よりだったかもしれません。
この写真には写っていませんが米軍の航空写真では、現在の北関東の走っている辺りで新用水と分かれ、智技授山方面に南下する細い用水が見られます。旧用水の名残りと思われるその用水は途中まで現在も活躍中ですが、智技授山に近づいた所で西にカーブしてDの位置=智技授山の北側を通ってます。
一方、新土塚城の濠の東を通っていたと思われる(旧用水、青いラインの)部分は、恐らく耕地整理の折に完全に埋没してしまったようです。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/08(Sun) 18:44 No.2125
鳩ぽっぽさん、今日は、先ほどまで下植木公民館で、荒船さんとお喋りしてました。
八坂用水や新田用水、大正用水、赤石の時報鐘楼、伊勢崎陣屋や伊勢崎市中の歴史、
中台寺の時報鐘楼、広瀬川河岸交易などなど、実に多岐に亘ってお話を伺い、お喋りできて、楽しい時間でした。

八坂用水の堀と思っていた堀跡は、新土塚城の堀跡だったんですね。
八坂用水のページの方も、訂正しておかなくちゃならないですね。
八坂用水の痕跡が消えてしまったこと、残念ですね。

今日、荒船さんが、三郷側には用水の痕跡がある時期まで残っていて、写真もあったようです。
今は痕跡も消え、その写真もいつの頃かに焼失してしまったようです。


Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/02/08(Sun) 19:53 No.2126

あちゃ〜。ごめんなさい。やっちゃいました。
間違った情報を流してしまいました。
すっかり八坂用水だと思い込んでおりましたが、城の外堀だったとは驚きです。
丸男さんにはレポートまで作って頂いて、本当に、申し訳ありませんでした。
下植木公民館へも行けず重ね重ねお詫び申し上げます。

それにしても鳩ぽっぽさん、戦国期の城の外堀がこんなにはっきり残っているのも感動です。
城の縄張り図もよく描いてあってわかり易いです。
ああ、ここは城だったのですねー(感慨)。
この辺りの城は西に自然の河川が作った崖、他方は人口の堀で囲んだパターンが多い気がしますね。


今日、丸男さんの仕入れてきた八坂用水のお話がまたレポートに載るのを楽しみにしております。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/08(Sun) 21:55 No.2127
鳩ぽっぽさん、ぷうぷうちさん、先ほど記事を書き直しておきました。
書き直しに際して、鳩ぽっぽさんが探してくれた 縄張り図を迅速測図および現況地図と重ねてみて思ったのですが、
堀位置や山の頂上、道路などを合わせて重ねると、迅速測図に示される八坂用水の位置が
堀跡の東端部に接しているような感じもするのですが。
ひょっとして、堀跡の一部を利用したのかなぁ・・・などとも思ったのですが。

迅速地図も縄張り図も精度が低いので、確信はないのですが(ー_ー;)。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/09(Mon) 22:47 No.2128
丸男さん、ぷうぷうちさん、お返事ありがとうございます!
しょうちゃんの気になる地図に、丸男さんが青で農業用水路と河川を表示してくださったので、
またまた蛇足ですが、薄紫色で旧八坂用水と思われるルートを書き込んでみました。
緑色が現在の八坂用水のガイドになっているようですから、新旧用水ルートの比較になったらと思います。
もとの地図はまだ北関東道が通る前、でも北部環状線はできてますね。
昭和2年に完成した新ルート(緑色)は、現在の北関東道と交差する辺りで新土塚方面に南下しないで新井地区に直進する水路に変更。
旧ルート(薄紫色)は荒砥川を木製樋で渡河した後、旧二之宮村では神沢川に至るまで台地の末端に沿って開削されてます。グーグルストリートビューで辿ってみると、台地と水田の際に沿って台地上に用水が流れているのがよく解ります。
大正13年に取り壊しになった八坂大樋は202年間活躍し、その間、元文元年(1736年)に大修理。天保3年(1832年)に架け替えがありました。維持管理は伊勢崎領の監視役人が、大樋袂の御小屋(おこや)に常駐していたそうです。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/10(Tue) 00:37 No.2129
丸男さん
八坂用水の神沢川の渡しがサイフォン式だと解る画像を見つけました。
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1027901
上URLをコピー検索→同意→日本地図の@<<CKT861−C7B−10>>→高解像度表示→ズーム
で出て来ると思うんですが
又は、検索条件  整理番号CKT861  コース番号C7B  写真番号10
でも出ると思うんですが・・
<<高解析度表示は重要?>>
それと前橋側の八坂桶前の堀跡がハッキリ解る様な部分?もスライドして行くと解ります。
ただこれは自分のパソコンでアクセスを何度かした後なので若干の別操作が必要かも知れません。
一応このHPの検索欄に年代が在るので1986年9月4日撮影検索?
地図をズームして行って、波志江(前橋・新井町側)で見て行くのも良いかも知れません。

追伸
1986年9月4日は自分が20才に成った翌日です・・自分でも驚き(@_@)


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/10(Tue) 18:28 No.2130
しょうちゃん、八坂用水が、現在神沢川を渡河している水路橋は、
以前は、しょうちゃんが言う通り、サイフォン式だったようですね。
先日の下植木公民館での八坂用水展示会でも、そのように聞きました。
ただ、いつ頃、現在の水路橋になったのか、「八坂用水資料目録」の年表を見ても分かりませんでした。
しょうちゃんがまだ子どもの頃だったのでしょうかね。
現地水路橋に橋銘板が付いていれば判明するのですが。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/11(Wed) 00:24 No.2131
丸男さん
1986年9月4日のカラー写真はサイホン式ですが、1991年11月6日の白黒写真は、橋渡しに成ってますね。
1986年9月から1991年11月の間の映像が無いのでこの間に工事が行われた物と思います。
http://mapps.gsi.go.jpのトップページから年代や場所を変えてみたのですが、この間は自分には見つけられませんでした。
橋渡しに成ったのは、自分が成人してからですし、田(米・麦も委託して作ってる)も持ってる親父も
自分がここ数日話題にするまで橋渡しに成ったを知らなかったんですよね。<<八坂用水から田に水は引いてません>>


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/14(Sat) 21:25 No.2138
丸男さん
現八坂用水の伊勢崎入り口「平成の八坂桶」の画像のUP有難う御座います。
みんな殆ど狂いなく同じ立ち位置からのアングルですね。
丸男さんも気づいたと思いますが、この人が渡る橋のたもですけど、畑の一番奥なのに
小石だらけの空き地(農地には絶対不向き)でしたでしょう。
自転車さえ入って行けないと所なのに???
サイフォン式の名残・現桶工事の為の空き地等を考えると納得が出来るんですよね。
それと、チョット下流の石碑全く気が付きませんでした。
ただちょっと離れた畑中に??のコンクリートで出来た升状の物が気に成りますけどね。
周りには連帯する様なものは何にも無いんですけどよね。
上からのぞきこんでもゴミ(廃物)だらけなんですけど画像を撮った方には四角い穴が開いてるんですよね。
何に使かってたのか使うのか????

自分のは携帯電話のカメラ機能の画像ですから大した事無いですけど
良いカメラだと画像も綺麗ですね。
上空からで無い、サイフォン式の時の「昭和の八坂桶?」の画像が有れば
もっと比較出来て面白いんですけどね。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/14(Sat) 22:36 No.2140
しょうちゃん、
水路橋下流左岸側の小石だらけの空き地、
元々住宅が建ってた場所じゃないんですか?
あるいは、水路橋架設時の作業ヤードを元の状態(畑地?)に戻さなかったとか?

しょうちゃんがアップした画像のコンクリート製構造物、水槽ですかね?


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/14(Sat) 23:02 No.2141
丸男さん
サイフォン式の時の画像だと雑木林の様ですね。
とするとヤードの跡かな?それとコンクリートの建造物
周りに水路らしき物も無かった様な??
謎を解き明かしにまた探索ですかね?


Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/02/19(Thu) 21:35 No.2147
しょうちゃん、丸男さん、
「伊勢崎の史話」(平成元年)という本にサイフォンの時の写真があったのでスキャンしました。
分かり難いですが写真の投稿が無さそうなのでアップして置きます。
平成元年ころはサイフォンだったようですね。
このほか八坂用水は今も荒砥川をサイフォンでくぐっています。宮川を橋で渡って神沢川に至ります。北関東道を潜るトンネルはちょっと面白い雰囲気が有るとおもいます。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/19(Thu) 22:13 No.2148
お〜〜、ぷうぷうちさん、良く見つけましたね〜(@_@)。
サイフォン式って、ちょっと怖い感じもしますね。
しょうちゃんのお父さんが、「絶対近付くんじゃねぇぞ!」って言った気持ちも分かる気がします。
・・・でも、周辺の雰囲気に昔の面影が漂っていて、それもまたいい感じです。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/19(Thu) 23:39 No.2149
ぷうぷうちさん
本体の画像見つかりましね。V(^0^)V
これこれ、覗き込んだりした様な気がします。
反対側?は今の桶の水路の様に一部水路の真上に手すりが有り上がれた(渡れた)様な?
白黒なので怖さがリアルに出てますね。
「1986年9月から1991年11月の間の映像が無いのでこの間に工事」にも当てはまりますね。
平成元年(1989)から推測で1990年〜91年に工事って事ですかね?
それと、八坂用水が別名「佐波新田用水」と呼ばれて、短縮されて新田用水って言う時も有りますね。
(これは父らが時々新田用水とも言いますし、ここ(新田用水)を子供の頃は良く泳いでいたとも)
追伸
画像は前橋側から伊勢崎側を撮ったと思います。
理由
台風等で水量がサイフォンの通過量を超えた場合、今の渡し水路と同じ様に入り口わきにあふれた水を
神沢川へ流す水路が付いていると父から聞いていますが、溢れた水を受ける水路(枠)がみえないからです。
一応現在の非常時(溢れた水を受ける水路(枠)を載せてみました。
排出口はこのHPの八坂用水の特集の中に現在の物が載ってます。


Re: 八坂用水 - たこすみ 2022/09/03(Sat) 15:01 No.2943
えーと 八坂用水だと思っていた用水路 新田用水と表示がありました
荒砥川をサイホンで渡河し600mくらい南東に進んだ場所 宮原の薬師堂の西30mくらい 橋のガードレールに新田用水の表示がありました 
グーグルマップのストリートビューでも表示を確認できます
新田用水で検索したら笂井堰の記事がありました
八坂用水の桃の木川からの取水施設

桃木川に架かるこの堰は 左岸製水門が八坂堰 佐波新田用水両改良区の取り入れ口で前橋市増田地区を潤した後 伊勢崎市境 尾島町の水田をかんがいしています

また佐波新田用水土地改良区は境町に事務所のある組織でした

笂井堰を通って 増田地区は新田用水 その後 八坂用水 その後佐波新田用水で良いのでしょうか?


Re: 八坂用水 - 丸男 2022/09/03(Sat) 22:01 No.2944
八坂用水は、波志江町から東進し、粕川をサイフォンでアンダーパスし、
鹿島町〜昭和町〜日之出町〜境伊与久まで延長してから「佐波新田用水」と改称したようですね。
(参考)二之宮カルタ解説抄
http://www.wind.co.jp/ninomiya/DATA/karuta8.htm
以前は波志江町の大胡県道東から南下し、太田町、曲輪町を流れて広瀬川に合流していて、
今でもその分流地点の堰は稼働しています。分流から下流は「赤坂川」だと思います。

ただ、私は子どもの頃から粕川までの区間を「八坂用水」と呼んでいて、
多分、波志江町の年配者はこの区間は「八坂用水」の方が馴染み深いと思います。

荒砥川西方の前橋地区の呼称は分かりません。


Re: 八坂用水 - たこすみ 2022/09/04(Sun) 11:34 No.2945
すみません もう一つ教えてください
新田用水 読みが にった用水というサイトと しんでん用水というサイトがありました
両方 ありかなー という感じ
にった用水だったら嬉しいかな?
どちらでしょう?


Re: 八坂用水 - 丸男 2022/09/05(Mon) 11:24 No.2946
おー、しんでん用水と言うサイトがあるんですね。
私は「にった」用水以外はないと思っていました。(ー_ー;)
この新田は、新田郡新田町(にったぐん・にったまち)の新田(にった)で、
古くは「新田荘」(にったのしょう)に由来すると思います。

話が逸れますが、「女堀」も「淵名荘」(ふちなのしょう)だけでなく、「新田荘」も潤す目的があったようです。

「女堀」の無念さを晴らすのが八坂用水(佐波新田用水)ですかね。


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